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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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4/4

第四話 紙の帝国に、味方は少ない

 翌朝。


 俺は、篠宮玲子の部屋のソファで目を覚ました。


 首が痛い。


 腰も痛い。


 そして、目の前のメモ帳には、寝る前には書いた覚えのない一行が残っていた。



 九、ハルヒ。新人賞制度を確認。




「……寝ぼけて書く内容じゃねえだろ」


 声は、冷たく整った女の声だった。


 内容は、未来知識の漏洩である。


 まずい。


 かなりまずい。


 涼宮ハルヒは、まだこの時代に存在しない。


 いや、作者本人は存在している。

 原稿も、いつかは書かれる。

 新人賞も、どこかで動き出す。


 だが、少なくとも二〇〇一年五月の角川書店社長秘書が、朝っぱらからメモ帳に書いていい名前ではない。


 俺はメモ帳を破ろうとして、手を止めた。


 破るな。


 消すな。


 未来の記憶は、証拠であると同時に武器だ。


 ただし、見られたら終わる。


 俺はメモ帳を閉じ、鞄の奥へ押し込んだ。


 その瞬間、現実がやって来た。


 出社しなければならない。


 昨日、俺は役員会で改革案をぶち上げた。


 社長直轄の試験運用案をまとめることになった。


 営業の三浦から資料を集める約束をした。


 そして、社長との朝一面談がある。


 普通に仕事が積まれている。


 転生ものなら、もう少しチュートリアル期間をくれ。


 だが、平成十三年の社会人(しゃちく)生活は甘くない。


 転生者にも出勤義務がある。


     *


 出社して最初に俺を待っていたのは、社長ではなかった。


 秘書課の先輩だった。


「玲子さん」


 廊下の角で声をかけてきた女は、三十代前半くらいに見えた。


 細身のスーツ。

 まとめた髪。

 笑っているのに目が笑っていない。


 秘書課の人間だ。


 身体がそう判断した。


 名前は、少し遅れて出てきた。


 小早川由香。


 社長室ではなく、役員秘書側のまとめ役。

 篠宮玲子とは、たぶん近い。

 親友ではない。

 敵でもない。

 同じ戦場で別の上司を支える同業者。


 そういう距離感だった。


「おはようございます、小早川さん」


「おはよう。昨日、ずいぶん派手にやったらしいわね」


 終わった。


 社内にもう広がっている。


「通常業務の範囲内です」


「役員会で『普通なので失敗します』って言うのは、通常業務ではないと思うわ」


 正論だった。


 俺は無表情で黙った。


 小早川は一歩近づき、俺の顔を覗き込んだ。


「顔色、悪い」


「問題ありません」


「ファンデーション、浮いてる」


「問題があります」


 即答してしまった。


 小早川は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「珍しい。玲子さんが弱音を吐いた」


「今のは客観的事実の報告です」


「そういうところは変わらないのね」


 小早川は鞄から小さなポーチを出した。


「五分」


「はい?」


「化粧室。五分で直す」


 助かった。


 いや、助かりすぎる。


 俺は今、KADOKAWAの未来より先に、篠宮玲子の顔面インフラを支える必要があった。


 化粧室に連行される。


 小早川の手際は、速かった。


 化粧直し。


 髪。


 襟元。


 社員証の向き。


 俺が理解する前に、篠宮玲子が元の篠宮玲子らしく整えられていく。


「寝てないでしょ」


「少しは」


「どこで」


「ソファで」


「最悪」


「同感です」


 小早川はため息をついた。


「玲子さん、昨日から少し変よ」


 心臓が跳ねた。


「体調が優れないだけです」


「それ、社長にも言った?」


「はい」


「便利な言葉ね」


「便利です」


「でも、ずっとは使えないわよ」


 その言葉だけ、少し優しかった。


 小早川は最後に、俺の前髪を軽く整えた。


「役員に喧嘩を売るなら、顔だけは崩さないこと」


「喧嘩を売ったつもりはありません」


「売ってる人は、だいたいそう言うの」


 この人は鋭い。


 危険だ。


 だが、ありがたい。


 この時代で最初にできた、生活面の命綱かもしれない。


「ありがとうございます」


 俺がそう言うと、小早川は少しだけ目を丸くした。


「本当に変ね」


「感謝は通常業務です」


「そういう返しは変わらないのね」


 小早川はポーチを閉じた。


「玲子さん」


「はい」


「社長は面白がってる。でも、他の役員は違う。秘書課まで巻き込まないで」


 冷たい言い方だった。


 だが、そこには警告だけでなく心配も混じっていた。


 俺は頭を下げた。


「留意します」


「留意じゃなくて、ちゃんと生き残って」


 それだけ言って、小早川は化粧室を出ていった。


 ちゃんと生き残って。


 その言葉が、妙に胸に残った。


 俺は昨日、本当に死んだのかもしれない。


 だが篠宮玲子には、この時代で心配してくれる人がいる。


 その事実が、少しだけ重かった。


     *


 社長との朝一面談は、九時ちょうどに始まった。


 社長室には、相変わらず紙と煙草とコーヒーの匂いがした。


 俺は昨日作った試験運用案を机に置いた。


「対象作品を三つに絞ります」


「聞こう」


「過去成功例から一つ。現在進行作品から一つ。次世代複合企画から一つです」


 社長は資料をめくった。


「過去成功例は?」


「スレイヤーズを第一候補にします」


「ロードスではなく?」


「ロードスは歴史です。古すぎるわけではありませんが、現在の若年層向けメディアミックスの検証には、スレイヤーズの方が扱いやすいと判断します」


「エヴァは?」


「例外です」


「ずいぶん便利な分類だな」


「例外を基準にすると、全員が不幸になります」


 社長は少し笑った。


「現在進行作品は?」


「フルメタル・パニック!です」


「理由は」


「文庫、漫画、アニメ化、雑誌展開を接続して検証できます。作品の性格も混合型です。学園、ミリタリー、ロボット、コメディ。読者層を広げる余地があります」


「次世代複合企画は?」


 来た。


 俺は一拍置いた。


「映像部と外部ゲーム会社が絡む企画を確認したいです」


 社長の目が細くなった。


「なぜ、あると思う」


 まずい。


 言いすぎたか。


 俺は表情を動かさずに答える。


「この会社が今後コンテンツ企業として生きるなら、出版から映像へ送るだけでは足りません。ゲーム、アニメ、出版を最初から同時に設計する企画が、必ず必要になります」


「必要だから、すでにあると?」


「はい」


「勘か」


「観測です」


「何を観測した」


「役員会で映像担当役員の表情が動きました」


 社長は、今度こそ声を出して笑った。


「君は怖いな」


「褒めていませんね」


「褒めている」


「でしたら、判断を保留します」


 社長は資料を閉じた。


「映像部の鷹取に話を通す。午後、会え」


「承知いたしました」


「それと、文庫編集の真鍋にも会え。昨日から君に対して、かなり怒っている」


 怒っている。


 そりゃそうだ。


 いきなり社長秘書が役員会で「作品を管理しろ」「属人運用禁止」と言ったのだ。


 編集者からすれば、現場を知らない管理屋に見える。


 最悪の第一印象である。


「承知いたしました」


「最後に」


「はい」


「メディアワークスには、今は触るな」


 俺は一瞬、動きを止めた。


 メディアワークス。


 電撃。


 未来のライトノベル史で無視できない名前。


 この時点では、角川本体とは近いが、完全に同じ棚の中に入れて扱える存在ではない。


 つまり、社内政治的に面倒な場所。


「……理由を伺っても」


「君は昨日、弾倉と言ったな」


「はい」


「弾倉にも、他人の指を入れられたくない者がいる」


 なるほど。


 分かりやすい。


 分かりやすく、面倒だ。


 俺は頭を下げた。


「現時点では、富士見、スニーカー、エース、ニュータイプ周辺に限定します」


「よろしい」


 社長は満足そうに頷いた。


「篠宮君」


「はい」


「改革は正しさだけでは通らない」


「承知しております」


「君は、昨日から正しいことを言いすぎている」


 刺さった。


 正しいことを言いすぎている。


 未来でも、そういう奴は嫌われる。


 しかも俺は、未来で大して正しくなかった人間だ。


 市場の歪みに寄生していた男が、過去で正論を振り回している。


 滑稽だ。


 だが、止めるわけにはいかない。


「気をつけます」


「いや」


 社長は言った。


「気をつけるな。味方を作れ」


 それだけ言って、社長は次の資料に目を落とした。


 面談は終わりだった。


 味方を作れ。


 社長命令としては、かなり難易度が高い。


 俺は元転売厨である。


 味方の作り方より、競合出品者の価格の下げ方の方が詳しい。


     *


 午前十時半。


 営業局の三浦が、紙袋を抱えて社長室にやって来た。


「篠宮さん、持ってきました」


 紙袋の中には、書店別の売上資料、フェア報告、追加注文の記録、返品率のメモが詰まっていた。


 重い。


 物理的に重い。


「ありがとうございます」


「三年分は無理でした。とりあえず、一年分です」


「十分です」


「十分なんですか」


「今日の午前中としては」


「篠宮さんの十分、怖いですね」


 三浦は笑った。


 この人は、俺をそこまで怖がっていない。


 ありがたい。


 いや、ありがたいというより、貴重だ。


「三浦さん」


「はい」


「現場の書店員で、フルメタル・パニック!の動きに詳しい方はいますか」


「いますね。秋葉原と池袋に強い店があります。あと、地方でも妙に動く店があります」


「地方?」


「軍事系と学園ラブコメが一緒に刺さってる感じです。説明しづらいんですけど」


「説明しづらいものほど、台帳に入れる価値があります」


 三浦は首を傾げた。


「そういうものですか」


「はい。説明しやすいものは、誰かがすでに説明しています」


「なるほど」


 三浦はメモを取った。


 素直だ。


 かなり助かる。


「それと、ケロロ軍曹なんですけど」


「はい」


「あれ、現場だと不思議なんですよ。濃い読者向けかと思うと、妙に若い子も手に取るんです。あと、表紙が目立つ」


「棚で勝てる顔です」


「棚で勝てる顔」


「はい。カエルなので」


 三浦が笑いをこらえた。


「篠宮さん、カエルに信頼置きすぎじゃないですか」


「カエルは裏切りません」


「いや、カエルにもよると思います」


 くだらない会話だった。


 だが、こういうくだらなさが少しだけありがたかった。


 昨日からずっと、俺の周りには重いものしかなかった。


 知らない身体。


 知らない時代。


 役員会。


 改革案。


 未来の損失。


 その中で、三浦の「カエルにもよる」は、やけに人間らしかった。


「三浦さん」


「はい」


「昨日、面白くなりそうと言いましたね」


「言いました」


「なぜですか」


 三浦は少し考えた。


「現場って、けっこう悔しいんですよ」


「悔しい」


「売れると思った本が足りない。積みたい店に配本が薄い。逆に、積んでも動かない本がある。編集は編集の言い分があって、営業は営業の言い分があって、書店さんは書店さんで怒ってる」


 三浦は紙袋を軽く叩いた。


「でも、あとから振り返る場所がないんです。あの時、何が合ってて、何が外れてたのか。だいたい次の仕事に流される」


 俺は黙って聞いた。


「篠宮さんの台帳、面倒くさいです」


「はい」


「でも、残るなら意味あります」


 その言葉は、思ったより深く刺さった。


 残るなら意味がある。


 俺は未来で、何度も残らなかった熱を見てきた。


 公式在庫が切れた瞬間、読者の怒りだけが残る。


 相場だけが残る。


 高値の取引履歴だけが残る。


 その作品を欲しかった人の顔は、どこにも残らない。


「三浦さん」


「はい」


「この仕事、たぶん嫌われます」


「でしょうね」


「逃げても構いません」


「今それ言います?」


「逃げ道の提示は重要です」


 三浦は少し笑った。


「じゃあ、逃げません。面白そうなので」


 この人は、たぶん味方になる。


 そう思った瞬間、少しだけ怖くなった。


 味方ができるということは、巻き込む相手ができるということだ。


 未来で俺は、巻き込む相手などいなかった。


 ひとりで仕入れ、ひとりで売り、ひとりで怒られ、ひとりで倒れた。


 だが、この時代では違う。


 何かを変えるには、人を巻き込まなければならない。


 そして、人を巻き込めば、その人の人生にも傷がつく。


「篠宮さん?」


「問題ありません」


「問題ありそうな顔でしたけど」


「顔面管理は先ほど修正済みです」


「何の話ですか」


「こちらの話です」


     *


 午後一時。


 俺は文庫編集部へ向かった。


 社長から会えと言われた真鍋という編集者は、すぐに分かった。


 机の上が異様に汚い。


 原稿。


 ゲラ。


 校正紙。


 封筒。


 読者アンケート。


 飲みかけの缶コーヒー。


 そして、目つきの悪い三十代後半の男。


 それが真鍋だった。


「社長室の篠宮です」


「知ってますよ」


 返事が冷たい。


 おお。


 嫌われている。


「昨日はずいぶん派手にやったそうで」


「事実確認の範囲です」


「編集部を属人芸呼ばわりするのが?」


「属人芸自体は否定していません」


「へえ」


 真鍋は椅子にもたれた。


「じゃあ何を否定したんですか」


「属人芸に依存したまま、会社の仕組みを作らないことです」


 空気が硬くなった。


 真鍋の目が細くなる。


「篠宮さん」


「はい」


「作品は表計算で作るものじゃない」


「同意します」


「本当に?」


「はい。表計算で作れるなら、編集者は不要です」


「ずいぶん言うね」


「ですが」


 俺は続けた。


「表計算で守れるものはあります」


 真鍋が黙った。


「初版部数。重版判断。広告時期。契約期限。既刊の在庫。映像化時の増刷。書店フェアの棚。読者が欲しいと思った時に、買える状態を作ること」


 俺は資料を机に置いた。


「作品は表計算で作れません。でも、作品が届くかどうかは、表計算でかなり変わります」


 真鍋は資料を見なかった。


 代わりに、こちらを睨んでいた。


「現場を知らない秘書に、何が分かる」


 来た。


 正面から来た。


 俺は一瞬、言葉に詰まった。


 現場。


 俺の現場は、未来の六畳ワンルームだった。


 段ボールの山。


 Amazonの管理画面。


 ゆうちょの止まった追跡番号。


 購入者の怒り。


 それを出版現場と呼ぶのは、違う。


 だが、需要の末端ではあった。


 欲しい人間と、届かない商品がぶつかる場所。


 そこに俺はいた。


「私は」


 言いかけて、止めた。


 転売厨でした、とは言えない。


 未来から来ました、とも言えない。


 だから、別の言葉を選ぶ。


「届かなかった側を見ています」


 真鍋の眉が動いた。


「売れなかった本ではなく、届かなかった本です。欲しい人がいて、探す人がいて、でも棚になくて、増刷が遅れて、熱が別の場所へ流れる。その後の市場を見ています」


「市場?」


「中古、オークション、個人売買です」


「そんなもの、編集が考えることじゃない」


「今は、そうかもしれません」


 俺は静かに言った。


「ですが、いずれ考えなければならなくなります」


 真鍋は鼻で笑った。


「未来でも見てきたみたいな言い方ですね」


 心臓が止まりかけた。


 だが、篠宮玲子の顔は動かなかった。


「未来ではなく、読者の動きです」


「読者ね」


 真鍋はようやく資料を手に取った。


「フルメタを試験対象にしたい、と」


「はい」


「作者に余計な負担はかけないでください」


 その言葉に、少しだけ印象が変わった。


 この人は怒っている。


 だが、守ろうとしている。


 作品と作者を。


「約束します」


「簡単に約束しないでください」


「では、条件化します」


「は?」


「作家への追加負荷を原則禁止。必要な情報は既存資料、編集部ヒアリング、営業資料から取得。新規依頼は編集担当承認制」


 真鍋が目を見開いた。


「……本当に書くんですか」


「書きます」


「面倒くさい人ですね」


「よく言われますか?」


「あなたがです」


「判断を保留します」


 真鍋は初めて、少しだけ笑った。


 ほんの少しだけ。


「篠宮さん」


「はい」


「数字で作家を殴らないでください」


 その声は、さっきより低かった。


「売れた、売れない。伸びた、落ちた。そういう数字は、便利です。でも、便利な刃物です」


 俺は黙った。


「数字を見るなら、作り手が折れない見方をしてください」


 編集者だ。


 この人は、ちゃんと編集者だった。


 数字を嫌っているのではない。


 数字が人を傷つけることを知っている。


 俺は頭を下げた。


「肝に銘じます」


「本当に?」


「はい」


「じゃあ、協力します」


 真鍋は資料を机の上に置いた。


「ただし、篠宮さん」


「はい」


「フルメタを“観測対象”呼ばわりするのは、やめた方がいい」


「なぜですか」


「編集部で嫌われます」


 すでに嫌われている気がする。


 だが、素直に頷いた。


「以後、重点作品と呼びます」


「それも硬い」


「では、何と」


「普通に作品でいい」


 真鍋は言った。


「作品は、作品です」


 その言葉は、単純すぎて、少し痛かった。


     *


 午後三時。


 映像部の鷹取は、真鍋とは別の意味で危険な男だった。


 四十代前半。

 派手ではないが、目が忙しい。

 机には映画のチラシ、アニメの企画書、ゲーム会社の名刺、海外マーケットの資料が散らばっている。


 この人は、紙の上だけを見ていない。


 画面を見ている。


 音を見ている。


 他社を見ている。


 未来に近い匂いがした。


「社長から聞いています」


 鷹取は名刺を差し出した。


「篠宮さん、昨日、役員会でずいぶん面白いことを言ったそうですね」


「面白さは目的ではありません」


「でしょうね。面白い人は、自分のことを面白いと言わない」


 この人もやりにくい。


 俺は資料を差し出した。


「同時展開型企画について、確認したいことがあります」


「同時展開?」


「ゲーム、アニメ、出版を同時に走らせる企画です」


 鷹取の表情が、ほんのわずかに止まった。


 当たりだ。


 だが、ここで踏み込みすぎるな。


「一般論として、その種の企画は媒体ごとの成果が見えにくくなります」


「一般論ですか」


「はい」


「一般論にしては、ずいぶん具体的だ」


「職業病です」


「秘書の?」


「本日から増えました」


 鷹取は笑った。


「なるほど。では、一般論として答えます」


 そう言って、鷹取は机の引き出しから薄いファイルを出した。


 表紙には正式タイトルはない。


 ただ、仮称とだけ書かれている。


 ネットゲーム風の世界。


 現実と仮想の二重構造。


 ゲームを中心に、アニメ、書籍、漫画が連動する構想。


 俺は表情を動かさないようにした。


 無理だった。


 たぶん、ほんの少しだけ目が動いた。


 .hack。


 その名前は、まだ表紙にはない。


 だが、骨格はそこにあった。


 未来のメディアミックス企画が、まだ名前になる前の状態で、紙のファイルに収まっている。


 変な感動があった。


 同時に、怖かった。


 これを知っている。


 俺は、これの未来を知っている。


 だが、この時代の彼らはまだ知らない。


 その非対称性が、ずるい。


「篠宮さん」


 鷹取が言った。


「どう見ます」


 俺はファイルを閉じた。


「危険です」


「失敗すると?」


「成功しても危険です」


 鷹取の目が細くなった。


「理由は」


「媒体が多すぎます。ゲーム、アニメ、出版、漫画、宣伝。どれかが遅れると、全体の印象が崩れる。どれかが先に当たると、他の媒体が追いつけない。成功要因が分解できないと、次に再現できません」


「では、やめるべきだと?」


「いいえ」


 俺は即答した。


「絶対にやるべきです」


 鷹取が笑った。


「危険なのに?」


「危険だからです」


 俺はファイルに手を置いた。


「これから先、作品は一つの媒体に閉じていられなくなります。本、映像、ゲーム、ネット。読者はそれぞれ別の入口から入ってきます。入口が増えるほど、会社側の管理は難しくなる」


 一度、言葉を切る。


「ですが、難しいからこそ、今やるべきです。失敗しても、会社に経験が残ります。成功すれば、次の型になります」


 鷹取はしばらく黙っていた。


「篠宮さん」


「はい」


「あなたは、ネットゲームをやりますか」


 俺は固まった。


 二〇二六年の俺なら、やる。


 いや、やっていた時期もある。


 だが篠宮玲子はどうだ。


 この時代の彼女は。


 分からない。


「少しだけ」


 逃げた。


「少しだけ、ですか」


「はい。人生に支障が出ない程度です」


 嘘だった。


 人生に支障が出る人間はいくらでもいる。


 未来には。


 鷹取は、その返答をどう受け取ったのか、少しだけ真面目な顔になった。


「ゲームの中に、もう一つの社会を作る。そういう企画です」


「はい」


「子ども騙しではない」


「分かります」


「分かる?」


 俺はファイルを見る。


「人は、現実で足りないものを、別の場所に作ります。名前、居場所、関係、役割。ゲームの中でも、掲示板でも、ファンサイトでも」


 未来のSNSを思い出す。


 アカウント。


 フォロワー。


 炎上。


 推し。


 課金。


 ランキング。


 別の世界は、簡単に現実を侵食する。


「それを作品として扱うなら、媒体ごとの管理だけでは足りません。読者、視聴者、プレイヤーが、どこで何を体験したのかを設計する必要があります」


 鷹取は、今度は笑わなかった。


「社長があなたを面白がる理由が、少し分かりました」


「面白さは目的ではありません」


「それも聞きました」


 鷹取はファイルをこちらへ押し出した。


「コピーは出せません。ここで読んでください」


「承知いたしました」


「それと」


「はい」


「この企画、まだ社内でも嫌われています」


「なぜですか」


「面倒だからです」


 短い答えだった。


 そして、ものすごく分かりやすかった。


 面倒。


 新しい企画が嫌われる理由として、これ以上強いものはない。


 俺はファイルを開いた。


「面倒なら、台帳向きです」


「そう来ますか」


「はい。面倒なものほど、頭の中に置いてはいけません」


 鷹取は少しだけ笑った。


「篠宮さん」


「はい」


「あなた、敵も作るでしょうが、味方も作りますよ」


「現在、前者が優勢です」


「なら、後者を増やしましょう」


 社長と同じことを言われた。


 味方を作れ。


 どうやら、今日の課題はそれらしい。


     *


 夕方。


 社長室に戻ると、机の上に一冊の本が置かれていた。


 書店の袋に入っている。


 中身は、ケロロ軍曹だった。


 誰だ。


 俺は付箋を見る。


 カエルにもよると思います。

  三浦




 くだらない。


 だが、少し笑ってしまった。


 笑ったと言っても、篠宮玲子の顔ではたぶん口元が一ミリ動いた程度だ。


 それでも、笑った。


 机の横には、別の封筒があった。


 真鍋からだった。


 フルメタ関連の既存資料です。

 作家に迷惑をかけない範囲で。




 その下に、手書きで一行。


 作品は、作品です。




 俺はしばらく、その文字を見た。


 さらに、社内便の小さな封筒がもう一つ。


 鷹取からだった。


 仮称企画の閲覧時間を明日十三時に確保。

 属人運用禁止、という言葉は嫌いではありません。




 味方。


 そう呼んでいいのかは分からない。


 三浦は面白がっている。


 真鍋は警戒しながら協力する。


 鷹取は未来の匂いに反応している。


 小早川は心配しながら距離を取っている。


 社長は俺を面白がりながら前線に投げている。


 人間関係が増えている。


 それは、未来の俺が避けてきたものだった。


 未来の俺の世界は、画面の向こうの購入者と、競合出品者と、配送業者と、プラットフォームだけだった。


 顔のある関係は、面倒だった。


 面倒だから避けていた。


 だが、平成十三年の角川書店では、それでは何も動かない。


 紙の資料も。


 書店の棚も。


 作家の原稿も。


 映像企画も。


 全部、人の手で動いている。


 人の感情で詰まり、人の意地で進み、人の疲れで止まる。


 俺はそれを、面倒だと思った。


 同時に、少しだけまぶしいとも思った。


 机に向かい、試験運用案の表紙を書き直す。


 作品別統合管理試験運用案

 対象候補

 一、スレイヤーズ

 二、フルメタル・パニック!

 三、次世代複合企画(仮称)




 その下に、赤ペンで一行。


 数字は作品を作らない。

 ただし、作品が届く道を作る。




 書き終えたところで、固定電話が鳴った。


 受話器を取る。


「はい、社長室です」


『篠宮君』


 社長だった。


『今日一日で、何人敵を作った』


「正確な集計は明日以降になります」


『味方は?』


 俺は机の上を見た。


 カエルの単行本。


 フルメタの資料。


 仮称企画の閲覧許可。


 化粧を直してくれた小早川のポーチの匂い。


「暫定ですが」


 俺は言った。


「観測を開始しました」


 電話口の向こうで、社長が笑った。


『よろしい』


 通話が切れる。


 俺は受話器を置いた。


 窓の外には、二〇〇一年五月の夕方があった。


 まだスマートフォンのない街。


 まだAmazonが本屋の顔をしている時代。


 まだ、未来の怪物たちが名前を持つ前の時代。


 その中で、紙の帝国は静かに軋んでいる。


 俺は未来で、その軋みから落ちた欠片に値段をつけて生きていた。


 だから今度は、少しだけ違うことをする。


 値段をつける前に、道を作る。


 届かなかったものが、届くように。


 俺はケロロ軍曹の単行本を手に取り、表紙のカエルを見た。


「……売れるカエル」


 口に出すと、やはり頭がおかしかった。


 だが、嫌いではなかった。


 その日、篠宮玲子の机には、初めて仕事以外の本が置かれた。


 未来の大ヒットでも、改革の資料でもなく。


 ただ、誰かが「面白くなりそう」と思って置いていった、一冊の漫画だった。

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