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シリーズ『老いを生きる』  作者: 山谷麻也


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第3話 オーナー


 その1 不審者


 駅から続いていた人の流れが、あちこちのビルに消えて行った。交差点を渡り、狭い道路に入ると、行き交う人はまばらだ。

 小さな公園を抜けて、マンションの前に立つ。山下は会社の鍵を持ってないことに気付いた。

(誰か社員がいるだろう)

 そう言い聞かせて、自分を落ち着かせた。


 出かける入居者がいて、玄関ドアーが空いたのを幸い、山下は入れ違いにマンションに入って行った。


 山下の事務所は七階にある。社員は三人。すべて女性だ。編集プロダクションをやっていて、社員は原稿の入力、校正、テープ起こしなどのデスクワークが中心だ。取材は主に山下の役目である。

 部屋には鍵がかかっていた。山下はブザーを押した。しばらくしてインターフォンを取り上げる音がした。


「はい」

「ボクです」

「どなたですか」

 要領を得なかった。ややあって、ドアーが少し開いた。チェーンロックがかかっている。

「はあ? 何かお間違いじゃないですか。ここは『YOU&I』ですよ」

 確かにドアーの表札は『YOU&I』となっていた。

「ここはボクの事務所でした。あなた方はいつから入っているのですか」

 ドアーを引こうとして、ガチャガチャとチエーンの音がした。

 管理人が呼ばれた。山下は事情を聴くために、管理人室に連れて行かれた。


 その2 仕事人間


「それは何年前のことなんですか」

 管理人は山下より一回りくらい若かった。元サラリーマン風だった。

「二〇年ほど前です。ボクは考えるところがあって会社を社員に譲り、転職しました。最近、よく昔の夢を見るようになり、居ても立ってもいられず、訪ねた次第です」

 管理人は山下の話を熱心に聴いてくれた。


「でも、電話するとか事前に知らせておくべきでしたよね。そうすれば、引っ越し先も分かったでしょ」

 言われてみれば、そのとおりだった。

「いや、ちょっと待ってください。うーん。そうだ。千駄ヶ谷かどこかに引っ越すって、連絡があったような気もします」

 管理人が職業別電話帳で調べてくれた。メモを受け取り、山下はマンションを後にした。


 またヘマをやってしまった。最近、失敗した後で打ちのめされることが多い。

「私も会社が倒産して管理人に転職しました。送別会の夜、山手線の最後尾の車両で、遠ざかる線路を見ながら声を殺して泣きました。それからも、無意識のうちにいつもの駅で降りていたことがあります。仕事人間だったのですね。あなたの寂しさ、身につまされます。目が少し不自由なようですので、大事になさってください」

 管理人の気遣きづかいがうれしかった。


 マンション前の公園でさっきのやりとりを思い出していた。

 事務所のあった部屋を見上げていると、カーテン越しに人が動いているのが、かすかに認められた。かつてのスタッフの姿がダブった。


 その3 すれ違い


 山下が就職した年は石油ショックにより、世の中が騒然としていた。何社か受け、大阪の小さな出版社に決めた。

「ワシの夢は君らの給料を一〇万円にすることや」

 近くの居酒屋で社長は公言してはばからなかった。大卒の平均初任給はとっくに一〇万円をオーバーしていた。


 給料は安かった。仕事が面白く、自己研鑽した。会社は順調に発展し、東京に支社を出すことになった。山下は編集責任者として転勤した。

 社長は相変わらずケチだった。外注単価などについてことごとく文句を言う。社の方針をめぐって対立し、山下は辞職して独立開業した。三三歳だった。


「残念じゃのう」

 社長の最後の一言だった。

 山下も同じ気持ちだった。天職と思った。愛した会社だった。何も好き好んで辞めるわけではなかった。


 大した仕事もないまま、社員を雇った。まともに自分の給料を取った月はなかった。我慢を重ねているうち、クライアントも増え、なんとか回転するようになっていた。


 仕事の内容以外は何も口出しせずにいた。スタッフがスキルを磨いてくれれば、経営は自ずと楽になると思っていたからだ。

 ある夜、取材先から帰ると事務所に明かりがついていた。二時間ちかく経った頃、スタッフたちが談笑しながら戻った。夕食に行っていたのだ。


 九時前後までの残業が常態化していた。健康不安に加え、残業代も大きな負担だった。

「これから残業だと、帰りが遅くなるだろ。何時間、夕食にかけてるの」

 山下は注意した。

「残業時間から(夕食にかかった時間は)引いておきます」

 ある社員はムッとして答えた。

 この意識の違いは容易には埋まらなかった。


 その4 ある予感


 家には四人の子供がいた。家に仕事を持ち帰ることも多く、子育ては専業主婦の妻に任せきりだった。

 子供の数が増えるたび、家が手狭になって引っ越した。通勤時間が次第に長くなり、飲んだ夜などは事務所近くのホテルに泊まることもあった。

 金曜・土曜の二日続けて無断外泊し、日曜に取材を終えて帰宅すると、妻と長男が出かける準備をしていた。

「お父さん! お母さんに謝りなさい」

 息子の声は怒気を含んでいた。

 前日から会社に電話を入れても出ない。「どこかに倒れているのでは」と、心配して探しに行こうとしていたのだった。まだ、携帯電話は普及していなかった。悪い夫、悪い父親だった。


 酒を飲み始めると止まらなかった。腰を据えて飲んだ。終電に間に合わず、店に引き返して飲み直したこともあった。

 知り合いのカメラマンが後年しみじみと語った。

「あのまま飲み続けてたら早死にしてたでしょうね」

 単に酒好きだったのではない。片時でも忘れていたいことがあった。


 予感と言えば、二〇代後半、北陸の印刷会社に校正のために出張した折、スナックのママが山下の手相を見てくれた。

「この人は五〇過ぎに大きな転機が訪れるね」

 山下もそんな気がしていた。

 案の定、四九の時に転職を決断、三年間、専門学校に通い、五二で鍼灸師となった。眼病が判明し、失明宣告されたことがきっかけだった。


 その5 タイムスリップ


 管理人が書いてくれた電話番号にかけてみた。

「その電話番号は現在、使われておりません」

 の繰り返しだった。

(やっと会社のことを忘れられるんだ)

 心のつっかえがひとつ取れた。


 公園を砂塵さじんが吹き抜けていく。嬌声があがった。シートを敷いて弁当を食べているグループがいた。砂埃すなぼこりは山下の目や口も容赦なく襲ってきた。

 埃を払いながら、ふと空腹を感じた。今朝の食事のことは覚えてない。とぼとぼ歩いていると蕎麦そば屋があったので入った。


 ざる蕎麦を待つ間、一杯やろうか迷った。

 酔客がいることが、話の様子から分かった。

「オレはよう、アイツの正体、知ってんだよ。アイツは百均に入ってやがったんだぜ」

 近くを通り、そんな店がオープンしたことは知っていた。時間があれば寄ってみようと考えていた。冷や水を浴びせられた思いだった。


「まったくよう、となりのオヤジなんか、この春、就職した娘のボーナスがテメエのボーナスより多かったんだってさ。三〇年つとめてこのザマだぜ。今日きょうび、サラリーマンなんかやってられねえよな」

 これについては同感だった。長年勤めた社員は報われない。

 毎夜、乱舞している男女がいることもニュースが報じていた。山下は映像に眉をひそめた。

(こんな時代に、うちのスタッフはよく勤めてくれているな)

 山下の偽らざる心境だった。


(ボクは生まれた時代が悪かったのかな)

 山下は自嘲した。

 何げなく飲み物を口に運び、むせそうになった。日本酒を注文していた。


 店員が掃除を始めた。休憩時間に入るらしい。客は山下だけになっていた。

 蕎麦屋の前に小さな神社があった。どうしようもない睡魔に襲われ、境内のベンチに横になった。

 少し風が出てきた。ずいぶん時間が経ったみたいだった。


 携帯が鳴っている。

「お父さん。さっきからかけてるのに、なんで出ないの。今どこなの」

 妻だった。

「どうして、そんなところにいるのよ。まわりに何が見える?」

 遠くにぼんやり高層ビルが見える。新しくできたビル群が視界をさえぎってはいても、見間違えるはずがない。高層ビルは拘置所跡に建てられたものだ。山下の事務所はその横のマンションに入っていた。

「分かった。そこから動かないでね。二時間くらいで行くから」

 妻は迷い人を探す名人になった。


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