第三十二話 復帰条件は、社長室より先に冷蔵庫へ貼られる
十一月八日。
木曜日。
目が覚めた時、俺は水の底にはいなかった。
よろしい。
非常によろしい。
仄暗い水の底を彷徨ってもいない。
会社の階段もない。
濡れた見本誌もない。
篠宮怜子もいない。
紙魚みたいにまとわりつく社長室の紙もない。
ただ、天井があった。
自室の天井。
見慣れた白。
横には、昨夜より少しだけ雑に畳まれた毛布。
ソファで寝た航の痕跡。
枕元には水。
体温計。
薬。
携帯。
そして、机の端にはメモ帳。
ただし、ペンはない。
航の鞄の中である。
信用が戻ったのか、戻っていないのか。
いや、戻っていない。
机にメモ帳が置かれたのは、たぶんリハビリであって、権利の回復ではない。
救急車一回分の信用喪失は重い。
実に重い。
俺は布団の中で、少しだけ身体を動かした。
足首が痛い。
肩も痛い。
肘も痛い。
頭は昨日より軽い。
微熱は、たぶん下がっている。
生存確認、完了。
「起きた?」
台所から航の声がした。
「起きています」
「沈んでない?」
「沈んでいません」
「紙拾ってない?」
「拾っていません」
「階段は?」
「夢にも出ていません」
「よし」
台所から、鍋の音がした。
朝食らしい。
また粥か。
雑炊か。
うどんか。
炭水化物回復三銃士の誰かである。
俺の人生、最近かなり白くて柔らかい。
いや、固形物への道は遠い。
階段より遠い。
航が部屋に入ってきた。
ワイシャツ姿。
髪は少し跳ねている。
昨夜も泊まったせいだ。
俺のせいでもある。
「熱、測って」
「はい」
体温計。
三十六度六分。
平熱。
俺はそれを見て、少し勝った気持ちになった。
「三十六度六分です」
「平熱」
「はい」
「調子に乗らない」
「まだ何も」
「顔が乗った」
顔。
最近、顔から情報が漏洩しすぎている。
社長にも、小早川にも、三浦にも、美咲にも、航にも読まれる。
秘書としてどうなのか。
非常にどうかと思う。
「今日は病院で再診」
航が言った。
「はい」
「そのあと、小早川さんに報告」
「はい」
「明日の出社について決める」
「はい」
「さっちゃんが勝手に決めない」
「……はい」
「今、間があった」
「ありません」
「あった」
電話では小早川に見抜かれ、対面では航に見抜かれる。
俺の否認性能は低い。
「出社は」
俺は慎重に言った。
「医師の指示と、小早川さんの判断と、社長の指示を踏まえて」
「うん」
「決めます」
「そこに俺も入れて」
航の声は穏やかだった。
だが、入れろ、という声だった。
お願いではない。
「はい」
「俺が決めるってことじゃなくて」
「はい」
「俺にも知らせて」
「はい」
「探さなくていいように」
また、その言葉。
探す。
駅。
病院。
水底。
俺は何度も、この男に探させている。
「分かりました」
今度は、すぐに言えた。
*
朝食は、卵雑炊だった。
炭水化物回復三銃士のうち、雑炊の再登板である。
卵が入っているので、少し進歩している。
航は向かいに座って、自分はトーストを食べていた。
この差。
俺もトーストが食べたい。
いや、雑炊も美味い。
悔しいが美味い。
「今日、病院までタクシーで行くから」
「歩けます」
「タクシー」
「駅まで」
「タクシー」
「しかし」
「階段落ちた人」
「はい」
必殺技である。
階段落ちた人。
この言葉を出されると、俺の発言権は即座に没収される。
「職場復帰も、最初はタクシーか、俺が送る」
「そこまで」
「足首」
「はい」
「頭打った」
「はい」
「階段」
「はい」
はい三連敗。
「会社に戻るのはいいけど、戻り方を決める」
航は言った。
「戻り方」
「うん。いきなり社長室へ突っ込むんじゃなくて」
「突っ込むつもりは」
「ある」
「……少し」
「ほら」
見抜かれている。
いや、完全に図星だった。
明日出社できるなら、社長室へ行きたい。
見本誌を見たい。
月曜の会議の紙を読みたい。
佐伯の赤字を確認したい。
三浦の報告を聞きたい。
川辺の完成品ではありません三回を、実際に紙で見たい。
社長の机に何が積まれているのか知りたい。
紙の帝国が、俺抜きでどう動いたのかを見たい。
つまり、突っ込む気満々である。
だめだ。
これはだめな顔だ。
「航」
「うん」
「仕事に戻るのが、少し怖いです」
自分で言って、少し驚いた。
怖い。
言葉にすると、本当に怖かった。
航も驚いた顔をしたが、すぐ頷いた。
「うん」
「戻ったら、また同じことをするのではないかと」
「うん」
「戻らなければ、置いていかれるような気がして」
「うん」
「会社は私がいなくても動く。それは良いことです」
「うん」
「でも、少し寂しい」
言ってしまった。
これも、仕事の顔では言えない。
社長室では言えない。
改革は属人化してはいけない。
俺がいなくても動く仕組みが正しい。
それは分かっている。
分かっているのに。
社長室の机に自分の紙がなくても、会社が進むことが寂しい。
これは、たぶん傲慢だ。
でも、嘘ではない。
「それ、普通じゃない?」
航が言った。
「普通ですか」
「うん。自分がいなくても回るのは良いことだけど、寂しいのも普通」
「そうでしょうか」
「俺だって、仕事で自分がいなくてもシステム回ったら安心するけど、ちょっと寂しいと思うよ」
「航も?」
「思う」
意外だった。
航は、俺よりずっと生活側にいるように見える。
だが、彼も仕事をしている。
IT系勤務。
システム。
納期。
障害。
たぶん、彼にも彼の紙ではない帝国がある。
「でもさ」
航はトーストを置いた。
「いなくても回るようにしたうえで、戻った時にちゃんと席があるのが一番いいんじゃない」
「席」
「うん。さっちゃんがいないと止まる会社は怖い。でも、さっちゃんが戻る場所がない会社も嫌でしょ」
「はい」
「だから、戻り方を決めよう」
戻る場所。
戻り方。
水底の夢で、篠宮怜子に聞かれた。
あなたは、どこへ戻るのですか。
社長室だけではない。
航のいる部屋だけでもない。
俺は、たぶん両方へ戻る。
いや、戻らなければならない。
片方だけに沈むな。
そういうことなのかもしれない。
*
病院へは、本当にタクシーで行った。
屈辱である。
いや、快適である。
非常に快適である。
歩かなくていい。
階段もない。
航が先に降り、俺に手を貸す。
「自分で」
「今日は補助」
「はい」
自分でできることと、助けを借りてよいことの線引きが難しい。
だが、今日は補助。
医師の診察は淡々としていた。
頭部については、大きな異常なし。
ただし、無理はしない。
めまい、吐き気、強い頭痛があればすぐ受診。
足首は捻挫。
しばらく固定。
階段、長時間歩行、荷物運搬は禁止。
過労傾向あり。
睡眠、食事、水分。
仕事復帰は可能だが、短時間から。
医師は紙に書きながら言った。
「仕事に戻るなら、まず半日程度で。移動を減らしてください」
「半日」
「はい」
「社長室の」
「仕事の内容ではなく、身体の話です」
医師にまで遮られた。
はい。
「階段は使わないでください」
「はい」
「荷物を持たない」
「はい」
「昼食を抜かない」
「はい」
「痛み止めで動けるからといって、動きすぎない」
「はい」
横で航が頷いている。
かなり強く頷いている。
医師が航を見た。
「ご家族の方ですか」
空気が止まった。
ご家族。
家族。
いや、違う。
まだ違う。
恋人。
年下彼氏。
合鍵保持者。
水面担当。
ケーキ没収担当。
階段監視担当。
しかし、病院で説明するには何と呼ぶべきか。
航が少しだけ固まった。
俺も固まった。
「あの」
俺が言いかけると、航が先に言った。
「恋人です」
心臓が妙な動きをした。
医師は「ああ」と普通に頷いた。
普通だ。
非常に普通だ。
医師にとっては、付き添いの属性の一つでしかない。
だが、俺にとっては普通ではない。
恋人。
航が、病院の診察室で、そう言った。
俺は横を向けなかった。
たぶん顔が熱い。
熱が上がったわけではない。
違う。
違うはず。
「では、しばらく様子を見てあげてください」
「はい」
航が答える。
しっかりした声だった。
「本人は、無理をする癖がありそうなので」
「かなりあります」
「航」
「あります」
否定の余地なし。
医師も、そうでしょうね、という顔をした。
なぜ分かる。
医師、怖い。
*
病院を出ると、航はすぐ小早川へ電話した。
俺ではない。
航がした。
なぜ。
「はい、桐生です。診察終わりました。……頭は大きな異常なし。足首は固定継続。階段、長時間歩行、荷物運搬禁止。仕事は半日程度から。昼食、水分、睡眠。……はい。本人に代わります」
報告が完全である。
小早川の後継者か。
いや、彼氏である。
俺は受話器を受け取った。
「はい、篠宮です」
『聞きました』
「はい」
『明日の出社は午前のみです』
「午前のみ」
『午前のみです』
「社長の午後予定が」
『午前のみです』
「はい」
押し負けた。
『出社時刻は通常より遅らせます。十時出社』
「十時」
『十時です』
「社長室の朝の」
『私が見ます』
「はい」
何も言えない。
『退社は十三時』
「昼食は」
『会社で食べてから退社です』
「十三時退社なら」
『食べてからです』
「はい」
『移動はエレベーターのみ。階段禁止』
「はい」
『見本誌、箱、資料束、鞄以外の荷物を持つこと禁止』
「はい」
『社長室から会議室への単独移動禁止』
「そこまで」
『単独移動禁止』
「はい」
『三浦さんか私が同行します』
「三浦さんまで」
『三浦さんから志願がありました』
志願。
三浦、お前。
『なお、三浦さんは“風神雷神より階段が怖い係”を名乗っています』
「名乗らせないでください」
『却下しました』
「ありがとうございます」
危なかった。
社内標語どころか係名になるところだった。
『航さんへの退社連絡は、会社を出る前と帰宅後の二回』
「二回」
『二回』
「はい」
『以上が復帰条件です』
「承知――」
止める。
「はい」
『よろしい』
小早川は満足そうだった。
『その条件を紙にします』
「会社用ですか」
『冷蔵庫用です』
「冷蔵庫」
『航さんに貼っていただきます』
冷蔵庫。
社長室ではなく。
冷蔵庫。
俺の復帰条件は、社長室の机より先に冷蔵庫へ貼られるらしい。
何だそれは。
しかし、少し正しい気がするのが悔しい。
*
昼は外で食べず、部屋へ戻ってからになった。
またタクシー。
階段なし。
歩行最小限。
完全に病人輸送である。
部屋へ戻ると、航は俺をソファに座らせ、昼食を用意した。
今日はうどんではない。
おにぎりと味噌汁。
固形物。
固形物である。
進歩。
俺は少し感動した。
「そんな顔する?」
「米粒が独立しています」
「そこ?」
「重要です」
「まあ、食べて」
食べた。
美味かった。
米粒は偉大である。
食後、航が鞄から一枚の紙を出した。
小早川からFAXされたらしい。
早い。
非常に早い。
タイトル。
篠宮怜子 復帰条件票。
やめろ。
人名を入れるな。
しかも、字が小早川のものだ。
整っている。
恐ろしいほど整っている。
内容はこうだった。
一、出社は十一月九日金曜日、十時。
二、勤務は午前のみ。昼食後、十三時退社。
三、階段使用禁止。移動はエレベーター。
四、社長室外への単独移動禁止。
五、見本誌・資料箱・紙束の運搬禁止。
六、昼食を予定表に入れる。
七、会社を出る前と帰宅後に航さんへ連絡。
八、帰宅後は仕事の紙を開かない。
九、異常があれば即時報告。
十、本人が「少しだけ」と言った場合、周囲は止める。
十番。
完全に俺対策だった。
「航」
「うん」
「十番に悪意があります」
「必要」
「“少しだけ”は」
「危険語」
「はい」
航はその紙を冷蔵庫に貼った。
磁石で。
冷蔵庫の白い扉に、小早川の復帰条件票。
異様である。
だが、強い。
冷蔵庫は毎日見る。
水を飲む時。
食事を取る時。
つまり、生活の場所に貼られる。
社長室の机ではなく。
生活の中心に。
「これ、社長も見たのですか」
「小早川さんが社長確認済みって言ってた」
「社長が冷蔵庫用の復帰条件を」
「承認した」
「会社とは」
「良い会社じゃない?」
「良い会社でしょうか」
「怖い会社だけど」
否定できない。
怖い会社である。
だが、俺を冷蔵庫へ戻そうとしている会社でもある。
社長室だけではなく。
生活へ。
*
午後。
航は仕事へ行った。
今日は、夕方まで戻らない。
俺はソファで足を上げ、冷蔵庫の紙を眺めていた。
復帰条件票。
社長室秘書の復帰条件が、味噌と卵と牛乳の隣に貼られている。
何だこの絵面。
だが、見ていると少し落ち着いた。
明日、戻る。
十時に。
午前だけ。
昼食を食べてから帰る。
階段は使わない。
荷物は持たない。
会社を出る前に航へ連絡する。
帰宅後も連絡する。
仕事の紙は開かない。
決まっている。
予定に入っている。
つまり、探さなくても見つかる。
明日の俺は、予定表の中にいる。
社長室の予定表だけではない。
冷蔵庫の紙にも。
航の携帯にも。
小早川の管理表にも。
たぶん三浦の妙な係名にも。
少し笑った。
その時、携帯が鳴った。
三浦からメール。
«篠宮さん
明日の階段監視、正式には却下されました。
ただし、同行はします。
見本誌は逃げてません。
佐伯さんが「逃げるのは篠宮さんの足元」と言ってました。
ひどいと思います。
三浦»
ひどい。
だが、だいたい合っている。
俺は返信した。
«明日はご迷惑をおかけします。
階段は使いません。
見本誌は逃げないものとして扱います。
篠宮»
すぐ返ってきた。
«仕事メールの顔ですね。
でも階段使わないなら許します。
三浦»
三浦まで顔を読むな。
メールなのに。
*
夕方、美咲からメールが来た。
«兄から聞いた。
明日ちょっと会社行くんだって?
階段禁止。
走るの禁止。
紙に負けるの禁止。
ケーキ没収一口は保留。
美咲»
ケーキ没収、保留。
判決はまだ出ていないらしい。
俺は返信した。
«階段禁止、走行禁止、紙に負けるの禁止、承知しました。
ケーキ一口の保留については、情状酌量を希望します。
怜子»
«かたいw
情状酌量は兄の顔見て決める。
兄をまた怖がらせたら増える。
美咲»
義妹予定者様、判定が厳しい。
だが、正しい。
航の顔を見る。
ちゃんと見る。
仕事の顔だけでなく。
怖がっていないか。
怒っていないか。
疲れていないか。
俺を探していないか。
それも、明日の復帰条件に入れるべきなのかもしれない。
いや、入れたらまた紙が増える。
やめよう。
心に貼る。
冷蔵庫ではなく。
心に。
少し気持ち悪い表現だが、今日は許す。
*
夜。
航が帰ってきた。
「ただいま」
「おかえりなさい」
自然に返った。
また、自然に。
航は冷蔵庫の紙を確認した。
「剥がしてない」
「剥がしません」
「書き足してない」
「ペンがありません」
「ペンあったら?」
「判断を保留します」
「危ない」
航は笑った。
夕食は焼き魚だった。
固形物。
タンパク質。
かなり社会復帰に近づいている。
食後、航はメモ帳とペンを出した。
「今日は一行じゃなくて、三行まで」
「増えました」
「復帰前日だから」
「よろしいのですか」
「仕事の分析は禁止。自分の復帰条件」
「冷蔵庫にあります」
「小早川さんのじゃなくて、さっちゃんの」
俺の復帰条件。
少し考える。
紙の帝国へ戻る条件。
社長室へ戻る条件。
生活へ戻る条件。
水底から浮く条件。
探させない条件。
俺はペンを取った。
一行目。
会社へ戻る前に、ただいまを言える場所へ戻る。
二行目。
見本誌は逃げない。だから、私は階段を使わない。
三行目。
仕事に戻ることと、紙の中へ消えることを、同じにしない。
ペンを置いた。
航が読んだ。
黙っていた。
少し長い沈黙。
怖い沈黙ではない。
たぶん、受け取っている沈黙。
「うん」
航は言った。
「それ、明日持って行く?」
「持って行きません」
「なんで?」
「仕事の紙ではないので」
航が少し笑った。
「じゃあ、ここに置いて」
「はい」
「帰ってきたら、また読む」
「はい」
それが、たぶん大事なのだ。
社長室へ持って行く紙ではなく。
帰ってきた場所で読む紙。
俺が戻る場所を、会社だけにしないための紙。
*
寝る前。
航は明日の段取りを確認した。
十時出社。
タクシー。
航は朝、途中まで送る。
会社前で小早川に引き渡し。
引き渡し。
完全に荷物である。
いや、足首固定の社長室秘書である。
取り扱い注意。
昼食を食べたら退社。
会社を出る前に航へメール。
帰宅後もメール。
夕方、航が来る。
冷蔵庫の紙を確認。
ケーキ没収一口の可否は、美咲が判定。
なぜ最後だけ美咲。
だが、もう突っ込む気力はない。
「航」
「うん」
「明日、怖いです」
「うん」
「でも、戻りたいです」
「うん」
「戻ってもいいでしょうか」
聞いてしまった。
会社に戻る許可を、航へ。
おかしな話だ。
社長でも医師でも小早川でもなく。
でも、聞きたかった。
航は少しだけ驚いた顔をした。
それから、俺の手を取った。
「戻っていいよ」
静かな声だった。
「でも、消えないで」
「はい」
「戻って、昼食べて、帰ってきて」
「はい」
「ただいまって言って」
「はい」
「それができたら、明日は合格」
合格。
仕事の成果ではない。
見本誌の確認でもない。
社長用の一枚でもない。
出社して、昼を食べて、帰ってきて、ただいまと言う。
それが明日の合格。
レベルが低い。
しかし、今の俺には高い。
「分かりました」
「うん」
「明日は、合格します」
「うん」
航は少し笑った。
「仕事の顔だけど、まあいい」
「いいのですか」
「ちゃんと帰ってくるなら」
ちゃんと帰ってくるなら。
その言葉を、俺は胸の中で繰り返した。
*
布団に入る。
航はソファ。
手は、今日は握らなかった。
ただ、部屋にいる。
冷蔵庫には復帰条件票。
机には三行のメモ。
枕元には水。
足首は固定。
階段は禁止。
水底は、少し遠い。
目を閉じる。
夢に篠宮怜子が出るかもしれない。
出ないかもしれない。
どちらでも、明日は来る。
十一月九日。
金曜日。
俺は会社へ戻る。
ただし、社長室へ突っ込むのではない。
紙を拾いに沈むのでもない。
階段を使うのでもない。
戻る。
そして、帰ってくる。
会社へ戻る前に、ただいまを言える場所へ戻る。
その順番を間違えない。
見本誌は逃げない。
会議も進む。
会社は止まらない。
それでも、俺の席はたぶんある。
社長室にも。
この部屋にも。
その二つを、どちらかだけにしない。
冷蔵庫の紙が、暗い部屋の中で少し白く見えた。
社長室の机より先に、俺の復帰条件は冷蔵庫へ貼られた。
情けない。
かなり情けない。
だが、それでいい。
生活の場所に貼られているなら、少なくとも俺は、まだ生活側に引っかかっている。
紙の中へ完全には消えていない。
明日、十時。
エレベーターで上がる。
階段は使わない。
少しだけ、ではなく。
絶対に。




