第三十三話 職場復帰は、エレベーターで上がって昼食を食べて帰るまで
十一月九日。
金曜日。
十時出社。
午前勤務。
昼食後、十三時退社。
階段禁止。
荷物運搬禁止。
社長室外への単独移動禁止。
会社を出る前と帰宅後に航へ連絡。
帰宅後は仕事の紙を開かない。
少しだけ禁止。
以上が、俺の本日の復帰条件である。
社長室秘書、篠宮怜子。
平成十三年十一月九日。
職場復帰。
ただし、扱いはほぼ要注意貨物。
いや、貨物の方がまだ階段を使っても怒られないかもしれない。
俺は玄関で靴を履きながら、冷蔵庫に貼られた復帰条件票を見た。
小早川の字。
整いすぎた十項目。
磁石で留められたそれは、牛乳と味噌と卵の横にあった。
社長室の机ではなく、冷蔵庫。
生活の中心。
情けない。
かなり情けない。
だが、不思議と落ち着く。
今日の俺は、会社へ戻る前に、冷蔵庫へ貼られた条件に戻る。
仕事の紙より先に、生活の紙を見る。
かなり変な順番だ。
だが、たぶん正しい。
「読んだ?」
航が横から言った。
「読みました」
「声に出して」
「そこまで」
「声に出して」
強い。
水面担当、階段監視担当、ケーキ没収担当代理。
最近の航は、役職が多い。
俺は観念した。
「十時出社。午前勤務。昼食後、十三時退社。階段禁止。荷物運搬禁止。社長室外への単独移動禁止。会社を出る前と帰宅後に航へ連絡。帰宅後は仕事の紙を開かない。異常があれば即時報告。本人が少しだけと言った場合、周囲は止める」
「よし」
「私は何歳児でしょうか」
「救急車に乗った社長室秘書」
「反論できません」
「じゃあ行こう」
「はい」
タクシーで会社へ向かった。
通勤電車ではない。
かなり屈辱である。
だが、足首はまだ痛い。
固定もしている。
そして何より、階段禁止である。
駅は階段の巣だ。
エスカレーターもあるが、乗り換えは罠だらけ。
今日の俺には、敵が多すぎる。
文化の日には休日出勤し、月曜日には職場の階段で落ち、水曜日には水底の夢を見た女が、金曜日の朝から駅ダンジョンへ挑むべきではない。
難易度設定がおかしい。
タクシーの窓から、十一月の東京を見る。
街は普通に動いている。
会社員。
学生。
自転車。
コンビニ。
書店の前を通る。
店頭には年末の気配が少しずつ出ていた。
見てしまう。
棚を。
入口を。
貼り紙を。
いや、今日は見るな。
窓の外は仕事ではない。
仕事ではない。
たぶん。
「さっちゃん」
航が言った。
「はい」
「今、書店見た」
「見えましたので」
「仕事の顔」
「出勤中ですので」
「言い訳が強い」
「はい」
航は少し笑った。
怒りは、まだ完全には消えていない。
それは分かる。
でも、昨日より柔らかい。
今日の合格条件は簡単だ。
出社する。
エレベーターを使う。
昼食を食べる。
十三時に帰る。
ただいまと言う。
これだけ。
これだけなのに、俺にはかなり高い。
*
会社の前に着くと、小早川がいた。
いた。
玄関前に。
なぜ。
いや、分かる。
引き渡しである。
航から小早川へ。
完全に保護者間の受け渡しだ。
社長室秘書、篠宮怜子。
取り扱い注意。
天地無用。
階段厳禁。
「おはようございます」
小早川が言った。
「おはようございます」
俺は返す。
航が横で少し頭を下げた。
「よろしくお願いします」
「お預かりします」
預かられた。
俺は預かり物らしい。
「十三時までです」
航が言った。
「はい。昼食後、十三時退社です」
小早川が即答する。
「階段は」
「使わせません」
「荷物は」
「持たせません」
「単独移動は」
「させません」
「お願いします」
「お任せください」
何だこの会話。
俺の意志はどこへ行った。
いや、階段から落ちたので仕方ない。
「航」
俺は言った。
「はい」
なぜ敬語で返す。
「行ってまいります」
そう言うと、航は一瞬だけ目を丸くした。
それから、少しだけ笑った。
「行ってらっしゃい」
普通の言葉。
でも、胸の奥に少し残る。
会社へ行く。
帰る場所がある。
その言葉だけで、少し足元がまともになる。
*
ビルへ入る。
エレベーターへ向かう。
階段は視界に入れない。
入れない。
……入った。
廊下の端に階段室の扉が見える。
小早川が俺の視線を読んだ。
「怜子さん」
「見ただけです」
「見る必要もありません」
「階段に人権は」
「ありません」
即答。
階段に人権はない。
かなり強い言葉だ。
エレベーターが来る。
乗る。
上がる。
一階分。
階段ならすぐだ。
そう思った瞬間、小早川がこちらを見た。
「今、階段なら早いと思いましたね」
「思っていません」
「思いましたね」
「少しだけ」
「少しだけ禁止」
「はい」
復帰条件十番が即発動した。
恐ろしい。
エレベーターが開く。
社長室のある階。
廊下。
匂い。
紙とインクと人の動く気配。
戻ってきた。
その感覚が、思ったより強かった。
たった数日。
それでも、遠かった。
水底。
布団。
冷蔵庫。
病院。
そこから、また廊下へ。
俺は足元を見た。
階段ではない。
平らな床。
大丈夫。
たぶん。
「怜子さん」
小早川が言った。
「はい」
「おかえりなさい」
不意打ちだった。
社長室の前。
小早川が、いつもの静かな顔で言った。
おかえりなさい。
会社で。
職場で。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
「……ただいま戻りました」
「はい」
小早川は頷いた。
「では、椅子へ」
余韻、短い。
非常に短い。
だが、それでいい。
泣くほどではない。
泣いていない。
断じて。
*
社長室に入ると、机の上はきれいに整っていた。
俺がいなくても。
いや、俺がいなかったからこそ、きれいなのかもしれない。
小早川の整え方。
紙の角度。
優先順位。
午前の予定表。
社長の来客メモ。
十一時の確認事項。
そして、俺の席。
椅子。
机。
ペン立て。
電話。
未処理箱。
少ない。
かなり少ない。
小早川が削ったのだろう。
いや、削ったというより、俺が今日触ってよいものだけ残したのだ。
席はあった。
俺がいなくても会社は動いた。
でも、俺の席は残っていた。
その両方が、胸の中で少しだけ折り合う。
「篠宮君」
社長の声がした。
奥から出てきた社長が、俺を見た。
「はい」
「立たなくていい」
立とうとした瞬間に止められた。
読まれている。
俺は椅子に戻った。
「おかえり」
社長が言った。
また、不意打ち。
小早川のそれより、少し雑で、少し重い。
「ただいま戻りました」
「階段からか?」
「エレベーターからです」
「よろしい」
社長は満足そうに頷いた。
何の確認だ。
「体調は」
「頭痛は軽く、熱は下がっています。足首は固定継続です」
「医師の説明のようだな」
「航にも同じことを言われました」
「だろうな」
社長は俺の机をちらりと見た。
「今日は半日だ」
「はい」
「仕事を片づけに来たのではない」
「はい」
「戻って、状態を確認し、昼を食べて帰る。以上だ」
「はい」
「見本誌は逃げていない」
「はい」
「君も逃げるな」
「休むことから、ですか」
「今日は帰ることからだ」
帰ることから逃げるな。
なるほど。
今日はそれか。
社長は続けた。
「会社に戻るのは簡単だ。帰る方が難しい日もある」
「はい」
「難しい方をやれ」
「はい」
またそれだ。
仕事より難しい休養。
復帰より難しい退社。
この会社、難易度設定がおかしい。
*
十時半。
三浦が来た。
手に紙を持っている。
いつもの営業メモ。
しかし、今日の三浦は、少し妙に真面目な顔をしていた。
「篠宮さん」
「はい」
「復帰おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「階段は使っていませんか」
「使っていません」
「本当に?」
「エレベーターです」
「よかったです」
三浦は心底ほっとした顔をした。
俺は少しだけ申し訳なくなった。
階段から落ちるという行為は、周囲にかなり迷惑をかける。
当たり前だ。
救急車を呼び、会議を止め、紙を散らし、人を青ざめさせる。
不覚で済ませてはいけない。
「三浦さん」
「はい」
「先日は、ご迷惑をおかけしました」
「本当にです」
即答。
容赦がない。
「紙が散って、篠宮さんが動かなくて、小早川さんが冷静すぎて、川辺さんが救急車呼んで、社長が“動かすな”って言って」
三浦は一度息を吸った。
「かなり怖かったです」
「……はい」
「なので、今日は怖がらせないでください」
「はい」
「階段も、少しだけも、なしです」
「はい」
三浦は紙を机に置いた。
「これ、少年陰陽師の見本会議の要点です」
来た。
見本。
少年陰陽師。
俺の目がそちらへ向く。
三浦がすぐ紙を押さえた。
「読むのは五分だけ」
「五分」
「小早川さんに言われています」
「はい」
「あと、これは篠宮さんがいなくても進みましたという報告でもありますが、篠宮さんが戻ってきたので共有する紙でもあります」
珍しく、三浦が言葉を選んでいる。
「つまり」
俺は言った。
「不要だからではなく、席があるから共有すると」
「そうです」
三浦は少し笑った。
「航さんに教わりました?」
「いえ」
「では、成長ですね」
「営業に成長判定される社長室秘書」
「救急車に乗ったので」
「便利に使わないでください」
だが、少し笑えた。
紙を読む。
五分だけ。
佐伯の赤字。
真鍋の警告。
川辺の注意。
大町の書店所感。
社長の一言。
少年陰陽師は、硬い説明より「まだ小さな一歩」「守りたいもの」「物の怪相棒」の軽さを入口にする。
映画『陰陽師』の世間の空気はある。
だが、便乗ではなく入口共有。
十三歳は弱さではなく成長の余白。
表紙は思ったより棚前で止まる可能性がある。
ただし、書店資料で説明を盛りすぎない。
全部、ちゃんと進んでいた。
俺がいなくても。
胸が少し痛い。
でも、嬉しい。
両方ある。
「五分です」
三浦が言った。
「まだ三分」
「篠宮さんの三分は危険です」
「信用がありません」
「ありません」
即答。
俺は紙を閉じた。
偉い。
かなり偉い。
三浦が少し驚いた顔をした。
「閉じた」
「閉じました」
「えらいです」
「皆さん、私を小学生のように褒めますね」
「階段を使わなければ大人扱いに戻ります」
「条件が厳しい」
*
十一時。
社長の短い確認。
本来なら俺が社長室で紙を出し、要点を説明するところだ。
今日は小早川が横に立ち、三浦も同席した。
社長は見本誌を一冊、机の上に置いた。
少年陰陽師の仮見本。
ついに、目の前に来た。
土曜日に見た。
水底の夢にも出た。
逃げなかった見本。
それが、乾いた紙として、社長室の机にある。
「触るなとは言わん」
社長が言った。
「はい」
「だが、持って帰るな」
「持って帰りません」
「抱えて階段へ行くな」
「行きません」
「水底にも持ち込むな」
「夢の管理までは」
「努力しろ」
「はい」
無茶を言う。
だが、少し笑える。
俺は見本に手を伸ばした。
ゆっくり。
航に「触っていい?」と聞かれる時のように、許可を取るような気持ちで。
紙に触れる。
表紙の感触。
まだ仮の部分はある。
完成品ではない。
川辺の声が頭に響く。
完成品ではありません。
完成品ではありません。
完成品ではありません。
三回。
分かっています。
それでも、形だ。
紙だったものが、本の形へ近づいている。
俺が未来で知っていた作品が、今、この時代で、まだ誰にも読まれる前の姿でここにある。
胸が熱くなる。
危険だ。
これは危険な熱だ。
未来知識の快感。
作品が伸びることを知っている者だけが持つ、ずるい興奮。
だが、俺は手を止めた。
深呼吸する。
この本は、俺のものではない。
社長室のものでもない。
会社の商品であり、編集の仕事であり、営業の紙であり、書店の棚であり、まだ見ぬ読者の入口だ。
俺が握りしめていいものではない。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「どう見える」
どう見える。
未来のヒットとして。
ではない。
社長室秘書として。
棚前の一秒として。
読者の入口として。
「硬さより、未熟さの方が先に見えます」
俺は言った。
「悪い意味ではありません。十三歳という弱さが、表紙では“これから踏み出す”印象になっています」
「うむ」
「陰陽師という言葉の硬さを、相棒の気配が少し緩めています」
「うむ」
「書店向けの文言は、説明しすぎると平安知識の入口になってしまいます。最初は、守りたいもの、まだ小さい一歩、相棒、でよいかと」
言ってから、少しだけ怖くなった。
説明しすぎたか。
仕事の顔になりすぎたか。
社長は俺を見た。
「三分だな」
「はい?」
「今の説明は三分以内だ」
「はい」
「合格だ」
合格。
社長に合格と言われた。
仕事の中身より、時間で。
複雑である。
だが、今はそれでいいのかもしれない。
「この程度なら、戻ってきた意味がある」
社長は言った。
「この程度」
「この程度だ」
「はい」
「全部を動かすな。だが、一枚に乗った歪みは見ろ」
「はい」
「今日は、歪みを一つ見たら帰れ」
「はい」
「二つ目を見るな」
「……はい」
厳しい。
だが、的確。
俺は見本誌を机に戻した。
手を離す。
紙は逃げない。
俺が離しても、そこにある。
当たり前のことを、ようやく身体で覚え始めていた。
*
十二時。
小早川が俺の机に弁当を置いた。
弁当。
社長室で。
予定表にも、十二時から昼食と赤字で入っている。
逃げ場なし。
「食べてください」
「社長室で?」
「移動を減らすためです」
「はい」
三浦がなぜか残っている。
「三浦さんは」
「監視です」
「営業の仕事は」
「昼食後に戻ります」
「ご迷惑を」
「本当にです」
また即答。
だが、三浦は笑っていた。
弁当は、普通の幕の内だった。
ご飯。
焼き魚。
卵焼き。
煮物。
揚げ物少し。
固形物。
会社で食べる固形物。
感慨深い。
「食べながら読むのは禁止です」
小早川が言った。
「まだ何も」
「箸を持つ前に紙を見ました」
「見ただけです」
「見る必要もありません」
階段と同じ扱いになっている。
紙にも人権がなくなりつつある。
俺は食べた。
ちゃんと食べた。
半分ではなく。
残さず。
三浦が見ている。
小早川も見ている。
非常に食べづらい。
だが、食べた。
食べ終わったところで、小早川が言った。
「よろしい」
「私は給食を完食した児童でしょうか」
「今日は近いです」
「近い」
否定されなかった。
*
十二時四十五分。
退社準備。
早い。
非常に早い。
まだ昼過ぎである。
社長室の午後予定は残っている。
紙も残っている。
見本誌もある。
三浦の共有紙も、まだ読み切っていない。
佐伯の赤字も、真鍋のコメントも、もっと見たい。
だが、復帰条件は十三時退社。
会社を出る前に航へ連絡。
帰宅後も連絡。
帰宅後は仕事の紙を開かない。
俺は鞄を持とうとした。
小早川が取り上げた。
「鞄は軽いですが」
「私がエレベーターまで持ちます」
「そこまで」
「そこまでです」
三浦が横で言う。
「篠宮さん、今日の目標は帰ることです」
「分かっています」
「分かっている顔ではありません」
「顔に出ていますか」
「かなり」
俺は諦めた。
会社を出る前に、航へメールする。
«これから退社します。
昼食は食べました。
階段は使っていません。
怜子»
すぐ返ってきた。
«よし。
帰ったらただいまメール。
航»
ただいまメール。
新しい種類の報告である。
俺は携帯を閉じた。
社長室の入口で、社長が言った。
「篠宮君」
「はい」
「帰れ」
「はい」
「振り返るな」
「そこまで」
「振り返ると紙が見える」
「はい」
俺は振り返らずに出た。
偉い。
かなり偉い。
廊下を歩く。
ゆっくり。
小早川が横。
三浦が少し後ろ。
鞄は小早川。
俺は手ぶら。
足首が少し痛い。
だが、歩ける。
エレベーターへ。
階段は見ない。
見ない。
見なかった。
「見ませんでしたね」
小早川が言う。
「見ませんでした」
「よろしい」
三浦が拍手しようとして、小早川に目で止められた。
拍手は不要である。
いや、少し欲しい気もする。
やめよう。
*
会社の玄関を出る。
タクシーに乗る。
帰る。
昼の東京は、朝と違う顔をしていた。
俺は窓の外を見た。
書店の前を通る。
今度は、仕事の顔にならないようにした。
少しだけ見た。
少しだけ。
いや、少しだけ禁止。
俺は目を閉じた。
見ない。
今日は帰る。
会社へ戻ることより、帰ることの方が難しい日。
難しい方をやる。
タクシーが部屋の前に着く。
ゆっくり降りる。
階段なし。
エレベーター。
鍵。
玄関。
靴を脱ぐ。
部屋。
冷蔵庫。
復帰条件票。
ただいまを言う場所。
俺は、誰もいない部屋に向かって言った。
「ただいま」
声は少し小さかった。
でも、言えた。
携帯を開く。
«帰宅しました。
ただいまを言いました。
怜子»
送信。
少しして、航から返る。
«おかえり。
合格。
今日は仕事の紙なし。
夜、行く。
航»
合格。
今日の合格。
出社して、昼食を食べて、帰ってきて、ただいまと言う。
それだけ。
それだけで、合格。
俺はソファに座った。
鞄は開けない。
仕事の紙はない。
見本誌もない。
会社に置いてきた。
逃げなかった。
俺も、今日は逃げなかった。
帰ることから。
*
夜。
航が来た。
玄関の音。
「ただいま」
航が言った。
「おかえりなさい」
俺は返した。
自然に。
航は冷蔵庫の復帰条件票を確認した。
「一応、守った?」
「守りました」
「階段」
「使っていません」
「昼食」
「食べました」
「帰宅後、仕事の紙」
「開いていません」
「少しだけ」
「言っていません」
「よし」
航は満足そうに頷いた。
「合格」
「ありがとうございます」
「仕事は?」
「見本誌を三分だけ見ました」
「三分?」
「社長に合格と言われました」
「よかったね」
「はい」
「嬉しい?」
「嬉しいです」
素直に言えた。
航は少し笑った。
「じゃあ、今度ちゃんと聞く」
「今日ではなく?」
「今日は合格祝いだから、仕事の説明は短く」
「何分ですか」
「三分」
「社長と同じ」
「社長さん、分かってる」
航は台所へ向かった。
夕食は、買ってきた弁当と味噌汁だった。
完璧ではない。
でも、それでいい。
生活は、いつも完璧な手料理でできているわけではない。
コンビニでも、弁当でも、味噌汁でも。
食べて、戻る場所があればいい。
食後、航がメモ帳とペンを出した。
「今日も三行まで」
「復帰記録ですか」
「自分のこと」
「はい」
俺はペンを取った。
一行目。
社長室には席があった。
二行目。
見本誌は逃げず、私が離しても机に残った。
三行目。
ただいまを言うまでが、今日の仕事だった。
ペンを置く。
航が読む。
「うん」
「合格でしょうか」
「合格」
航は少し笑った。
「ただいまを言うまでが、今日の仕事だった、か」
「仕事という言葉が混じっています」
「でも、今日はいい」
「いいのですか」
「帰ってきたから」
帰ってきたから。
その一言で、胸の奥が少し緩んだ。
*
寝る前。
足首は少し痛んだ。
だが、頭は軽い。
水底の夢は、今日は遠い。
布団に入る。
航はソファに毛布。
手は、今日は握らなかった。
でも、部屋にはいる。
それで十分だった。
「航」
「うん」
「今日は、探させませんでした」
「うん」
「見つかる場所にいました」
「うん」
「会社にも、戻れました」
「うん」
「帰っても、来られました」
「うん」
航は暗がりで少し笑った。
「じゃあ、明日もそれで」
「明日は休みです」
「だから、会社には戻らない」
「はい」
「ここにいる」
「はい」
「紙は?」
「開きません」
「階段は?」
「使いません」
「水底は?」
「彷徨いません」
「よし」
俺は目を閉じた。
社長室の机。
見本誌。
小早川の「おかえりなさい」。
社長の「帰れ」。
三浦の五分制限。
昼食。
エレベーター。
タクシー。
冷蔵庫の復帰条件票。
航の「合格」。
全部が、今日一日の中に並んでいる。
紙の帝国へ戻った。
でも、紙の中へは消えなかった。
見本誌は逃げなかった。
俺が手を離しても、ちゃんと机に残っていた。
そして俺は、社長室を離れても、ちゃんと戻る場所があった。
会社へ。
部屋へ。
仕事へ。
生活へ。
どちらか一つではなく。
どちらにも。
十一月九日。
職場復帰初日。
俺は、エレベーターで上がり、昼食を食べ、エレベーターで下り、帰宅して、ただいまと言った。
出版改革としては何も進んでいない。
だが、俺個人の進捗としては、かなり大きい。
たぶん。
いや。
今日は、そういうことにしておく。
合格をもらったので。
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魔法版Amazonの立役者として、我が家を成り上がらせた『世界一の大魔法使い』の内弟子だけど、起きたら俺が幼女の「中の人」でした。しかも、目の前に現れた“ししょー”が中二。⋯⋯( ゜д゜)ハッ!!「読め」たぞ! コレ、時間遡行ってやつじゃね!? 的なお話なので、よかったら読んでみてね⭐️
#実は、カクヨムコン11中間選考突破作




