第七話 魔王に夜更かしさせられてからの、転売厨と本泥棒。どちらがマシ?
その夜、俺は魔王に負けた。
いや、正確には『今日から(マ)のつく自由業!』に負けた。
仕事の資料として読むつもりだった。
あくまで資料だ。
新レーベル創刊導線の確認。
シリーズタイトルの視認性。
読者層の広がり。
書店平台での説明文検証。
Amazon検索時の引っかかり。
そういう、極めて業務上必要な確認である。
断じて、寝る前にちょっと読んだら普通に面白くて止まらなくなったわけではない。
ない。
たぶん。
「……もう一章だけ」
深夜一時。
篠宮怜子の部屋で、俺はベッドに腰かけて文庫をめくっていた。
部屋の明かりは落としている。
枕元のスタンドだけがついている。
机には、取次会議の資料と、まるマのAmazonプリントアウトと、佐伯の赤ペン入り書店向け文言。
ある日突然、魔王になりました。
強い。
あの一文は強い。
そして腹立たしいことに、中身もちゃんと強い。
軽い。
速い。
変なタイトルなのに、読めばすぐ分かる。
主人公が流される速度と、世界が広がる速度のバランスがいい。
未来を知っている俺は、この作品の行く末も知っている。
伸びる。
大きくなる。
レーベルの顔になる。
メディアミックスもする。
そして、綺麗に終わることの難しさも背負う。
それでも今、この一巻はただ面白かった。
未来の売上でもない。
シリーズ累計でもない。
アニメ化でもない。
自然消滅じみた後味でもない。
ただ、ページの中で話が進む。
主人公が困り、周囲が濃く、世界が妙な顔でこちらを見てくる。
読者は、たぶんこうやって捕まる。
「……資料として、二巻も確認する必要があるな」
完全に言い訳だった。
俺は二巻を手に取った。
その瞬間、篠宮怜子の身体が小さくあくびをした。
眠い。
当然だ。
昨日は取次会議で血管だの体温計だの言い、久我営業局長に睨まれ、榊原取次担当部長に冷やされ、大町書店営業課長に助けられ、真鍋から「売れた後のことも考えろ」と刺された。
寝るべきだった。
絶対に寝るべきだった。
だが、俺はページを開いた。
魔王が悪い。
*
翌朝。
俺はベッドで目を覚ました。
ベッドだった。
そこは褒めていい。
ただし、枕元には開いたままの文庫があり、照明はつけっぱなしだった。
敗北である。
トイレから異世界に流される魔王に夜更かしさせられた女社長秘書。
字面がひどい。
洗面台の鏡を見る。
篠宮怜子の顔は、昨日より少し悪かった。
いや、悪いというほどではない。
美人は疲れても美人だ。
ただ、目元に「昨日ちゃんと寝ていません」と書いてある。
小早川に見つかったら終わる。
俺は慣れない手つきで化粧をしながら、机の上のメモを見た。
協力店選定
池袋・横浜・名古屋・大阪
書店向け説明文確認
まるマ既刊併売
フルメタ既刊在庫
Amazon商品情報
売れた後も続けられる仕組み
その下に、深夜の俺が書いたらしい一行がある。
魔王、普通に強い。
語彙が死んでいる。
だが、正直だった。
電話のベルが鳴った。
朝からまた襲撃である。
「はい、篠宮です」
『さっちゃん? 起きてる?』
航だった。
「起きています」
『声が眠そう』
「眠くありません」
『寝不足の返事だ』
なぜ分かる。
「少々、資料確認が長引きました」
『まるマ読んだ?』
「資料として」
『面白かった?』
「観測対象として優秀でした」
『面白かったんだ』
読まれている。
俺は沈黙した。
航は電話の向こうで笑っている。
『妹がさ、友達に貸したらしいよ』
「もうですか」
『うん。で、その友達が一巻買いに行くって』
俺は受話器を握ったまま、少し黙った。
昨日の留守電と同じだ。
ひとりが読み、友達に貸す。
友達が買いに行く。
それはまだ売上ではない。
ランキングでもない。
会社の会議資料に載るほどの数字でもない。
でも、作品が動いている。
人の手から、人の手へ。
『さっちゃん?』
「聞いています」
『なんかさ、仕事の顔してるでしょ。声でわかる』
「しています」
『朝から?』
「魔王のせいです」
『魔王なら仕方ないね』
仕方あるだろ。
『今日、書店行くんでしょ』
「なぜ知っている」
『昨日言ってた』
またか。
篠宮怜子、疲れると口が軽くなるのか。
いや、俺が軽いのか。
『さっちゃん』
「何」
『書店って、いいよね』
「突然ですね」
『Amazon好きな俺が言うのも変だけどさ。棚って、誰かが選んでるんだよ。並べ方も、置く場所も、POPも。画面とは違う』
「はい」
『だから、見てきて。俺の代わりに』
「仕事です」
『うん。仕事として』
航の声は、少しだけ真面目だった。
『あと、ちゃんと寝て』
「善処します」
『それ駄目なやつ』
「努力します」
『もっと駄目なやつ』
電話が切れた。
俺は受話器を置き、深く息を吐いた。
今日は書店へ行く。
協力店候補の確認。
取次と書店営業の情報を、実際の棚とつなげる最初の作業。
血管に指を当てた翌日は、末端を見る。
つまり、毛細血管だ。
言い方が気持ち悪い。
社長に言ったらまた褒められていないと言われる。
*
出社すると、小早川に即座に捕まった。
「怜子さん」
「おはようございます」
「寝不足ね」
「寝ました」
「何時に」
「……」
「何時に」
「資料確認が長引きました」
「本を読んでたのね」
怖い。
なぜ分かる。
「業務上必要な確認です」
「楽しかった?」
「観さ⋯⋯観測対象として優秀でした」
「楽しかったのね」
この人たちはなぜ全員同じ読み方をするのか。
小早川はため息をつき、俺の前髪を直した。
「今日、書店に行くんでしょう」
「はい」
「営業の人たちと?」
「三浦さん、大町さんと」
「なら、ちゃんと現場の人の話を聞くこと」
「承知しております」
「あと、正論で棚を殴らない」
どういう注意だ。
だが、意味は分かる。
棚には棚の事情がある。
俺はそれを、数字や未来知識で雑に扱ってはいけない。
「気をつけます」
「本当に?」
「判断を――」
「保留しない」
「……はい」
小早川は少し笑った。
「珍しい」
俺は負けた気がした。
*
池袋の書店は、未来の俺が知っている書店よりも濃かった。
棚が近い。
通路が狭い。
雑誌が強い。
コミックの新刊台に熱がある。
文庫棚には、背表紙がぎっしり詰まっている。
Amazonの検索窓とは違う。
ここでは、情報が空間になっている。
右を見れば少年漫画。
左を見れば文庫。
平台には新刊。
レジ前には話題作。
奥には、分かる人間だけがたどり着く棚。
棚を歩くという行為そのものが、検索だった。
ただし、検索結果は店員と売場の癖で変わる。
「篠宮さん、こちらです」
三浦が案内する。
隣には大町書店営業課長。
そして店側から出てきたのは、三十代半ばくらいの女性店員だった。
「相沢です。文庫とコミックを見ています」
短い挨拶。
だが目が強い。
棚を見ている人間の目だった。
「社長室の篠宮です。本日はお時間をいただきありがとうございます」
「社長室の方が棚を見に来るなんて、珍しいですね」
声に少し警戒がある。
当然だ。
出版社の社長室の人間が、営業を連れてやって来た。
現場からすれば、面倒の匂いしかしない。
「現場を知らないまま資料を作ると、事故りますので」
「分かってるなら大丈夫です」
相沢は即答した。
強い。
嫌いではない。
いや、嫌われる前に俺が言うことではない。
「まるマの件ですよね」
相沢は棚の前へ歩き出した。
「はい」
「タイトルが変ですよね」
「はい」
三浦が小さく笑った。
「篠宮さん、変なタイトルに対して正直すぎません?」
「変であることは強みです」
相沢が振り返った。
「それは分かります」
棚の前で、相沢は一冊を抜いた。
『今日から(マ)のつく自由業!』
背表紙だけだと、確かに目が止まる。
かっこいいタイトルではない。
むしろ、妙に引っかかる。
囲まれたマ。
自由業。
意味が分かりそうで、分からない。
「こういうのは、置き場所を間違えると死にます」
相沢は言った。
「少女向けの棚に置けば、分かるお客さんは見つけます。でも、背表紙だけだと拾われないこともある。逆に平台に置くと、タイトルで止まる」
「止まった後は?」
「一言が要ります」
相沢は、佐伯の仮文言を見た。
ある日突然、魔王になりました。
「これ、いいですね」
佐伯、二勝目。
「雑ですが」
「雑でいいんです。棚の前で長文は読まれません」
大町が頷いている。
やはり現場の言葉だ。
俺の硬い説明文は、棚では死ぬ。
検索導線におけるシリーズ認知優位性など、棚の前ではただの呪文である。
「一巻と二巻は並べたいです」
相沢は続けた。
「二巻だけ見て気になっても、一巻がなければ戻します。取り寄せもできますけど、その場の熱は落ちる」
その場の熱。
俺はメモした。
その場の熱は、落ちる。
未来の俺は知っている。
購入ボタンがあるだけで、その熱はかなり拾える。
だが、この時代の書店では違う。
棚にないなら、熱は歩いて出ていく。
「既刊併売は必須ですね」
「はい」
相沢は棚を見た。
「ただ、問題もあります」
「問題?」
「こういう薄めの文庫は、減ります」
「売れるという意味ですか」
「それもあります」
相沢は少しだけ声を落とした。
「万引きです」
空気が変わった。
三浦の顔が真面目になる。
大町は、知っていた顔をした。
俺は一瞬、言葉を失った。
万引き。
本泥棒。
未来の俺の部屋には、売るための本が積まれていた。
定価で買ったものだ。
少なくとも、買ってはいた。
だが、今この棚では、買わずに持っていく人間がいる。
商品が消える。
売上にならない。
数字に残らない。
棚だけが減る。
「頻繁に?」
俺が聞くと、相沢は苦い顔をした。
「あります。もちろん全部じゃないです。でも、若い子向けの文庫やコミックは小さいので。鞄に入る。制服の子もいます。捕まえれば大事になるし、捕まえられなければ在庫が合わない」
在庫が合わない。
その言葉が、嫌に刺さった。
未来の転売でも、在庫差異は地獄だった。
あるはずの商品がない。
ないはずの商品がある。
発送できない。
怒られる。
評価が下がる。
だが、書店の在庫差異はもっと重い。
棚が死ぬ。
売れたのか、盗まれたのか分からない。
需要があったのか、損失だったのか分からない。
補充すべきか、切るべきか判断できない。
「売れたのか、盗まれたのか分からないと」
俺は言った。
「次の配本判断が歪みますね」
相沢がこちらを見た。
少し驚いた顔だった。
「そうです」
彼女は頷いた。
「こっちは肌感覚で、これは動いてる、これは盗られてる、ってある程度分かります。でも数字だけ見ると分からない。出版社さんには、売れてないように見えるかもしれない」
「盗られている本は、読まれている可能性があります」
俺は呟いた。
三浦がこちらを見る。
「ですが、売上にはなりません」
相沢が言った。
「店の損です」
「はい」
「出版社さんにも、著者さんにも、お金は入りません」
「はい」
「でも、読んだ人はいる」
相沢の声は、少し疲れていた。
「そこが一番、嫌なんです」
分かる気がした。
本を盗む人間は、欲しかったのだ。
読みたかったのだ。
だからといって許されるわけではない。
むしろ、欲しかったからこそ最悪だ。
作品に価値を感じているのに、その価値を支える金を払わない。
棚を壊し、店を削り、次に届くはずだった本を減らす。
俺は未来の自分を思い出した。
俺は本を盗んではいない。
定価で買っていた。
公式在庫が切れるほど買い、欲しい人間に高く売っていた。
出版社にも書店にも、一応最初の金は落ちている。
では、俺の方がマシなのか。
転売厨と本泥棒。
どちらがマシか。
口の中が苦くなった。
マシという言葉を使った時点で、だいたい負けている。
「篠宮さん?」
三浦が声をかけてきた。
「問題ありません」
問題はあった。
かなりあった。
だが今は、棚を見る。
相沢は話を続けた。
「本当に欲しい子もいるんです。お金が足りないとか、親に言えないとか、棚の前でずっと迷っている子もいる。でも、盗られたら店は痛い。痛いと、棚を狭くするしかない」
「棚を狭くすると、次の読者に届かない」
「はい」
相沢は、まるマの一巻を棚に戻した。
「盗んだ一冊は、その子にとっては一冊でも、店にとっては大ごとなんです。取り戻すのには盗まれた数の五十倍売らないとならないから」
重い。
昨日の取次会議より、ある意味で重い。
血管ではない。
指先だ。
末端で、少しずつ血が出ている。
大きな会議には上がらない。
決算短信にも直接は出ない。
だが確実に、棚を細らせる。
「万引き被害の数字は取れますか」
俺が聞くと、相沢は苦笑した。
「分かる範囲なら。ただ、正確ではありません」
「不正確でも構いません」
「いいんですか」
「はい。不正確であることを、不正確なまま記録します」
相沢の目が変わった。
「変なことを言いますね」
「よく言われます」
「でも、分からないことを分からないまま書いてくれるなら、助かります」
俺はメモを取った。
棚減少要因:販売不振だけではない
万引きによる在庫差異
棚縮小
次回配本判断の歪み
店員の肌感覚を記録
書きながら、自分の手が少し震えているのに気づいた。
転売厨だった俺が、万引きの損失をメモしている。
笑えない。
だが、笑うしかないほど皮肉だった。
*
店内を回っている途中で、それは起きた。
少年エースの棚の近く。
中学生くらいの男子が、コミックを一冊、鞄に滑り込ませた。
俺は見た。
相沢も見た。
三浦も気づいた。
時間が、ほんの一瞬止まった。
相沢は、すぐには動かなかった。
見る。
距離を測る。
逃げ道を見る。
店内の他の客を見る。
それから、静かに歩いた。
「お客様」
声は荒くなかった。
だが、逃がさない声だった。
少年の肩が跳ねる。
相沢は近づき、低い声で言った。
「鞄の中、確認させてもらえる?」
少年は、顔を真っ赤にした。
その場の空気が硬くなる。
俺は動けなかった。
未来の俺は、購入者の怒りには慣れていた。
配送遅延の問い合わせにも慣れていた。
競合出品者の嫌がらせにも慣れていた。
だが、目の前で本を盗んだ少年を見るのは慣れていなかった。
少年は小さく震えながら、鞄からコミックを出した。
ケロロ軍曹だった。
カエル。
売れるカエル。
盗られるカエル。
洒落にならない。
「こっちに来て」
相沢は少年を店の奥へ連れていった。
大町が小さくため息をついた。
三浦は黙っている。
俺も黙っていた。
数分後、奥から小さな泣き声が聞こえた。
怒鳴り声は聞こえなかった。
相沢は怒鳴っていない。
ただ、静かに話している。
その静けさが、余計に重かった。
「よくあるんですか」
俺が聞くと、大町は苦い顔をした。
「あります」
「ケロロも?」
「目立つものは、売れるし、盗られます」
売れるし、盗られる。
最悪の並びだ。
俺は棚のカエルを見た。
昨日まで、俺はこの作品を未来の大ヒットとして見ていた。
アニメ化。
子ども。
玩具。
映画。
キャラクター商品。
だが、目の前の書店では、ただ一冊のコミックが鞄に入れられていた。
未来の大きな数字と、現在の小さな盗難。
どちらも同じ作品に起きる。
作品が届くとは、綺麗なことだけではない。
欲しい人間の手に届く。
払う人間の手にも。
払わない人間の手にも。
それを、どう扱うか。
「篠宮さん」
三浦が小さく言った。
「大丈夫ですか」
「何がですか」
「顔」
「顔面管理は小早川さんの管轄です」
「いや、そういう意味じゃなくて」
俺は少しだけ息を吐いた。
「転売ちゅ⋯⋯転売屋と本泥棒は、どちらがマシだと思いますか」
三浦が固まった。
「急に何ですか」
「確認です」
「確認する内容じゃないですよ」
「そうですね」
俺は棚を見た。
「どちらも、作品が届く道を壊します」
三浦は黙った。
「本泥棒は、棚から直接奪う。店に金が入らない。出版社にも著者にも入らない。次の棚を細らせる」
言葉が、自分に刺さっていく。
「転売屋は、一度は金を払う。出版社にも書店にも最初の金は入る。ですが、欲しい読者の熱を人質にして、公式の外で値段を吊り上げる。次に買えなかった人間を増やす」
未来の俺。
段ボールの山。
跳ねる相場。
怒る購入者。
俺は盗んでいない。
だが、届く道を真っ直ぐにはしていなかった。
「どちらがマシかと聞かれたら」
俺は言った。
「その問いを立てた時点で、どちらも最悪です」
三浦はしばらく黙っていた。
それから、少し困ったように笑った。
「篠宮さん、たまに自分に刺さる話をしますよね」
「刺さるように言っています」
「誰に?」
「判断を保留します」
三浦はそれ以上聞かなかった。
ありがたかった。
*
相沢が戻ってきたのは、十分ほど後だった。
顔は疲れていた。
「すみません」
「いえ」
「親御さんに連絡しました。学校にも一応」
彼女は棚の前に戻り、ケロロ軍曹を一冊手に取った。
「こういう時、嫌になるんです」
「店員を?」
「本を売ることを」
相沢の声は低かった。
「読みたいんだろうな、とは思うんです。でも、盗られたら困る。困るから怒る。怒ると、こっちも嫌になる。でも、本を嫌いになってほしくはない」
俺は何も言えなかった。
盗んだ少年に本を嫌いになってほしくない。
この人は、店の損失を抱えながら、そんなことを考えている。
書店員だ。
棚を守る人間だ。
「相沢さん」
「はい」
「万引きによる棚縮小を、試験運用の項目に入れます」
大町が少し驚いた顔をした。
三浦もこちらを見る。
「売上だけでは、棚の状態を説明できません。販売数、追加注文、返品、在庫差異、店員の所感を同じ紙に並べます」
「そんな細かいこと、出版社さんが見ますか」
「見ます」
「誰が」
「私が」
相沢は、しばらく俺を見ていた。
「倒れますよ」
「昨日も言われました」
「言われるだけのことをしているんでしょうね」
「判断を保留します」
相沢は初めて少し笑った。
「変な人ですね」
「よく言われます」
「でも」
相沢は、まるマの一巻と二巻を手に取った。
「この二冊、試しに平台に置いてみます。説明文、もらえますか」
動いた。
また、一本。
ただし今度は、綺麗な一本ではない。
万引きの痛みを含んだ一本だ。
売れるかもしれない。
盗られるかもしれない。
読まれるかもしれない。
棚が増えるかもしれない。
減るかもしれない。
それでも、置く。
それが書店の判断だった。
「ありがとうございます」
俺は頭を下げた。
「礼を言うのは早いです」
相沢は言った。
「動かなかったら、すぐ棚に戻します」
「はい」
「盗られたら、怒ります」
「はい」
「でも、動いたら」
彼女は少しだけ笑った。
「ちゃんと追加をください」
俺は、なぜか胸が熱くなった。
「必ず」
言ってから、すぐに修正する。
「……追加できるよう、営業と取次につなぎます」
「現実的ですね」
「昨日、現実に刺されました」
「いいことです」
本当にそうだろうか。
まあ、たぶんそうなのだろう。
*
会社へ戻る電車の中で、俺は吊り革につかまりながらメモを整理した。
スマホはない。
ノートに書くしかない。
紙。
紙。
紙。
この時代は紙ばかりだ。
だが、今日見た棚も紙だった。
盗られた本も紙だった。
貸された本も紙だった。
航の妹が友達に貸したまるマも紙だった。
紙は弱い。
盗まれる。
破れる。
日焼けする。
在庫が切れる。
棚から消える。
だが、手から手へ渡る。
その強さもある。
俺はメモに書いた。
> 売上に出ない読者がいる。
貸し借り。立ち読み。万引き。
すべて数字には同じように見えない。
だが、すべて作品の周囲にある熱。
書いてから、手が止まった。
万引きを熱と呼んでいいのか。
違う。
それは損失だ。
犯罪だ。
棚を削る行為だ。
だが、そこに欲しいという感情があったことまで消すと、また見誤る。
欲しいのに買えない。
欲しいから盗む。
欲しいから高値でも買う。
欲しいから転売する。
欲しいから怒る。
全部、同じではない。
同じではないが、根は近い。
需要は、綺麗な顔だけで現れない。
汚い形でも現れる。
だから観測しなければならない。
観測して、分けなければならない。
売上。
機会損失。
盗難。
貸し借り。
口コミ。
転売。
同じ「読まれたかもしれない」でも、会社と作品と読者に与える意味は違う。
俺は深く息を吐いた。
仕事が増えた。
また増えた。
自分で増やした。
*
社長室に戻ると、社長が俺の顔を見て言った。
「今日はまた、ずいぶん刺された顔をしているな」
「書店で本泥棒を見ました」
社長の表情が少し変わった。
「そうか」
「はい」
「どう思った」
俺は少し黙った。
転売厨と本泥棒。
どちらがマシか。
その問いを、そのまま社長に投げるのは危険だった。
だが、俺の口は動いていた。
「本を盗む人間は、棚を殺します」
「そうだな」
「本を高く売る人間は、読者の熱を人質にします」
社長の目が細くなった。
しまった。
言いすぎた。
だが、止まらなかった。
「どちらも、作品が届く道を歪めます」
社長は煙草に火をつけなかった。
珍しい。
ただ、俺を見ていた。
「篠宮君」
「はい」
「君は本を高く売ったことがあるのか」
心臓が止まりかけた。
会議室の音が消える。
いや、ここは社長室だ。
目の前にいるのは社長だけだ。
だが、逃げ場がない。
俺は答えられなかった。
答えれば終わる。
嘘をついても、たぶん見抜かれる。
だから、篠宮怜子の顔で、俺は言った。
「比喩です」
社長はしばらく黙っていた。
それから、低く笑った。
「便利な言葉だ」
「はい」
「では、比喩として聞いておこう」
「助かります」
「助けたわけではない。保留しただけだ」
俺は息を吐いた。
判断を保留された。
俺の決め台詞を、社長に返された。
かなり嫌だ。
「今日の報告を」
「はい」
俺は書店での出来事を話した。
まるマの平台展開。
既刊併売。
佐伯の文言。
相沢の棚感覚。
万引きによる在庫差異。
ケロロ軍曹の盗難。
協力店で、売上だけでなく店員所感と在庫差異を取る必要。
社長は最後まで黙って聞いていた。
「項目が増えたな」
「増えました」
「誰がやる」
「私と三浦さんです」
「三浦が気の毒だな」
「はい」
「認めるのか」
「事実です」
社長は少し笑った。
「よろしい。試せ」
「承知いたしました」
「ただし、篠宮君」
「はい」
「本泥棒を憎むのはいい。だが、盗んだ子どもを数字だけにするな」
俺は言葉を失った。
「店の損失だ。犯罪だ。許す必要はない。だが、その子がなぜ本を欲しがったのかを見失うと、君の観測はただの管理になる」
重い。
この社長は、時々こちらの逃げ道を正確に塞ぐ。
「数字は必要です」
俺は言った。
「だが、数字だけでは足りない」
社長が続けた。
俺は頭を下げた。
「肝に銘じます」
「本当に?」
「はい」
「ならいい」
また真鍋と同じことを言われた。
この会社、俺を刺す人間が多すぎる。
*
夜。
部屋に帰ると、航から電話があった。
「はい、篠宮です」
『さっちゃん、声が疲れてる』
「疲れました」
『今日は素直だ』
「事実です」
『書店、どうだった?』
俺は少し考えた。
棚。
まるマ。
相沢。
ケロロ。
本泥棒。
転売厨。
どちらがマシか。
「魔王は平台に出ます」
『おお』
「ただし、カエルが盗まれました」
『え?』
「ケロロ軍曹です」
『カエル……』
航は少し黙った。
『そっか。万引き?』
「はい」
『きついね』
「はい」
俺はベッドに腰を下ろした。
今日はちゃんとベッドまで来た。
進歩である。
「航」
『うん』
「転売屋と本泥棒は、どちらがマシだと思いますか」
『また急に重いな』
「確認です」
『確認で聞くことじゃないよ』
今日、三浦にも同じことを言われた。
航はしばらく黙った。
電話の向こうで、何か紙を置く音がした。
『どっちも嫌だけど』
「はい」
『本泥棒は、店から盗む。書店を傷つける。出版社にも作者にもお金が入らない』
「はい」
『転売は、一回はお金を払う。でも、欲しい人の足元を見る』
足元を見る。
的確だった。
『どっちがマシっていうより、どっちも本との関係が曲がってるんじゃないかな』
「本との関係」
『うん。本って、誰かが書いて、作って、運んで、並べて、買って、読むものでしょ。そのどこかを踏みつけると、たぶん曲がる』
この男は、なぜ時々こういうことを言うのか。
IT系ではないのか。
いや、IT系だから言うのかもしれない。
新しい道具が好きだからこそ、古い道具が何を支えていたかも見ている。
『さっちゃんは、今日、それ見ちゃったんだね』
「はい」
『じゃあ、寝な』
「なぜ」
『疲れてる時にそういうこと考えると、底まで行くから』
それは、かなり正しかった。
「善処します」
『寝ないやつ』
「寝ます」
『よし』
航は少し笑った。
『お疲れ、さっちゃん』
「ありがとう」
今日は、その言葉が昨日より自然に出た。
通話が切れた。
俺はしばらく受話器を見ていた。
それからメモ帳を開き、一行書いた。
欲しい、は綺麗な形だけで現れない。
もう一行。
だから、届く道は綺麗ごとだけでは作れない。
さらに、赤ペンで小さく足す。
それでも、盗ませない。
高く売らせない。
普通に買えるようにする。
書いたあと、苦笑した。
数日前まで転売厨だった俺が何を言っているのか。
だが、消さなかった。
魔王に夜更かしさせられ、カエルの本泥棒を見て、俺は少しだけ分かってしまった。
作品が届く道を作るというのは、売れる棚を作ることだけではない。
盗まれない棚を作ることでもある。
高値で買わなくていい在庫を作ることでもある。
読者が、変な言い訳をしなくて済むようにすることでもある。
平成十三年五月。
紙の帝国の棚は、まだ力強かった。
だが、その棚の下では、もう小さな損失が血のように滲んでいる。
俺はそれを見てしまった。
もう、見なかったことにはできない。




