蒼い雨 第1話
本日より、新連載『蒼い雨』を始めます。
夜の店「白夜」で、“紫乃”として働く美雨。
彼女の前に、十五年ぶりに初恋の人が現れるところから始まる物語です。
最後までお付き合いいただけましたら嬉しいです。
1
十一時に目が覚めた。
昨日眠ったのは、朝の四時だった。
何か軽く食べよう。
そう思って、私はのろのろと起き上がる。
昨日は、そんなに飲んでいない。
そうはいっても、毎日浴びるほど飲むわけじゃないし、炭酸の入った酒はもともとあまり得意でもない。
それに、飲んだからといって酔うわけにはいかなかった。
何か食べようにも、家には食べるものがなかった。
仕事帰りにコンビニへ寄ればいいのに、そういうことをする日は少ない。
タクシーに乗ってしまうと、途中で停めてもらうのも面倒で、結局そのまま帰ってしまう。
「面倒だなあ」
着替えながら、私はつぶやいた。
近くのコンビニでサンドイッチをふたつ買って、それを食べた。
コーヒーを淹れて、テレビをつける。
昼の情報番組は、天気予報ばかりだった。
今日は夜から雨になるらしい。
十七時半に家を出た。
開店は二十時。
それまでに準備をしなければならない。
髪を巻いて、化粧をして、ハイヒールを履いて、ドレスに着替える。
その前の私は、どこにでもいそうな普通の三十歳の女だ。
紺色のパンツに白いブラウス。
薄いグレーのカーディガン。
肩より少し長い髪は、後ろでひとつにまとめている。
私を見ても、誰も振り返らない。
目立つところなんて何もない。
私の中では、目立つのは損だというイメージがある。
だから、これでいい。
店の裏口から入って、私はロッカールームへ向かった。
もう何人か女の子たちが来ていて、着替えている。
電車を降りたあと、コンビニで買ったおにぎりとミネラルウォーターを、ロッカーの棚に置いた。
「美雨さん、おはようございます」
「おはよう」
声をかけてきたのは、二十四歳の春香ちゃんだった。
店では鈴と呼ばれている。
私はおにぎりの包装を開けながら、春香ちゃんを見た。
「昨日、大丈夫だった?」
「え?」
「最後についてた人」
春香ちゃんは一瞬、目を泳がせた。
「ああ……はい。連絡先を聞かれただけです」
「店の外で会おうって?」
「言われました」
「行くの?」
「どうしようかなって」
私はおにぎりの袋を丸めて、ごみ箱に捨てながら言った。
「ママには聞いた?」
「まだです」
「先に聞いたほうがいいよ」
春香ちゃんは、口を尖らせた。
「美雨さんなら行きます?」
「相手による」
「ですよねえ」
それ以上、私は何も言わなかった。
大丈夫な客もいる。
そうじゃない客もいる。
けれど、それは少し話したくらいでわかるものではない。
普段はおとなしい人でも、酒が入るとひどく大胆になることがある。
若い頃、私もママに何度も言われた。
この人は大丈夫。
この人には気をつけなさいと。
あの頃は、何を根拠に言っているのかわからなかった。
でも今なら、少しはわかる。
言葉じゃない。
目つき。
酒の飲み方。
女の扱い。
店の人間への態度。
そういうものを、私は知らないうちに見るようになっていた。
「鈴ちゃん」
本人を呼ぶときは、源氏名で呼んでいる。
「はい?」
「もし今日来たら、私を呼んで」
「え、美雨さんが?」
「うん」
春香ちゃんは、安心したように笑った。
「ありがとうございます」
私はそのまま、メイクルームへ入った。
2
ヘアメイクを仕上げて、服も着替えた。
あとはピアスをつければ完成だ。
髪は下ろして、ゆるく巻く。
目元は普段より少し濃くした。
夜は、このくらいのほうがいい。
口紅は落ち着いた赤を選んだ。
深いブルーのドレスは、それほど露出が多いわけでもない。
身体の線をあからさまに強調する形でもなかった。
それなのに、着ると妙に目を引く。
「今日はその青なんですね」
隣に座っているのは、高梨沙耶、二十九歳。
この店に来て五年になる。
売上では、私とこの子が一位と二位を行き来することが多い。
「うん」
「そのドレス、強いですよね」
「なにが?」
「男ウケ」
「そう?」
「わかってて着てるでしょ」
「着ちゃだめ?」
「だめとは言わないけど」
私は前を見たまま、少し笑った。
鏡に映る私は、二時間前に駅前を歩いていた女とはもう別人だった。
沙耶ちゃんとは、べつに仲が悪いわけじゃない。
でも、仲がいいわけでもない。
同じ店で働いて、同じ客に呼ばれて、ここでの順位を競う。
それだけで、女同士の関係は十分に面倒だった。
「昨日、佐伯さん来たんだって?」
佐伯さんは、よく私を指名してくれる客だ。
もちろん、私だけの客というわけじゃない。
沙耶ちゃんの手が止まった。
「来ましたよ」
「そう」
「美雨さん、休みだったから」
「うん」
「結構飲んでくれた」
「よかったじゃない」
沙耶ちゃんが笑って、そのまま席を立った。
誰を指名するかは、お客さんが決めることだ。
「昨日で、沙耶さん一位らしいですよ」
後ろから春香ちゃんが言った。
私はピアスの留め具をつけながら、鏡越しに春香ちゃんを見る。
「へえ」
「僅差らしいです。美雨さん、今月ずっと一位だったから」
「いいんじゃないの?」
一位じゃなくても、べつに困らない。
給料がなくなるわけでもない。
私は鏡の前に置いていた香水を手に取った。
十九時。
ここからが忙しい。
「鈴ちゃん、あと一時間よ?」
「はい。わかってます」
フロアでは、女の子たちが支度を終えたあとの準備に追われていた。
来てほしい客にメッセージを送る。
前回来店してくれた客には礼を入れる。
誕生日や記念日の客には、案内の連絡もしておく。
黒服との打ち合わせも欠かせない。
予約状況の確認。
席の配置。
指名の入り方。
VIPの来店予定や、同伴の客の案内。
まだやることは、いくらでもあった。
営業中はほとんど食べられないから、食事は先に済ませてある。
最後に、私は鏡の前でもう一度だけメイクを整えた。
3
営業が始まると、店の空気はさらに変わる。
グラスの触れ合う音。
笑い声。
流れているBGMは、サックスのバラードだった。
フロアに出ると、何人かの男が私を見る。
いつものことだ。
「紫乃ちゃん、こっち」
呼ばれた席へ向かう。
五十代の会社経営者の社長さんと、その連れがふたりいた。
「久しぶりだね」
社長さんがうれしそうに笑う。
「先週も来てたじゃありませんか」
「先週は、紫乃ちゃん休みだっただろ」
「じゃあ、久しぶりですね」
そう言うと、社長さんは満足そうにまた笑った。
私はグラスに氷を入れ、水割りを作って、全員に酒が行き渡ったところで自分のグラスも持ち上げた。
「はい、乾杯」
にっこり笑って、少しだけ首を傾ける。
相手が話せば熱心に聞く。
笑うところでは笑う。
自分の話は必要以上にしない。
誰にでも同じ対応はしない。
話を聞いてほしいだけの人もいる。
自慢話をしたい人もいる。
こちらを笑わせようと一生懸命な人もいれば、ただ隣に座っていれば満足する人もいる。
この仕事を長く続けるうちに、私はそういう違いを、考えるより先に拾えるようになっていた。
「紫乃ちゃん、彼氏できた?」
「なんで?」
「綺麗になった」
「毎回、同じこと言ってますよ」
「そうだったかな」
「ええ、もう三回目」
「じゃあ、会うたびに綺麗になってるってことか」
そう言って、社長さんは豪快に笑った。
私も同じように笑って、その場の空気を明るくする。
少し離れた席から、こちらを見ている人がいた。
でも、私は目を合わせない。
しばらくして、黒服がそばに来た。
姿勢を低くして、耳元で囁く。
「紫乃さん、三番お願いします」
「はい」
「ちょっと失礼しますね」
社長さんに軽く頭を下げて、私は席を立った。
通路の途中で、軽く腕をつかまれる。
「あとで来て」
「時間があればね」
「絶対来て」
「はいはい」
嫌な感じはしない。
ただ、酔っている。
三番テーブルには、沙耶ちゃんがいた。
店での名前は、桜だ。
客は男がふたり。
どちらも初めて見る顔だった。
沙耶ちゃんが笑って、私を紹介する。
「こちら、紫乃さんです。うちの店の――」
「怖い人」
私が先に言うと、客が笑った。
沙耶ちゃんの眉が、ぴくりと動く。
「そうなんですよ。怖いの。毎日いじめられてます」
「嘘つき」
また男たちが笑う。
私は席について、口元を上げた。
「お名刺、ちょうだいしてもよろしいですか?」
男は内ポケットに手を入れて、名刺を差し出した。
数分もしないうちに、男のひとりが私を見る時間が増えていく。
「紫乃ちゃんって、何年くらいここにいるの?」
「長いですよ」
「何年?」
「言わない」
「なんで?」
「年齢ばれるから」
「三十くらい?」
私は口元に手をやって笑った。
「正解」
男が驚いた顔をする。
「え、言うんだ」
「別に隠してないもん」
沙耶ちゃんがグラスを口元に運ぶ。
「紫乃さん、そのへん強いんですよ」
「何が」
「年齢とか、全然気にしない」
「だって三十だし」
「私なら二十八って言います」
「二つしか変わらないじゃない」
また笑いが起きる。
私はふと、沙耶ちゃんを見た。
沙耶ちゃんも笑っていた。
でも、その目は笑っていなかった。
ああ、面倒くさい。
原因が順位なのか、佐伯さんのことなのか。
それとも、ただ単に沙耶ちゃんの機嫌が悪いだけなのか。
わからない。
わからなくてもいい。
仕事が終われば、それで終わる。
4
「紫乃さん」
後ろから黒服に呼ばれた。
「入口、お願いします」
「新規?」
「いえ。藤原様とお連れ様です」
私は立ち上がった。
「失礼します」
そう言って席を離れた。
入口近くのテーブルへ向かう。
藤原さんは、常連客だ。
四十代。
もうひとりは、それより若く見えた。
黒いジャケット。
白いシャツ。
派手ではない。
歩きながら、いつものように相手を見る。
酒を飲む人か。
話す人か。
静かな人か。
最初の数秒で拾えるものは多い。
けれど。
あと三歩というところで、足が止まった。
男が顔を上げる。
目が合う。
知らない男ではない。
でも。
知っている男とも、すぐには思えなかった。
十五年。
長すぎる。
顔つきも変わる。
声も変わる。
体つきも変わる。
少年だった人間が、男になるには十分すぎる時間だった。
私は、その顔を見たまま動けなかった。
男もこちらを見ている。
さっきまで隣にいる藤原さんと話していた表情が消えていた。
何も言えなかった。
言葉が出てこない。
男の唇が、ゆっくり動いた。
「……美雨?」
蒼い雨 第1話 おわり
第1話をお読みいただき、ありがとうございました。
店では“紫乃”と呼ばれる彼女を、「美雨」と呼んだ男。
十五年ぶりの再会が、止まっていたふたりの時間を動かし始めます。
次話もお読みいただけましたら嬉しいです。




