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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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9/21

第九話 同僚に壁ドンされて、先輩秘書に押し倒された梅雨の走り

 五月の終わりの東京は、まだ梅雨ではない顔をしていた。


 だが、空気はすでに湿っている。


 朝から曇天。


 駅のホームには、傘を持つ者と持たない者が半々。


 湿気を含んだ風が、スカートの裾と紙袋の角を同じように揺らしていた。


 紙の帝国にとって、湿気は敵である。


 紙が反る。


 ゲラが波打つ。


 コピー用紙が詰まる。


 資料の端がふやける。


 そして、俺の前髪も微妙に負ける。


 篠宮怜子の髪は、仕事用に整えれば整う。


 整うのだが、湿気には勝てない。


 人間も紙も、湿度の前では平等だった。


「……梅雨、まだですよね」


 会社へ向かう道で、小さく呟いた。


 声は冷たく整っている。


 内容は天気への愚痴である。


 昨日の夜、航が家にいた。


 カレーを作って待っていた。


 合鍵を持っていて、自然に台所に立っていた。


 俺はそれに完全に動揺し、距離を取り、傷つけかけ、しかし鍵は返してもらわなかった。


 あの判断が正しかったのか、今も分からない。


 篠宮怜子の生活を壊したくない。


 だが、俺が篠宮怜子でない以上、何をしても壊している気がする。


 仕事の地雷は、まだいい。


 会議で踏めば爆発する。


 爆発すれば対処できる。


 だが人間関係の地雷は、湿気みたいにじわじわ来る。


 気づいた時には、紙が反っている。


     *


 社長室に着くと、小早川がいた。


 朝から完璧だった。


 髪も崩れていない。


 襟も乱れていない。


 化粧も湿気に負けていない。


 人類としての格が違う。


「怜子さん」


「おはようございます」


「寝た?」


「寝ました」


「ベッドで?」


「はい」


「一人で?」


 俺は固まった。


 朝一番でそこを刺すな。


「……はい」


 小早川は、俺の顔を数秒見た。


 何かを察した顔だった。


 怖い。


 この人は、たぶん秘書というより検問である。


「航くん、来てたのね」


「なぜ分かるのですか」


「顔」


「顔面管理は本日まだ未調整です」


「そういう話じゃない」


 小早川はため息をついた。


「喧嘩した?」


「していません」


「じゃあ、距離を取った?」


 鋭い。


 鋭すぎる。


 俺は答えなかった。


 小早川は、それを肯定と受け取ったらしい。


「怜子さん」


「はい」


「仕事で疲れている時に、恋人を業務外リスクとして処理しないこと」


 刺さった。


 かなり刺さった。


「処理していません」


「してる顔よ」


「顔に出ますか」


「出てる。昨日よりはマシだけど」


 小早川は、俺の前髪を少し整えた。


「航くんは、あなたの生活にいる人でしょ」


「……はい」


「生活にいる人を、急に会議室の外部参加者みたいに扱われたら傷つくわよ」


 ぐうの音も出ない。


 いや、出せない。


 篠宮怜子の顔で、ぐうと言うわけにもいかない。


「留意します」


「留意じゃなくて、ちゃんと考える」


「はい」


「あと」


「はい」


「今日は湿気で顔が崩れやすいから、昼に直す」


「承知いたしました」


「それは仕事っぽく返すのね」


 小早川は呆れたように笑った。


 その笑顔は、昨日の航の笑顔より少し遠い。


 だが、同じくらいありがたかった。


     *


 午前の予定は、仮称企画の閲覧だった。


 鷹取が持ってきた、ゲーム、アニメ、出版を同時に走らせる次世代複合企画。


 まだ正式な名前はない。


 だが俺は知っている。


 これは、未来でひとつの形式になる。


 ゲームとアニメと小説と漫画が、最初から互いを補完する。


 作品世界が、媒体の外へ広がる。


 そして読者は、読むだけではなく、見る、遊ぶ、調べる、語る、つながる。


 未来の地獄と希望が、薄い企画書の中に折り畳まれている。


「篠宮さん、こちらです」


 鷹取は会議室ではなく、映像部の奥の小部屋に案内した。


 湿気のせいか、机の上の紙が少し波打っている。


 コピー機の熱と、窓の外の重い空気。


 紙が嫌がっている。


 俺も嫌がっている。


 鷹取はファイルを置いた。


「持ち出し不可です」


「承知いたしました」


「複写不可」


「はい」


「読んだ内容を、社長室の台帳項目に反映するのは可」


「ありがとうございます」


「ただし、言葉を選んでください」


「最近よく言われます」


「でしょうね」


 鷹取は笑った。


 ファイルを開く。


 そこには、まだ粗い企画の骨があった。


 架空のネットゲーム。


 現実と仮想。


 プレイヤー。


 事件。


 アニメで見せる側面。


 ゲームで体験させる側面。


 書籍で補完する側面。


 読者と視聴者とプレイヤーを、同じ作品世界の違う入口へ誘導する設計。


 俺はページをめくる手を止めた。


 これは、紙の企画書ではある。


 だが、紙の外を向いている。


 書店の棚ではなく、画面の向こう。


 雑誌の読者だけでなく、ゲーム機の前のユーザー。


 そして、そのさらに先にいる、ネットで語る人間たち。


「危険ですね」


 俺は言った。


「また危険ですか」


「はい」


「やめた方がいい?」


「いいえ。必ずやるべきです」


 鷹取は満足そうに笑った。


「昨日も似たようなことを言ってましたね」


「危険なものほど、早く管理すべきです」


「管理」


 鷹取の目が少しだけ鋭くなる。


「作品を管理しすぎると、つまらなくなる」


「同意します」


「本当に?」


「はい。ですが、媒体同士の接続を管理しないと、面白さが届く前に迷子になります」


 俺は企画書を指で押さえた。


「この企画は、媒体ごとに入口が違います。どこから入っても作品世界にたどり着ける必要がある。逆に、どこから入っても何を見ればいいか分からない状態になると、脱落します」


「ずいぶん読者に親切ですね」


「未来の読者は、不親切に厳しいです」


 言ってから、しまったと思った。


 また未来だ。


 鷹取は黙って俺を見た。


「篠宮さん」


「はい」


「あなたは未来という言葉を、比喩として使うには頻度が高い」


 心臓が一拍遅れた。


「癖です」


「面白い癖だ」


「褒めていませんね」


「半分は褒めています」


「半分は?」


「警戒しています」


 鷹取はファイルを閉じた。


「この企画、社内でも全員が理解しているわけではありません。むしろ、理解されないまま走る可能性がある」


「属人運用になります」


「そうです」


「では、台帳に入れます」


「また台帳か」


「はい」


 俺はメモを取る。



 次世代複合企画

 媒体別入口

 体験順序

 公式情報整理

 ゲーム・アニメ・出版の相互誘導

 脱落ポイント

 語られる場所



 最後の一行を書いて、手が止まった。


 語られる場所。


 未来では、それがSNSになる。


 掲示板になり、ブログになり、レビューになり、動画になり、切り抜きになり、炎上になる。


 二〇〇一年には、まだその速度はない。


 だが、芽はある。


 掲示板。


 個人サイト。


 ファンページ。


 攻略サイト。


 同人。


 メールマガジン。


 人は、作品を読んだあと、誰かに話したくなる。


 その場所が、作品の寿命を変える。


「篠宮さん」


 鷹取が言った。


「顔が怖い」


「通常運転です」


「いいえ。今日は少し違う」


「湿気のせいです」


「便利ですね、湿気」


「はい」


 鷹取は笑わなかった。


 その代わり、少しだけ声を落とした。


「無理をしているなら、休んだ方がいい」


 この会社の人間は、どうして俺をすぐ休ませようとするのか。


 俺が休まない顔をしているからだ。


 たぶん。


「ご心配ありがとうございます」


「仕事で潰れる人間を、何人も見ています」


 軽い言葉ではなかった。


 映像部。


 締切。


 外部会社。


 予算。


 納期。


 放送枠。


 この人も、この人なりの地獄を見ている。


「潰れないようにします」


「それで潰れなかった人間を見たことがない」


 また言われた。


 俺は返答を保留した。


     *


 小部屋を出たところで、三浦と鉢合わせた。


 三浦は紙袋を抱えていなかった。


 珍しい。


 代わりに、傘を持っている。


「篠宮さん」


「三浦さん」


「雨、降ってきました」


 窓の外を見る。


 細い雨が降っていた。


 梅雨の走り。


 舗道が黒く濡れ、遠くのビルが少し霞んでいる。


 紙の帝国の天敵が、ついに空から来た。


「資料、濡らすとまずいですね」


「はい」


「これ、持ちます」


 三浦が俺のファイルに手を伸ばした。


「自分で持てます」


「持てますじゃなくて、持ちます」


「なぜ」


「篠宮さん、さっきからふらついてます」


「ふらついていません」


「ふらついてます」


「湿気です」


「便利ですね、湿気」


 今日二回目だ。


 俺は少しだけ苛立った。


 いや、苛立ったというより、焦った。


 全員に見られている。


 小早川にも、鷹取にも、三浦にも。


 航にも。


 篠宮怜子ではない俺が、少しずつずれているのを見られている気がする。


「問題ありません」


 言って、歩き出した。


 その直後だった。


 廊下の角で、足が滑った。


 雨で濡れた誰かの靴跡。


 ヒール。


 湿気。


 寝不足。


 全部が見事につながった。


 視界が傾く。


 やばい。


 そう思った瞬間、腕を掴まれた。


 身体が引かれる。


 背中が壁に当たる。


 どん、と音がした。


 三浦の手が、俺の肩の横の壁についていた。


 距離が近い。


 かなり近い。


 顔が近い。


 廊下の白い蛍光灯。


 雨の匂い。


 濡れた床。


 そして、営業の若手に壁際で支えられている社長室秘書。


 壁ドンである。


 いや、これは壁ドンではない。


 事故防止である。


 労災未遂である。


 少女漫画ではない。


 安全確保である。


「大丈夫ですか」


 三浦の声が近い。


「……問題ありません」


「問題ある時の返事ですよね、それ」


「流行らせないでください」


「流行ってません。篠宮さんが多用してるだけです」


 正論だった。


 俺は視線をそらした。


 三浦の手は、まだ壁についている。


 距離が近い。


 篠宮怜子の身体は少し固まっている。


 俺の精神も固まっている。


 昨日は航。


 今日は三浦。


 人との距離が近いイベントが多すぎる。


 なろう系にしても、もう少し段階を踏むべきではないか。


「三浦さん」


「はい」


「離れてください」


「あ、すみません」


 三浦が慌てて一歩引いた。


 その顔が、少し赤い。


 こちらもたぶん赤い。


 いや、篠宮怜子の顔が赤いかどうかは分からない。


 分からないが、頬が熱い。


 湿気のせいだ。


 絶対に湿気のせいだ。


「すみません、咄嗟に」


「助かりました」


「本当に大丈夫ですか」


「はい」


「嘘ですね」


「判断を保留します」


「それ、便利すぎます」


 三浦は小さく息を吐いた。


 そして、俺の手からファイルを奪った。


「持ちます」


「三浦さん」


「これは持ちます。壁ドン二回目は困るので」


「その言葉を使わないでください」


「壁ドンって言うんですか、今の」


 しまった。


 二〇〇一年の男に未来の語彙を渡してしまった。


「忘れてください」


「無理です」


「機密です」


「何の機密ですか」


「未来の」


 三浦が変な顔をした。


「篠宮さん、たまに本当に未来から来たみたいなこと言いますよね」


 心臓が止まりかけた。


 俺は無表情で答えた。


「比喩です」


「便利ですね、比喩」


 便利だ。


 だが、だんだん足りなくなっている。


     *


 その場面を、小早川に見られていた。


 最悪である。


 廊下の向こうに、小早川が立っていた。


 傘を持ち、資料を抱え、完璧な顔でこちらを見ている。


 だが、目だけが笑っていない。


「怜子さん」


「はい」


「化粧室」


「今ですか」


「今」


 三浦が、あからさまに視線を逸らした。


 逃げるな。


 いや、逃げていい。


 この場に残ったら巻き込まれる。


「三浦さん、ファイルを社長室へ」


「はい」


 三浦はものすごい速さで去っていった。


 営業、逃げ足が速い。


 小早川は俺の腕を掴んだ。


「小早川さん」


「何」


「私は大丈夫です」


「大丈夫な人間は廊下で壁に打ちつけられない」


「打ちつけられたのではなく、支えられました」


「似たようなもの」


「違います」


「行く」


 連行された。


     *


 化粧室に入ると、小早川は鍵をかけた。


 怖い。


「座って」


「はい」


 素直に座った。


 逆らう気力がなかった。


 小早川は俺の顔を見て、ため息をついた。


「寝不足。湿気。疲労。あと、たぶん精神的な何か」


「最後が曖昧です」


「曖昧なものが一番面倒なの」


 小早川はポーチを開け、俺の前髪を直し始めた。


 手つきが速い。


 容赦がない。


「三浦くんと何かあった?」


「何もありません」


「壁際で?」


「転倒防止です」


「近かったわよ」


「事故です」


「顔が赤い」


「湿気です」


「便利ね、湿気」


 三回目。


 今日は湿気が働きすぎている。


 小早川は化粧を直しながら、低い声で言った。


「怜子さん」


「はい」


「あなた、自分の身体を道具みたいに扱ってる」


 手が止まった。


「仕事に使う。会議に使う。正論を通すために使う。疲れても、倒れそうでも、まだ動くから動かす」


 小早川の目は鏡越しに俺を見ていた。


「そういう顔をしてる」


 俺は何も言えなかった。


 正解だったからだ。


 この身体は俺のものではない。


 そう思っている。


 だから逆に、道具のように使っている。


 篠宮怜子の美人顔。


 冷たい声。


 秘書としての所作。


 人を黙らせる無表情。


 それらを、改革のために使っている。


 俺は、この身体を借りている。


 借り物なら大事にすべきなのに、俺は仕事の道具にしている。


「すみません」


 声が出た。


 小早川が、少しだけ目を細めた。


「私に謝ることじゃない」


「では、誰に」


「自分に」


 違う。


 俺の身体ではない。


 そう言いかけて、止まった。


 言えない。


 言えるわけがない。


 小早川は俺の肩に手を置いた。


「少し横になりなさい」


「ここでですか」


「医務室に連れていくと話が大きくなる」


「では、どこで」


「秘書課の休憩室」


「仕事が」


「寝る」


「ですが」


「寝る」


 目が怖い。


 小早川は俺を立たせ、秘書課の奥にある小さな休憩室へ連れていった。


 ソファが一つ。


 毛布。


 小さな棚。


 誰かの予備ストッキング。


 胃薬。


 頭痛薬。


 秘書課の裏側は、戦場の救護所だった。


「横になって」


「小早川さん」


「いいから」


 肩を押された。


 俺はソファに倒れ込む形になった。


 押し倒された。


 先輩秘書に。


 ただし、色気はない。


 完全に労務管理である。


 なろう読者が期待する展開ではない。


 いや、期待している読者はたぶんいない。


「三十分」


 小早川が毛布をかけた。


「三十分だけ寝なさい」


「資料が」


「三浦くんが持って行った」


「社長が」


「私が言う」


「小早川さん」


「何」


「強いですね」


「あなたが弱ってるだけ」


 返す言葉がなかった。


 小早川は少しだけ声を柔らかくした。


「怜子さん」


「はい」


「昨日、航くんと何かあったなら、今日考えない方がいい」


 心臓が揺れた。


「なぜ」


「疲れている時に、大事な人との距離を決めないこと」


 小早川は、昨日と同じように正しいことを言う。


 正しいことは鈍器だ。


 俺が言った言葉だ。


 そして今、それで殴られている。


「大事な人」


 俺は小さく繰り返した。


「違うの?」


 違う。


 俺にとっては違う。


 だが、篠宮怜子にとっては違わない。


 航は、篠宮怜子の生活にいる。


 合鍵を持っている。


 カレーを作って待っている。


 帰ってきた方がいい、とメモに書く。


 それは、たぶん大事な人だ。


「……分かりません」


 俺は言った。


 小早川は、それを聞いても驚かなかった。


「じゃあ、分からないまま寝なさい」


「いいんですか」


「今決めるよりずっといい」


 そう言って、小早川は部屋の明かりを少し落とした。


 雨の音が聞こえる。


 細い雨。


 梅雨の走り。


 紙を湿らせ、人の距離を狂わせる雨。


「三十分後に起こします」


「はい」


「起きなかったら一時間」


「それは困ります」


「困るくらいなら寝なさい」


「……はい」


 小早川が部屋を出ていく。


 扉が静かに閉まる。


 俺はソファに横になったまま、天井を見た。


 今日、俺は同僚に壁ドンされ、先輩秘書に押し倒された。


 文字にすると、完全に別ジャンルである。


 実際は、転倒防止と強制休憩だった。


 出版改革どころではない。


 自分の身体も、人間関係も、まるで管理できていない。


 作品別統合管理台帳を作る前に、篠宮怜子統合管理台帳が必要なのではないか。


 項目は何だ。


 睡眠。


 食事。


 仕事。


 航。


 小早川。


 三浦。


 社長。


 未来知識の漏洩頻度。


 身体違和感。


 湿気耐性。


 書いていて嫌になる。


 眠気が来た。


 抗えなかった。


     *


 三十分後。


 俺は起きなかったらしい。


 目を開けた時、時計は一時間半進んでいた。


 終わった。


 完全に終わった。


 俺は跳ね起きようとして、毛布に足を取られた。


「落ち着いて」


 小早川の声。


 彼女は休憩室の椅子に座って、資料を読んでいた。


「なぜ起こさなかったのですか」


「寝てたから」


「三十分と」


「必要なら一時間と言った」


「一時間半です」


「誤差」


「大きいです」


「顔色は戻った」


 そう言われると、確かに頭が少し軽い。


 身体も楽だ。


 悔しい。


 休むと回復する。


 当たり前のことが悔しい。


「社長は」


「知ってる」


「何と」


「『ようやく倒れる前に寝たか』って」


 あの人、完全に見抜いている。


「三浦さんは」


「ファイルを整理してる」


「申し訳ないです」


「言えば?」


「はい」


 小早川は資料を閉じた。


「怜子さん」


「はい」


「あなた最近、謝る回数が増えた」


「そうですか」


「悪いことじゃないけど、少し心配」


「なぜ」


「謝る相手を間違えると、人はどんどん削れるから」


 また刺された。


 この先輩秘書、刺す角度が毎回違う。


「私は、誰に謝るべきでしょうか」


「それは私には分からない」


 小早川は立ち上がった。


「でも、少なくとも、自分の身体には先に謝った方がいいわね」


 返事ができなかった。


     *


 社長室に戻ると、三浦が机で資料を分類していた。


 本当にやっている。


「起きました?」


「はい」


「よく寝てましたね」


「申し訳ありません」


「いえ。むしろ助かりました」


「助かった?」


「篠宮さんが寝てる間に、現場に書かせる項目をさらに減らせました」


 俺は紙を見る。


 三浦が整理した確認表は、俺のものよりずっと実務的だった。



 必須

 ・店舗名

 ・棚位置

 ・併売有無

 ・追加注文

 ・店員所感


 任意

 ・平台写真

 ・万引き疑い

 ・読者反応

 ・在庫差異


 社長室側確認

 ・Amazon商品情報

 ・公式導線

 ・シリーズ順

 ・説明文統一


 

 ⋯⋯見やすい。


 現場の負担が減っている。


 俺の案より良い。


「素晴らしいです」


「怖い褒め方ですね」


「本当に素晴らしいです」


 三浦が少し照れた顔をした。


「篠宮さんが寝てた方が仕事進むかもしれません」


「それは問題です」


「でも事実です」


「判断を保留します」


 俺は椅子に座った。


 机の上には、鷹取の仮称企画メモも置かれている。


 三浦がそれを見た。


「ゲームとアニメのやつ、どうでした?」


「危険です」


「また危険」


「はい。ですが、必ずやるべきです」


「篠宮さん、危険なもの好きですよね」


「好きではありません」


「好きじゃないのに突っ込むんですか」


「危険なものは、放置するともっと危険になります」


 三浦は少し考えた。


「人間関係も?」


 俺は固まった。


「何の話ですか」


「いえ。さっき小早川さんが、航さんに電話するなら今日はちゃんと自分からしろって言ってたので」


 小早川。


 何を共有している。


「業務外です」


「でしょうね」


 三浦は笑った。


「でも、業務外も放置すると危険なんじゃないですか」


 この男まで刺してきた。


 今日は刺される日なのか。


 雨だからか。


 梅雨の走りだからか。


「検討します」


「そこは判断保留じゃないんですね」


「保留し続けると、たぶん悪化します」


「いい判断だと思います」


 腹立たしい。


 だが、たぶんその通りだった。


     *


 夜。


 雨はまだ降っていた。


 社長室の窓に、細い水滴が流れている。


 紙の資料は湿気を吸い、ほんの少し反っている。


 俺は電話の前に座っていた。


 航にかけるべきか。


 かけないべきか。


 昨日、航は合鍵を持って家にいて、カレーを作って待っていた。


 俺は一人で寝たいと言った。


 航は帰った。


 鍵は持ったままだ。


 それでよかったのか、分からない。


 だが、小早川は言った。


 疲れている時に、大事な人との距離を決めるな。


 三浦は言った。


 人間関係も放置すると危険なのではないか。


 正しい。


 全員、正しい。


 正しい人間が多すぎる。


 俺は受話器を取った。


 番号は、身体が覚えていた。


 怖い。


 だが、助かる。


 数回のコールのあと、航が出た。


『はい、桐生です』


「篠宮です」


『さっちゃん?』


 その声を聞いた瞬間、少しだけ肩の力が抜けた。


「昨日は、すみませんでした」


『え、何が?』


「距離を取りました」


 電話口が少し静かになった。


『ああ』


「傷つけたかもしれません」


『まあ、ちょっと寂しかった』


 正直だ。


 俺は胸が痛くなった。


「すみません」


『でも、無理される方が嫌だから』


「はい」


『今日は?』


「今日は、同僚に壁ドンされて、先輩秘書に押し倒されました」


 言ってから、俺は自分の失敗に気づいた。


 説明が最悪である。


 電話の向こうが完全に沈黙した。


『……え?』


「誤解です」


『いや、誤解も何も、情報がすごいんだけど』


「転びかけたところを三浦さんに支えられました。その後、小早川さんに休憩室へ連行され、寝かされました」


『ああ……』


 航が深く息を吐いた。


『びっくりした』


「私もです」


『さっちゃん、そういう冗談言う人だったっけ』


「湿気のせいです」


『便利だね、湿気』


 四回目。


 今日の流行語である。


『で、大丈夫なの?』


「一時間半寝ました」


『それは大丈夫じゃなかった人の回復方法だね』


「はい」


『ちゃんと寝て』


「はい」


『今日は行かないよ』


 俺は少し黙った。


 航は続けた。


『行ったら、さっちゃん気を遣うでしょ』


「……はい」


『だから、電話だけ』


「ありがとうございます」


『でも、鍵は持ってていい?』


 来た。


 俺は少しだけ息を吸った。


「はい」


『本当に?』


「はい。昨日も言いました。今日は一人がいい、です」


『うん』


「ずっと一人がいい、ではありません」


 電話口の向こうで、航が黙った。


 それから、少しだけ笑った気配がした。


『分かった』


「はい」


『じゃあ、今日は寝ること。魔王も仮称企画も禁止』


「なぜ仮称企画を」


『昨日言ってた』


 またか。


 俺は疲れると本当に口が軽い。


「気をつけます」


『そこは気をつけて。仕事の秘密っぽいし』


「はい」


『お疲れ、さっちゃん』


「ありがとう」


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 窓の外では、雨が細く降り続いている。


 梅雨の走り。


 紙を湿らせ、人の距離を狂わせる雨。


 その中で、俺は少しだけ距離を測り直した。


 近づきすぎず。


 遠ざけすぎず。


 まだ正解は分からない。


 だが、保留するだけではなく、言葉にした。


 今日はそれで十分だと思うことにした。


     *


 机の上に、今日のメモを書く。


 媒体別入口

 語られる場所

 現場負担を減らす

 身体を道具として扱わない

 大事な人との距離は、疲れている時に決めない



 最後の二つは、完全に業務外だった。


 だが、消さなかった。


 作品別統合管理台帳に載らないものほど、人を動かす。


 湿気。


 寝不足。


 壁に支えた手。


 休憩室の毛布。


 電話越しの沈黙。


 そういうものは数字にならない。


 だが、無視すると壊れる。


 作品も、棚も、人間関係も。


 平成十三年五月。


 梅雨の走りの雨は、紙の帝国を静かに湿らせていた。


 俺はその中で、初めて思った。


 未来を変える前に。


 まず、今日の距離を間違えないようにしなければならない。

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