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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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第六話 健全な頃の血管にメスを入れるテスト

 翌朝。


 俺はベッドで目を覚ました。


 快挙である。


 ソファではない。


 床でもない。


 篠宮怜子の部屋の、篠宮怜子のベッドである。


 いや、冷静に考えると問題しかないのだが、昨日の俺に比べれば大きな進歩だった。


 首も痛くない。


 腰も痛くない。


 寝起きの精神状態も、昨日よりはマシだ。


 ただし、洗面台の青い歯ブラシを見るたびに心臓が跳ねる。


 桐生航。


 二十五歳。


 年下彼氏。


 Amazon愛好家。


 そして、昨日まるマを拾うきっかけを持ってきた男。


 あいつのせいで、俺は昨日、魔王を観測した。


 いや、魔王のせいで俺が観測されたのかもしれない。


 どちらでもいい。


 問題は、今日だ。


 社長室の机に置かれた予定表には、昨日からずっと嫌な文字が載っている。


 出版流通に関する意見交換

 出席予定者:営業局、取次担当、書店営業、社長室




 取次。


 出版流通の血管。


 出版社と書店をつなぎ、配本し、返品を受け、金を回し、全国の棚を成立させる巨大な仕組み。


 ここに触る。


 しかも、Amazonの話を絡めて。


 地雷原どころではない。


 地雷原の上でタップダンスを踊るようなものだ。


「……行きたくない」


 声は冷たく整っていた。


 内容は完全に出社拒否である。


 その時、電話のベルが鳴った。


 朝から襲撃である。


「はい、篠宮です」


『さっちゃん?』


 航だった。


「朝から何ですか」


『敬語』


「……何」


『よし』


 何がよしだ。


『今日、取次の会議でしょ』


⋯⋯⋯⋯⋯⋯ええと、(なぜ知っている?)


『昨日、自分で言ってた』


「言いましたか」


『言ってた。疲れてたから覚えてないんだろうけど』


 まずい。


 篠宮怜子の私生活だけでなく、俺の口もだいぶ危うい。


『さっちゃん』


「何」


『Amazonの話、最初から敵として出さない方がいいよ』


 俺は少し黙った。


「理由は」


『だって、敵って言った瞬間に、みんな守りに入るじゃん』


 正論だった。


『俺から見たAmazonは、敵っていうより道具なんだよ。欲しい本を探す道具。遠くの本を見つける道具。棚にない本が、存在してるって分かる道具』


「道具は、使う人間次第で武器になります」


『うん。だから、いきなり武器として見せない方がいい』


 この男、たまに怖いことを言う。


 未来を知らないくせに、未来の危険物の扱い方を少し分かっている。


『取次って、流す仕事でしょ』


「本を流すだけではありません。配本、返品、与信、書店との関係、業界の信用――」


『ほら、さっちゃん語り始めた』


「……ごめん」


『つまり血管みたいなものなんでしょ』


 俺は息を止めた。


 血管。


 昨日、俺が自分のメモに書いた言葉だった。


 いや、航には見せていない。


 たまたまだ。


 たぶん。


『だったら、Amazonを血管の敵にしないでさ』


「しないで?」


『体温計にしたら?』


 意味が、一瞬分からなかった。


『血管を流れてるものが、本当に届いてるかどうか。どこで熱が出てるか。どこが冷えてるか。Amazonの検索とか在庫表示って、読者が何を探してるかのヒントになるじゃん』


 俺は受話器を握ったまま、黙った。


 航の声は明るい。


 だが、言っていることはかなり鋭い。


 Amazonを血管の敵ではなく、体温計として扱う。


 取次の流れを壊すのではなく、取次が見ていない読者の熱を測る補助線にする。


 それなら、会議で最初に殺される確率が少し下がる。


 少しだけだが。


「航」


『うん』


「あなたは、本当にIT系ですか」


『昨日も言われた』


「編集者ではなく?」


『違う』


「営業でもなく?」


『違う』


「取次でもなく?」


『違うって』


「厄介ですね」


『それも昨日言われた』


 航は電話の向こうで笑った。


『でもさ、さっちゃん』


「何」


『本って、探してる人に届いた方がいいじゃん』


 軽い言い方だった。


 ただ、それだけだった。


 だが、その言葉は俺の中で少しだけ残った。


 本は、探している人に届いた方がいい。


 当たり前だ。


 当たり前なのに、当たり前ではない。


 だから転売市場が生まれる。


 だから怒る読者がいる。


 だから届かなかった作品が、売れなかった作品として処理される。


「使います」


『何を?』


「体温計」


『お、採用?』


「判断を保留します」


『採用だ、それ』


 電話が切れた。


 俺は受話器を置き、メモ帳を開いた。



 Amazonを敵として出さない。

 取次の血管を否定しない。

 Amazonは読者需要の体温計。

 血管を切るのではなく、詰まりを見つける。



 書き終えてから、俺は少しだけ頭を抱えた。


 俺は、年下彼氏の助言で取次会議に挑もうとしている。


 なろう的にいえば、歴史改変転生の主人公として、だいぶ情けない。


 だが、使えるものは使う。


 それが転売厨である。


 いや、改革担当である。


     *


 午前十時。


 社長室に入ると、社長はすでに資料を読んでいた。


 俺が机の前に立つと、社長は視線だけを上げた。


「顔色は昨日よりいいな」


「きちんと眠れましたので」


「ソファではなく?」


「ベッドで」


「進歩だ」


 なぜ知っている。


 いや、篠宮怜子という女はそれほどソファで寝落ちしていたのか。


 俺は深く考えないことにした。


「本日の会議資料です」


 俺は紙束を差し出した。


 社長は一枚目を見て、眉を動かした。


「Amazonの表現を変えたな」


「はい」


「昨日は、読者接点を奪う存在だった」


「今日も、その認識は変わりません」


「では、なぜ体温計と書いた」


 俺は一拍置いた。


「最初から敵として出すと、会議が死にます」


 社長は小さく笑った。


「誰の入れ知恵だ」


「観測結果です」


「便利な言葉だな」


「はい」


 社長は資料をめくった。



 Amazonを流通の敵として扱わない。

 読者が何を探しているかを示す外部指標として扱う。

 取次・書店営業の情報と照合し、作品ごとの需要の偏りを観測する。



「悪くない」


「ありがとうございます」


「だが、営業局長は怒るぞ」


「想定内です」


「取次担当はもっと怒る」


「想定内です」


「書店営業はたぶん黙る」


「一番怖いです」


 社長は楽しそうに資料を閉じた。


 この人、完全に俺を地雷処理班として見ている。


 いや、処理していない。


 踏みに行かせている。


「篠宮君」


「はい」


「取次は敵ではない」


「承知しております」


「取次なしに、今の書店網は成立しない」


「はい」


「書店を軽く見るな」


「はい」


「Amazonを軽く見るな」


「はい」


「そして、自分の正しさを軽く疑え」


 刺さった。


 俺は思わず口を閉じた。


 社長は煙草に火をつけた。


 この時代の社長室は、本当に煙草が近い。


「君は未来を見ているような顔をする」


 心臓が跳ねた。


「ですが」


「否定しなくていい。比喩だ」


「……はい」


「未来を見る者は、たいてい現在を雑に扱う」


 煙が、紙の上にゆっくり流れた。


「雑に扱われた現在は、未来を拒む」


 俺は黙った。


「今日は、相手の正しさを先に認めろ」


「それで通りますか」


「通りやすくはなる」


「通るわけではない」


「もちろんだ」


 社長は笑った。


「改革は、相手が正しい時ほど面倒だ」


 その通りだった。


 取次は正しい。


 書店も正しい。


 出版社も正しい。


 Amazonも、少なくともこの時点では正しい。


 読者も正しい。


 全員が正しい。


 だから、地獄になる。


     *


 会議室に入ると、空気が昨日までと違っていた。


 役員会の重さとは別の重さだ。


 もっと現場に近い。


 もっと湿っている。


 営業局長。


 取次担当部長。


 書店営業の課長。


 三浦。


 社長。


 そして俺。


 編集側からは真鍋も呼ばれていた。


 佐伯は来ていない。


 まるマの資料作りで捕まっているらしい。


 少し安心した。


 この会議は、女性向け新レーベルの話よりさらに地雷が深い。


 営業局長の名は、久我。


 五十代前半。


 声が太い。


 顔が怖い。


 たぶん現場を長く見てきた人間だ。


 取次担当部長は、榊原。


 四十代後半。


 眼鏡。


 資料の揃え方が几帳面。


 この人は数字と関係性の両方を見るタイプだ。


 書店営業課長は、大町。


 四十代。


 くたびれた顔。


 だが目だけはやけに優しい。


 全国の書店を回ってきた匂いがする。


 この三人を相手に、Amazonの話をする。


 無理だろ。


「では始めよう」


 社長が言った。


「今日は出版流通について、篠宮君の試験運用案をもとに意見を聞く」


 久我営業局長が、いきなり俺を見た。


「社長室の秘書が、流通に口を出すと聞いたが」


 初手から痛い。


 俺は頭を下げた。


「社長室の篠宮です。本日は、流通そのものではなく、作品別需要観測の仕組みについてご相談します」


「需要観測」


 榊原が繰り返した。


「また新しい言葉を」


「言葉が硬い」


 真鍋が横からぼそっと言った。


 お前はどっちの味方だ。


 いや、たぶん味方ではない。


 半分敵だ。


「簡単に申し上げます」


 俺は資料を一枚配った。


「本がどこで欲しがられているのかを、もう少し早く見たいという話です」


 久我営業局長の眉が動いた。


「それは営業が見ている」


「はい」


 俺は即答した。


「営業が見ています。書店営業が見ています。取次も見ています。編集も、読者アンケートや手紙で見ています」


 社長の言葉を思い出す。


 相手の正しさを先に認めろ。


「ですが、それぞれ別々に見ています」


 久我は黙った。


「書店別の消化率。追加注文。返品。読者アンケート。雑誌の反響。Amazonでの検索・在庫表示・商品情報。これらを作品単位で並べると、需要の偏りが見える可能性があります」


 Amazonという単語が出た瞬間、会議室の空気が硬くなった。


 来た。


 地雷一個目。


「篠宮君」


 久我の声が低くなる。


「Amazonを持ち出す意味が分からない」


「読者が本を探す場所の一つだからです」


「本は書店で売るものだ」


「はい」


「取次を通して、全国の書店へ流す。それがこの国の出版流通だ」


「はい」


「そこへ外資のネット書店を入れて、何がしたい」


 怒っている。


 当然だ。


 この人の言うことは、正しい。


 二〇〇一年の時点で、書店網は文化の入口だ。


 取次が本を全国へ流している。


 出版社はそれに支えられている。


 Amazonは、まだ始まったばかりの外資の変な本屋だ。


 それを社長室の秘書が急に持ち出せば、反発されるに決まっている。


「Amazonを、取次の代わりにする話ではありません」


 俺は言った。


「そんなことは不可能です」


 久我の表情が少しだけ変わった。


 不可能。


 この言葉は、今の時代には必要だった。


「Amazonは、全国の書店網の代わりにはなりません。棚を作れません。街の読者に本と出会う場所を作れません。書店員の目も、地域の売れ方も、取次が持つ関係性もありません」


 大町書店営業課長が、少しだけこちらを見た。


「では、何だと」


 久我が言った。


 俺は、朝のメモを思い出す。


「体温計です」


 会議室が止まった。


 真鍋が頭を抱えた。


 三浦が下を向いている。たぶん笑いをこらえている。


 社長は楽しそうな顔をしている。


 やめろ。


 助けろ。


「体温計?」


 榊原が眼鏡の奥で目を細めた。


「はい」


 俺は続けるしかなかった。


「取次と書店営業は、血管です。本を全国に流す仕組みです。Amazonは、その代わりにはなりません。ただ、読者が何を探しているのか、どのタイトルで引っかかるのか、在庫が切れた時にどう見えるのかを、外側から測る道具にはなります」


「血管と体温計か」


 榊原が呟いた。


「ずいぶん医者みたいな言い方をする」


「恐縮です」


「褒めてはいない」


「判断を保留します」


 しまった。


 反射で言った。


 久我が渋い顔をした。


 だが、大町が少しだけ笑った。


 空気が一ミリ緩んだ。


 一ミリ。


 だがゼロではない。


「具体的には何をする」


 榊原が言った。


「Amazonの売上を見られるわけではないだろう」


「はい。見られません」


「では何を見る」


「商品ページの有無、情報の正確性、シリーズ順、在庫表示、読者が検索しそうな語句で見つかるかどうか」


「それは販売というより、情報整備だな」


「はい」


 俺は頷いた。


「まず情報整備です。Amazonに売ってもらう話ではありません。読者が探した時、公式と書店に戻れる道を作るための確認です」


 久我の眉がまた動く。


「書店に戻れる道?」


「はい」


 俺は資料の二枚目を出した。



 探す本と、出会う本



 航の言葉だった。


 そのまま使った。


 俺一人では、この言葉は出なかった。


「読者には、欲しい本が決まっている時と、まだ決まっていない時があります」


 会議室が静かになる。


「欲しい本が決まっている時、今後は検索が強くなります。タイトル、作者、シリーズ名、キーワード。読者は画面で探します」


「今後は、か」


 真鍋がぼそっと言った。


 そう。


 今後は。


 だが、今はまだ言い切りすぎるな。


「その傾向が強まる可能性があります」


 言い換えた。


「一方で、欲しい本が決まっていない読者は、書店で出会います。平台、棚、POP、店員の説明、隣に置かれた本。これはAmazonだけでは代替できません」


 大町の目が少しだけ変わった。


 書店営業の顔だ。


「つまり、何が言いたい」


 久我が言った。


「出版社は、探す読者と出会う読者の両方に向けて、作品情報を整える必要があります」


 俺は資料を指で押さえた。


「取次と書店営業には、出会う場所を強くしてもらう。Amazonのような検索導線には、探す読者が迷わない情報を用意する。どちらか一方ではなく、両方です」


「きれいごとだな」


 久我は言った。


「現場はそんなに暇じゃない」


 その通りだった。


 俺は頷く。


「最初から全作品ではやりません」


「全作品では?」


 鸚鵡返しする真鍋に視線を向け、言う。


「はい。まずは三作品」


「何故、三作品?」


「管理可能な数です」


 俺は資料をめくる。


「対象は、試験運用中の三系統とします。過去成功例、現在進行作品、そして新レーベル関連作品」


「新レーベル関連?」


 久我が言った。


「昨日、文庫編集部と営業で仮検討を始めた作品があります」


 俺は紙面を差し出した。



 今日から(マ)のつく自由業!

 今度は(マ)のつく最終兵器



 久我はタイトルを見て、微妙な顔をした。


 榊原も少し眉を寄せた。


 大町は「ああ」と小さく言った。


「変なタイトルだな」


 久我が言った。


「はい」


「はい、なのか」


「はい。変なタイトルです」


 真鍋が額を押さえた。


「ですが、強いタイトルです」


 俺は続けた。


「棚でも止まります。検索でも止まります。シリーズとして認識しやすい。新レーベル創刊時に既刊併売を徹底すれば、入口になります」


「女性向けか」


 榊原が言った。


「主には」


「主には?」


「設定だけ見ると、棚を狭くしすぎると損をします。異世界に飛ばされて魔王になるコメディです」


「魔王」


 久我が呟いた。


「はい」


「最近の若い読者は分からんな」


「未来でも分かりません」


 しまった。


 また未来と言った。


 真鍋がこちらを睨む。


 俺は咳払いした。


「失礼しました。分からないものほど、測る必要があります」


 大町が紙を手に取った。


「これ、店によっては動きますよ」


 全員の視線が大町に向いた。


 大町は少し困ったように頭をかいた。


「いや、大きな話じゃありません。ただ、分かってる店員がいる店だと、こういうのは動く。逆に、置き場所を間違えると埋もれる」


「置き場所」


 俺は食いついた。


「少女向けの棚に入れるのは当然として、平台に短い言葉があると違うでしょうね。タイトルだけだと変で終わる。変だけど、何の話か分かる一言が必要です」


 俺は佐伯の赤字を思い出す。



 ある日突然、魔王になりました。




「書店向け説明文の仮案があります」


 俺が出すと、大町はそれを読んで少し笑った。


「いいですね。短い」


 佐伯。


 あなたの勝ちだ。


 俺の「検索導線におけるシリーズ認知優位性」は完全に負けた。


「これなら、書店員が説明しやすい」


 大町は言った。


「お客さんにも言いやすい。『ある日突然、魔王になる話です』って」


「雑では?」


 真鍋が言った。


「雑だけど、棚では強いです」


 大町が返した。


「全部説明すると逃げられる。まず足を止める一言が要る」


 三浦が小さく頷いている。


 営業側の言葉だ。


 編集の言葉ではない。


 だが、必要な言葉だ。


「つまり」


 榊原がゆっくり言った。


「君がやりたいのは、Amazonを使って書店を飛ばすことではなく、書店で売るための情報も整えることだと」


「はい」


「取次に何を求める」


 来た。


 本題。


 俺は姿勢を正した。


「試験対象作品について、配本後の追加注文と返品傾向を、通常より短い間隔で確認したいです。地域、店種、棚位置の情報があれば、営業資料と合わせます」


「簡単に言うな」


 榊原の声は冷たかった。


「取次は出版社の研究所ではない」


「承知しております」


「書店にも事情がある。棚は無限ではない。新しい文庫を積むには、何かを下げる必要がある」


「はい」


「出版社は売りたい本ばかり持ってくる」


「はい」


「全部は積めない」


「はい」


「それでも、君は情報を出せと言うのか」


「はい」


 会議室が冷えた。


 だが、ここは引けない。


「ただし、全書店ではありません。試験対象の協力店だけで構いません」


「協力店」


「三浦さんと大町さんが、動きを見られる店舗を数店選びます。新レーベル関連なら、女性向け文庫に強い店。フルメタなら、若い読者とアニメ・ゲーム系に強い店。過去成功例は、既刊の棚維持が見られる店」


 榊原は黙っている。


「取次に求めるのは、全体改革ではありません」


 俺は言った。


「まず、見える場所を一つ作ることです」


「一つ?」


「はい。一本目です」


 最初の一本。


 昨日、俺がメモに書いた言葉。


 届く道。


 まだ小さい。


 だが、ゼロではない。


「一本で何が変わる」


 久我が言った。


「何も変わりません」


 俺は即答した。


 久我が目を細める。


「何も変わらないのにやるのか」


「はい」


「意味が分からん」


「一本で全体は変わりません。ですが、一本がなければ二本目はありません」


 俺は資料を見た。


 紙。


 紙。


 紙。


 この時代の改革は、データベースではなく紙から始まる。


 ひどく遅い。


 だが、その紙を人が読めば、少しだけ動く。


「今、作品が売れた理由も、届かなかった理由も、部門ごとに散っています。編集は編集の理由を持ち、営業は営業の理由を持ち、取次は取次の事情を持ち、書店は書店の体感を持っています」


 声が、少しだけ熱を持った。


「それぞれ正しいのに、つながっていません」


 会議室が静かになる。


「つながっていない正しさは、次の作品を助けません」


 俺は言った。


「だから、一本だけでいい。まず、つなげてください」


 誰もすぐには答えなかった。


 地雷は爆発していない。


 だが、処理もされていない。


 全員が、踏むべきか避けるべきか考えている。


 最初に動いたのは、大町だった。


「協力店なら、心当たりはあります」


 久我が大町を見る。


「勝手に決めるな」


「決めてません。心当たりです」


 大町は資料を見た。


「この魔王のやつなら、池袋と横浜と名古屋で見たい店があります。あと、大阪に一店」


「なぜそこだ」


「女性向けが強くて、店員が棚を見ているからです」


 榊原が口を開く。


「取次側で、追加注文の動きを拾うのは可能だ。ただし、通常業務の範囲を超えるなら無理だ」


「通常業務の範囲で構いません」


 俺は言った。


「特別な帳票を作る前に、既存の情報を作品単位で集めます」


「誰が集める」


 来た。


 いつもの問い。


 誰がやるのか。


 改革案はここで死ぬ。


 だが、今回は答えがある。


「社長室で集めます」


 俺は言った。


 真鍋がこちらを見た。


 三浦もこちらを見た。


 社長だけが、何も言わなかった。


「各部門に新しい入力作業を強制しません。既存資料を社長室に集約し、足りない部分だけ確認します」


「君がやるのか」


 久我が言った。


「はい」


「秘書が?」


「はい」


「倒れるぞ」


 その言葉が、少し意外だった。


 怒鳴られると思っていた。


 馬鹿にされると思っていた。


 だが、久我の声には、ほんの少しだけ現場の疲れを知る人間の響きがあった。


「倒れないようにします」


「それで倒れない奴はいない」


 久我はため息をついた。


「三浦」


「はい」


「お前、手伝え」


 三浦が一瞬固まった。


「え、私がですか」


「面白そうなんだろう」


「言いましたけど」


「ならやれ」


「はい」


 三浦が微妙な顔で俺を見た。


 巻き込まれた顔だった。


 すまない。


 だが、少しだけ心強い。


「大町」


 久我は続けた。


「協力店の候補を出せ。ただし、現場に迷惑をかけるな」


「はい」


「榊原」


「はい」


「取次側で見られる範囲を確認してくれ。できないことはできないと言え」


「承知しました」


 動いた。


 また、人が動いた。


 昨日のまるマほど明るくはない。


 もっと重い。


 もっと面倒だ。


 だが、動いた。


 血管にメスを入れたわけではない。


 切ったわけでもない。


 ただ、指を当てた。


 脈を測ろうとしている。


 それだけだ。


 だが、それだけでも、この時代では前進だった。


「篠宮君」


 久我が言った。


「一つだけ言っておく」


「はい」


「Amazonを甘く見るなと言うなら、取次も甘く見るな」


「承知しております」


「書店もだ」


「はい」


「本は、画面の中だけで売れるわけじゃない」


 俺は、少しだけ黙った。


 二〇二六年の俺なら、反論したかもしれない。


 だが今は違う。


 この時代の書店を見た。


 棚の前で本と出会う読者を想像した。


 佐伯の赤ペンを見た。


 大町の言葉を聞いた。


 航の「探す本と出会う本」を受け取った。


「はい」


 俺は答えた。


「だから、画面の外に戻す道を作ります」


 久我は黙った。


 そして、ほんの少しだけ頷いた。


     *


 会議が終わったあと、真鍋が俺の横に来た。


「篠宮さん」


「はい」


「今日のあなたは、昨日よりマシでした」


「ありがとうございます」


「褒めてません」


「判断を保留します」


「それ、便利ですね」


「はい」


 真鍋は資料を小さく叩いた。


「ただ、気をつけてください」


「何を」


「届く道を作るのはいい。でも、道が増えると、作品は逃げ場を失うこともある」


 俺は真鍋を見た。


「売れた作品は、続けろと言われる。広げろと言われる。もっと売れと言われる。終わるにも、止まるにも、理由が必要になる」


 真鍋の声は低かった。


「あなたは売る準備の話をしている。でも、売れた後のことも考えた方がいい」


 まるマ。


 未来。


 伸びる作品。


 大きくなる作品。


 けれど、綺麗に終われるとは限らない作品。


 俺はその先を知っている。


 知っているが、言えない。


「売れた後も続けられる仕組み」


 俺は呟いた。


 真鍋の目が少し動いた。


「そうです」


 その言葉は、今日の会議のどの地雷より重かった。


 売れるようにする。


 届くようにする。


 それだけでは足りない。


 売れたあと、作品と作り手と読者を置き去りにしない仕組み。


 それがなければ、成功そのものが地雷になる。


「肝に銘じます」


「本当に?」


「はい」


「ならいいです」


 真鍋は去っていった。


 半分敵。


 半分味方。


 いや、たぶん編集者として、作品の味方なのだ。


 その意味では、俺より信用できる。


     *


 社長室に戻ると、机の上にケロロ軍曹が置かれていた。


 昨日、三浦が置いたものだ。


 表紙のカエルが、今日もこちらを見ている。


 俺はその隣に、まるマの資料を置いた。


 さらに、今日の取次会議のメモを並べる。



 探す本

 出会う本

 血管

 体温計

 協力店

 既存資料

 最初の一本

 売れた後も続けられる仕組み



 単語が増えている。


 人間関係も増えている。


 仕事も増えている。


 地雷も増えている。


 つまり、順調に悪化している。


 机の上の電話が鳴った。


「はい、社長室です」


『篠宮君』


 社長だった。


『会議はどうだった』


「血は出ませんでした」


『それは何よりだ』


「ただし、採血は始まりました」


『君の比喩はたまに気持ち悪いな』


「申し訳ありません」


『褒めていない』


「判断を保留します」


 社長は電話口で笑った。


『久我が、君の案を一部認めた』


「一部です」


『一部で十分だ。取次担当も動く。書店営業も店を出す。三浦も巻き込まれた』


「三浦さんには申し訳なく思っています」


『思っているだけか』


「はい」


『ひどいな』


「必要です」


 社長は少し黙った。


『篠宮君』


「はい」


『今日は少し、秘書ではなくなっていたな』


 心臓が、小さく跳ねた。


「失礼しました」


『悪い意味ではない』


「では、判断を保留します」


『保留ばかりだな』


「安全です」


『安全ではない道を選んでいるくせに』


 返せなかった。


 通話が切れる。


 俺は受話器を置いた。


 窓の外には、二〇〇一年五月の夕方があった。


 まだAmazonが本屋の顔をしている時代。


 まだ取次が出版流通の中心にいる時代。


 まだ書店の棚が、読者との出会いの場所だった時代。


 その三つが、いずれぶつかる。


 俺はその未来を知っている。


 未来で、そのぶつかった破片に値段をつけていた。


 だが今は。


 値段をつける前に、道を作る。


 血管を切るのではない。


 熱を測る。


 詰まりを探す。


 届かなかったものが、届くように。


 そのための一本を、今日、ようやく引き始めた。


     *


 夜。


 部屋に帰ると、留守番電話のランプが点滅していた。


 再生する。


『さっちゃん、航です。今日は遅くなるから、電話だけ。体温計、使えた?』


 使えた。


 かなり使えた。


 腹立たしいくらいに。


『あと、妹がまるマ面白かったって。二巻も読むって言ってた。なんか、友達にも貸すらしい』


 俺は再生機の前で固まった。


 未来の大ヒットではない。


 全国展開でもない。


 レーベルの柱でもない。


 ただ、ひとりの妹が面白いと言い、友達に貸す。


 それが始まりなのだ。


 作品が届くとは、たぶんそういうことだ。


 数字になる前に、誰かの手から誰かの手へ渡る。


 売上になる前に、言葉になる。


 ランキングになる前に、「これ面白かったよ」になる。


 俺は未来で、その先にある値段ばかり見ていた。


 だが、最初は値段ではない。


 声だ。


 誰かが、誰かに薦める声。


『じゃあ、ちゃんと寝て。ソファ禁止』


 留守番電話はそこで終わった。


 俺はしばらく黙っていた。


 それからメモ帳を開き、一行足した。


 

 最初の一本は、読者の声から始まる。



 書いたあと、少しだけ恥ずかしくなった。


 転売厨が何を綺麗なことを言っているのか。


 そう思った。


 だが消さなかった。


 今の俺には、たぶん必要な言葉だった。


 その夜、俺はベッドに入った。


 ソファではない。


 篠宮怜子の身体は、少しだけ安心したように沈んだ。


 目を閉じる直前、明日の予定を思い出した。


 協力店選定。


 書店向け説明文。


 Amazon商品情報確認。


 取次資料。


 フルメタ既刊在庫。


 仮称企画閲覧。


 小早川への顔面修正依頼。

 ⋯⋯もとい、化粧直し。


 仕事が多すぎる。


 平成十三年の社会人は、逆行転生者に厳しい。


 だが、今日は一つだけ進んだ。


 取次という血管に、ほんの少し指を当てた。


 脈は、まだ力強く動いていた。


 そして俺は、その音を聞いてしまった。


 もう、聞こえなかったことにはできない。

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