第三話 社長秘書、家に帰れない
定時をわずかに回った社長室で、俺は深刻な問題に直面していた。
作品別統合管理台帳。
初版部数。
実売。
返品率。
書店別消化率。
映像化権。
ゲーム化権。
グッズ展開。
そんなものは、まだいい。
いや、よくはない。普通に地獄だ。
だが、それよりも先に解決しなければならない問題があった。
「家が分からない」
社長室の机で、俺は小さく呟いた。
声は冷たく整っていた。
内容は完全に迷子である。
平成十三年五月。
角川書店社長室秘書課。
篠宮玲子、二十代後半。
たぶん有能。
たぶん美人。
たぶん社内で恐れられている。
そして中身は、二〇二六年のAmazon転売厨。
この情報だけで生活できるほど、現実は甘くない。
この身体がどこに住んでいるのか。
家族はいるのか。
恋人はいるのか。
家賃はいくらなのか。
そもそも一人暮らしなのか。
何も分からない。
俺は机の引き出しを開けた。
秘書の机だけあって、整理されている。
手帳。
名刺入れ。
印鑑。
リップ。
ハンカチ。
ストッキングの替え。
胃薬。
頭痛薬。
最後の二つで、この女の職場環境が少し分かった。
強く生きている。
俺は手帳を開いた。
細かい字で予定が書き込まれている。
社長面談。
役員会。
来客対応。
会食手配。
編集局長確認。
富士見関連資料。
映像部打合せ。
そして最後のページに、住所らしきものがあった。
「助かった……」
声に安堵が漏れた。
その瞬間、俺は気づいた。
帰る場所が分かっただけで、こんなに救われるのか。
知らない身体。
知らない時代。
知らない会社。
知らない人間関係。
その中で、手帳に書かれた住所だけが、初めて俺にとっての現実になった。
篠宮玲子には、家がある。
なら、帰れる。
帰ってから考えればいい。
化粧の落とし方とか。
着替えとか。
この身体の生活とか。
考えることが多すぎる。
俺は深く息を吐いた。
その時、机の上の固定電話が鳴った。
心臓が跳ねた。
固定電話の音は、二〇二六年の通知音より暴力的だった。
「はい、社長室です」
身体が勝手に受話器を取った。
篠宮玲子、怖い。
俺がビビっている間にも、声だけは完璧に仕事をしている。
『篠宮君か』
社長だった。
「はい」
『まだ残っているのか』
「少々、整理を」
『今日の資料か』
「はい」
嘘ではない。
人生の資料整理である。
『無理はするな』
「お気遣いありがとうございます」
『明日、朝一で一時間取る。今日の試験運用案について話す』
「承知いたしました」
承知するな。
いや、もういい。
この言葉は篠宮玲子の自動応答だ。
『それと』
「はい」
『帰れるな』
俺の手が止まった。
電話口の向こうで、社長が少し笑った気配がした。
『顔に出ていたぞ』
「……問題ありません」
『そうか』
「はい」
『ならいい。お疲れ』
「お疲れ様です」
電話が切れた。
俺は受話器を置いた。
完全にバレている。
どこまでかは分からない。
まさか中身が二〇二六年の転売厨だとは思っていないだろうが、今日の篠宮玲子が明らかにおかしいことには気づいている。
上司の観察眼が鋭すぎる。
最悪だ。
いや、最悪ではない。
無能よりはいい。
この一日で、俺は何度そう思っただろう。
*
会社を出る頃には、外は薄暗くなっていた。
五月の夕方。
空気は少し湿っている。
街の音が、俺の知っている東京よりも低かった。
スマホを見ながら歩く人間がいない。
ワイヤレスイヤホンもない。
誰も画面に向かって親指を滑らせていない。
代わりに、駅前の公衆電話に人が並び、スーツ姿の男がガラケーを耳に当てて怒鳴っている。コンビニの雑誌棚は分厚く、駅の売店には漫画誌と週刊誌が山のように積まれていた。
本が強い時代だった。
紙が、まだ街の表面に出ている。
俺は立ち止まった。
近くに書店があった。
大きくはない。
駅前の、どこにでもありそうな書店。
だが入口には、新刊の平台があり、雑誌があり、文庫棚があり、コミックの新刊台があった。
足が勝手にそちらへ向いた。
帰宅経路の確認が先だ。
この身体の家にたどり着くのが先だ。
分かっている。
分かっているが、俺は書店に入っていた。
紙の匂いがした。
新刊のインク。
雑誌のコート紙。
平台に積まれた文庫。
棚差しの背表紙。
二〇二六年にも書店はあった。
だが、数は減っていた。
棚は絞られ、売れるものが強くなり、置かれない作品は最初から存在しないみたいに扱われていた。
この時代の棚は、まだ雑だった。
強くて、狭くて、偏っていて、店員の癖が見える。
でも、呼吸していた。
俺は文庫棚の前に立つ。
ロードス島戦記。
スレイヤーズ。
富士見ファンタジア文庫の背表紙。
角川スニーカー文庫の並び。
見慣れたはずのタイトルが、未来の中古相場でも出品名でもなく、ただの本としてそこにあった。
変な感覚だった。
値札ではない。
SKUでもない。
ランキングでもない。
ただ、誰かに読まれるために置かれている。
当たり前のことなのに、胸の奥が少し痛んだ。
俺は最低の人間だった。
本を、作品を、グッズを、需要の塊として見ていた。
誰かが欲しがるもの。
誰かが買えなかったもの。
誰かが高くても買うもの。
そこに値段をつけていた。
けれど、最初からそうだったわけではない。
俺にも、ただ欲しかった頃があった。
発売日に書店へ行って、平台に積まれた新刊を見つけて、財布の中身を確認して、買うかどうか迷って、結局買って、帰りの電車で我慢できずに読み始めた頃があった。
あの時、本は商材ではなかった。
逃げ場所だった。
救いというほど大げさではない。
でも、明日を少しだけ先送りにしてくれるものではあった。
「……売れなかった作品なら、まだ諦めがつく」
小さく呟いた。
誰にも聞こえない声で。
「でも、届かなかった作品を、売れなかったことにするな」
今日、社長室で口にした言葉。
それは改革案のための綺麗な言葉ではなかった。
たぶん、俺自身への文句だった。
届かなかったものに値段をつけてきた人間が、今さら何を言っているのか。
それでも、そう思ってしまった。
棚の前で立ち尽くしていると、店員がこちらを見た。
怪しまれている。
そりゃそうだ。
社長秘書らしき女が、文庫棚の前で虚無顔になっている。
怖い。
俺は気を取り直し、店内を歩いた。
コミック棚。
少年エース。
見慣れた名前がいくつか並んでいる。
ケロロ軍曹。
「カエル……」
俺は一冊を手に取った。
この時代では、まだ未来の巨大な展開を背負っていない。
ただの漫画だ。
変なカエルが、表紙でこちらを見ている。
役員会で「売れるカエルです」と言った自分を思い出して、少しだけ頭が痛くなった。
冷静に考えると、かなり頭のおかしい発言だった。
だが、間違ってはいない。
作品の可能性は、初見の見た目だけでは分からない。
誰が読むのか。
どこまで広がるのか。
どの媒体で化けるのか。
それを見誤ると、会社は未来の利益だけでなく、未来の読者も取り逃がす。
俺は本を棚に戻した。
買うべきか迷ったが、財布の中身も生活費も分からない状態で無駄遣いは危険だった。
転売厨、まさかの自制。
成長である。
たぶん。
*
帰宅は想像以上に難しかった。
まず、スマホの地図がない。
乗換案内もない。
現在地を青い点で示してくれる神の目もない。
あるのは手帳の住所と、駅の路線図と、篠宮玲子の身体に残ったうっすらした土地勘だけだった。
不安で死にそうだった。
いや、一回死んだかもしれないので、これも正確ではない。
それでも電車に乗ると、身体は自然に動いた。
改札を通る。
ホームに立つ。
乗る位置を選ぶ。
降りる駅で迷わない。
篠宮玲子の生活が、身体の奥に残っている。
記憶としては曖昧なのに、習慣だけが生きている。
怖い。
だが、ありがたい。
車内には、仕事帰りの人間が詰まっていた。
新聞を読む男。
文庫を読む女。
吊り革につかまりながら漫画雑誌を開く学生。
携帯電話を開いて、短いメールを打っている若者。
誰もスマホを見ていない。
誰も動画を流していない。
時間の奪い合いが、まだ今ほど激しくない。
その分、本が入り込む余地がある。
この時代は、紙にとって楽園だったのか。
いや、違う。
楽園ではない。
ただ、まだ敵が見えていなかっただけだ。
Amazonは、まだ外資の変なネット書店に見える。
電子書籍は、まだ遠い未来に見える。
動画配信も、SNSも、スマートフォンも、まだこの車内にはいない。
でも、来る。
確実に来る。
そして来た時、準備していない会社から順に削られる。
売上ではなく、利益が。
部数ではなく、読者との接点が。
作品の寿命が。
俺は窓に映る篠宮玲子の顔を見た。
冷たい顔だった。
疲れているのに、崩れない顔。
その奥にいる俺だけが、ずっと取り乱している。
「……お前、どういう人生だったんだよ」
窓の女に向かって、小さく呟いた。
返事はない。
当然だ。
篠宮玲子は、ここにいない。
それとも、どこかにいるのか。
俺がこの身体を奪ったのか。
それとも、俺の方がこの女の何かに混ざったのか。
分からない。
考えると足元が崩れそうになる。
だから、考えない。
今は家に帰る。
帰って、確認する。
それだけだ。
*
篠宮玲子の部屋は、思ったより狭かった。
都内のマンション。
ワンルームよりは広いが、贅沢ではない。
きちんと片づいている。
服は少ない。
本は多い。
机の上には、仕事用の資料と、数冊の文庫と、読みかけのハードカバー。
冷蔵庫には、ミネラルウォーターとヨーグルトと、賞味期限が近い惣菜。
生活があった。
ちゃんと、この女はここで生きていた。
そのことが、妙に重かった。
俺は玄関でしばらく立ち尽くした。
靴を脱ぐ。
ヒールをそろえる。
身体が自然にそうする。
部屋に入る。
鞄を置く。
ジャケットを脱ぐ。
そこで止まった。
服を脱ぐという行為が、急に現実味を帯びた。
「……いや、無理」
声に出た。
しかし、着替えなければならない。
このままでは寝られない。
化粧も落とさなければならない。
肌がどうとかではない。
枕が死ぬ。
洗面台の前に立つ。
化粧落としらしきものがある。
使い方は分からない。
だが、篠宮玲子の身体は知っていた。
手が勝手に動く。
コットン。
クレンジング。
目元。
口元。
鏡の中の女から、少しずつ仕事用の顔が剥がれていく。
冷たい秘書の顔が薄くなり、疲れた若い女の顔になる。
その顔を見た瞬間、俺はなぜか少しだけ申し訳なくなった。
「悪いな」
誰に言ったのか分からない。
篠宮玲子にか。
未来の自分にか。
俺が値段をつけてきた何かにか。
分からない。
ただ、謝る以外に言葉がなかった。
部屋着に着替えるまでに、俺は三回ほど精神的に死んだ。
詳しくは語らない。
彼女と俺の尊厳に関わるからな。
違うかもしれない。
ようやくソファに座ると、机の上の文庫が目に入った。
栞が挟まっている。
読みかけだった。
俺はそれを手に取った。
篠宮玲子は、仕事だけの女ではなかった。
ちゃんと本を読んでいた。
それも、資料としてではなく、たぶん楽しみとして。
ページを開く。
知らない文章が並んでいる。
けれど、紙の感触は知っていた。
俺は数行だけ読んで、すぐに閉じた。
今日は無理だ。
頭が疲れすぎている。
代わりに、机の上のメモ帳を引き寄せた。
やることを書く。
一、篠宮玲子の生活確認
二、社内組織図の把握
三、作品別統合台帳の項目作成
四、対象作品候補の選定
五、三浦から書店別資料を回収
六、社長面談
七、Amazonを軽視しすぎない
八、――あと、ゆうちょは許さない
最後の一行だけ、明らかに私怨だった。
だが消さなかった。
俺をここに連れてきた怒りの一部だからだ。
いや、本当にゆうちょのせいかは分からない。
でも許さない。
俺はペンを置き、天井を見た。
二〇〇一年五月の天井。
知らない女の部屋。
知らない身体。
知らない未来の始点。
今日一日で、俺は角川書店の改革案をぶち上げ、役員会で嫌われ、社長直轄の仕事を背負い、書店でカエルを観測し、なんとか家に帰った。
情報量が多すぎる。
なろう系でも、もう少し段階を踏む。
だが、眠気は容赦なく来た。
身体が限界だった。
ソファに沈み込む。
このまま寝たら風邪を引く。
ベッドへ行け。
分かっている。
分かっているが、動けない。
目を閉じる直前、机の上の文庫が見えた。
篠宮玲子が読みかけていた本。
俺が未来で、値段として見ていたかもしれないもの。
誰かに届くはずだった物語。
「次のヒットを、偶然にしない」
小さく呟く。
それは会社のための言葉ではなかった。
たぶん、読者のための言葉でもない。
まだ、そこまで綺麗にはなれない。
それでも。
届くはずだったものを、届かないままにしたくない。
その程度の気持ちなら、俺にもまだ残っていた。
翌朝。
俺は社長室の机ではなく、篠宮玲子の部屋のソファで目を覚ました。
首が痛い。
腰も痛い。
そして、目の前のメモ帳には、寝る前には書いた覚えのない一行が増えていた。
九、ハルヒ。新人賞制度を確認。
俺はしばらく、その文字を見つめた。
未来知識が、寝ぼけた俺の手を動かしたらしい。
怖い。
だが、もっと怖いことがあった。
「……今日も出社か」
平成十三年の社会人生活は、転生しても普通に続くらしかった。




