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シリーズ『老いを生きる』  作者: 山谷麻也


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第1話 職員会議


 その1 消えた職場


 地下鉄車両のテールライトが遠ざかり、轟音も闇に吸い込まれた。

 ホームにあふれた通勤客も上の改札口に消えていった。


 吉岡にとって、通い慣れた通勤路だった。

 階段を上って地上に出て、吉岡は降りる駅を間違えたことに気付いた。

 年と共に、階段がきつくはなっていた。若い者に追い越される。

 上り切って、大きく息を吸い込むと、眼前に職場のビルがそびえていた。一二階建て、いつも屋上に校旗をひるがえし、周囲の建物を見下ろしていた。気を取り直し、一階の事務室に入って行ったものだ。


 そのビルがなかった。

 吉岡のショックは大きかった。引き返そうとして、煙草屋の看板が目に止まった。馴染みの店だった。

 煙草屋のとなりには古本屋があった。この店も昼休みによく利用した。

 吉岡は植え込みのふちに腰を降ろした。

(間違いなく、ここだ)


 改めて、眼前のビルを見上げた。

 明らかに普通のオフィスビルだった。そのたたずまいは、吉岡が長年勤めた専門学校のそれとは明らかに違っていた。優に二〇階は超えている。それでも回りと比べると、低い方だった。高層ビルに埋もれていた。


 その2 ヘビースモーカー


 毎朝、煙草を買っていた。

 職場では禁煙ムードが高まり、愛煙家の吉岡は肩身の狭い思いをしていた。

 大学時代は煙草なら何でも良かった。友達が買うとねだった。毎度のことなので、後ろめたい気持ちがなかったわけでない。


 働き始めてから

「せめて煙草は自分の好きなものにしよう」

 と両切りのショートピースを吸い始めた。家では缶ピースだった。

 胸いっぱいに煙を吸い込み、ティッシュペーパーに吐きつけると、黄色いヤニが付く。痛快だった。もう軽い煙草は吸えなくなっていた。


 さしものヘビースモーカーも、妻を肺がんで亡くし、きっぱり禁煙した。しばらくは喫煙している夢を見た。夢の中で意志の弱い自分を叱っていた。禁断症状ともいうべき時期が過ぎると、今度は煙草の匂いが鼻に付いた。


 煙草屋の前を通りかかり、チラッと中を(のぞ)いた。背中が曲がってはいるものの、なつかしい店主の顔があった。

 吉岡は近づいてショートピースを注文した。一瞬、店主は吉岡の顔を見た。今ではこんなにきつい煙草を吸う者などめずらしくなったのだろう。吉岡とは気付かなかった。


 その3 跡継ぎ


 古本屋に入った。

 奥に座っていたのは中年の男だった。

 ウィークデーの午前中、店に客はいなかった。吉岡は文芸書のコーナーで足を止めた。


 先代の店主はいつも帳簿か何かを繰っていて、客が入ると眼鏡越しに入り口をうかがった。

 文芸書に詳しかった。めずらしい作家の書名を伝えても

「確か、××堂さんにあったはずだ」

 と親切に電話してくれた。

 客のことを第一に考えていた。古書店街はこうした店主によって支えられていた。


 見るともなく何冊かの本に目を通していると、店主が奥から出てきた。

「何かお探しですか」

「いや、ちょっと通りかかったものですから。昔、この店によく寄りましてね。先代はどうされてますか」

 店主は吉岡を奥に(いざな)った。


「親父は五年前に亡くなりました。私はサラリーマンをしていたのですが、退職して跡を継ぎました。まあ、古本屋としては駆け出しです」

 言われてみれば、確かに親子の感じがした。

「少し伺いたいのですが、裏にあった専門学校はどうなりましたか」

 

 その4 教え子


「いや、ね。あそこで長年お世話になったものですから」

 吉岡は言い添えた。

「やっぱり、吉岡先生でしょ。私ね、夜間部で先生の授業、受けたことあります」


 吉岡の担当は簿記だった。

 昼間の課程は高校新卒が中心だった。夜間部は税理士試験や簿記検定を目標に、近くの大学とのダブルスクール生や商店主などで熱気に包まれていた。

 全国にその名声がとどろき、簿記の名門とされた専門学校だった。


「分からないものですね。あんなに人気のあった学校がつぶれるなんて」

「つぶれた?」

 吉岡は訊き返した。


「ええ、かれこれ二〇年あまり前になるでしょうか。ライバルの専門学校が増えたのと、OA(Office Automation)化、まあ今流にいえばIT(Information Technology)化に対応できなかったのも一因でしょうか。歴史のある学校ほど、方針の転換はむずかしいようですね。私なんかガキのころから知ってる学校なもんで、寂しい限りですよ」

 店主は大きくため息をついた。

「先生はよくこのあたりにおいでですか。今日は何かのご用ですか」

 吉岡は答えた。

「今日、職員会議があったような気がしましてね。仕方がない。家に帰ります。それはそうと、昔からやってる店はほかにないですか」

 いぶかしむ店主に別れを告げ、吉岡は教えられたコーヒー店に向かった。


 その5 語り部


 軒の低い店だった。近づくと、コーヒーの香りが漂っている。

 奥に先客が二名いた。

 吉岡は入り口のそばのテーブルに座った。

 中年の女店員が水とメニューを持ってきた。無意識にポケットのショートピースに手が行きかけ、思いとどまった。

 吉岡はモカを注文した。


 夜の授業に出る前、よく時間を潰した喫茶店だった。

 煙草で煙る狭い店内に、いつもジャズが流れていた。吉岡はここでライオネル・ハンプトン(Lionel Hampton 一九〇八~二〇〇二年)やルイ・アームストロング(Louis Armstrong 一九〇一~一九七一年)を知った。


「大奥さんはお元気ですか」

 吉岡は女店員に声をかけた。

 店員がカウンターに入り、呼んでいる。

「お母さん。ちょっと、ちょっと」


 出てきたのは、間違いなくあのママさんだった。

 吉岡の話に、大奥さんは体を前後に揺らしながら聞き入っていた。


「へえ。大昔の話じゃねえか。ママもずいぶん長く人間やってんだね」

 客のひとりが無遠慮に割り込んできた。

洟垂(はなた)れが、なに言ってんだよお。昔の人の苦労なんかちっとも知らねえくせに」

 ママはやり込めた。

「けど、この界隈(かいわい)で空襲の体験者はわたしだけになっちっまったね。煙草屋のヨシちゃんが死んじまったからさ」

「ママ。ヨシちゃん殺しちゃ、かわいそうだよ。今朝も店に出てたぜ」

 客の二人が笑った。


 その6 帰り道


「なんだ先生やってたのかい。このあたりも、すっかり変わっちまっただろ。で、お客さんは今どこに住んでんだい」

 客に話しかけられ、吉岡は相手をするのが面倒になってきた。適当に答えて、勘定をお願いした。

 金額に驚く。吉岡が通っていたころはこんなに高くなかったはずだ。ショートピースと言い、コーヒーと言い、今日は出費がかさむ。

「九州か四国か知らねえが、これから新幹線に乗るのだったら、着くのは夜じゃねえのかい。若くねえんだからよう、気を付けてな」

 店員が客をたしなめていた。


 確か背広のポケットに新幹線の切符を入れたはずだった。

 以前にもこんなことがあった。あの時はまだ切符を買っていなかった。ずいぶん探していて思い出した。

 今回もおそらく買ってないのだろう。とりあえず東京駅に急ぐことにした。

 運よく、通りかかったサラリーマンがいた。

「東京駅はあっちだけど。おじいさん、いくらなんでも、歩いて行くのは無理だよ。タクシー、止めてやろうか」


 礼を言って、吉岡は教えられた方角へ歩き始めた。

 迷ったのか何時間も歩いた。そのうち、サッチモの『この素晴らしき世界』( What a Wonderful World)をハミングしていた。ご機嫌だったのだ。


 派出所の前で声をかけられた。

「四国へ帰るって。おじいさん、名前とか住所とか分かるものは持ってないの? 四国のどこ? 家族はいないの?」

 四国というのは、今日だれかに言われた言葉を思い出しただけだ。四国には行ったこともない。

住まいがどこだったか忘れた。妻が待っていることだけは、確かだった。

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