幕間 異世界の少女 後編
顔と頭の猛烈な痛みで、カザネは意識を取り戻した。
体が思うように動かない。
どうやらベッドに寝ているらしいことだけは、わかった。
手も足も、鉛が入ったかのように重たい。
そして何よりも、顔に違和感。
目を開けているつもりが、激痛が走るばかりで開けられない。
重い腕をなんとか動かしてみる。右手が顔に届いた…はずだが、布の感触にびくりとする。
鼻から上、すべてに包帯が巻かれていた。
「あ…え…っ…」
舌までがカラカラに乾いていて、言葉にならない。
そこで、唐突に右手を握られた。
「カザネ!カザネ!」
母の声だった。
「わかる!?ああ…カザネっ…」
嗚咽を漏らしながら泣く母に圧倒されながら、カザネはどこか他人事のように感じていた。
なんだろうこれ、ドラマみたい。
母に呼ばれた看護師が、痛みの場所や吐き気の有無などを聞いていく。
集中できないまま、カザネは答えた。
その中で、少しずつ気づいてしまう。
ああ、私はもう走れないんだ。
ー『この目はもう、何も見えないのだ』と。
病院での生活が、1か月を過ぎた頃。
カザネのもとにようやく訪れた人物がいた。
双子の兄の、ハルヒだった。
来ているのはわかっている。
ベッドサイドの丸椅子に座っている気配を、カザネは感じ取っていた。
しかし、ただの一言も話そうとしない。
包帯で覆われたままの顔に、視線が向いているような気がした。
本当はもう取ってもいいと言われている包帯。
顔に大きくついた傷を晒したくなくて、いまだにしていた。
「ばーか」
沈黙を破ったのは、カザネだった。
「ハルヒらしくないよ?なにやってんの!」
おどけた口調で、努めて明るく話す。
「ハルヒは、おバカだけが取り柄でしょ?もう、これだから私のこと好きすぎるやつは困るなぁ」
「……」
「あ、なんかお土産もってきてくれた?まさか手ぶら?ないない!可愛い妹のお見舞いだよ?」
「……」
「え、ちょっとまじでハルヒだよね?
やだ不安になっちゃうじゃん、なんか喋ってよ」
「ごめん」
ハルヒが絞り出すように言った。
流れる、沈黙。
「なんで謝るの」
「ごめん」
「ばか…」
もう光を映さない目にも涙は流れるのを、この1か月で嫌というほど知った。
それでも、まだ涙は枯れないらしい。
「ハルヒ」
ひとしきり泣いた後、カザネは言う。
「私ね、ハルヒと双子で良かったよ」
ずっと涙を我慢していたハルヒも、この言葉に限界がきた。
それでも男の意地というやつで、涙声にならないように努めた。
「ばか。お前がそんなこと言うなよ。
兄貴を泣かせようとすんなばーか。泣かねえし」
「そこはアホっていうところなんじゃないの?
言葉も戻ってるみたいですけど?」
「知らんわアホ」
慌ててエセ関西弁にしようとするハルヒがおかしくて、カザネは久々に笑った。
「ありがとうハルヒ」
「おう、任せとけ」
じゃあ、また来るからな。
そう言って病室を出ようとしたハルヒを、カザネが引き留めた。
「ねえ」
「ん?」
「今ハルヒの髪、何色?」
一瞬、ハルヒが息を飲む。そしてすぐに笑顔で返した。
「世間はもう梅雨やし?青空色にしてん!」
「何よ、青空色って」
言いながら、もう青空を見ることもないんだ、とカザネの心に影がさす。
そんなカザネの様子に気づいて、ハルヒはカザネの頭を乱暴に撫でた。
「ちょっ…それやめてよっ」
髪が乱れるから、ハルヒがこの撫で方をすると、いつもカザネに怒られていた。
もっとも、ベッドでの生活が長くなった今では、整った髪型などキープできていなかった。
ハルヒは、ふと窓に自分達の姿が写っていることに気づいた。
顔の半分を隠し、ベッドで体を起こした妹と、ボサボサの白髪のハルヒが映っていた。
根本だけが黒く、事故からの時間を刻んでいるようだった。
すっ、と目を逸らし、ハルヒが立ち上がる。
「怒る元気もあるみたいやし、俺帰るわ」
「うん、またね」
ハルヒを見送ってから、カザネはベッドに体を預けて、目を閉じた。
開いていないのかもしれない目を、閉じるというのも変な話だが、なんとなくそういう感覚があるのだ。
「あーあ…走りたい…」
言いながら、眠りについていた。
眠りに落ちる、という表現は、今のカザネにとっては、しっくりこない。
カザネにとっては、夢の世界だけが、明るく開けた唯一の場所だった。
眠りに上がる、と言ってもいいぐらいだと、カザネは思う。現実のほうが、よっぽど落ちる場所だった。
カザネは、森の中に立っていた。
背の高い木々に覆われてはいるが、とても明るい。
足元には色とりどりの花が咲き、木々の緑も鮮やかだ。
僅かに見える空は、秋の空のように高く青く、澄んだ色をしていた。
「青空色ってあんな感じかな…相変わらず派手だなぁハルヒは」
学校で怒られないのかな、と呟いて、自分の口角が上がっていることに気づく。
いつのまにかニヤニヤしてしまっていた。
「まぁいいか、夢だし」
森の中を歩き進んでいるうちに、無性に走りたくなってきた。
木の根や花が地面のあちこちを占拠して、走るスペースなどない。
カザネは、おかまいなしに走る準備を始める。
ストレッチをして、深呼吸をする。
夢だからストレッチなんていらないのだが、カザネにとって走る前の儀式のようなものだ。
そして心の中で呟く。
いちについて、よーい…
ドンッで走り出す。
踏まれたくないものは、全部残らず道を開けろ!
そう思うだけで、障害物はすべてカザネを避けた。
カザネがこの夢を見たのは3回目。
夢だという認識があって、自由に操れる。
自分の体も、実に軽い。
道なき道も、川の上も、空だって走れる。
風の音を道連れに、カザネはぐんぐんスピードを上げる。
やがて、小さな湖にたどり着いた。
森の真ん中に、ぽっかりできた湖。
そのほとりに、人影が見えた。
夢の中だと、カザネの視力は驚くほど良い。
人影は、外国の少女のようだった。
プラチナブロンドの長い髪と、瑠璃色の瞳。
透き通るような白い肌と、どんな女優やアイドルにも負けないような、美しい顔立ち。
そして青空や湖の色にも負けない、とびきり綺麗な水色のドレス。
現実世界ではきっと、近寄ることなんてできない。
でもこれは、カザネの見る夢だった。
カザネは、スピードをゆるめて近づく。
「素敵なドレスね」
驚いたようにカザネを見る少女。
「ごめんね、驚かせちゃったかな」
少女は、ふわりと微笑む。
「大丈夫よ、カザネちゃん」
「え?」
「素敵な夢ね」
少女はそう言って、またふわりと微笑んだ。




