第4話 暗黒竜の正体
セリアの手が、膝の上で小さく震えていた。
答えを知るのが怖くないと言えば、嘘になる。それでも、問いを引っ込めるつもりはなかった。
カイルはしばらく彼女を見つめ、それから中庭へ視線を巡らせた。
「今ここで話してもよいが……周りの耳もある」
セリアは、はっと顔を上げた。
見える範囲に人影はない。だが、窓の向こうや回廊の陰までは分からなかった。昨日、自分がカイルに忠告したばかりだ。この学園では、誰がどこで聞いているか分からない、と。
「……そうですね。ごめんなさい、焦りました」
教科書を胸に抱え直し、立ち上がる。指先の震えはまだ収まっていなかったが、カイルを見る目には静かな頑固さが残っていた。
「じゃあ、部屋に戻ってから聞かせてください。今度こそ、ちゃんと」
カイルは短く頷いた。
二人が寮棟へ向かう道すがら、演習場の方からざわめきが風に乗って届いた。
ミレーヌが医務室へ運ばれたことも、じきに学園中へ広まるだろう。Bランクの召喚獣が、攻撃を受けることもなく消滅しかけた。その意味を正確に理解できなくても、恐ろしい出来事があったことだけは伝わってしまう。
セリアは教科書を抱える腕に、少しだけ力を込めた。
寮の東棟は静まり返っていた。ほとんどの生徒は、まだ授業を受けている時間だ。
セリアは自室の鍵を開け、カイルを中へ招いた。
窓から差し込む薄い光が、古びた机と寝台を照らしている。扉を閉め、鍵をかける音が、狭い部屋にやけに大きく響いた。
椅子をカイルに譲り、自分は寝台の端へ腰を下ろす。教科書を脇に置き、膝の上で指を組んだ。
「ここなら、落ち着いて話せます。……聞かせてください、カイル」
一度唇を噛んでから、真っ直ぐに彼を見る。
「あなたは、何者なんですか」
カイルはわずかに眉を寄せた。
相手に意思のない道具として扱われるのは気に入らない。だからといって、自分の種族や力を詮索されることを好むわけでもなかった。
だが、セリアは物珍しさから尋ねているのではない。
その目をしばらく見返してから、カイルは小さく息を吐いた。
「……人間ではない。竜種だ」
組んでいた指が解けた。
セリアの手は膝の上をさまよい、やがて寝台のシーツを掴んだ。
「竜……種……」
掠れた声で繰り返す。
魔法学園で学ぶ者なら、その名を知らないはずがなかった。
伝承に語られる、人の領域を超えた種族。召喚に応じたという記録さえ稀で、その力は通常の獣や精霊とは比較にならないとされている。
教科書の記述が、頭の中に断片的に浮かんだ。
どれも、目の前の黒衣の青年とうまく結びつかなかった。
口を開いても、声が出ない。
セリアは膝へ視線を落とした。
窓の外で、鳥が一羽鳴いた。普段なら気にも留めない声が、妙にはっきりと聞こえた。
Fランクの自分が、竜を召喚した。
何度考えても、理解が追いつかなかった。それでも、講堂や演習場で感じた重圧には、確かに説明がついてしまう。
セリアは震える息を一つ吐き、顔を上げた。
「……嫌な思いをさせて、ごめんなさい。無理に聞いて」
そこで一度、言葉を切った。
これ以上尋ねるべきではないのかもしれない。そう思っても、次の問いを飲み込めなかった。
「どうして、私なんかの召喚に応じてくれたんですか。竜種が、Fランクの魔法使いの呼び声に応える理由なんて……」
自分で言いながら、胸が沈んだ。
また、私なんか、と口にしてしまった。
それでも、答えは知りたかった。
カイルはセリアを見つめ返した。
彼女の手は、まだシーツを掴んでいる。それでも視線は逸らさず、返答を待っていた。
やがて、カイルの口元にかすかな笑みが浮かんだ。
「……たまたまだ。特に理由はない。強いて言うなら、退屈していたところに、お前の呼び声が届いた。それだけだ」
セリアは何度か瞬きをした。
「……退屈、だったから」
覚悟していた答えとは、あまりにも違っていた。
もっと重大な理由があるのだと思っていた。知らないうちに何かを差し出してしまったのではないかとさえ、考えていた。
それが、退屈だったから。
張り詰めていたものが緩み、セリアは小さく吹き出した。
「なんですか、それ。もっとこう、運命がどうとか、お前の魔力に惹かれたとか……」
そこまで言って、急に気恥ずかしくなる。
自分の魔力に惹かれた、などと。
頬を赤くした彼女を見て、カイルは何も言わなかった。
部屋の空気が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
竜種という事実の重さは消えていない。それでも、今は落ち着いて彼の顔を見ることができた。
「……ありがとうございます。話してくれて」
セリアは膝へ視線を落とし、シーツに作ってしまった皺を指先で伸ばした。
「私は、あなたのことを全部理解できるとは思いません。竜種のことも、あなたが何を見てきたのかも。でも、契約した以上、私はあなたの主です。それだけは変わらない」
言い終えてから、顔を上げる。
「だから、退屈させないように頑張ります。……少なくとも、努力は」
最後だけ声が小さくなった。
竜を退屈させないなど、大きく出すぎたかもしれない。そう思うと、また耳が熱くなった。
「ああ、頑張れ。だが、努力だけではどうしようもないこともある」
カイルの声は静かだった。
セリアは反射的に何かを言いかけ、口を閉じた。
その言葉が正しいことを、彼女は知っている。どれだけ練習しても結果が出ず、何度も同じ場所へ引き戻されてきた。
「……分かってます」
俯かずに答えた。
投げやりになったつもりはなかった。ただ、それを知らずに努力しているのではないと、伝えたかった。
その時、廊下から足音が近づいてきた。
一人ではない。複数の靴音が部屋の前で止まり、扉が硬い調子で三度叩かれた。
セリアは肩を揺らし、カイルと目を見合わせた。
立ち上がって鍵を開けると、学園の事務官が二人、その後ろに見覚えのない黒いローブの男が立っていた。
「アーデル。学園長室への出頭命令です。あなたと、その召喚獣の両名に」
事務官の視線が、セリアの肩越しにカイルを捉えた。
言葉が一瞬途切れ、喉仏が小さく上下する。
「学園長……? オルディス先生は、不在じゃ……」
「本日帰還されました。演習場の件で、緊急招集です」
黒いローブの男は一言も発さなかった。ただ、カイルをじっと見ている。その視線の鋭さに、セリアは落ち着かないものを感じた。
振り返ると、カイルはすでに椅子から立っていた。
「……行きましょう、カイル」
* * *
学園長室は、本館の最上階にあった。
螺旋階段を上る間、事務官二人は先を歩き、黒いローブの男は後ろをついてきた。案内されているというより、挟まれているようだった。
重厚な樫の扉の前で、事務官が来訪を告げる。
中から短い返事があり、扉が開かれた。
セリアは思わず足を止めた。
壁一面の本棚には、書物に混じって旅先の土産らしい置物が並んでいる。机の上には異国の菓子の包み紙が散らばり、窓辺には洗濯物まで干されていた。
厳粛な場所を想像していた分、どう反応してよいか分からなかった。
机の向こうに、一人の老人が座っていた。
小柄な体に銀灰色の長い髪。深い皺が刻まれた顔に反して、その瞳は驚くほど生き生きとしている。
齢六百に届こうかという大魔法使い、オルディス・レイ・セレスタ。
学園長は口の中で飴玉を転がしながら、まずセリアを見た。それから、カイルへ視線を移す。
飴を噛み砕く音がした。
「ふむ」
視線がカイルの顔から手元へ移り、指輪の上でしばらく止まった。
「ご苦労だった。あとは、わしが話そう」
オルディスが告げると、事務官たちは頭を下げた。黒いローブの男も最後にカイルを一瞥し、部屋を出ていく。
扉が閉まってから、学園長は二人へ椅子を勧めた。
「座りなさい。少々、話を聞かせてもらおうか」
セリアは促されるまま腰を下ろしたが、背筋は伸びたままだった。
学園長に直接呼ばれるなど、入学以来初めてだ。
一方、カイルは椅子には座らず、壁に背を預けて腕を組んだ。
オルディスは気にした様子もなく、引き出しから茶菓子の箱を取り出した。セリアの前へ押しやり、それからカイルを見る。
「演習場の結界が一枚割れた。修繕費は学園持ちだが、報告書には理由を書かねばならん。さて、何と書いたものかな」
口調は軽かった。
だが、その視線はカイルから離れなかった。
カイルもまた、老人を見据えていた。他の教官たちとは違う。自分の前で平然と菓子を勧める余裕が、単なる無知から来るものではないことくらいは分かった。
「好きに書けばいい。召喚獣が指輪を外した、とでも」
オルディスは片眉を持ち上げた。
「召喚獣が指輪を外した、か。随分と簡潔だ」
椅子の背にもたれると、古い木が軋んだ。
「だが、報告書というのは厄介でな。『なぜ結界が割れたのか』の次には、『なぜそれほどの存在が二年生の召喚に応じたのか』と続く。そして、その次には『学園に置いて安全なのか』と来る。質問はいくらでも増えるものだ」
セリアには、茶菓子へ手を伸ばす余裕などなかった。
膝の上で指を組み、二人の会話を見守る。
オルディスはふと軽い調子を収め、カイルの指輪を見た。
「あれは、お前さん自身のものだな。学園の備品でも、誰かに嵌められたものでもない。自ら力を封じておる」
問いかけではなかった。
カイルは答えず、学園長を見返した。
「自らを封じるほどの竜種が、二年生の娘の召喚に応じた。面白い話だが、わしは面白いだけで済ませるわけにはいかんのでな」
竜種。
その言葉が学園長の口から出たことに、セリアは息を呑んだ。
オルディスが机を指先で二度叩く。
背後の本棚から古い革装丁の書物が滑り出し、机の上でひとりでに開いた。黄ばんだページには、竜らしき図と、細かな文字が並んでいた。
「この学園には今、生徒が四百名、教官が三十名おる。その全員の安全に対して、わしは責任を負っておる」
学園長は書物から顔を上げた。
「お前さんに聞こう。この学園で、何をするつもりだ」
室内が静まった。
セリアは膝の上の手を握りしめ、カイルの横顔を見る。
カイルは少し間を置いてから、口を開いた。
「何をするか、か……。なら、こちらからも一つ聞いてよいか。召喚獣とは、何をするのだ?」
オルディスは一瞬、きょとんとした。
それから口元に皺を寄せ、低く笑った。
「はっ。なるほど。そこからか」
開いていた書物を閉じ、机の端へ寄せる。
「召喚獣は主と共に学び、共に戦う。授業に出て、演習をこなし、時には試験も受ける。学園の外へ出れば、護衛や探索の任務もある。平たく言えば、主の半身だ。生活を共にし、互いの力を高め合う」
半身。
セリアはそっとカイルを見た。
Fランクの自分と、この存在が。
その言葉に見合うものを何一つ持っていない気がして、視線を膝へ戻した。
オルディスは新しい飴玉を取り出し、包み紙を剥きながら続けた。
「もっとも、お前さんの場合は事情が違う。今さら初歩の魔法理論を聞かせても、教わることなど少なかろう」
飴を口へ放り込み、カイルを見据える。
「だから、聞き方を変えよう。お前さんは、あの娘の隣で何をしてやれる?」
カイルは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。
窓辺の洗濯物が、風に揺れる。
「我がか」
やがて、普段よりゆっくりと言葉を継いだ。
「召喚獣として主の傍に立ち、知識と力を貸す。だが、大抵は見ているだけだ。成長のきっかけは与えても、その機会まで奪うつもりはない」
セリアが顔を上げた。
「ただし、セリアに悪意や敵意を向ける者がいるなら、黙って見ているつもりもない」
オルディスは口の中で飴を転がし、カイルの言葉を聞き終えた。
「成長の機会は奪わん、か」
肘掛けに置いた指が、ゆっくりと動く。
「竜種にしては、随分と辛抱の要る役目を選んだものだ」
口元には笑みがあったが、目は真剣だった。
「いいだろう。お前さんの言い分は聞いた」
机に両肘をつき、組んだ指の上に顎を乗せる。
「ただし、条件がある」
カイルは黙って続きを待った。
「一つ。学園の敷地内では指輪を外さんこと。今日のような真似を繰り返されると、結界の修繕費でわしの旅行の予算が削られる」
旅行、という言葉に、セリアは思わず顔を上げた。
冗談なのかどうか、学園長の顔からは分からなかった。
「二つ。生徒と、その召喚獣に取り返しのつかん傷を負わせんこと。今日のヴァイスのピクシーは、辛うじて消滅を免れた。紙一重だったぞ」
飴を噛み砕く音が、短く響いた。
カイルは表情を変えなかった。
「そして、三つ目」
オルディスは椅子から立ち上がった。
窓辺へ歩き、干してあったシャツを手に取る。袖を整えながら、背中越しに言った。
「あの娘を泣かせるな」
セリアの指が止まった。
「アーデルの家には、色々と事情がある。あの子は、ここで居場所を見つけようと必死だ。お前さんが気まぐれで来て、気まぐれで去れば、残されたあの子は今より孤立するかもしれん」
セリアは息を呑んだ。
学園長が自分のことを知っていた。
それが意外だった。知られていたことが恥ずかしくもあり、こうして気にかけられていることに、どう応えればいいのか分からなかった。
オルディスは振り返った。
シャツを畳む手は止めず、カイルを見る。
「守れるかね、竜の子よ」
カイルは老人を見据えたまま、問い返した。
「色々な事情とは、セリアの姉のことか」
シャツを畳む手が、一瞬止まった。
「ほう。知っておるのか」
オルディスの視線がセリアへ向く。
彼女は椅子の上で固まっていた。姉の話が出た途端、先ほどまでとは違う緊張が身体を覆った。
「名を出されるたび、この娘が顔を強張らせていたのでな」
カイルの言葉に、セリアは唇を噛んだ。
見られていたのだ。
自分では隠しているつもりだったのに。
オルディスは畳んだシャツを棚へ置き、机へ戻った。
「レイナ・アーデルはSランクだ。三年生にして学園最強の一角。召喚獣はキマイラ。アーデル家の誇りであり、大きな期待を背負っておる」
椅子が小さく軋んだ。
「そしてセリアは、その妹だ。同じ血筋でFランク、属性は無。家からの期待は……まあ、察しがつくだろう」
新しい飴玉を手に取ったものの、オルディスは包みを開けなかった。
その指先を見つめていたセリアが、静かに口を開いた。
「学園長、もう十分です」
小さかったが、はっきりとした声だった。
顔を上げた彼女の目は赤い。それでも、涙は流れていなかった。
「私の事情は、私が話します。カイルには……いつか、自分で」
オルディスはしばらくセリアを見つめた。
それから、ゆっくりと頷いた。
「……そうだな。すまんかった」
ようやく飴の包みを開き、口へ入れる。
「強い子だ」
独り言のように呟いてから、カイルへ視線を戻した。
「さて、竜の子よ。三つの条件への返事を、まだ聞いておらんが」
カイルは壁から背を離した。
セリアの傍らへ歩み寄り、膝の上で固く握られていた手を取る。
彼女の指先が、ぴくりと跳ねた。
「……カイル?」
カイルはセリアを一度見下ろし、それから学園長へ向き直った。
「分かった。契約は続けるし、学園にも留まる。ここでは人の姿で過ごそう。無用に騒ぎを起こすつもりもない」
そこで、言葉を切る。
「だが、こちらからも一つ要望がある」
オルディスは片眉を上げた。
「聞こう」
セリアは取られた手を見つめていた。
振り払おうとは思わなかった。ただ、学園長の前でこうして手を握られていることが、落ち着かなかった。
その手が、思っていたよりも温かい。
竜種だと聞いてから、同じ姿をしていても自分とはまるで違う存在なのだと、どこかで身構えていた。その温もりは、そんな隔たりを少しだけ薄くした。
オルディスの視線が、二人の手元を掠める。
口元がかすかに緩んだが、何も言わなかった。椅子にもたれ、カイルの言葉を待つ。
窓の外で、昼の鐘が鳴り始めた。
カイルは、セリアの手を握ったまま口を開いた。
「我の力を見て、派閥に組み込もうとする者や、利用しようと企む者が現れるのは目に見えている。まだ動いてはいないが、いずれは動き出す」
オルディスは黙って聞いていた。
「我としては、正面から叩き潰してもよい。だが、そのためにセリアが狙われるなら話は別だ。人質にでも取られた時は――我も、何をするか分からん」
肘掛けを叩いていたオルディスの指が止まった。
セリアは、隣に立つカイルを見上げた。
その声は荒くなかった。怒りを露わにしているわけでもない。
だからこそ、冗談ではないと分かった。
「……何をするか分からん、か」
オルディスは低く繰り返した。
咎める響きはなかった。カイルが今、何を伝えようとしているのかを確かめるように、その顔を見つめている。
それは単なる脅しではなかった。
自分を縛る条件だけでは、セリアを守れない。
彼女に手が伸びる前に、学園として動け。
カイルの要望を、オルディスはそう受け取った。
老人は顎を撫で、ゆっくりと息を吐いた。
もし、その事態を許してしまえば。
今度は、結界一枚の修繕では済まない。




