↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
蒼い雨  作者: mamio


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/8

蒼い雨 第1話

本日より、新連載『蒼い雨』を始めます。


夜の店「白夜」で、“紫乃”として働く美雨。

彼女の前に、十五年ぶりに初恋の人が現れるところから始まる物語です。


最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。

1


十一時に目が覚めた。

昨日眠ったのは、朝の四時だった。


何か軽く食べよう。

そう思って、私はのろのろと起き上がる。


昨日は、そんなに飲んでいない。

そうはいっても、毎日浴びるほど飲むわけじゃないし、炭酸の入った酒はもともとあまり得意でもない。

それに、飲んだからといって酔うわけにはいかなかった。


何か食べようにも、家には食べるものがなかった。

仕事帰りにコンビニへ寄ればいいのに、そういうことをする日は少ない。

タクシーに乗ってしまうと、途中で停めてもらうのも面倒で、結局そのまま帰ってしまう。


「面倒だなあ」


着替えながら、私はつぶやいた。


近くのコンビニでサンドイッチをふたつ買って、それを食べた。

コーヒーを淹れて、テレビをつける。

昼の情報番組は、天気予報ばかりだった。

今日は夜から雨になるらしい。



十七時半に家を出た。

開店は二十時。

それまでに準備をしなければならない。

髪を巻いて、化粧をして、ハイヒールを履いて、ドレスに着替える。


その前の私は、どこにでもいそうな普通の三十歳の女だ。

紺色のパンツに白いブラウス。

薄いグレーのカーディガン。

肩より少し長い髪は、後ろでひとつにまとめている。


私を見ても、誰も振り返らない。

目立つところなんて何もない。

私の中では、目立つのは損だというイメージがある。

だから、これでいい。


店の裏口から入って、私はロッカールームへ向かった。

もう何人か女の子たちが来ていて、着替えている。

電車を降りたあと、コンビニで買ったおにぎりとミネラルウォーターを、ロッカーの棚に置いた。


「美雨さん、おはようございます」


「おはよう」


声をかけてきたのは、二十四歳の春香ちゃんだった。

店では鈴と呼ばれている。


私はおにぎりの包装を開けながら、春香ちゃんを見た。


「昨日、大丈夫だった?」


「え?」


「最後についてた人」


春香ちゃんは一瞬、目を泳がせた。


「ああ……はい。連絡先を聞かれただけです」


「店の外で会おうって?」


「言われました」


「行くの?」


「どうしようかなって」


私はおにぎりの袋を丸めて、ごみ箱に捨てながら言った。


「ママには聞いた?」


「まだです」


「先に聞いたほうがいいよ」


春香ちゃんは、口を尖らせた。


「美雨さんなら行きます?」


「相手による」


「ですよねえ」


それ以上、私は何も言わなかった。


大丈夫な客もいる。

そうじゃない客もいる。


けれど、それは少し話したくらいでわかるものではない。

普段はおとなしい人でも、酒が入るとひどく大胆になることがある。


若い頃、私もママに何度も言われた。

この人は大丈夫。

この人には気をつけなさいと。


あの頃は、何を根拠に言っているのかわからなかった。

でも今なら、少しはわかる。


言葉じゃない。

目つき。

酒の飲み方。

女の扱い。

店の人間への態度。

そういうものを、私は知らないうちに見るようになっていた。


「鈴ちゃん」


本人を呼ぶときは、源氏名で呼んでいる。


「はい?」


「もし今日来たら、私を呼んで」


「え、美雨さんが?」


「うん」


春香ちゃんは、安心したように笑った。


「ありがとうございます」


私はそのまま、メイクルームへ入った。



2


ヘアメイクを仕上げて、服も着替えた。

あとはピアスをつければ完成だ。


髪は下ろして、ゆるく巻く。

目元は普段より少し濃くした。

夜は、このくらいのほうがいい。

口紅は落ち着いた赤を選んだ。


深いブルーのドレスは、それほど露出が多いわけでもない。

身体の線をあからさまに強調する形でもなかった。


それなのに、着ると妙に目を引く。


「今日はその青なんですね」


隣に座っているのは、高梨沙耶、二十九歳。

この店に来て五年になる。

売上では、私とこの子が一位と二位を行き来することが多い。


「うん」


「そのドレス、強いですよね」


「なにが?」


「男ウケ」


「そう?」


「わかってて着てるでしょ」


「着ちゃだめ?」


「だめとは言わないけど」


私は前を見たまま、少し笑った。

鏡に映る私は、二時間前に駅前を歩いていた女とはもう別人だった。


沙耶ちゃんとは、べつに仲が悪いわけじゃない。

でも、仲がいいわけでもない。


同じ店で働いて、同じ客に呼ばれて、ここでの順位を競う。

それだけで、女同士の関係は十分に面倒だった。


「昨日、佐伯さん来たんだって?」


佐伯さんは、よく私を指名してくれる客だ。

もちろん、私だけの客というわけじゃない。


沙耶ちゃんの手が止まった。


「来ましたよ」


「そう」


「美雨さん、休みだったから」


「うん」


「結構飲んでくれた」


「よかったじゃない」


沙耶ちゃんが笑って、そのまま席を立った。


誰を指名するかは、お客さんが決めることだ。


「昨日で、沙耶さん一位らしいですよ」


後ろから春香ちゃんが言った。

私はピアスの留め具をつけながら、鏡越しに春香ちゃんを見る。


「へえ」


「僅差らしいです。美雨さん、今月ずっと一位だったから」


「いいんじゃないの?」


一位じゃなくても、べつに困らない。

給料がなくなるわけでもない。


私は鏡の前に置いていた香水を手に取った。


十九時。

ここからが忙しい。


「鈴ちゃん、あと一時間よ?」


「はい。わかってます」


フロアでは、女の子たちが支度を終えたあとの準備に追われていた。


来てほしい客にメッセージを送る。

前回来店してくれた客には礼を入れる。

誕生日や記念日の客には、案内の連絡もしておく。


黒服との打ち合わせも欠かせない。

予約状況の確認。

席の配置。

指名の入り方。

VIPの来店予定や、同伴の客の案内。


まだやることは、いくらでもあった。

営業中はほとんど食べられないから、食事は先に済ませてある。


最後に、私は鏡の前でもう一度だけメイクを整えた。



3


営業が始まると、店の空気はさらに変わる。


グラスの触れ合う音。

笑い声。

流れているBGMは、サックスのバラードだった。


フロアに出ると、何人かの男が私を見る。

いつものことだ。


「紫乃ちゃん、こっち」


呼ばれた席へ向かう。

五十代の会社経営者の社長さんと、その連れがふたりいた。


「久しぶりだね」


社長さんがうれしそうに笑う。


「先週も来てたじゃありませんか」


「先週は、紫乃ちゃん休みだっただろ」


「じゃあ、久しぶりですね」


そう言うと、社長さんは満足そうにまた笑った。


私はグラスに氷を入れ、水割りを作って、全員に酒が行き渡ったところで自分のグラスも持ち上げた。


「はい、乾杯」


にっこり笑って、少しだけ首を傾ける。


相手が話せば熱心に聞く。

笑うところでは笑う。

自分の話は必要以上にしない。

誰にでも同じ対応はしない。


話を聞いてほしいだけの人もいる。

自慢話をしたい人もいる。

こちらを笑わせようと一生懸命な人もいれば、ただ隣に座っていれば満足する人もいる。

この仕事を長く続けるうちに、私はそういう違いを、考えるより先に拾えるようになっていた。


「紫乃ちゃん、彼氏できた?」


「なんで?」


「綺麗になった」


「毎回、同じこと言ってますよ」


「そうだったかな」


「ええ、もう三回目」


「じゃあ、会うたびに綺麗になってるってことか」


そう言って、社長さんは豪快に笑った。

私も同じように笑って、その場の空気を明るくする。


少し離れた席から、こちらを見ている人がいた。

でも、私は目を合わせない。


しばらくして、黒服がそばに来た。

姿勢を低くして、耳元で囁く。


「紫乃さん、三番お願いします」


「はい」


「ちょっと失礼しますね」


社長さんに軽く頭を下げて、私は席を立った。


通路の途中で、軽く腕をつかまれる。


「あとで来て」


「時間があればね」


「絶対来て」


「はいはい」


嫌な感じはしない。

ただ、酔っている。


三番テーブルには、沙耶ちゃんがいた。

店での名前は、桜だ。


客は男がふたり。

どちらも初めて見る顔だった。


沙耶ちゃんが笑って、私を紹介する。


「こちら、紫乃さんです。うちの店の――」


「怖い人」


私が先に言うと、客が笑った。


沙耶ちゃんの眉が、ぴくりと動く。


「そうなんですよ。怖いの。毎日いじめられてます」


「嘘つき」


また男たちが笑う。


私は席について、口元を上げた。


「お名刺、ちょうだいしてもよろしいですか?」


男は内ポケットに手を入れて、名刺を差し出した。



数分もしないうちに、男のひとりが私を見る時間が増えていく。


「紫乃ちゃんって、何年くらいここにいるの?」


「長いですよ」


「何年?」


「言わない」


「なんで?」


「年齢ばれるから」


「三十くらい?」


私は口元に手をやって笑った。


「正解」


男が驚いた顔をする。


「え、言うんだ」


「別に隠してないもん」


沙耶ちゃんがグラスを口元に運ぶ。


「紫乃さん、そのへん強いんですよ」


「何が」


「年齢とか、全然気にしない」


「だって三十だし」


「私なら二十八って言います」


「二つしか変わらないじゃない」


また笑いが起きる。


私はふと、沙耶ちゃんを見た。

沙耶ちゃんも笑っていた。


でも、その目は笑っていなかった。


ああ、面倒くさい。


原因が順位なのか、佐伯さんのことなのか。

それとも、ただ単に沙耶ちゃんの機嫌が悪いだけなのか。


わからない。

わからなくてもいい。

仕事が終われば、それで終わる。



4


「紫乃さん」


後ろから黒服に呼ばれた。


「入口、お願いします」


「新規?」


「いえ。藤原様とお連れ様です」


私は立ち上がった。


「失礼します」


そう言って席を離れた。


入口近くのテーブルへ向かう。


藤原さんは、常連客だ。

四十代。

もうひとりは、それより若く見えた。


黒いジャケット。

白いシャツ。


派手ではない。


歩きながら、いつものように相手を見る。


酒を飲む人か。

話す人か。

静かな人か。


最初の数秒で拾えるものは多い。


けれど。


あと三歩というところで、足が止まった。


男が顔を上げる。

目が合う。

知らない男ではない。


でも。


知っている男とも、すぐには思えなかった。


十五年。

長すぎる。


顔つきも変わる。

声も変わる。

体つきも変わる。


少年だった人間が、男になるには十分すぎる時間だった。


私は、その顔を見たまま動けなかった。

男もこちらを見ている。

さっきまで隣にいる藤原さんと話していた表情が消えていた。


何も言えなかった。

言葉が出てこない。

男の唇が、ゆっくり動いた。


「……美雨?」




蒼い雨 第1話  おわり



第1話をお読みいただき、ありがとうございました。


店では“紫乃”と呼ばれる彼女を、「美雨」と呼んだ男。

十五年ぶりの再会が、止まっていたふたりの時間を動かし始めます。


次話もお読みいただけましたら嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。