第2話 カイルという存在
言葉にしたことで、その未来の輪郭がはっきり見えてしまったのだろう。セリアは唇を引き結んだ。中庭の噴水の音だけが、しばらく二人の間を埋めた。
やがてセリアは顔を上げ、無理に笑みを作ろうとして――失敗した。
「だから心配してるんです。あなたのことじゃなくて……ううん、正直に言うと、全部が心配です。あなたがどんな存在かも、これからどうなるかも、私には全然わからないから。」
足元を横切った風が、セリアの髪を揺らす。寮棟の赤煉瓦の壁が、もう手を伸ばせば届く距離に見えていた。
「安心しろ。我がいる限り、主に不快な思いはさせぬ」
カイルは安心させるつもりだったのだろう。だが一歩踏み込んだ彼は、そのままセリアを壁際まで追い込み、逃げ道を塞ぐように片手を赤煉瓦へついた。
セリアの背中が煉瓦の壁に触れ、息が止まった。見上げた先にあるカイルの灰黒色の瞳が、想像していたよりもずっと近い。頬が、耳まで一気に赤く染まっていく。
「ちょ、ちょっと、何を……っ!」
セリアは書類の控えを胸に押し当て、落ち着きなく視線を泳がせた。右を見ても左を見ても、壁につかれたカイルの腕が退路を塞いでいる。
「ふ、不快な思いって、今まさに心臓が止まりそうなんですけど……!」
声は抗議の形をしていたが、怯えの色はなかった。恐怖ではなく純粋な動揺。講堂であの圧を至近距離で浴びた時より、よほど狼狽している。
間の悪いことに、中庭のベンチにいた上級生たちが、そろって二人を凝視していた。Fランクの落ちこぼれが、自分の召喚獣に壁際へ追い詰められている。明日には学園中の噂になっているだろう。
周囲の視線に気づいたのか、セリアの顔がさらに赤くなる。カイルの胸元を書類でそっと押し返しながら、声を潜めた。
「わかりました、わかりましたから……! 人、見てます……!」
その目尻がうっすら潤んでいるのは、恥ずかしさのせいだけではないのかもしれなかった。
「不快な思いはさせない」という言葉を、この少女は今までどれだけ聞きたかったのだろう。
「ふっ……すまなかったな」
カイルが壁から腕を離し、一歩下がった。
壁から解放されたセリアは、その場にしゃがみ込みそうになるのをどうにか堪え、書類を顔の前に掲げた。隠しているつもりなのだろうが、耳の先まで真っ赤なのが丸見えだった。
「……すまなかったで済むと思わないでください……!」
セリアは小さく唸りながら、乱れた髪を指で整えた。それから深呼吸をひとつ、ふたつ。ようやく書類を下ろした顔には、まだ赤みが残っている。
「と、とにかく寮に行きましょう。部屋の鍵を受け取らないと」
二年生寮の入り口は、蔦に覆われた重厚なアーチ門だった。管理人の老婆がカウンター越しにセリアの書類を受け取り、カイルの姿を一瞥して眉を上げたが、何も言わずに鍵を二つ差し出した。
割り当てられたのは東棟の端、日当たりの悪い角部屋だった。Fランクの扱いが如実に表れている。セリアは慣れた様子で廊下を進み、部屋の前で足を止めた。
セリアは鍵を差し込みながら、少し申し訳なさそうに振り返った。
「隣の部屋があなたの部屋です。狭いし、あまり良い場所じゃなくてごめんなさい。」
扉を開けた先には、必要最低限の家具が置かれただけの簡素な部屋が広がっていた。
「構わん。」
カイルが隣の部屋の扉を開けると、中はセリアの部屋と大差なかった。木製の寝台にくたびれた毛布、小さな机と椅子、窓辺に置かれた水差し。壁には染みが浮き、窓から差し込む光もわずかだ。角部屋特有の湿った空気が鼻をついた。
セリアは自室の戸口から身を半分だけ出し、まだ赤みの残る頬のままこちらを窺っていた。先ほどの動揺を完全には振り払えていないらしく、カイルと目が合うと、ぱっと視線を逸らす。
「あ、あの。夕食は食堂で取ることになっています。日が沈む鐘が鳴ったら案内しますので」
それから少し迷うように唇を動かし、付け加えた。
「それと……明日の朝は魔法理論の講義からです。その、教科書は私のものを一緒に見ましょう。召喚獣用の備品申請は、たぶん時間がかかると思うので」
事務的な説明へ逃げ込んでいることが、ありありと伝わる口調だった。それでも、声に含まれる微かな温度は本物だ。ほんの半日前まで一人きりだった学園生活に、初めてパートナーと呼べる存在ができた。その事実を、セリアはまだうまく消化できずにいる。
廊下の向こうから、何人かの生徒が足早に通り過ぎていった。ちらちらとこちらを盗み見ては、ひそひそと囁き合う。噂の速度は、どうやらこの学園では風魔法より速いらしかった。
「ああ、頼む。……それと、さっきの礼を言う。我を対等に扱おうとした、あの態度は悪くなかった。」
それだけ言い残して、自室の扉を閉めた。
扉の向こうで、セリアが小さく息を呑んだ気配がした。それから、ぱたぱたと慌ただしく自室に駆け込む足音。壁越しに聞こえた微かな声は「悪くなかったって何……」という呟きだった。
やがて日が傾き、寮の鐘が低く鳴り響いた。夕食の時間だ。
廊下に出ると、約束通りセリアが自室の前で待っていた。制服を整え直し、髪を結び直している。壁ドンの時の赤みはようやく引いていたが、カイルの顔を見た瞬間、耳の先がまたほんのり色づいた。本人は気づいていないらしい。
廊下に出ると、約束どおりセリアが自室の前で待っていた。制服を整え直し、髪も結び直している。先ほどの赤みはようやく引いていたが、カイルの顔を見た瞬間、耳の先がまたほんのりと色づいた。本人は気づいていないらしい。
セリアは咳払いをひとつして、先に歩き出した。
「食堂はこっちです。混む時間帯なので、少し覚悟しておいてください」
その「覚悟」という言葉の意味は、すぐに分かることになる。
セリアが足を踏み入れた途端、近くのテーブルの会話がぴたりと止んだ。視線がドミノ倒しのように広がり、食堂の半分ほどが沈黙に呑まれる。その視線の先にあるのは、セリアではなくカイルだった。
噂は、もう学園中に行き渡っている。
「注目の的だな、主よ。何かしたか?」
セリアはトレーを手に取りながら、困ったように眉を下げた。
「何かしたのは、私じゃなくてあなたでしょう……」
小声で突っ込みながら、セリアは空いている席を探して食堂の奥へ向かった。だが、長テーブルの端に座ろうとすると、先にいた生徒たちがさりげなく席を詰めて場所を塞ぐ。反対側へ回れば、今度は荷物を置かれた。見慣れた光景なのだろう。セリアの足取りに迷いはなく、最初から食堂の隅にある壁際の小さなテーブルを目指していた。
何でもないことのように言って、椅子を引いた。
壁際のテーブルは二人掛けで、灯りの魔石からも遠い。食堂の賑わいから切り離された、小さな孤島のような場所だった。セリアがここに追いやられてきた日々の長さが、磨り減った椅子の座面に刻まれている。
配膳口でトレーを受け取る際、給仕係の生徒がカイルの顔をじっと見つめ、スープを注ぐ手が震えて少しこぼした。慌てて拭きながら何度も頭を下げるその姿に、食堂のあちこちから忍び笑いが漏れる。
数テーブル離れた席では、ミレーヌが取り巻きに囲まれ、優雅にフォークを動かしていた。彼女はちらりとこちらへ目をやると、にこやかに微笑んだ。
「あら、セリア。いつもの席ね。でも今日はお連れさんがいて、よかったじゃない。」
声は食堂の喧騒を縫って、正確にセリアの耳に届く音量だった。周囲の取り巻きがくすくすと笑う。
セリアのスプーンを握る手に、一瞬だけ力がこもった。それでも何事もなかったかのように、スープを口へ運ぶ。
「お前こそ取り巻きに囲まれて賑やかなことだ」
フォークがピタリと止まった。取り巻きたちの笑い声も、しぼむように消える。ミレーヌの微笑みはそのまま張り付いていたが、目の奥の温度がすっと下がった。
「あら、よく喋る召喚獣ね。躾がなってないんじゃないかしら。」
ミレーヌは軽い調子を崩さないまま、グラスの水を一口含んだ。だが、その指先はグラスの脚をわずかに強く握っている。
食堂の空気が張り詰めた。ミレーヌの取り巻きたちが互いに顔を見合わせ、次の出方を窺っている。ミレーヌ・ヴァイスに正面から皮肉を返す存在が、この学園にいなかったのだ。まして召喚獣の立場から。
セリアはスプーンを持つ手を止め、顔を青くしてカイルの袖をそっと引いた。声は囁きに近かった。
「カイル、あの人は……やめた方が。」
その制止には、経験に裏打ちされた切迫さがあった。ミレーヌに目をつけられるとどうなるか、セリアの身体が覚えているのだろう。
ミレーヌはナプキンで唇を拭い、椅子から立ち上がった。スカートの裾を整えながら、穏やかな足取りで二人のテーブルへ近づいてくる。取り巻きたちも、その左右に従った。
「ねえセリア、あなたの召喚獣さん、まだ学園のルールがわかっていないみたいだから、ちゃんと教えてあげなきゃ。主の責任でしょう?」
テーブルの縁に指先を置き、微笑みを崩さないまま視線をカイルに向ける。その笑顔の裏で何を計算しているのか、表情からは一切読めなかった。
「この学園のルール? 力こそすべてなのだろう?」
カイルは、見せつけるように指輪へ手をかけた。
その指が指輪に触れた。それだけで、食堂の温度が変わった。講堂であの瞬間を体験した二年生たちが、反射的に椅子から腰を浮かせる。トレーが倒れ、食器の砕ける音が響いた。
ミレーヌの微笑みが、初めて揺らいだ。唇の端がぴくりと引きつり、一歩だけ後ずさる。本能が理性よりも先に動いたのだ。取り巻きたちはすでに顔面蒼白となり、互いの腕にしがみついている。
「……何、の、つもり?」
ミレーヌの声が上擦った。Bランクの魔法使いとしての矜持が辛うじてその場に踏み止まらせているが、瞳孔は開ききっている。講堂での出来事は噂でしか聞いていなかった。だが、指輪に触れただけで食堂がこの有様になる現実を前に、噂の方が過小だったと悟ったらしい。
セリアは椅子を蹴るように立ち上がり、カイルとミレーヌの間へ割って入った。
「カイル、お願い……! ここは食堂です、みんながいる場所で、それは……!」
懇願するような声。しかし怯えているのはカイルに対してではなく、この状況が取り返しのつかない方向に転がることへの恐怖だった。
食堂全体が凍りついていた。フォークを握ったまま動けない者、席の下に身を隠そうとする者。まだ指輪は外れていない。外れていないのに、この有様だった。
「ふん、分かっておる」
カイルの手が指輪から離れた。それだけで、食堂に充満していた緊張が一段だけ緩む。だが完全には解けない。皿の割れた破片がまだ床に散らばり、誰も拾おうとしなかった。
セリアは安堵の息を漏らし、力が抜けたように椅子へ座り直した。額に浮いた汗を手の甲で拭いながら、カイルを見上げる。その目には感謝と、「頼むから勘弁してほしい」という訴えが半分ずつ浮かんでいた。
ミレーヌは後退した一歩を、ゆっくりと元へ戻した。乱れかけた呼吸を整え、髪を耳にかけ直す。完璧な微笑みを再構築するのに、数秒を要した。そのこと自体が、彼女にとっては屈辱だったはずだ。
「……そう。わかっているなら、いいのよ。」
踵を返し、自分のテーブルに戻っていく。その背中は優雅だったが、歩幅がいつもより狭いことに取り巻きの一人が気づいて、怯えた目を交わし合った。
ミレーヌが席に着くと、食堂の喧騒がぎこちなく再開した。フォークと皿の音、ぽつぽつと戻り始める会話。だがカイルたちのテーブル周辺だけは、見えない壁で隔てられたように誰も近寄らない。
セリアは、スープが冷めきっていることに今さら気づき、スプーンで静かにかき混ぜた。そして、ぽつりと呟く。
「……初日からこれって、明日からどうなるんだろう。」
その声には疲労と、ほんの少しだけ、笑いに似た響きが混じっていた。
「力こそすべて、というのは分かりやすくてよいな」
セリアはスプーンを口元で止め、複雑そうな顔をした。冷めたスープを一口飲み込んでから、ぽつりと返す。
「わかりやすい、ですか。……そうかもしれませんけど、力がない側からすると、わかりやすく潰されるだけなんですよ。」
自嘲というほど卑屈でもなく、ただ事実を述べるような淡々とした口調だった。食堂の喧騒が戻りつつある中、壁際のテーブルだけが依然として静かだ。
セリアはパンをちぎった。先ほどのミレーヌとのやり取りの余韻がまだ指先に残っているのか、その動きはどこかぎこちない。
「でも、さっきは……ちょっとだけ、気持ちよかったかも。あの人があんな顔するの、初めて見た。」
小さく、本当に小さく呟いて、慌てて自分の口をパンで塞いだ。言うつもりのなかった本音が漏れた、という顔だった。
食堂の反対側では、ミレーヌが水のグラスを傾けていた。喉の渇きを潤すというより、何かを飲み下すような仕草で。取り巻きたちが話しかけても、返事は上の空だ。その視線が時折、壁際のテーブルに向けられる。微笑みの仮面は戻っていたが、その下にあるものが苛立ちなのか恐怖なのか、あるいはその両方なのか、本人にすら判別がつかないようだった。
「まあ、指輪に手をかけるだけで威嚇になるのなら便利なものだ。我がその気になれば、指輪の封印など無視できるからな」
パンを咀嚼する動きが、ぴたりと止まった。ゆっくりとカイルの方を見る。その目が「今さらっととんでもないこと言いましたよね」と雄弁に語っていた。
「……指輪、意味ないんですか。」
セリアは裏返りかけた声を、水で流し込んで誤魔化した。
「じゃあ、さっき私が必死に止めたのは何だったんですか」
壁際のテーブルの会話は誰にも聞こえないはずだったが、セリアはそれでも声を落とした。
食堂に残る生徒たちの視線が、まだ時折こちらを刺すように向けられている。
残りのパンを口に詰め込み、頬を膨らませたままカイルを睨む。怒っているというより、呆れと心配がない交ぜになった表情だった。やがて飲み下してから、ため息をひとつ。
「……お願いですから、そういう情報は小声で言ってください。この学園、壁に耳ありどころか、壁自体が喋りますから。」
比喩ではないらしい。セリアの視線が食堂の壁に埋め込まれた小さな魔石をちらりと示した。監視用ではなく伝声用の古い設備だが、魔法で盗聴に転用できることは上級生なら誰でも知っている。
セリアはトレーを片付けようと立ち上がりかけ、ふと手を止めた。
「カイル。あなたが強いのは、もう分かりました。でも、この学園で怖いのは正面からの力だけじゃないんです」
その言葉の奥に、セリアがこれまで受けてきた目に見えない暴力の記憶が、薄く透けていた。
「知っている。この学園には、陰湿な輩の方が多そうだ。だが安心しろ。我はそのような者の企みなど、真正面から殴り壊す」
セリアの手が一瞬止まり、それから小さな息が漏れた。呆れなのか安堵なのか、本人にも分からないような曖昧な音だった。
「真正面から、ですか。あなたらしいですね。まだ半日しか経っていないのに、『らしい』と言うのも変ですけど」
トレーを返却口に運びながら、肩の力がほんの少しだけ抜けていた。食堂を出る足取りが、来た時よりどこか軽い。
夜の回廊は昼とは別の顔を見せていた。等間隔に灯る魔石の明かりが石壁を橙色に染め、二人の足音だけが反響する。中庭の噴水が月光を受けて白く光り、虫の声が遠くに聞こえた。
寮棟の廊下に戻ると、セリアは自室の前で立ち止まった。
セリアは鍵を取り出しながら、扉に向いたまま、ぽつりと言った。
「カイル。今日はありがとうございました。いろいろと、その……振り回されっぱなしでしたけど」
鍵穴に鍵を差し込む。回す前に、セリアはちらりと肩越しに振り返った。講堂での出会いから、中庭での一幕、食堂でのミレーヌとの対立。初日にしては濃すぎる一日の残滓が、その瞳にまだ揺れている。
「明日の朝、鐘が二つ鳴ったら起きてくださいね。遅刻したら私の評価がさらに下がるので。」
軽口のつもりだったのだろう。だが「さらに」という言葉が口を突いた瞬間、ほんの一瞬だけ表情が翳った。すぐに取り繕うように扉を開け、小さく手を振る。
「おやすみなさい。」
扉が閉まった後、壁越しにかすかな物音。ベッドに倒れ込んだような音がして、それきり静かになった。




