第2話 囚われの身
その1 遊興費
夫が入院してから、洋子は昼間ずっと一人である。
部屋には鍵がかかっている。平日の昼間は部屋から出たことがない。室内には小さな冷蔵庫とポータブルトイレがあるだけだ。
長年住み慣れた家を出たのがいつだったか、もう忘れてしまった。
洋子が結婚したのは二二歳だった。高校を卒業して地元のバス会社に勤めていた。二つ年上の夫は水道屋の職人だった。洋子は結婚退職し、会社が忙しい時だけバスガイドとして現場に出た。
家計に余裕があり、よく外食した。日曜には時間を持てあまし、夫婦してパチンコに通い始めた。
夫の実家からは
「子供ができたら金がかかるぞ。遊ぶ金があるのなら貯金しておけ」
と口酸っぱく言われた。
洋子は適当に聞き流していた。義父母は世間体も気にしていたのだろう。
長男、長女が年子で産まれた。アパートが狭くなり、引っ越すことになった。洋子の実家から頭金の半分を出してもらい、建売を買った。義父母には資金援助のことを内緒にしてもらった。
夫婦は子育てに追われ、パチンコどころではなくなってきた。
娘が中学校にあがるまでは、洋子は仕事を辞め、主婦業に専念した。
娘の中学の入学用品を買いにショッピングセンターに行った時だった。横にパチンコ屋があった。軍艦マーチが流れていた。洋子は衝動を抑え切れなかった。
かれこれ一三年ぶりのパチンコだった。夫に話すと、今度は一緒に行こうということになった。
娘が中学生になり、洋子は再就職した。金回りがよくなったこともあって、夫婦はまたパチンコ屋通いを始めた。
「パチンコで財を成した人間はおらんぞ」
と言うのが義父の口癖だった。
「生活費はちゃんと取ってます」
洋子は義父母の心配を解消することに努めた。
「先々のことも考えな。息子は国民年金やし、洋子さんだって受け取る厚生年金はわずかだろ」
聞き飽きていた。
家に帰り、夫に話した。
「お前はアホか。先々のことは分からんやろ。その時はその時や」
夫の信条だった。できれば、義父の前で言ってほしかった。
その2
玄関の開く音がした。娘が帰った。娘は市役所の臨時職員をしている。
長男は高卒、娘は短大卒である。子供たちが都会に就職し、夫婦ふたりの生活に戻った。ホッとしたのも束の間、娘は一年も勤めないうちに帰ってきた。しばらく派遣をやり、結婚して市役所に入った。
長男はおとなしい子だった。娘は夫に似て、細かい配慮に欠け、ズケズケとものを言うタイプだった。
夫は若い頃、何度もケガをした。仕事を引退してからは内臓の病気を患い、寝ていることが多くなった。
体が自由にならないうっぷんを、夫は洋子に晴らした。口が悪いだけでなく、近くの物を手あたりしだい投げつけた。内容物の入った尿瓶をぶつけられたこともあった。
夫婦そろってパチンコに行ったことが嘘のようだった。
義父の指摘は現実のものとなった。
夫が完全に仕事から退くと、蓄えは瞬く間に尽きた。夫の病院費用も重くのしかかってきた。水道光熱費が銀行口座から引き落とされてない月もあって慌てた。洋子は細かいやりくりが苦手だった。
見かねて、娘が同居を言い出した。夫は渋々同意した。洋子は気乗りがしなかった。
「なに考えとるん。誰やって棲み慣れた家がええよ。けんど、そんなことは、ちゃんと電気代や水道代を払うてから言うて」
娘は鼻で笑った。
「時々はボクがクルマで連れて帰ってあげるよ」
と娘の夫は取りなした。
尻込みしている本当の理由は言えなかった。洋子のストレスがまたひとつ増えた。
その3 ショッピング
娘の家に移った当初、洋子は家事全般を手伝っていた。
ふたりのキャッシュカードは娘に渡してあった。年金が振り込まれると、娘が病院代などを引き出してきていた。
家族が増え、冷蔵庫がすぐいっぱいになる。洋子たちのおやつや飲み物などを入れる小型冷蔵庫を買うことになった。
娘の夫が量販店からカタログをもらってきた。
狭い食卓の上で三人が頭を突き合わせ、冷蔵庫を選んでいた。洋子も見たくなって顔を近づけた。
「お前はええの。あっちに行ってな」
夫が邪険に洋子を払いのけた。
「お母さんは見たって、分からんやろ」
娘が追い打ちをかけた。
娘が出勤する前、お金を渡して、買い物の指示をした。
新しい町にも慣れ、商店街をぶらつく余裕もできた。娘の家にいるよりも、外に出ている方が気楽でよかった。
しきりに人が出入りしている場所があった。近づくと、なつかしい音楽が聴こえてきた。パチンコ屋だった。
入るには少し勇気が要った。しかし、パチンコ台に向かって、流れ落ちる玉を追う誘惑には勝てなかった。幸い、財布には買い物の釣銭があった。
娘に釣銭のことを訊かれた。
口ごもっていると
「落としたんだわ。しっかりしてよ。まだボケる年じゃないやろ」
いつもの娘だった。
夫も舌打ちしていた。
パチンコは止められなかった。
何度となく娘に叱られた。いよいよ洋子の認知症が進んできたと、娘は思い込んでいた。
結局、娘が勤めの帰りに買い物をしてくることになった。
夫はテレビばかり観ていた。昼間、洋子が何をしているか関心がないようだった。洋子は金も持たず、商店街をぶらついた。
突き当りにJRの駅があった。貼ってある観光ポスターを見て回る。知っている観光スポットばかりだった。
特急から客が降りてきた。改札が混雑している。洋子はすり抜けて構内に入った。汽車に乗れると思うとわくわくした。
たまたまワンマンの普通列車が停まっていた。
終点は無人駅だった。降りようとして運転手に切符を求められた。
洋子は同じ汽車で始発駅に戻り、駅員に引き渡された。
連絡を受けた娘は役所を早退して迎えにきた。夫も娘夫婦もあきれ返っていた。
「もうひとりでは出かけるな。分かったな」
夫から言い渡された。以来、夫の監視の目が光るようになった。
その4 禁じられた遊び
夫がウトウトしていた。リビングの食器棚の引き出しに、娘が生活費を仕舞ってあった。洋子は千円札を手提げに入れた。
洋子はそっと玄関のドアを開けた。行き先は商店街だった。洋子はパチンコ屋に直行した。
フィーバーした。店員がドル箱を持ってきてくれた。
家に帰ると、夫は起きていた。厳しく問い詰められ、黙っていると足蹴りにされた。病人とは思えない衝撃だった。
娘にも怒られると思うと、ますます気が滅入った。しかし、夫は昼間の出来事を報告しなかった。監督責任を問われるとでも思ったのだろう。
次の日も洋子は出かけた。前日の儲けはすべて吐き出してしまった。トボトボ家に帰った。夫に暴力を振るわれることは覚悟していた。夫は起きたばかりだった。洋子が抜け出したことに気付いていなかった。
娘が夫を呼び出した。洋子には聞かせたくない話なのだろう。洋子がテレビを見ていると、夫が部屋に戻るなり、洋子の頭を張った。
「お前、引き出しの金、盗ったのか。何に使うたんや」
洋子は無言を通した。
夕食の後、娘夫婦と夫は椅子にかけたままだった。娘が話を切り出した。
「今度こんなことがあったら、私、お母さんのこと、もう知らんからな。お兄ちゃんのところでもどこでも、行ってもらうからな」
ほかの二人は黙っていた。
その夜、娘はだれかに長電話をしていた。洋子のことをあれこれ告げていた。
その5 厄介者
夫の病状が悪化し、入院することになった。
洋子をどうするか、三人で相談していた。小声でも話は漏れてきた。
「施設に入れるか」
「お兄ちゃんは『ワシだって、家族がおる。そっちでなんとかしろ』の一点張りよ」
「ワシが退院してくるまで、一時的に預かってくれるところはないかなあ」
「ボケとっても引き受けてくれるかなあ」
決まったようだった。
「それしかないか。ポータブルトイレをリースしているところ、どこか探してくれ」
部屋に戻り、夫は話し合いの結果を説明し始めた。妙に優しい口調だった。
洋子にはすでに話が呑み込めていた。
(この部屋に閉じ込められるのか。もう、どうにでもしてくれたらええわ)
ぼんやり隅の冷蔵庫を見ていると、いきなり夫にビンタされた。
「聞いとるのか!」
大声に、娘夫婦が慌てて飛んできた。
その6 脱出行
洋子は朝食後の歯磨きをしていて、思わず鏡をまじまじと見つめた。
白髪の老婆が写っていた。
「あんた、だれ?」
老婆も同じことを言ったみたいだった。
(まさか…)
洋子は自分の髪に手をやり、前髪を透かして見た。自慢の黒髪が真っ白になっていた。
娘夫婦が出勤した後、座椅子を使って部屋のドアを壊した。リビングの引き出しから小銭をかき集め、外に出た。初乗り運賃分だけ買ってホームに行くと、特急が停まっていた。発車ベルに急かされ、乗り込んだ。
行き先はどこでも良かった。娘の家から一刻も早く、一歩でも遠くへ逃げたかった。
特急がスピードをあげた。景色が飛び去る。めまいを覚え、洋子は窓ガラスに焦点を合わせた。黒髪のバスガイドが右拳を顔に近づけ、熱唱していた。




