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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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5/8

第五話 さっちゃんの目の前に、年下彼氏と魔王が現れた

 篠宮怜子の部屋に、男物の歯ブラシがあった。


 社長面談から始まる散々な一日のあくる朝のことである。


 洗面台。


 俺は青い歯ブラシを見つめて、しばらく固まっていた。


 昨日の夜、俺はこの部屋に帰ってきた。


 帰ってきた、という表現が正しいのかは分からない。


 少なくとも俺にとっては二度目の部屋だった。

 だが篠宮怜子にとっては、生活の場所だった。


 仕事用の鞄。

 読みかけの文庫。

 冷蔵庫のヨーグルト。

 几帳面に畳まれた服。

 そして、洗面台の男物の歯ブラシ。


 生活の中に、他人の痕跡がある。


「……いるのか」


 声は冷たく整っていた。


 内容は完全に動揺していた。


 彼氏。


 たぶん彼氏。


 いや、男物の歯ブラシだけで断定するのは早い。

 兄弟かもしれない。

 親戚かもしれない。

 単に来客用かもしれない。


 そう思いたかった。


 だが、洗面台の下には男物の整髪料があり、玄関には俺の足より明らかに大きいスニーカーがあり、冷蔵庫には手書きのメモが貼ってあった。



 さっちゃんへ


 寝てたから先に仕事いくね。牛乳も無くなりそうだから買っとく。

 あと無理するな。     航




 詰んだ。


 ただの親戚や親兄弟が「さっちゃん」とは書かない。


 いや、書く可能性はある。

 だが、無理するな、の距離感が近すぎる。


「わたる……」


 名前を口にした瞬間、身体の奥が少しだけ反応した。


 知っている。


 篠宮怜子は、この名前を知っている。


 桐生航。


 二十五歳。


 年下。


 出版社の人間ではない。


 小さなIT系の会社にいる。

 企業サイトを作ったり、ネット通販の仕組みを触ったり、頼まれてよく分からないシステムを組んだりしている。


 そして、新しいものが好きだ。


 かなり好きだ。


 特に、インターネットが好きだ。


 そこまで身体が思い出したところで、電話が鳴った。


 俺は肩を跳ねさせた。


 この時代の固定電話は、通知音というより襲撃である。


「はい、篠宮です」


 受話器を取ると、若い男の声がした。


『さっちゃん?』


 終わった。


 いきなり来た。


 さっちゃん。


 篠宮怜子。


 読みは、さとこ。


 だから、さっちゃん。


 理屈は分かる。


 分かるが、破壊力が高い。


『おはよ。声硬いね。仕事みたい』


「⋯⋯自宅ですけど」


『うちでその声なの? 秘書モードじゃん』


 親しい。


 かなり親しい。


 この男は、篠宮怜子の仕事用の声と私生活の声を知っている。


 まずい。


 俺は昨日、この身体の化粧を落とすだけで精神的に三回死んだ男である。

 恋人対応など、難易度が高すぎる。


「実は、少々、体調が優⋯⋯良くなくて」


一昨日(おとつい)も変だったもんね。大丈夫?』


「問題ありません」


『問題ある時の返事だ、それ』


 読まれている。


 篠宮怜子、普段からどれだけ無理をしているんだ。


『昼、会社の近くまで行こうか』


「なぜ」


『なぜって、心配だから』


 心配。


 その言葉に、俺は少し詰まった。


 未来の俺を心配してくれる人間は、ほとんどいなかった。


 というより、俺がそういう人間関係を作らなかった。


 画面の向こうには購入者がいて、競合出品者がいて、配送業者がいて、プラットフォームがあった。

 だが、それは人間関係ではない。


 取引関係だ。


『あと、見せたいものあるし』


「見せたいもの?」


『Amazon』


 その単語で、眠気が完全に飛んだ。


『さっちゃん、昨日Amazonの話してたでしょ。俺、ちょっと面白いもの見つけた』


「……昼休みなら、三十分だけ」


『ほんと? いつもの喫茶店でいい?』


 いつもの喫茶店。


 知らない。


 だが身体が少しだけ反応した。


 会社の近く。

 地下。

 煙草臭い。

 コーヒーが濃い。


 篠宮怜子の記憶が、足元から薄く浮かんでくる。


「はい」


『よかった。じゃあ十二時半に』


「承知――」


『さっちゃん』


 遮られた。


『俺にまで、承知しましたって言わない』


 心臓が跳ねた。


「……分かった」


『うん。後で』


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 洗面台の青い歯ブラシを見る。


「お前か……」


 歯ブラシは何も答えなかった。


     *


 午前中、俺は仕事に追われた。


 三浦から書店別の消化率資料が届く。

 真鍋からフルメタル・パニック!関連の既存資料が届く。

 鷹取から、仮称企画の閲覧時間変更が来る。

 小早川には「今日も顔が終わってるわよ」と言われ、化粧を直された。


 そして社長からは、新しい会議予定が回ってきた。


 出版流通に関する意見交換

 出席予定者:営業局、取次担当、書店営業、社長室




 来た。


 取次。


 出版流通の血管。


 出版社と書店をつなぎ、配本し、返品を受け、金を回し、全国の棚を成立させている巨大な仕組み。


 そこに、Amazonという未来の怪物が絡む。


 地雷原である。


 俺はメモに書いた。


 Amazonを「ネット書店」と呼ばない。

 読者接点、検索、在庫表示、配送期待値の問題として扱う。




 書いてから、少し手が止まった。


 昼に会う桐生航は、たぶんAmazonを明るい未来として見ている。


 俺は、未来のAmazonを知っている。


 便利で、速くて、強くて、残酷な場所。


 公式が取り逃がした需要を、勝手に拾う場所。


 そして俺が、そこで小銭を拾っていた場所。


 同じものを見ているのに、見えている景色が違う。


 それが少し怖かった。


     *


 十二時半。


 会社近くの喫茶店で、桐生航は紙束を広げた。


 地下の店だった。


 煙草の匂い。

 銀の灰皿。

 分厚いメニュー。

 やたら濃いコーヒー。


 篠宮怜子の身体は、迷わず奥の席に座った。


 いつもの席らしい。


 怖い。


 俺の知らない生活が、身体の奥に残っている。


「これ」


 航は鞄から印刷した紙を取り出した。


 Amazonの商品ページのプリントアウトだった。


 まだ二〇〇一年の紙だ。


 画面の情報を紙にして持ってくる。


 令和の俺なら笑ってスクショしないの?と聞いたかもしれない。


 だがこの時代では、画面の情報を会議に持ち込むなら紙にするしかない。


「Amazonで本を探してたんだけどさ」


 航は楽しそうだった。


 若い。


 声が明るい。


 新しいものを見つけた人間の顔だ。


「これ、面白いんだよ。タイトルでも作者でも探せる。書店の棚を歩くのと違って、最初から“探す”場所なんだ」


「Amazonは検索導線です」


「そう。それ」


 航が指を鳴らした。


「さっちゃんの言い方だと硬いけど、それ。検索導線」


 彼は紙を一枚めくった。


「で、これ見て」


 そこにあったタイトルを見て、俺は少しだけ固まった。


 今日から(マ)のつく自由業!


 二〇〇〇年十一月に出た一巻。


 そして、先月出たばかりの二巻。


 今度は(マ)のつく最終兵器




 俺は思わず紙に手を伸ばした。


 航が目を丸くする。


「知ってるの?」


「……観測対象として優秀です」


「好きなの?」


「観測対象として優秀です」


「二回言った」


 好きとは言っていない。


 言っていないが、未来を知っている俺には分かる。


 これは伸びる。


 ただの一冊では終わらない。


 女性向け。


 異世界トリップ。


 ギャグ。


 美形キャラクター。


 主従。


 魔王。


 軽さ。


 強さ。


 読者が人に説明したくなる引っかかり。


 そして、後に角川ビーンズ文庫の柱になる。


 今はまだ、そこまでの扱いではない。


 ここが気持ち悪い。


 未来で大きくなるものが、今はまだ紙の束の中で静かに息をしている。


 俺だけが、その先を知っている。


「航」


「うん」


「なぜこれを?」


「妹に頼まれてさ」


 妹。いるんだ。


「でも、変なタイトルだよね、これ」


 航は続けた。


「検索で見つけた時に、目が止まる。あと、一巻と二巻のタイトルのつけ方が似てるから、シリーズだってすぐ分かる。Amazonだと背表紙じゃなくて文字で見るから、タイトルの癖って大事だと思う」


 俺は黙った。


 この男、かなり危ないところを突いてくる。


 書店の棚では、背表紙、表紙、平台、帯、POPが強い。


 だがAmazonでは違う。


 タイトル。


 著者。


 商品説明。


 検索結果。


 関連情報。


 読者の目に入る文字の強さ。


 棚で勝つ本と、検索で勝つ本は違う。


「あとさ」


 航はもう一枚の紙を出した。


「この作品、置く棚を間違えたら損すると思う」


 俺は顔を上げた。


「なぜ」


「女の子向けっぽいけど、設定だけ見ると男でも読めるじゃん。異世界に飛ばされて魔王になる。しかもコメディ。これ、棚で狭く扱うより、タイトルと説明で広げた方がいい」


 俺は、しばらく航を見た。


「何?」


「あなたは、本当にIT系ですか」


「一応」


「編集者ではなく?」


「違うよ」


「本屋の店員でもなく?」


「違う」


「営業でもなく?」


「違うって」


「厄介ですね」


「褒めてる?」


「判断を保留します」


 航は笑った。


 その笑顔を見て、少しだけ分かった。


 この男はAmazonが好きなのではない。


 まだ誰も踏んでいない道が好きなのだ。


 検索する。


 見つける。


 説明を読む。


 知らない本にたどり着く。


 棚の外で本と出会う。


 その可能性に興奮している。


 俺は未来で、その可能性が怪物になるところを見た。


 だが、最初から怪物だったわけではない。


 最初はたぶん、こういう顔をしていた。


「航」


「うん」


「この紙、借りてもいいですか」


「いいよ。というか、そのつもりで持ってきた」


「なぜ」


「さっちゃん、仕事で使う顔してる」


 読まれている。


 俺は紙束を受け取った。


 手の中に、初めて勝ち筋らしいものが乗った気がした。


     *


 昼休み明け。


 俺は社長室に戻るなり、三浦を呼んだ。


 三浦は紙袋を抱えて現れた。


「篠宮さん、また資料ですか」


「はい」


「鬼ですか」


「秘書です」


「昨日も聞きました」


「では慣れてください」


 俺は航から借りたAmazonのプリントアウトを机に広げた。


 三浦の目が止まる。


「今日からマのつく自由業?」


「知っていますか」


「知ってます。ティーンズルビーのやつですよね。二巻が出たばかりの」


「書店での動きは?」


 三浦は少し考えた。


「変です」


「変」


「大きく積んでるわけじゃないのに、じわっと動いてます。あと、棚の前で迷うお客さんがいるって聞きました。タイトルで止まるらしいです」


「男性客は?」


「少ないです。でも、ゼロじゃない」


「女性客は?」


「強いです。特に、店員さんが分かってる店だと動く」


 俺はメモを取った。


 Amazonの検索導線。


 書店の棚前停止。


 タイトルの癖。


 女性向けだが、設定は広げられる。


 異世界トリップ。


 魔王。


 コメディ。


 シリーズタイトルの反復性。


 そして、秋の新レーベル。


 俺の中で線がつながった。


「三浦さん」


「はい」


「この作品、秋の女性向け新レーベル再編と絡みますか」


 三浦の顔が変わった。


「あの話、社長室まで来てるんですか」


「来ています」


 嘘ではない。


 たぶん。


「詳しくは編集の方が」


「編集に行きます」


「今から?」


「今から」


「篠宮さん、昼休み明けですよ」


「昼休みに観測しました」


「何を?」


「魔王です」


 三浦が黙った。


「……篠宮さん、たまにすごいこと言いますね」


「判断を保留します」


     *


 文庫編集部の真鍋は、俺の顔を見るなり嫌そうな顔をした。


「今度は何ですか」


「魔王です」


「帰ってください」


 正しい反応だった。


 俺は資料を机に置く。


「『今日から(マ)のつく自由業!』と『今度は(マ)のつく最終兵器』について確認したいです」


 真鍋の表情が少し変わった。


「それはうちの担当ではありません」


「分かっています」


「じゃあなぜ来る」


「文庫編集部内の横断確認です。女性向け新レーベルの準備状況も含めて」


「社長室はどこまで聞いてるんですか」


「必要なところまでです」


 便利な言い方だった。


 真鍋はため息をついた。


「篠宮さん、正直に言いますけどね」


「はい」


「あなたは昨日から、地雷ばかり踏んでいる」


「自覚はあります」


「自覚があるなら避けてください」


「避けると観測できません」


「最悪だ」


 真鍋は頭をかいた。


 それから、編集部の奥へ声をかけた。


「佐伯さん、ちょっと」


 呼ばれて出てきたのは、二十代後半くらいの女性編集者だった。


 少し疲れている。

 だが目が強い。


 抱えているゲラの束には、少女向け文庫らしい華やかなタイトルが並んでいた。


「社長室の篠宮さん。例の改革の人」


「その紹介は不本意です」


「だいたい合ってるでしょう」


 佐伯という編集者は俺を見て、軽く頭を下げた。


「佐伯です。ティーンズルビーと、秋の新レーベル準備を少し」


 来た。


 秋の新レーベル。


 角川ビーンズ文庫。


 まだ名前は表に出ていないかもしれない。


 だが、ここではもう準備が進んでいる。


 俺は資料を差し出した。


「まるマを、新レーベルの柱として扱うべきです」


 佐伯の表情が止まった。


 真鍋が露骨に眉を上げた。


「いきなりですね」


「時間がありません」


「秋の話ですよ」


「秋はすぐ来ます」


 俺はAmazonのプリントアウトと、三浦から聞いた書店反応のメモを並べた。


「この作品は、棚と検索の両方で引っかかります」


「検索?」


 佐伯が紙を見る。


「Amazonですか」


「はい」


 真鍋が渋い顔をした。


「またAmazonか」


「ただのネット書店として見ないでください。タイトル検索、シリーズ導線、商品説明、書誌情報。棚に置いた時とは違う形で読者に届きます」


 佐伯は黙って紙を読んでいる。


「一方、書店ではタイトルで足が止まっています。女性向けとして狭く置くと強い読者に刺さる。ですが、異世界トリップ、魔王、コメディとして見ると、もう少し広がる」


「異世界トリップ」


 佐伯が小さく繰り返した。


 この時代では、まだジャンル名として今ほど雑に流通していない言葉だ。


 言いすぎたか。


 だが、佐伯は嫌な顔をしなかった。


 むしろ、少し考え込んでいる。


「つまり?」


 真鍋が言った。


「どうしろと」


「新レーベル創刊時、既刊扱いにしないでください」


 俺は言った。


「創刊の顔として、最初から読者導線を作る。書店には一巻、二巻を必ず併売。平台用の短い説明文を統一。Amazonにはタイトル、シリーズ順、作品説明がつながるよう確認。公式サイトにも作品ページを用意する」


「公式サイト?」


「はい」


「そんなもの、誰が見るんですか」


「未来の読者です」


 真鍋が半目になった。


「また未来ですか」


「失礼しました。遠方の読者です」


 言い換えた。


「地方の書店で見つからない読者。タイトルだけ聞いた読者。雑誌広告を見て検索する読者。そういう人が、公式にたどり着ける場所を作るべきです」


 佐伯はAmazonの紙を見たまま、ぽつりと言った。


「これ、たしかに検索で強いですね」


 真鍋が佐伯を見る。


「佐伯さん?」


「タイトルが強いです。口に出したくなるし、シリーズ化した時に覚えやすい。あと、女性向けだけどギャグが立ってるので、重くなりすぎない」


 佐伯は顔を上げた。


「篠宮さん」


「はい」


「これ、売れると思いますか」


 来た。


 未来を知っている俺は、答えを知っている。


 売れる。


 伸びる。


 アニメ化する。


 コミカライズもする。


 シリーズ累計で大きな数字になる。


 だが、その先は――。それを言うわけにはいかない。


 だから、言い方を変える。


「売れるかどうかは、まだ分かりません」


 佐伯の目が細くなる。


「ただし」


 俺は続けた。


「売れた時に、取りこぼす構造がすでに見えています」


 会議室ではない。


 編集部の片隅だ。


 周囲では電話が鳴り、誰かがゲラを抱えて走り、コピー機が音を立てている。


 その雑音の中で、俺の声だけが少し冷えた。


「棚を狭く見る。既刊をそろえない。シリーズ順を分かりにくくする。公式の入口を作らない。読者が検索しても、どれから読めばいいか分からない」


 一度、言葉を切る。


「それは売れないのではありません。売る準備ができていないだけです」


 真鍋は黙っていた。


 佐伯も黙っていた。


 俺は、航の言葉を思い出す。


 探す本と、出会う本は違う。


 Amazonは探す本に強い。


 書店は出会う本に強い。


 なら出版社は、両方の道を作らなければならない。


「この作品は、出会えば強いです」


 俺は言った。


「だから、探しても見つかるようにしてください」


 その瞬間、佐伯の顔が変わった。


 ほんの少しだ。


 だが、目に火が入った。


 編集者の顔だった。


「真鍋さん」


 佐伯が言った。


「これ、営業と相談していいですか」


「俺に聞かれても」


「新レーベルの創刊台に入れるなら、今から書店向けの説明を作りたいです。既刊併売も、営業と握っておきたい」


 真鍋は俺を見た。


 嫌そうだった。


 だが、完全に否定する顔ではなかった。


「篠宮さん」


「はい」


「また仕事を増やしましたね」


「はい」


「反省は」


「しています」


「嘘でしょう」


「判断を保留します」


 真鍋は大きくため息をついた。


「佐伯さん、営業の三浦くんを呼んで。あと、書店向けの簡単な文言を今日中に仮で出す。篠宮さん」


「はい」


「あなたも残ってください」


「なぜ」


「言い出したからです」


 正論だった。


 だが、その瞬間。


 俺の胸の奥で、何かが小さく鳴った。


 動いた。


 人が動いた。


 俺が出した資料で、編集者が考え、営業を呼び、書店向けの導線を作ろうとしている。


 会議で社長に命じられたからではない。


 数字と紙と、ほんの少しの未来の匂いで、現場が自分から動いた。


 これだ。


 たぶん、これが快感なのだ。


 未来の俺が知っていた快感とは違う。


 限定版を拾った時の快感ではない。

 相場が跳ねた時の快感でもない。

 競合より先に在庫を確保した時の快感でもない。


 もっと面倒で、もっと遅くて、もっと人間臭い。


 届くかもしれない。


 まだ棚にない読者へ。


 まだ検索することも知らない読者へ。


 まだ自分がこの物語を好きになることも知らない誰かへ。


 作品が届く道が、一本増える。


 その感じがした。


「篠宮さん」


 佐伯が言った。


「この説明文、硬すぎます」


 俺は我に返った。


「どれですか」


「『検索導線におけるシリーズ認知優位性』」


「正確です」


「読者にも書店員さんにも伝わりません」


「では、どうしますか」


 佐伯は赤ペンを取り、俺の文言を容赦なく消した。


 そして、短く書いた。


 ある日突然、魔王になりました。




 強い。


 俺は黙った。


 真鍋が横から覗き込む。


「いいですね」


 三浦が呼ばれてやって来る。


「何ですか、急に」


 佐伯が紙を渡す。


「これ、書店さんにどう見えます?」


 三浦は目を通し、少し笑った。


「タイトルと合わせると強いですね。平台で足が止まると思います」


「既刊併売は?」


「二巻が出たばかりなら、むしろ今やるべきです。一巻がないと意味がないので」


 佐伯が頷く。


 真鍋がメモを取る。


 三浦が書店名を挙げる。


 俺はその光景を見ていた。


 人が、動いている。


 作品を届けるために。


 未来の巨大な成功ではない。


 ただの、小さな準備だ。


 でも、そこには確かに熱があった。


 俺はその熱に、値段をつけなかった。


 ただ、道を一本引いた。


     *


 夕方。


 社長室に戻ると、社長が俺の机の上の資料を見ていた。


「魔王を拾ったそうだな」


 情報が早すぎる。


「観測対象として優秀でした」


「また観測か」


「はい」


「で、どうだった」


 俺は少しだけ考えた。


 佐伯の赤ペン。


 三浦の書店名。


 真鍋のため息。


 航のAmazonプリントアウト。


 そして、短い文言。


 ある日突然、魔王になりました。




「動きました」


「何が」


「人が」


 社長は黙った。


「数字ではなく、人が先に動きました」


 俺は言った。


「悪くありません」


 社長は、少しだけ満足そうに笑った。


「篠宮君」


「はい」


「それが味方を作るということだ」


 俺は返事に詰まった。


 味方。


 佐伯はまだ味方ではない。


 真鍋はたぶん半分敵だ。


 三浦は面白がっている。


 航は社外の地雷だ。


 社長は俺を前線に投げる上司である。


 それでも。


 今日、作品が届く道は少し増えた。


「承知いたしました」


「私にまで、それか」


「癖です」


 社長は笑った。


「明日は取次だ」


 その一言で、胃が冷えた。


 快感は終わった。


 次は地雷原である。


     *


 夜。


 部屋に帰ると、電話が鳴った。


「はい、篠宮です」


『さっちゃん? どうだった、あの紙。Amazonの』


 航だった。


「使いました」


『おお。役に立った?』


「はい」


『よかった』


 電話口の声が、素直に嬉しそうだった。


「航」


『うん』


「あなたの言った、探す本と出会う本の話」


『うん』


「使えます」


『ほんと?』


「はい。ただし、危険です」


『危険かあ』


 航は笑った。


『でも、危険なものって、だいたい面白いよね』


「その考え方は危険です」


『さっちゃんも人のこと言えないよ』


 返せなかった。


 俺は机の上に置いたメモを見る。


今日から(マ)のつく自由業!

 今度は(マ)のつく最終兵器

 創刊導線、既刊併売、公式入口、検索文言

 ある日突然、魔王になりました。




 その下に、俺は赤ペンで一行を足していた。


 最初の一本。




 それは、作品別統合管理台帳のことではない。


 改革のことでもない。


 届く道のことだ。


 未来で俺が値段をつけてきた、届かなかったもの。


 その反対側に、初めて一本の道を作った気がした。


『さっちゃん?』


「はい」


『黙ってる』


「少し、疲れました」


『珍しい。ちゃんと言った』


「事実です」


『今日は寝なよ。ソファじゃなくてベッドで』


 なぜ知っている。


 いや、篠宮怜子ならやりかねないと読まれているのか。


「善処します」


『それ、寝ないやつだ』


「努力します」


『それも怪しい』


 航は少し笑ったあと、声を柔らかくした。


『お疲れ、さっちゃん』


 その言葉は、思ったより深く沁みた。


 俺ではなく、篠宮怜子に向けられた言葉かもしれない。


 それでも、今それを受け取るのは俺だった。


「……ありがとう」


 電話の向こうで、航が一瞬黙った。


『うん』


 通話が切れた。


 俺は受話器を置き、メモをもう一度見た。


 魔王。


 Amazon。


 書店。


 新レーベル。


 検索。


 棚。


 読者。


 全部がつながり始めている。


 小さな一本だった。


 だが、一本はゼロではない。


 平成十三年五月。


 紙の帝国の片隅で、俺は初めて、未来を少しだけ動かした。

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