第3話 初めての朝
翌朝。鐘が二つ、低く澄んだ音を寮棟に響かせた。朝靄がまだ窓の外に漂い、廊下には人の気配が少ない。早い者は、すでに食堂へ向かい始めている頃合いだった。
こんこん、とカイルの部屋の扉が控えめに叩かれた。
扉の前には、制服を整え、教科書を小脇に抱えたセリアが立っていた。昨夜の疲れはまだ目元にうっすら残っている。
「おはようございます。起きてますか?」
少し間を置いてから、セリアは言葉を付け足した。
「魔法理論の講義、東棟の大教室なので少し歩きます。朝食は……時間があれば、ですけど」
廊下を通り過ぎる生徒が二人、セリアの姿を見て足を速めた。昨日の食堂での一件は、一晩で学園中に広まったらしい。彼女に近づけば、カイルの注意まで引いてしまう。そんな警戒が、そそくさと遠ざかる背中から伝わってきた。
その距離の取り方は、昨日までとは違う。馬鹿にしているのではなく、怖がっている。
セリアは二人を一瞬だけ目で追い、すぐに扉へ視線を戻した。
恐怖で人が離れていくのと、侮蔑で人が離れていくのと、どちらがましなのか。考えてみても、答えは出なかった。
「ああ、おはよう。朝食は食べておこう」
扉が開き、昨日と同じ黒いシャツと黒いズボン姿のカイルが廊下へ出てきた。
「朝から食べねば、頭が回らんぞ」
その言葉に、セリアは少しだけ目を丸くした。それから、くすりと笑う。
「カイルって、意外と食事を大事にするんですね」
教科書を抱え直し、食堂への道を歩き始める。朝の空気はひんやりと肌を刺し、中庭の芝生には露が光っていた。
朝の食堂は昨夜ほど混雑していなかった。それでも二人が入ると、近くの席の会話が不自然に途切れる。ただ、昨夜と違って誰も笑わなかった。
配膳口でパンとスープ、果物を受け取り、昨日と同じ壁際のテーブルに着く。セリアは迷わず椅子を引いた。空いている席はほかにもあったが、そこに座ろうとはしなかった。
パンをちぎってスープに浸しながら、教科書を開く。
「今日の魔法理論は属性間相性の講義です。私は無属性だから、あんまり関係ないって言われるんですけど……基礎は大事なので」
ぱらぱらとページをめくる指が、ある箇所で止まった。
余白には、びっしりと書き込みがある。細かい文字で補足や疑問点が記され、図表にはいくつもの線が引かれていた。何度も読み返したのだろう。ページの端は柔らかく擦り切れている。
カイルの視線に気づいたセリアは、慌てて教科書を少し引き寄せた。
「あ、字が汚いのは気にしないでください」
その時、食堂の入口に見覚えのある赤髪が現れた。
ガレス・フォルクが大股で配膳口に向かい、トレーに朝食を山盛りにしている。その視線が一度だけ、二人の方を掠めた。昨日の講堂で動けなかった記憶が蘇ったのか、カイルを認めた途端、眉間に皺が寄った。
「字が汚いだと? よくまとまっていると思うが。属性間相性か。面白いな」
カイルはスープを一口啜り、教科書の書き込みへ目を落とした。
セリアの手が止まった。きょとんとした顔でカイルを見る。書き込みを褒められるとは思っていなかった。耳の先が、ほんのりと色づく。
「……ありがとうございます」
照れを隠すようにスープを飲んでから、教科書を二人の間へ広げ直した。
「属性間相性は基本的に、火と水、風と土が対になっていて。でも、単純な強弱じゃないんです。風が火を強めたり、水と風の複合で氷を生成したり。組み合わせによって、全然変わるんですよ」
指先が図表をなぞる。説明する声に、少しずつ熱がこもっていった。
実技では、思い描いた通りの結果を出せない。それでも、理論を読み解くことは好きだった。分からなかった仕組みが理解できた時だけは、自分も確かに前へ進めている気がした。
「問題は無属性で……特定の現象の性質を持たない、純粋な力場だから、相性の恩恵を受けられない代わりに、弱点もないはずなんですけど」
そこで、声が少し沈む。
「出力が低すぎて、その利点を活かせないんですよね」
食堂の端では、ガレスがトレーを抱えたまま席を探していた。空いているテーブルはいくつもあるのに、落ち着かない様子で歩いている。
壁際のテーブルへ近づきかけては進路を変え、結局、反対側の席に腰を下ろした。会話を聞くには遠いが、二人の様子を見るには十分な距離だった。
セリアはその動きに気づかないまま、パンの最後の一切れを口へ運んだ。
「あ、そろそろ行かないと。大教室は東棟の三階なので」
教科書を閉じ、トレーを片付けようと立ち上がる。その拍子に、ページの間から小さな紙片がひらりと落ちた。
拾い上げようとした手が、一瞬止まる。
紙片には、丸みのある字で「今日も頑張れ」と書かれていた。
自分から自分へ宛てた、ささやかな激励だった。
セリアはカイルの顔を見ることもできず、素早く紙片を教科書の間へ押し戻した。
「い、行きましょう!」
足早に出口へ向かう彼女の耳は、また赤くなっていた。
* * *
東棟の大教室は、階段状の講義室だった。
召喚の儀が行われた講堂よりは小ぶりだが、それでも百人以上を収容できる広さがある。窓から差し込む朝の光が机に広げられた教科書を照らし、黒板には前回の板書がまだ残っていた。
セリアとカイルが入室すると、ざわめきが一度膨らみ、すぐに静まった。
セリアは周囲を見ないようにして、最後列の端へ向かった。椅子を引き、カイルの席も手で示す。教科書を二人の間に広げてから、声を落とした。
「ここなら目立たないので」
教壇に立つ老教授がチョークを手に取った時、前方の席でシオンが振り返った。
昨日とは違い、今朝の彼はカイルに穏やかな笑みを向けている。だが、その肩口にいたエレメンタルラットは、カイルを見た途端に毛を逆立てた。シオンは素早く手を添え、何事もなかったように前へ向き直った。
講義が始まった。
属性間相性の理論、複合魔法の成立条件、そして無属性魔力の特異性。
老教授の声が教室に響く中、セリアのペンは休みなく動いていた。要点を拾い、教科書の記述と照らし合わせながら、自分なりの補足を書き添えていく。
やがて彼女は、ある一文を指して囁いた。
「ここ。無属性は相性補正がゼロって書いてありますけど、逆に言えば、全属性に同じ条件で干渉できるはずなんです。出力さえあれば」
出力さえあれば。
その条件を口にする時だけ、セリアの声から熱が消えた。
「出力か……」
カイルが何かを続けようとしたところで、チョークが黒板を強く叩いた。
「そこ、最後列。私語は休憩時間にしたまえ」
老眼鏡の奥から、二人を射抜くような視線が飛んでくる。
昨日の騒ぎを知っているのかどうか、老教授の態度からは分からなかった。ただ、相手が誰であろうと講義の邪魔を許すつもりはないらしい。
セリアはぴしりと背筋を伸ばした。赤くなった耳を隠すように俯き、ペンを握り直す。
講義は続いた。
黒板に描かれる属性相関図が複雑に枝分かれしていく。セリアはそれを追いながら、時折、手元の書き込みを確かめた。
やがて無属性の項に差しかかると、老教授はチョークを置いた。
「無属性は万能ではない。干渉できる範囲が広い代わりに、魔力効率が極端に悪い。同量の魔力を費やしても、属性魔法と同等の威力を得られるとは限らん。術式によっては、その一割にも届かない」
教室のどこかで、小さな笑い声が漏れた。
セリアのペンが一瞬止まる。
しかし、すぐにまた動き出した。
書き込まれる文字は、先ほどよりも筆圧が強くなっていた。
講義終了の鐘が鳴ると、教室はにわかに騒がしくなった。
次は戦闘演習だ。座学とは違い、実力が衆目に晒される時間だった。
セリアはしばらく開いたままの教科書を見つめ、それから静かに閉じた。
「次、演習場です。……たぶん、座学よりきついと思います」
顔を上げた彼女は、覚悟を決めたようにカイルを見ていた。
「構わん。我がいるのだからな」
カイルはそう言って立ち上がった。
セリアはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから小さく頷いた。
* * *
演習場は学園の南端にある、屋外の円形闘技場だった。
石造りの観覧席が段々に組まれ、中央の砂地を囲むように防御結界が幾重にも張られている。二年生たちが三々五々集まり、それぞれの召喚獣を傍らに従えていた。
炎を纏うマグマポッド。水の粒子を散らすピクシー。風に溶けるように輪郭を揺らすエレメンタルラット。
獣や精霊が並ぶ中、人の姿をしたカイルはひときわ目を引いた。
演習担当の教官が、名簿を手に中央へ進み出る。筋骨隆々の中年男だった。彼が口を開くと、腹の底から響くような声が観覧席まで届いた。
「今日は召喚獣との連携演習だ。各自、召喚獣と組んで模擬戦を行う。対戦相手はこちらで決める」
教官は名簿に目を落とし、次々と名前を読み上げていった。
呼ばれた生徒たちが砂地へ降りていく中、そのペンが一箇所で止まる。登録情報を確かめるように目を細め、眉間に深い皺を寄せた。
「……セリア・アーデル」
そこで間が空いた。
対戦相手を告げようとした教官の視線が、カイルへ向く。昨日の講堂の件は伝わっているのだろう。名簿と黒衣の青年を見比べたまま、言葉が続かなかった。
その時、観覧席から澄んだ声が上がった。
「先生、私でよければ相手をしますわ。同じ二年生同士、ちょうどいいかと思って」
ミレーヌだった。
その微笑みは、善意からの申し出にしか見えない。だが、セリアを捉えた目には、昨夜の食堂で見せたのと同じ冷たさがあった。
教官は顎を擦った。
BランクとFランク。生徒本人の実力だけなら、明らかに差がある。だが、今は召喚獣との連携演習だ。教官はもう一度カイルを見てから、短く頷いた。
「……いいだろう。ヴァイスとアーデル、中央に出ろ」
セリアは拳を握りしめ、砂地へ降りた。
顔は青かったが、足は止めなかった。ミレーヌが純粋な親切で名乗り出たのではないことくらい、分かっている。
ミレーヌが優雅に砂地へ降り立つと、その肩に小さなピクシーが舞い降りた。水の粒子を纏った透き通る翅が陽光を散らし、観覧席から感嘆の声が漏れる。
対するセリアの隣には、黒衣の青年がひとり。
カイルは構えるでもなく、ただ立っていた。
ミレーヌは小首を傾げてみせた。
「セリア、あなたの召喚獣さんって戦えるのかしら。昨日は随分と派手に脅してくれたけど……実戦は別物よね?」
声は甘かった。だが、その指先にはすでに水属性の魔力が薄く纏わりついている。
セリアはカイルを見上げた。
どう戦えばいいのか。
問いかけようとして、言葉に詰まる。連携どころか、カイルの戦い方すら知らない。彼と臨む初めての模擬戦は、何もかもが手探りだった。
教官が片手を上げた。
観覧席では、シオンが腕を組んだまま砂地を見下ろしている。ガレスは身を乗り出し、拳を膝に押し当てていた。
開始の合図が下りる、その直前。
カイルが指輪に手をかけた。
セリアが息を呑むより早く、指輪はするりと抜き取られた。
途端に、演習場のざわめきが途絶えた。
空気が重い。
目には見えない何かが肩に、胸に、喉にのしかかる。息を吸おうとしても、肺がうまく膨らまない。
ミレーヌの肩にいたピクシーが、甲高い悲鳴を上げた。纏っていた水の粒子が散り、小さな身体が半透明に揺らぐ。
ミレーヌの顔から血の気が引いた。
昨夜、食堂で指輪に手をかけられた時の恐怖とは違う。講堂で味わったはずの重圧さえ、今は遠い記憶に思えた。それが自分へ向けられている。その事実だけで、膝から力が抜けそうになる。
「な……に、よ、これ……」
指先に集めていた水属性の魔力は、すでに掻き消えていた。
教官の上げた手は、下りてこなかった。顔は蒼白になり、口がわずかに開いている。
防御結界が軋んだ。
シオンは石の手すりを掴んだ。身を支える指先に、知らず力がこもる。
「……魔力じゃない。存在そのものが、世界を歪めている……?」
ガレスも、身を乗り出した姿勢のまま硬直していた。目を見開き、唇をわななかせている。傍らのマグマポッドは炎を縮め、主人の足元へ身を寄せていた。
カイルの隣で、セリアは辛うじて立っていた。
契約の繋がりが守ってくれているのだろう。それでも膝は震え、制服の背に冷たい汗が滲んだ。
カイルは、ただ静かにミレーヌを見ている。
それだけだった。
演習場を囲む結界が、一枚割れた。
硝子を砕いたような鋭い音が響き、最前列にいた生徒たちが悲鳴を上げて身を引く。何人かは足をもつれさせ、その場に転倒した。
ミレーヌの膝が、ついに砂地へ落ちた。
ピクシーは実体を保てず、肩口でかすかに明滅している。先ほどまで陽光を散らしていた翅も、今はほとんど見えなかった。
攻撃は、まだ一度も交わされていない。
それなのに、召喚獣が消えかけていた。
「や、めて……」
ミレーヌの唇から、掠れた声が漏れた。
微笑みはもうなかった。砂についた手が震え、目はカイルに縫い止められている。
教官が、辛うじて声を絞り出した。
「そこまでだ……! そこまでにしろ!」
だが、その足は動かなかった。止めなければならないと分かっていながら、結界の内側へ踏み込めずにいる。
セリアはカイルの袖を掴んだ。
指が白くなるほど力を込め、彼を見上げる。
「カイル、もう十分です。……お願い、止めて」
声は震えた。それでも、目は逸らさなかった。
ミレーヌは膝をつき、ピクシーは消えかけている。これ以上続ける理由など、どこにもなかった。
「まだ何もしていないが」
セリアは一瞬、言葉を失った。
カイルは攻撃を仕掛けていない。ただ指輪を外しただけだ。
彼にとっては、本当に「何もしていない」のだろう。その隔たりが、何より恐ろしかった。
「だから……だからこそ、です」
袖を掴む手に、さらに力を込める。
砂地では、ミレーヌの身体が小刻みに震えていた。ピクシーの光は今にも途切れそうに明滅している。
召喚獣が消滅すれば、契約を通じて術者にも反動が及ぶ。最悪の場合、魔力回路そのものが損なわれると、セリアは授業で習っていた。
観覧席で、シオンが手すりを支えに立ち上がった。エレメンタルグレムリンは主人のフードの奥へ潜り込み、姿を見せない。
「……先生。勝敗は決しています。判定を」
いつもの余裕は、その声にはなかった。
教官は弾かれたように顔を上げた。
「し、試合終了! アーデル組の勝利とする! 今すぐ……今すぐ収めろ!」
誰もがカイルを見ていた。
セリアの指は、まだ袖を離さなかった。
「ふん」
カイルは短く鼻を鳴らし、指輪を嵌め直した。
演習場を押し潰していた重圧が、潮が引くように消え去った。
最初に聞こえたのは、誰かが大きく息を吸い込む音だった。
それを合図にしたように、観覧席のあちこちで咳き込む声が上がる。すすり泣く声も混じっていた。手すりにすがりつく者、座席に倒れ込む者。誰もすぐには立ち直れなかった。
ミレーヌは砂地に両手をついたまま、肩で荒い呼吸を繰り返していた。
肩口では、ピクシーがゆっくりと実体を取り戻し始めている。だが、その光は弱々しく、翅の片方は欠けたままだった。
髪は乱れ、制服の膝は砂にまみれている。先ほどまでの余裕は、どこにもなかった。
取り巻きたちが席を立った。だが、砂地の手前で足を止めてしまう。
カイルがまだ、そこにいるからだ。
セリアはようやく袖から指を離した。掴んでいた場所には、皺がくっきりと残っている。
大きく息を吐いてから、カイルを見上げた。
「……ありがとうございます。止めてくれて」
それから、砂地に崩れたままのミレーヌへ目を向ける。
これまで自分をいじめてきた相手だ。恨みがないはずはない。
それでも、苦しげな呼吸を聞いていると、胸の奥が冷たくなった。
セリアは一歩踏み出しかけた。
ミレーヌの肩が、びくりと震える。
その反応を見て、足を止めた。今、自分が近づいても、彼女をさらに怯えさせるだけだった。
教官がようやく砂地へ入り、ミレーヌの傍らに膝をついた。容態を確かめ、取り巻きたちを手招きする。
それからカイルを振り返ったが、すぐには言葉が出てこなかった。
「……アーデル。お前たちは、今日の演習は以上だ。下がっていい」
先ほどまでの力強い声ではなかった。
セリアは小さく頭を下げ、カイルと共に演習場を後にした。
二人の背中を、いくつもの視線が追った。声をかける者はいない。
砂地では、ミレーヌが取り巻きに支えられて立ち上がっていた。その足取りは覚束なく、そのまま医務室へ連れられていった。
* * *
中庭を横切る頃、セリアの歩調が遅くなった。
やがてベンチの前で立ち止まり、糸が切れたように腰を下ろす。
膝の上に教科書を抱えたまま、しばらく何も言わなかった。
袖を掴んでいた指には、まだ力を込めた感覚が残っている。目を閉じれば、砂地に膝をつくミレーヌと、消えかけたピクシーの姿が浮かんだ。
噴水の水音だけが、二人の間を埋めていた。
「カイル。聞いてもいいですか」
セリアは顔を上げなかった。教科書の表紙に視線を落としたまま、言葉を続ける。
「あなたは、何者なんですか。召喚獣なんて器に収まる存在じゃないでしょう。精霊でも、獣でもない。あの圧は……生き物が出していいものじゃなかった」
責めたいわけではなかった。
ただ、知りたかった。
教科書の書き込みを褒めてくれた声も、朝食を食べておこうと言った横顔も、確かに覚えている。その同じ相手が、指輪を外すだけで、あれほどの恐怖を生み出した。
どちらもカイルなのだ。
これからパートナーとして隣に立つのなら、分からないまま目を逸らしてはいけない気がした。
セリアは教科書を抱える手を緩め、ゆっくりと顔を上げた。
風が中庭の木々を揺らし、木漏れ日が彼女の髪を撫でた。
ベンチの周囲には誰もいない。午前の授業が、まだ続いている時間だった。
噴水の水面に映る空は青く澄んでいる。
ほんの数分前まで演習場を支配していた恐怖が、嘘のようだった。




