第八話 この時代は自販機はエコじゃないけど、よく冷える
社長室の資料棚が、限界を迎えていた。
いや、資料棚だけではない。
机の上も、椅子の横も、床も、俺の精神も、だいたい限界だった。
取次会議のメモ。
協力店候補。
まるマ平台展開案。
ケロロ軍曹の盗難報告。
フルメタル・パニック!既刊在庫。
Amazon商品情報の確認リスト。
書店別消化率。
返品率。
棚位置。
店員所感。
万引きによる在庫差異。
そして、佐伯が赤ペンで直した説明文。
ある日突然、魔王になりました。
この一文だけが、やたら強い。
俺の書いた、
検索導線におけるシリーズ認知優位性は、紙の上で完全に死んでいた。
死因は、硬すぎること。
妥当である。
「篠宮さん」
三浦が、紙袋を抱えて社長室に入ってきた。
最近この男は、紙袋を抱えて現れる頻度が高い。
もはや営業局の人間というより、資料を運ぶ妖怪である。
「追加です」
「何の」
「協力店候補の店別メモです。大町課長から」
「ありがとうございます」
「あと、相沢さんから伝言です」
「何でしょう」
「『平台に出した。盗られたら怒る』だそうです」
「現場感のある伝言ですね」
「怖いですよね」
「正しいです」
三浦は紙袋を置き、机の上の惨状を見た。
「……篠宮さん、これ全部見るんですか」
「見ます」
「倒れますよ」
「昨日も言われました」
「みんな言うってことは、けっこう危ないんですよ」
「判断を保留します」
「便利に逃げた」
逃げた。
だが、逃げる場所がない。
社長室直轄の試験運用案。
最初は三作品だけのはずだった。
それが、いつの間にか取次、書店、Amazon、万引き、棚位置、公式サイト、検索文言、既刊併売まで広がっている。
おかしい。
俺は未来知識で改革をするはずだった。
なぜ平成十三年の社長室で、ケロロ軍曹の万引き被害とまるマの平台文言を同じ紙に並べているのか。
人生、分からない。
いや、死後かもしれないが。
「三浦さん」
「はい」
「眠いです」
「ついに認めましたね」
「事実です」
「じゃあ休みましょう」
「休む前に資料を見ます」
「休む気ないじゃないですか」
正論だった。
俺は赤ペンを置いた。
手が少し冷えている。
いや、冷えているというより、力が抜けている。
午後七時半。
社長は外出。
小早川は役員会食の手配で不在。
真鍋は編集部で修羅場。
佐伯は新レーベル準備で捕まっている。
社長室に残っているのは、俺と三浦だけだった。
「コーヒーを買ってきます」
三浦が言った。
「いえ、私が」
「篠宮さんは座っててください」
「座ると寝ます」
「じゃあ一緒に行きましょう」
なぜそうなる。
だが、身体を動かした方がいいのは確かだった。
俺は立ち上がる。
ヒールには、だいぶ慣れてきた。
慣れたくなかったが、慣れてきた。
篠宮怜子の身体は、今日も仕事に適応している。
中身は、まだ時々置いていかれる。
*
廊下の奥に、自販機があった。
白い蛍光灯の下で、やたら明るい。
缶コーヒー。
お茶。
炭酸飲料。
スポーツドリンク。
栄養ドリンク。
そして、全部が妙に存在感を放っている。
未来のオフィスにも自販機はあった。
だが、この時代の自販機は、何か違う。
音がする。
低く、ずっと唸っている。
冷やしている。
全力で冷やしている。
省エネだの、節電だの、控えめ運転だの、そういう顔をしていない。
俺は缶コーヒーのボタンを押した。
がこん、と音がした。
取り出し口から缶を出す。
「冷たっ」
思わず声が漏れた。
冷たい。
かなり冷たい。
未来のコンビニの冷蔵棚より、ずっと乱暴に冷えている気がする。
エコじゃない。
絶対にエコじゃない。
だが、よく冷えてる。
むかつくくらい、よく、冷えている。
「この時代の自販機、殺意ありますね」
三浦が缶コーヒーを取り出しながら言った。
「同感です」
「篠宮さんもそう思います?」
「はい。エコではありませんが、性能は認めます」
「何の評価ですか」
「冷却性能です」
三浦は笑った。
俺は缶を頬に当てた。
冷たさで、少しだけ頭が戻る。
紙と煙草と蛍光灯の世界。
CRTモニターの熱。
コピー機の匂い。
冷房の効きすぎた会議室。
そして、冷えすぎた缶コーヒー。
平成十三年のオフィスは、いちいちエネルギーの使い方が荒い。
未来の俺なら文句を言っていただろう。
電気代。
環境負荷。
非効率。
そういう言葉を並べたかもしれない。
だが、今の俺は缶を頬に当てたまま、少しだけ救われている。
人間は勝手だ。
「篠宮さん」
「はい」
「さっきの万引きの件、台帳に入れるんですか」
「入れます」
「売上資料に?」
「売上資料ではありません。作品別統合管理台帳です」
「同じように聞こえます」
「違います」
俺は缶を開けた。
ぱき、と音がする。
「売上だけを見るなら、万引きは数字の外に落ちます。在庫差異として処理されるか、現場の損失で終わる。ですが、作品が届く道を見るなら、万引きも周辺情報です」
「盗まれてるのに?」
「はい」
俺は缶コーヒーを一口飲んだ。
甘い。
苦い。
冷たい。
「盗まれた本は、売れていません。でも、欲しがられています」
三浦は黙った。
「その欲しがられ方は、許されません。店を傷つけます。著者にも出版社にもお金が入りません。次の棚を細らせます」
「はい」
「ですが、単に売れていないと扱えば、もっと見誤ります」
俺は自販機の明かりを見た。
「欲しいという感情は、綺麗な形だけで現れません」
言ってから、自分の言葉に少し嫌気が差した。
転売厨だった俺が言うと、どんな言葉も自分に返ってくる。
欲しいから盗む。
欲しいから高く買う。
欲しいから買い占める。
欲しいから怒る。
欲しいから待てない。
需要は、正義ではない。
ただ、そこにある熱だ。
熱は、放っておくと人を燃やす。
「篠宮さん」
三浦が缶を持ったまま言った。
「たまに、すごく嫌そうな顔しますよね」
「何に対してですか」
「自分が言ったことに」
俺は返答に詰まった。
三浦は困ったように笑った。
「いや、変な意味じゃなくて。篠宮さん、正論言ったあとに、自分で刺されてるみたいな顔するんで」
「正論は、使い方を間違えると鈍器です」
「また硬いことを」
「事実です」
「でも、篠宮さんは自分にも当ててる感じがします」
この男、営業のくせにたまに余計なところを見る。
いや、営業だから見るのか。
人の表情。
迷い。
言葉の裏。
現場を回る人間は、そういうものを拾う。
「三浦さん」
「はい」
「転売厨は、本泥棒よりマシだと思いますか」
「またそれ聞くんですか」
「確認です」
「確認が重いんですよ」
三浦は缶コーヒーを飲み、しばらく考えた。
「法律的には、万引きの方が駄目でしょうね」
「はい」
「でも、感情的には、転売もかなり嫌です」
「理由は」
「欲しい人の前に立つからです」
短い答えだった。
だが、刺さった。
「万引き犯は棚から持っていく。転売は棚の前に立って、欲しい人より先に取って、後で高く売る。どっちも嫌ですけど、転売は“買ってるからいいだろ”って顔をする分、腹が立つかもしれません」
何も言えなかった。
その通りだったからだ。
未来の俺は、まさにそういう顔をしていた。
定価で買っている。
ルール違反ではない。
需要があるから価格が上がる。
欲しい人が買っている。
市場原理だ。
そうやって、いくらでも言い訳できた。
だが、棚の前にいた誰かの視界を塞いでいたことは、たぶん事実だった。
「ただ」
三浦は続けた。
「転売する人も、最初からそうだったわけじゃない気もします」
「どういう意味ですか」
「本当に好きで買ってた人が、途中から相場を見るようになることもあるんじゃないですか。好きだったものが、値段に見えるようになるというか」
俺は缶を握る手に力を入れた。
冷たい。
痛いくらい冷たい。
「あるでしょうね」
「篠宮さん?」
「一般論です」
「便利ですね、一般論」
「はい」
三浦はそれ以上、踏み込まなかった。
ありがたかった。
この男は、踏み込む場所と踏み込まない場所を知っている。
だから営業なのだろう。
自販機の唸る音だけが、廊下に残った。
*
社長室に戻ると、机の上の資料が少し減っていた。
いや、減っていない。
小早川が種類ごとに並べ替えてくれていた。
神か。
いや、秘書課の先輩である。
紙束の上に付箋が貼ってある。
怜子さんへ
顔が死ぬ前に水を飲むこと。 小早川
隣にミネラルウォーターが置いてあった。
神である。
三浦がそれを見て笑った。
「愛されてますね」
「監視されています」
「似たようなものです」
「違います」
「そうですか?」
違う。
たぶん違う。
いや、少し似ているかもしれない。
篠宮怜子には、心配してくれる人がいる。
航。
小早川。
三浦。
真鍋は刺してくる。
社長は地雷に投げる。
佐伯は赤ペンで俺の文章を殺す。
相沢は盗られたら怒ると言う。
大町は棚の現実を教える。
榊原は取次の限界を示す。
久我は甘く見るなと釘を刺す。
人が増えている。
味方というにはまだ遠い。
だが、ひとりではない。
未来の六畳ワンルームには、段ボールしかなかった。
今の社長室には、紙と缶コーヒーと面倒な人間関係がある。
どちらがマシか。
即答はできない。
だが、少なくとも、こちらの方が眠れない理由は多い。
俺は資料に向かった。
「三浦さん」
「はい」
「今日中に、協力店別の確認項目を作ります」
「今日中に?」
「はい」
「明日じゃ駄目ですか」
「明日は仮称企画の閲覧があります」
「ゲームとアニメのやつですか」
「はい」
「仕事、増えすぎじゃないですか」
「増えました」
「誰が増やしたんですか」
「私です」
「自覚あるなら止まりましょうよ」
「止まると忘れます」
三浦は少しだけ真面目な顔になった。
「何を」
「今日見た棚です」
相沢の目。
盗まれたケロロ軍曹。
まるマの平台。
棚の前で足が止まる読者。
盗んだ少年の震えた肩。
全部、時間が経つと資料になる。
資料になると、温度が落ちる。
落ちた温度は、会議で扱いやすくなる。
だが、扱いやすくなった瞬間、何かを落とす。
「温度があるうちに、紙にします」
三浦はしばらく黙った。
「分かりました」
「ありがとうございます」
「ただし、十時までです」
「はい?」
「十時で切ります。篠宮さんが帰らないなら、私も帰れないんで」
「帰って構いません」
「そう言う人が一番帰らないんです」
三浦は時計を見た。
「十時で切ります」
「……承知しました」
「いたしました、じゃないんですね」
「社内ですが、命令されたので」
「変な使い分けですね」
俺もそう思う。
*
午後九時五十五分。
協力店別確認項目の初版ができた。
作品名
店舗名
棚位置
平台有無
併売既刊
書店向け説明文
初回配本
追加注文
返品
在庫差異
万引き疑い
店員所感
読者反応
Amazon商品情報確認
それに、公式導線の有無
三浦が紙を見て、顔をしかめた。
「重いですね」
「はい」
「でも、見たいことは分かります」
「ありがとうございます」
「ただ、これ全部を毎回やるのは無理です」
「はい」
「だから、必須項目と任意項目に分けましょう」
俺は三浦を見た。
「今、あなたが改善案を出しましたか」
「出しました」
「素晴らしい」
「怖い褒め方しないでください」
三浦は赤ペンを取り、項目の横に丸をつけた。
「必須は、作品名、店舗名、棚位置、平台有無、併売既刊、追加注文、店員所感。万引き疑いは、書ける時だけ。Amazonは社長室側で見ればいい。公式導線も、こっちじゃなくて篠宮さん側ですね」
「なるほど」
「現場に書かせすぎると死にます」
「はい」
「死なせないための台帳なんですよね」
俺は少し黙った。
死なせないための台帳。
作品を。
棚を。
書店を。
編集者を。
営業を。
読者を。
そして、もしかすると俺自身を。
「そうです」
俺は言った。
「たぶん」
「たぶん?」
「まだ確定していません」
「判断保留ですか」
「はい」
三浦は笑った。
午後十時。
俺たちは資料をまとめ、社長室を出た。
廊下の自販機は、まだ唸っていた。
白く光っている。
エコじゃない。
だが、よく冷える。
俺はもう一本、冷たい缶コーヒーを買った。
「まだ飲むんですか」
三浦が呆れた顔をした。
「持って帰ります」
「寝られなくなりますよ」
「もう魔王に負けているので誤差です」
「駄目です」
三浦は俺の手から缶を取り上げた。
「はい?」
「これは明日です」
「私が買ったものです」
「明日飲んでください」
「三浦さん」
「何ですか」
「あなた、最近かなり遠慮がなくなっていませんか」
「篠宮さんが倒れると、私の仕事が増えるので」
「合理的ですね」
「はい」
そう言って、三浦は缶コーヒーを自分の鞄に入れた。
没収された。
俺は社長室の氷点下と呼ばれているらしい女である。
その女が、営業の若手に缶コーヒーを没収されている。
組織の力学が分からない。
*
部屋に着いたのは、午後十一時を少し過ぎた頃だった。
マンションの廊下は静かだった。
蛍光灯が白く、床に細い影を落としている。
篠宮怜子の身体は、鞄から鍵を出す動作にも慣れている。
鍵を差し込む。
回す。
扉を開ける。
そこで、俺は固まった。
部屋の明かりがついていた。
人の気配がある。
カレーの匂いがした。
「……は?」
声が漏れた。
冷たく整った女の声。
ただし中身は完全に不審者を見つけた男である。
玄関に、見覚えのある大きなスニーカーがあった。
青い歯ブラシ。
冷蔵庫のメモ。
電話の声。
さっちゃん。
全部が一瞬でつながった。
桐生航が、先に家にいる。
合鍵。
持っているのか。
そりゃ歯ブラシがあるのだから、可能性はあった。
だが、可能性と現実は違う。
俺はまだ、この身体で恋人と同じ部屋にいる覚悟などできていない。
いや、永遠にできないかもしれない。
「さっちゃん?」
台所の方から声がした。
若い男の声。
明るい。
普通。
日常の声。
それが、今の俺には爆弾だった。
「おかえり。遅かったね」
航が顔を出した。
シャツの袖をまくり、手にはお玉。
完全に家の人間だった。
この部屋に慣れている。
台所の位置も、食器の場所も、調味料の場所も知っている顔だ。
俺は玄関で動けなかった。
まずい。
かなりまずい。
仕事なら誤魔化せる。
社長室なら、篠宮怜子の身体が勝手に動く。
会議なら、数字で刺せる。
編集部なら、観測対象と言えばなんとかなる。
取次なら、血管と体温計で乗り切れる。
だが、これは無理だ。
恋人が家でカレーを作っている。
そんな状況に対応するテンプレートを、俺は持っていない。
「……なぜ」
ようやく出た言葉がそれだった。
航は少し眉を寄せた。
「なぜって、今日遅くなるって言ってたから。ご飯作っとこうと思って」
「合鍵」
「持ってるよ」
「持っている」
「うん」
航は首を傾げた。
「大丈夫? 本当に疲れてる?」
大丈夫ではない。
合鍵を持った年下彼氏が、自宅に先にいて、カレーを作っている。
しかも俺は、その年下彼氏との距離感を知らない。
篠宮怜子の身体は知っているかもしれない。
だが、俺は知らない。
「問題ありません」
「問題ある時の返事だ」
また読まれた。
航はお玉を置き、玄関まで来た。
「顔、白いよ」
近い。
近い。
距離が近い。
電話や喫茶店の向かい席とは違う。
玄関の狭い空間で、航がこちらを覗き込んでいる。
篠宮怜子の身体が、わずかに緊張した。
俺の精神はもっと緊張した。
心臓がうるさい。
肩に触れられそうになった瞬間、俺は反射的に一歩下がった。
航の手が止まった。
その顔が、少しだけ傷ついた。
しまった。
やった。
完全にやった。
「……さっちゃん?」
声が変わった。
明るさが少し消えている。
俺は喉を鳴らした。
言い訳。
何か言い訳を。
体調不良。
仕事疲れ。
寝不足。
どれも使いすぎている。
だが、他にない。
「すみません」
自然に、敬語が出た。
航の顔がさらに曇った。
「謝るようなことじゃないけど」
「……疲れているだけです」
「そう」
航は一歩引いた。
距離を取った。
助かった。
助かったはずなのに、胸が痛んだ。
この男は、俺ではなく篠宮怜子を心配している。
俺が距離を取れば、傷つくのは航だ。
同時に、傷つけられるのは篠宮怜子の生活でもある。
俺は他人の身体だけでなく、他人の関係性まで借りている。
その重さが、急に来た。
「カレー、食べられる?」
航が聞いた。
「はい」
「じゃあ、着替えてきなよ。温め直しておくから」
「……ありがとう」
その言葉だけは、自然に出た。
航は少しだけ笑った。
だが、さっきより弱い笑いだった。
*
着替えは、今日一番の難所になるかと思った。
だが、意外とそうでもなかった。
いや、難所ではある。
篠宮怜子の身体に慣れたとは言え、慣れていいのか分からない問題は残っている。
それでも、部屋の外に航がいるという事実の方が、はるかに強かった。
俺は部屋着に着替え、化粧を落とす前に鏡を見た。
篠宮怜子が、疲れた顔でこちらを見ている。
目元が少し硬い。
口元も硬い。
仕事用の顔ではない。
ただ、戸惑っている顔だ。
「悪い」
小さく言った。
誰に向けたのかは分からない。
篠宮怜子か。
航か。
それとも、この状況に放り込まれている俺自身か。
分からない。
リビングに戻ると、テーブルにカレーが置かれていた。
白い皿。
スプーン。
水。
サラダまである。
生活力が高い。
年下彼氏、かなり強い。
「冷めるよ」
「いただきます」
「いただきます、は言うんだ」
「言います」
「そりゃそうか」
航は向かいに座った。
喫茶店と同じ向かい席。
だが、違う。
ここは家だ。
逃げ場が少ない。
俺はカレーを一口食べた。
うまい。
普通にうまい。
家庭の味、というほど懐かしいわけではない。
だが、疲れた身体に入る。
温かい。
今日の自販機の缶コーヒーは、冷たかった。
航のカレーは、温かい。
どちらも、今の俺を少しだけ救っている。
腹立たしい。
「おいしいです」
俺が言うと、航は少し目を丸くした。
「敬語だけど、そこは素直なんだ」
「事実です」
「そっか」
航は水を飲んだ。
「今日、何があったの」
来た。
たぶん避けられない。
「書店で、本泥棒を見ました」
航の表情が変わる。
「万引き?」
「はい」
「そっか」
俺はカレーを見た。
湯気が上がっている。
「ケロロ軍曹でした」
「カエル……」
「はい」
「篠宮さんが言ってた、売れるカエル?」
「はい」
「盗られるカエルでもあったんだ」
「そうです」
航は黙った。
軽い冗談になりそうな言葉だったのに、ならなかった。
それがありがたかった。
「転売厨と本泥棒は、どちらがマシだと思いますか」
俺は聞いた。
また聞いている。
今日だけで何度目だ。
だが、今は航に聞きたかった。
航はスプーンを置いた。
「また重いことを」
「確認です」
「確認じゃないと思う」
「はい」
航は少し考えた。
「本泥棒は、駄目だよ。店から盗んでる。店も出版社も作者も傷つく」
「はい」
「転売も嫌だよ。買ってはいるけど、欲しい人の前に立つ。しかも、高く売るために立つ」
「はい」
「どっちがマシかって言われたら、法律の話と感情の話で変わると思う」
「感情では」
「どっちも嫌」
まっすぐだった。
逃げがない。
「でも」
航は続けた。
「本泥棒も、転売する人も、本が嫌いだからやってるわけじゃないんだろうなとは思う」
俺は顔を上げた。
「欲しいんだよね。たぶん。読みたい。持っていたい。得したい。儲けたい。人より先に欲しい。いろんな欲しいが混ざってる」
「はい」
「欲しいって気持ちは、たぶん悪くない。でも、通る道を間違えると最悪になる」
通る道。
今日、俺が何度も考えたことだった。
届く道。
壊れる道。
盗む道。
高く売る道。
普通に買う道。
同じ欲しいから始まっても、行き先が違う。
「さっちゃんが作ろうとしてるのは、普通に買える道でしょ」
航は言った。
「盗まなくていい。高く買わなくていい。探せば見つかる。棚に行けばある。そういう道」
「……たぶん」
「たぶん?」
「まだ、そこまで綺麗なことを言っていい人間か分かりません」
言ってしまった。
航がこちらを見る。
しまった。
これは篠宮怜子の言葉ではない。
俺の言葉だ。
元転売厨の言葉だ。
航は黙っていた。
怒ってはいない。
ただ、見ている。
「さっちゃん」
「はい」
「最近、そういう言い方するよね」
心臓が冷えた。
「そういう?」
「自分が悪いことをしてきたみたいな言い方」
やばい。
かなりやばい。
俺はスプーンを置いた。
カレーの匂いが、急に遠くなる。
「仕事で、そういう事例を考える機会が増えただけです」
「本当に?」
航の声は優しかった。
だから余計に逃げづらい。
「はい」
「そっか」
航は、それ以上追及しなかった。
優しい。
だが、それが一番きつい。
「俺さ」
航は、自分の皿を見ながら言った。
「Amazon好きだけど、全部Amazonになればいいとは思ってないよ」
「はい」
「書店も好きだし。棚で知らない本に会うのも好きだし。誰かに本を貸すのも好きだし。妹が友達に貸して、その子が買いに行くのも、なんかいいと思う」
「はい」
「でも、探しても見つからないのは嫌だ」
その言葉は、強かった。
「欲しいと思った時に、どこにもないのは嫌だ。だからAmazonはすごいと思った。だけど、Amazonだけになったら、今度は出会う場所が減る気がする」
航は顔を上げた。
「だから、両方あればいいんじゃないかって思うんだよね。探せる場所と、出会える場所」
探す本と、出会う本。
それはもう、航の中では言葉になっている。
この男は、未来の怪物を好きでいながら、未来の怪物に全部を渡す気はない。
厄介だ。
本当に厄介だ。
そして、ありがたい。
「航」
「うん」
「今日、あなたの言葉を使いました」
「体温計?」
「はい」
「うまくいった?」
「血は出ませんでした」
「何の話?」
「取次です」
「ああ」
航は笑った。
「体温計、役に立った?」
「腹立たしいくらいに」
「よかった」
その笑顔に、少しだけ肩の力が抜けた。
俺はカレーをもう一口食べた。
温かい。
家に人がいるというのは、こんな感じなのか。
未来の俺は、帰宅しても部屋にあったのは段ボールだけだった。
今は、カレーがある。
航がいる。
青い歯ブラシがある。
それは救いのようで、同時に大ピンチだった。
なぜなら、この距離は誤魔化しきれない。
いつか必ず、俺が篠宮怜子ではないことに触れる。
いや、もう触れ始めている。
「さっちゃん」
「はい」
「今日、泊まらない方がいい?」
俺は固まった。
スプーンが止まる。
来た。
核心。
合鍵。
歯ブラシ。
スニーカー。
カレー。
つまり、そういう距離の関係。
俺は、答えなければならない。
泊まるなと言えば、航は傷つく。
泊まれと言えば、俺の精神が死ぬ。
どちらも地雷。
仕事の地雷より、はるかに個人的で、逃げ場がない。
「……今日は」
声が少し掠れた。
航は静かに待っていた。
急かさない。
優しさがつらい。
「今日は、一人で寝たいです」
言った瞬間、部屋が静かになった。
航は少しだけ目を伏せた。
「うん」
短い返事だった。
「分かった」
「すみません」
「謝らなくていいよ」
「ですが」
「体調悪いんでしょ」
「……はい」
「なら、寝た方がいい」
航は笑った。
明るくしようとしている笑いだった。
それが、胸に刺さった。
「片づけたら帰る」
「いえ、私が」
「座ってて」
「ですが」
「さっちゃん」
航の声が少し強くなった。
「座ってて」
俺は黙った。
「……はい」
航は皿を片づけ始めた。
台所に立つ背中を、俺は見ていた。
この男は、篠宮怜子の日常の中にいる。
俺は、その日常を壊しかけている。
いや、もう壊しているのかもしれない。
転生初日から、会社だけでなく私生活まで地雷原である。
なろう系主人公なら、もう少し都合よく好感度が上がるのではないか。
現実はそうはいかない。
人間関係は、数字より扱いが難しい。
*
航は本当に片づけをして、帰る準備をした。
玄関で靴を履く。
俺は少し離れて立っている。
近づきすぎるのが怖い。
離れすぎるのも、たぶん傷つける。
距離感が分からない。
「さっちゃん」
「はい」
「鍵、置いていった方がいい?」
また核心。
合鍵。
この部屋に航が入れる理由。
篠宮怜子が渡した信頼の形。
俺が勝手に奪っていいものではない。
「いえ」
俺は言った。
「持っていてください」
航が少し驚いた顔をした。
「いいの?」
「はい」
「でも、今日は一人がいいんでしょ」
「今日は、です」
自分で言って、少し驚いた。
これは誰の言葉だ。
俺か。
篠宮怜子か。
分からない。
航は、少しだけ笑った。
今度は、さっきより自然だった。
「分かった」
彼は鍵をポケットに戻した。
「じゃあ、今日は帰る」
「はい」
「ちゃんと寝て。魔王禁止」
「努力します」
「それ、怪しい」
「善処します」
「もっと怪しい」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
航は扉を開けた。
出ていく直前、振り返る。
「お疲れ、さっちゃん」
その言葉に、今日はうまく返せなかった。
喉の奥で何かが詰まった。
「……ありがとう」
ようやく、それだけ言った。
扉が閉まる。
鍵の音。
廊下の足音。
遠ざかる。
部屋に静けさが戻った。
カレーの匂いだけが残っている。
俺は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。
*
机に戻ると、資料の横に航が置いていったメモがあった。
さっちゃんへ
明日の朝も食べられるように冷蔵庫に入れておいた。
缶コーヒー飲みすぎ禁止。
あと、本は探してる人に届いた方がいい。
でも、さっちゃんもちゃんと帰ってきた方がいい。 航
最後の一文で、完全にやられた。
帰ってきた方がいい。
それは、仕事から家へという意味だろう。
だが、今の俺には別の意味にも見えた。
篠宮怜子が、篠宮怜子として帰ってくる。
航の知っているさっちゃんが帰ってくる。
その日が来るのか、俺には分からない。
俺は、この身体にいる。
この生活に入り込んでいる。
この人間関係を借りている。
そして、少しずつ慣れている。
それが一番怖かった。
俺はメモ帳を開いた。
今日の業務メモの下に、一行書く。
欲しい、は綺麗な形だけで現れない。
もう一行。
帰る場所も、綺麗な形だけで残っているとは限らない。
書いてから、意味が重すぎて消したくなった。
だが、消さなかった。
缶コーヒーは三浦に没収された。
魔王は枕元にある。
カレーは冷蔵庫にある。
青い歯ブラシは洗面台にある。
この時代の自販機はエコじゃないが、よく冷える。
だが、今日の部屋は冷えなかった。
人がいたからだ。
それが救いなのか、罰なのかは分からない。
ただ一つだけ、はっきりしている。
会社の改革より先に、俺は篠宮怜子の人生を壊さない方法を考えなければならない。
平成十三年五月。
紙の帝国の外側で、俺は初めて、仕事ではない地雷を踏みかけた。
しかもその地雷は、カレーを作って待っていた。




