第5話 人類種の天敵
「ダリオ・クレインあたりのことを言っておるのだろう」
その名が出た瞬間、セリアの肩がわずかに強張った。
オルディスはその反応を視界の端で捉えながら、引き出しから一枚の用紙を取り出した。
「学園では、生徒の自治を尊重しておる。派閥争いにも、教職側は原則として介入せん。……もっとも、それを何をしてもよいという意味に取り違える者もおるがな」
ペンを取り、さらさらと文字を書きつけていく。
「召喚獣への不当な干渉は、学則第十七条に抵触する。脅迫による引き抜き、契約の譲渡の強要。いずれも処分の対象だ」
書き終えると、学園長の印を押し、インクが乾くのを待った。
「これを盾に使え」
机の上を滑らせて寄越されたのは、学園長直筆の通達書だった。
セリアとカイルの契約に対する不当な干渉を禁じ、違反した場合は処分の対象とする旨が、簡潔に記されている。
カイルは空いている手で紙を取り、目を通した。それから、傍らのセリアへ渡す。
セリアはようやく握られていた手を離し、通達書を両手で受け取った。
「ただし」
オルディスの声が、一段低くなった。
「これで牽制できるのは、表向きの動きだけだ。裏から手を回す者を、紙一枚で止められるとは思わんことだ」
セリアの指が、紙の端を押さえた。
「わしも手は打つ。だが、すべてに目が届くわけではない。あの娘の傍にいるお前さんにしか、防げんこともある」
オルディスは立ち上がり、窓辺へ歩み寄った。
昼の陽光に照らされた中庭では、食堂へ向かう生徒たちが行き交っている。窓越しに見れば、ごく平穏な学園の風景だった。
「わしが留守にすることもある。この学園は、決して完璧な場所ではない。それを承知で、あの娘の隣にいると決めたのなら」
窓の外を見たまま、続ける。
「しっかりやれ、竜の子」
セリアは通達書を胸元へ引き寄せた。
学園長室へ入った時よりも、呼吸が楽になっていた。これで何もかも解決するわけではない。それでも、頼ってよいものが一つ増えたことは確かだった。
隣のカイルを見上げ、声にせず唇を動かす。
ありがとう。
カイルはそれを一瞥し、オルディスの背へ視線を戻した。
「ああ、もちろんだ。我の意思は最初から変わっていない。セリアが我の主である限り、傍で守る」
口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
「学則など構わず手を出してくる愚か者が、現れぬことを祈るとしよう」
オルディスが小さく鼻を鳴らした。
笑ったのか、呆れたのかは分からなかった。
「祈る、か。竜種の口から聞くとは、わしも長生きしたものだ」
窓辺から振り返り、片手を軽く上げる。
「話は以上だ。もう行ってよい」
セリアは通達書を丁寧に折り、制服のポケットへ収めた。
立ち上がって一礼し、カイルと共に部屋を出る。
廊下には、事務官も黒いローブの男もいなかった。
二人で螺旋階段を下りると、足音が石壁に反響した。窓から差し込む光が、曲がりくねった段差を白く照らしている。
数段先を歩いていたセリアが、ふと足を止めた。
「カイル。さっき学園長に言ったこと、本気ですか」
振り返った彼女の目は、真剣だった。
「もし、本当にそういう相手が来たら、あなたは……」
言いかけて、口を閉じる。
答えは、すでに聞いている。
演習場で何が起きたのかも、この目で見た。
セリアは手すりに添えた指を引き寄せた。
「……ごめんなさい。何度も確かめるようなことを言って」
カイルは急かさず、彼女を見ていた。
セリアは小さく首を振り、再び階段を下り始めた。
* * *
本館を出ると、中庭を横切る生徒たちの視線が集まった。
演習場の一件は、すでに広まりつつあるらしい。誰かが連れの袖を引き、別の誰かは会話をやめた。
二人が進む先で、生徒たちが道を空けていく。
その向こうに、一人だけ退かない男がいた。
東棟へ続く渡り廊下の柱に肩を預け、腕を組んでいる。制服の金の刺繍が、三年生であることを示していた。
ダリオ・クレイン。
二人が近づくと、彼は柱から背を離し、親しげに片手を上げた。
「やあ、噂の召喚獣くん。今日の演習、随分と派手だったらしいな。ヴァイスのピクシーが消えかけたとか。なかなかの芸当じゃないか」
カイルへ向けられた笑みには、愛想のよさと探るような目つきが同居していた。
「少し話さないか。先輩として、この学園でのうまい立ち回りを教えてやろうと思ってさ」
セリアはカイルの半歩後ろで、拳を握った。
学園長室を出たばかりなのに。
ポケットの中には、通達書がある。けれど、まだ何も強要されてはいない。今取り出すべきなのか迷ううちに、カイルが口を開いた。
「うまい立ち回り、か。我に教えるとは、随分と度胸があるな」
ダリオの笑顔が、わずかに引き攣った。
「だが、生憎と自分の立ち回りには興味がない。それよりも、主を狙う害虫をどう駆除するかの方が、よほど気になる」
カイルが一歩前へ出た。
ダリオとの距離が詰まる。
遠巻きに様子を見ていた生徒たちが、後ずさった。
セリアはカイルの背中越しに、ダリオの顔を窺った。親しげだった笑みが消えかけ、唇の端だけが不自然に持ち上がっていた。
「……害虫、ね」
低い声だった。
「面白い冗談だ。この学園で俺を敵に回す意味を、まだ分かっていないらしいな。来たばかりの新入りが」
ダリオの肩の横で、空気が揺らいだ。
低い羽音と共に、巨大な蜂が姿を現す。
エンペラーホーネット。Aランクの水属性召喚獣だった。
体長は一メートル近い。光を鈍く返す外殻と大きな複眼、その腹部の先には鋭い針が覗いている。周囲に微細な水滴が浮かび、空気が湿り気を帯びた。
セリアは無意識に、カイルの服の裾を掴んだ。
エンペラーホーネットは、主人の横で羽ばたきながらカイルを見据えている。
ダリオはその背に手を添え、笑みを作り直した。
「もう一度聞こうか。先輩の親切を、無下にするつもりか?」
返事の代わりに、カイルが指輪へ手を伸ばした。
ダリオの笑みが消えた。
エンペラーホーネットの羽音が高くなる。威嚇するように腹部を持ち上げたものの、前へは出なかった。
「待て」
ダリオが半歩退いた。
演習場の噂は聞いている。ミレーヌが医務室へ運ばれ、ピクシーも消滅寸前だったという。
ただ、噂だけでは測れなかった。
自分なら話をつけられる。少なくとも、Bランクのミレーヌと同じにはならない。
そう踏んで近づいたはずだった。
だが、指輪に触れるカイルには、構えも気負いもない。エンペラーホーネットを前にしてなお、警戒する素振りすら見せなかった。
セリアは服の裾を強く引いた。
「カイル……」
学園長と、約束したばかりだ。
指輪は外してほしくない。けれど、ダリオの召喚獣を前にして、自分に何ができるのかも分からなかった。
ポケットの紙の感触を、制服越しに確かめる。
それより先に、ダリオが口を開いた。
「……今日のところは、見逃してやる」
顔は強張っていた。
カイルは何も答えなかった。指輪に手を添えたまま、ただ相手を見ている。
ダリオはエンペラーホーネットを退かせた。巨大な姿が水の粒子にほどけ、羽音が途絶える。
「だが、覚えておけ。この学園で、お前たちに味方はいない。俺を敵に回した意味を、これからじっくり教えてやる」
吐き捨てるように告げると、背を向けた。
足早に渡り廊下の向こうへ去っていく。その背中を見送りながら、カイルは指輪から手を離した。
周囲にいた生徒たちも、目が合うのを避けるように散っていった。
誰も二人へ声をかけなかった。
セリアはようやく服の裾を離し、長く息を吐いた。
「……すみません。私のせいで」
顔を上げられなかった。
自分がもっと強ければ、カイルに頼りきりにならずに済むのだろうか。
学園長から通達書まで渡されたのに、取り出すことさえできなかった。
「捨て台詞まで小悪党だったな」
頭上から落ちてきた言葉に、セリアは瞬きをした。
やがて、こらえきれず短い笑いが漏れる。
「……小悪党って。三年生のAランクに向かって」
声はまだ少し震えていた。それでも、口元には笑みが戻った。
つい先ほどまで恐ろしく聞こえた脅しが、カイルの一言で、妙に大げさなものに思えてしまった。
カイルはダリオの去った方を一瞥しただけで、歩き出した。
セリアも、その隣へ並ぶ。
* * *
午後の授業を終えても、二人を見る周囲の態度は変わらなかった。
食堂で夕食を済ませ、寮へ戻る頃には、セリアもすっかり口数が減っていた。
朝の講義。演習場。学園長室。そして、ダリオとのやり取り。
一日の出来事を思い返すだけで、疲れが押し寄せてきた。
中庭には夜風が吹き、寮の窓に灯りが並んでいた。すれ違う生徒は、カイルを認めると会話を小さくした。
セリアは黙って歩いていたが、寮の階段を上る途中で足を緩めた。
「味方はいない、って言ってましたけど」
カイルが視線を向ける。
セリアは踊り場で立ち止まった。
「……あれは多分、簡単には否定できません。カイルが強ければ強いほど、怖がって離れていく人もいると思います。利用しようとする人だって、きっと」
言葉を切り、階下へ目を向けた。
誰も上ってこなかった。
「私も、あなたの力を見た時は怖かったです」
小さく告げてから、再び歩き出す。
カイルは何も挟まず、隣を歩いた。
自室の前まで来ると、セリアは鍵を取り出した。それを握ったまま振り返る。
「でも、私はここにいます」
カイルを見上げる目には、学園長室で見せたのと同じ、退かない強さがあった。
「味方がいないなら、私がなります。弱くても」
言い切ってから、急に顔が熱くなった。
守ってもらってばかりの自分が、何を言っているのだろう。
そう思っても、撤回はしたくなかった。
セリアは慌てて扉へ向き直った。鍵を差し込もうとして、二度ほど手元を滑らせる。
「お、おやすみなさい!」
ようやく鍵を回し、逃げ込むように部屋へ入った。
扉が閉まる。
少しして、向こう側からくぐもった呻き声が聞こえた。
カイルはしばらく、その場に立っていた。
やがて、口元がかすかに緩む。
「……馬鹿な主だ」
呟きに棘はなかった。
自分の指輪を一度見下ろしてから、隣室の扉を開けた。
寝台と机と椅子が置かれただけの、簡素な部屋だった。
窓の外には夜空が広がり、学園の尖塔に灯された魔法灯が、星に混じって光っている。
壁一枚向こうから、衣擦れの音がした。
それもやがて静かになった。
カイルは窓辺に立ち、灯りの残る学園を見渡した。
* * *
三年生寮の一室で、ダリオ・クレインが机を拳で叩いた。
置かれていたペンが転がり、床へ落ちる。
公衆の面前で、退かされた。
しかも相手は、あのセリア・アーデルの召喚獣だ。
渡り廊下にいた生徒たちの顔が、次々と思い浮かんだ。今頃、何と噂されているのか。想像するだけで、腹の底が熱くなる。
だが、怒りに任せて挑み直すほど愚かではなかった。
エンペラーホーネットを呼び出しても、カイルは顔色一つ変えなかった。あの態度が虚勢でないことくらい、ダリオにも分かる。
しばらくして、荒かった呼吸が落ち着いた。
ダリオは床のペンを拾い、引き出しから便箋を取り出した。
一度だけ手を止め、宛先を確かめる。
それから、文字を書き始めた。
手紙の送り先は、学園の外だった。
* * *
医務室では、ミレーヌが寝台の上で天井を見つめていた。
枕元のピクシーは弱々しく光り、時折、透き通る翅を震わせている。
回復には数日かかる。
医務官からそう告げられていた。
消滅は免れた。その言葉に安堵したはずなのに、目を閉じると、再びあの重圧が蘇った。
息ができない。
魔法を使おうとしても、魔力がまとまらない。
黒衣の青年は、ただ自分を見ていた。
「ミレーヌ……」
取り巻きの一人が、遠慮がちに声をかけた。
ミレーヌは答えなかった。
返事をしようとすれば、声が震えてしまいそうだった。
それを見られることだけは、耐えられなかった。
寝具の下で、指を握りしめる。
爪が掌に食い込んでも、力を緩めなかった。
* * *
学園長室には、まだ灯りが残っていた。
オルディスは窓辺に立ち、古い通信具を手にしていた。
表面に刻まれた紋様が、淡く明滅している。
短い言葉をいくつか交わした後、老人は黙って相手の返答を聞いた。やがて通信具へ指を滑らせると、光が消えた。
深いため息が、静かな室内に落ちる。
「暗黒竜ヴァルガード、か」
昼間とは違う、疲れた声だった。
「まさか、あの伝承がこんな形で目の前に現れるとはな」
机の上には、古い革装丁の書物が開かれていた。
魔法灯の光を受け、薄れていた文字がページの上へ浮かび上がっている。
竜の図。その傍らに記された名。
暗黒竜ヴァルガード。
そして、その存在を指す呼び名が、一際濃く刻まれていた。
――人類種の天敵。
オルディスは飴玉の瓶へ手を伸ばし、途中でやめた。
椅子へ深く腰を下ろす。
昼間、目の前に立っていた青年の姿を思い返した。
自らの力を封じる指輪。
セリアの手を取った仕草。
そして、彼女が人質に取られたら何をするか分からない、と告げた声。
あれほどの存在を、学則だけで縛れるはずがなかった。
「あの娘の言葉が、どこまで届くか……」
オルディスは、天井を仰いだ。
学園を守るために、セリアを頼みにしなければならない。
守るべき生徒の一人に、そんな役目を背負わせることが、ひどく重く感じられた。
窓の外では、寮の灯りが一つ、また一つと消えていく。
学園は眠りにつこうとしていた。
その静けさの中で、机に開かれた書物だけが、暗黒竜の名を浮かび上がらせていた。




