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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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31/33

第三十一話 仄暗い水の底を彷徨う夢を見ていた。目覚めたら航に顔を覗き込まれていた。魘されてたから覗き込まれていただけ。そう思いたい。

 仄暗い水の底を彷徨う夢を見ていた。


 沈んでいる、ではなかった。


 溺れている、でもない。


 彷徨っている。


 それが、いちばん近い。


 足元は見えない。


 けれど、歩いている感覚だけはある。


 一歩。


 また一歩。


 水は冷たくない。


 ぬるい。


 体温と同じくらいで、皮膚との境目が曖昧になる。


 だから余計に気持ち悪い。


 どこまでが水で、どこからが自分なのか分からない。


 どこまでが夢で、どこからが記憶なのかも分からない。


 目の前に、階段があった。


 会社の階段。


 蛍光灯が白く光っている。


 金属の手すり。


 滑り止めの黒い線。


 俺が踏み外した、あの一段。


 ただし、その階段は上へ続いていなかった。


 水底へ続いていた。


 一段。


 一段。


 さらに一段。


 降りるたびに、水の色が濃くなる。


 足首が痛い。


 夢の中なのに、ちゃんと痛い。


 このあたり、身体の主張が律儀すぎる。


 やめてほしい。


 俺は階段を降りていた。


 降りたくないのに、降りていた。


 手には紙があった。


 社長用の一枚。


 十一月五日に、階段で散らしたはずの紙。


 水を吸って重い。


 文字がにじんでいる。


 十二月刊見本確認メモ。


 少年陰陽師。


 十三歳。


 物の怪。


 まだ小さいけれど、守りたいものがある。


 その文言が、水の中でほどけていく。


 守りたいもの。


 その言葉だけが、やけに残った。


 何を。


 誰を。


 どこから。


 俺はその紙を胸に抱えた。


 濡れた紙はすぐ破れる。


 だから、抱えたらいけない。


 分かっているのに、離せない。


 階段の下には、社長室があった。


 社長室のはずなのに、床がない。


 机だけが水の中に浮かんでいる。


 いや、沈んでいる。


 机の上には、見本誌。


 緑の背表紙。


 仮の帯。


 赤ペンの入った紙。


 小早川の留守電のメモ。


 三浦の削った文言。


 佐伯の赤字。


 川辺の「完成品ではありません」。


 社長の「水底から紙を拾うな。まず浮け」。


 全部が、水の中にあった。


 俺は近づいた。


 拾わなければ。


 乾かさなければ。


 社長の机に戻さなければ。


 月曜で間に合う。


 見本誌は逃げない。


 そう言われた。


 分かっている。


 分かっているのに、夢の中の俺は、また紙へ手を伸ばしていた。


 その時。


「それは、あなたのものではありません」


 声がした。


 女の声。


 近い。


 とても近い。


 俺は振り返った。


 そこに、篠宮怜子がいた。


 いや。


 俺だった。


 スーツ姿。


 まとめた髪。


 社長室秘書の顔。


 毎朝、鏡で見ている顔。


 ただ、その表情だけが違った。


 俺が作ったものではない。


 昔からこの身体にあった顔。


 この世界で働いて、この会社で息をして、航に「さっちゃん」と呼ばれてきた顔。


 九月の三日間。


 俺がいなかったはずの時間に、会社へ行き、仕事をし、航を「航さん」と呼んだかもしれない人。


 彼女は、水の中で俺を見ていた。


 責めてはいない。


 怒ってもいない。


 ただ、静かに見ていた。


 それが怖い。


「俺は」


 声を出そうとした。


 水が口に入る。


 苦しくはない。


 でも、言葉が泡になる。


「これは、仕事で」


 泡。


「社長室の」


 泡。


「俺が」


 泡。


 篠宮怜子は、少しだけ首を傾けた。


「あなたは、どこへ戻るのですか」


 どこへ。


 社長室へ。


 違う。


 会社へ。


 違う。


 月曜の会議へ。


 違う。


 見本誌へ。


 違う。


 十二月刊へ。


 違う。


 航のところへ。


 そう思った瞬間、水の向こうで何かが揺れた。


 駅前だった。


 休日の駅前。


 映画館の時間表を持った航が立っている。


 俺はいない。


 航は俺を探している。


 次の景色。


 病院の廊下。


 航が走ってくる。


 俺は救急外来のベッドの上。


 また、航は俺を探している。


 次の景色。


 部屋。


 布団。


 水。


 薬。


 棚の上のメモ帳。


 航が俺の呼吸を見ている。


 俺は眠っている。


 また、航は俺を探している。


 水が重くなる。


 足が沈む。


 紙がまとわりつく。


 社長室の紙。


 読者共有メモ。


 探索導線メモ。


 初動七日表。


 休日出勤の言い訳。


 階段禁止の貼り紙。


 全部が、濡れた紙魚みたいに足へ絡んでくる。


 篠宮怜子が言った。


「本は、逃げません」


 知っている。


「見本も、逃げません」


 知っている。


「会議も、あなたがいなくても進みます」


 知っている。


「でも」


 彼女は、俺の胸に手を当てた。


 冷たくない。


 温かくもない。


 紙の温度。


「身体は、沈みます」


 その瞬間、水底の階段が崩れた。


 俺は落ちた。


 階段からではない。


 水の中へ。


 もっと深いところへ。


 暗い。


 暗い。


 暗い。


 どこが上か分からない。


 どこへ戻ればいいか分からない。


 俺は手を伸ばした。


 紙ではなく。


 手すりでもなく。


 誰かの声へ。


「さっちゃん」


 水の向こうから、航の声がした。


「さっちゃん」


 遠い。


 でも、聞こえる。


「さっちゃん、起きて」


 水面が揺れた。


 篠宮怜子が、俺から手を離した。


 まるで、行きなさい、とでも言うように。


 俺は上へ浮いた。


 浮いた、というより、引き上げられた。


 声に。


 手に。


 水面へ。


 空気へ。


 光へ。


     *


 目覚めたら、航に顔を覗き込まれていた。


 近い。


 かなり近い。


 視界いっぱいに航の顔があった。


 心臓に悪い。


 いや、心臓が動いている証拠なので良いことなのかもしれない。


 しかし近い。


「……航」


 声がかすれた。


 航の顔が、はっきり緩んだ。


「起きた」


「近いです」


「ごめん」


 航は少しだけ身を引いた。


 でも、完全には離れなかった。


 目が、俺の顔から外れない。


「魘されてた」


「そうですか」


「呼吸が変だった。水の中にいるみたいな」


 当たりすぎである。


 夢を見られていたのかと思った。


 そんなわけはない。


 魘されてたから覗き込まれていただけ。


 そう思いたい。


 救急搬送の翌々日。


 頭部打撲。


 微熱。


 足首固定。


 呼吸が乱れていた。


 だから航が覗き込んでいた。


 そう。


 それだけ。


 それだけのはず。


「熱、測る」


「はい」


 体温計。


 三十七度一分。


 微熱。


 微妙な数字。


 しかし航の眉間には十分な数字だった。


「今日は昨日より完全休養」


「完全休養に段階が」


「ある」


 あるらしい。


 俺は布団の中で観念した。


「夢、覚えてる?」


 航が聞いた。


 俺は黙った。


 覚えている。


 覚えすぎている。


 水底。


 階段。


 紙。


 見本誌。


 篠宮怜子。


 身体は沈みます。


 言えば、ただの夢ではなくなる気がした。


 言わなければ、ただの悪夢で済む気がした。


 だが、済ませていいのか。


 済ませたい。


 済ませたいが、済ませられない。


「覚えています」


 俺は言った。


 航は頷いた。


「言える?」


「仕事の話になります」


「仕事の話にしないで言って」


「難しいですね」


「練習」


 最近、航はよくそれを言う。


 練習。


 生活は練習。


 休むのも練習。


 助けを求めるのも練習。


 自分が誰なのか分からないことを、誰かに伝えるのも。


「水の底を、歩いていました」


「うん」


「会社の階段がありました」


「うん」


「社長室の紙が沈んでいました」


「もう仕事」


「すみません」


「続けて」


「見本誌も沈んでいて」


「うん」


「拾おうとしました」


 航の顔が少し硬くなる。


「それから」


 俺は息を吸った。


「篠宮怜子がいました」


 航は、驚いた顔をした。


 けれど、完全な驚きではなかった。


 九月の三日間を、航は知っている。


 俺が知らない俺。


 航を「航さん」と呼んだ誰か。


 この身体を、俺より前から知っているかもしれない誰か。


「昔の、さっちゃん?」


「分かりません」


「うん」


「俺かもしれません」


「うん」


「私かもしれません」


 その言葉だけ、やけに自然に出た。


 航は手を伸ばしかけて、止めた。


「触っていい?」


 いつもの確認。


 俺はすぐ頷いた。


「はい」


 航が手を握った。


 温かい。


 夢の水とは違う。


 紙の温度とも違う。


 生活の温度。


「その人は、何て?」


「本は逃げません、と」


「うん」


「見本も逃げません、と」


「うん」


「会議も、私がいなくても進みます、と」


「うん」


「でも、身体は沈みます、と」


 航はしばらく黙った。


 手だけが、少し強くなる。


「怖かった?」


「怖かったです」


 すぐに答えた。


 だが、それだけでは足りない。


「でも、責められてはいませんでした」


「うん」


「それが余計に怖かった」


「そっか」


 航は否定しなかった。


 夢だよ、とも言わなかった。


 疲れてるだけだよ、とも言わなかった。


 言ってほしかった気もする。


 言われなくてよかった気もする。


「さっちゃん」


「はい」


「その人は、身体のことを言いに来たのかもね」


「身体」


「うん。仕事じゃなくて。紙じゃなくて。身体」


 俺は黙った。


「その身体、さっちゃんより前からその人のものだったんだよね。たぶん」


「はい」


「なら、さっちゃんが沈めるなって言いたくなるの、分かる気がする」


 刺さった。


 深く。


 俺は、この身体を使っている。


 借りているのか、乗っ取っているのか、戻っているのか、混ざっているのかは分からない。


 だが、この身体は、俺だけの都合で動く道具ではない。


 篠宮怜子の生活がある。


 仕事がある。


 航との時間がある。


 小早川に叱られてきた癖がある。


 倒れやすい履歴も。


 無理をする癖も。


 俺が知らない疲労も。


 たぶん、俺が知らない傷も。


「航」


「うん」


「怖くありませんか」


「何が?」


「私が、私ではないかもしれないこと」


 言ってしまった。


 部屋の空気が少し止まる。


 航の手が、一瞬だけ強くなった。


 目を逸らすかと思った。


 逸らさなかった。


「怖いよ」


 航は言った。


 正直だった。


「怖い」


「はい」


「九月の時も怖かった。今も怖い。昨日みたいに病院で探すのも怖い。夢の話も怖い」


「はい」


「でも」


 航は、俺の手を握ったまま続けた。


「怖いからって、見ないふりしたいわけじゃない」


 胸が痛んだ。


「今ここにいるさっちゃんを、怖いから遠ざけたいとは思ってない」


「はい」


「それで十分かは分からないけど」


「はい」


「今の俺に言えるのは、それくらい」


 十分だ。


 そう言いたかった。


 言えなかった。


 十分かどうかなんて、俺にも分からない。


 でも、その言葉で、少し浮いた。


 水底から。


「だから」


 航は言った。


「分からない時ほど、勝手に沈まないで」


「沈む」


「紙の中でも、水の底でも、病院でも」


「はい」


「俺に、探す場所くらいは教えて」


 探す場所。


 また、その言葉だった。


 駅で見つからない。


 病院で探す。


 夢の底で探す。


 俺はいつも、航に探させている。


「分かりました」


「うん」


「怖い夢を見たら言います」


「うん」


「篠宮怜子が出てきたら」


「うん」


「仕事の資料にせず、まず航に言います」


「そこ、わざわざ言う?」


「重要です」


「重要だけど」


 航が少し笑った。


 その笑いで、水が少し引いた気がした。


     *


 小早川から電話が来たのは、朝食の雑炊を食べている途中だった。


 航が出る。


「はい、桐生です。……はい。微熱です。三十七度一分。食べています。……魘されていました。今は落ち着いています。……代わります」


 報告が詳細すぎる。


 俺は受話器を受け取った。


「はい、篠宮です」


『寝ていてください』


「寝たまま食べるのは難しいです」


『座っているなら可です』


「ありがとうございます」


『夢の話は航さんから概要だけ聞きました』


 航が目を逸らした。


 共有済みだった。


「社長室へ夢まで」


『体調情報です』


「はい」


『社長から伝言です』


「はい」


『水底から紙を拾うな。まず浮け』


 社長。


 的確すぎる。


 そして遠慮がない。


『それから、身体からの苦情として受け取れ、とのことです』


「苦情」


『はい。かなり強めの苦情です』


「労務的ですね」


『労務です』


 断言された。


『怜子さん』


「はい」


『夢の内容を分析しないでください』


「はい」


『少なくとも今日は』


「はい」


『書かないでください』


「……はい」


『今、間がありましたね』


「ありません」


『ありました』


 電話なのに見抜かれる。


 秘書課、恐ろしい。


『水を飲んで、薬を飲んで、寝てください』


「はい」


『階段は禁止継続です』


「はい」


『夢の中でも』


「そこまで」


『夢の中でもです』


「はい」


 電話が切れた。


 航がこちらを見る。


「夢の中でも階段禁止」


「はい」


「いいね」


「いいのですか」


「いい」


 航は真顔だった。


 どうやら夢の中でも禁止らしい。


     *


 昼前、航は仕事へ行く準備を始めた。


 俺の枕元には、水。


 薬。


 体温計。


 携帯。


 固定電話の子機。


 メモ帳は、昨日より少し近い机の端。


 ただし、ペンは航の鞄の中。


 信用が戻ったのか戻っていないのか、判断に迷う配置だった。


「夕方、電話する」


「はい」


「夢を見たら、起きた時にメール」


「はい」


「熱が上がったら固定」


「はい」


「水」


「飲みます」


「薬」


「飲みます」


「階段」


「使いません」


「夢の中でも?」


「使いません」


「よし」


 完全に幼児確認である。


 だが、不思議と昨日ほど恥ずかしくなかった。


 確認されることは、探す場所を残すことなのだと、少し分かったからかもしれない。


「航」


「うん」


「行ってらっしゃい」


 航が止まった。


 ほんの一瞬。


 それから、少しだけ笑った。


「行ってきます」


 自然だった。


 怖いくらい自然だった。


 扉が閉まる。


 部屋に静けさが戻る。


 俺は布団へ戻った。


 眠るのは少し怖かった。


 また水底を彷徨うかもしれない。


 篠宮怜子に会うかもしれない。


 身体は沈みます、と言われるかもしれない。


 でも、航の声もあった。


 水の向こうから聞こえる声。


 俺を探す場所を知っていたいと言った声。


 なら、少しだけ眠れる。


 たぶん。


     *


 夕方。


 目が覚めると、美咲からメールが来ていた。



  わた兄から聞いた。水の底こっわ!

 でもサ、お兄が水面担当なら大丈夫じゃない?

 さっちゃんはまず浮いて。

 あ、階段禁止だよ? 美咲




 水面担当。


 航にまた妙な役職が増えた。


 紙の帝国からの奪還担当。


 ケーキ没収担当。


 階段監視担当。


 そして水面担当。


 年下彼氏の職務範囲が広すぎる。


 俺は返信した。


 水面担当という役職は初耳です。

 まず浮くよう努めます。

 階段は禁止継続です。怜子




 すぐ返る。



 かたい。

 でもよし。

 浮いたら水飲んで寝て。みさき



 水底の夢を見た人間に、水を飲んで寝ろと言う。


 美咲が平仮名なのも含め、構図が少しおかしいしちょっとだけ、無防備。


 だが、飲んだ。


 偉い。


 かなり偉い。


     *


 夜。


 航が来た。


 玄関の音で、俺は目を開けた。


「ただいま」


 航が言った。


 少しだけ、当たり前みたいに。


 俺は布団の中から返した。


「おかえりなさい」


 その言葉が、部屋にすんなり落ちた。


 落ちすぎて、少し怖い。


 航も、一瞬だけ黙った。


 それから靴を脱いだ。


「熱は?」


「三十六度八分」


「下がった」


「はい」


「夢は?」


「昼は、沈みませんでした」


「そっか」


 航は安心したように息を吐いた。


 夕食は煮込みうどんだった。


 粥、うどん、雑炊、またうどん。


 炭水化物による社会復帰訓練である。


 食後、航は鞄からペンを出した。


 机の上のメモ帳をこちらへ寄せる。


「一行だけ」


「よろしいのですか」


「夢のこと。自分のこと。仕事の分析禁止」


「難しいですね」


「練習」


 俺はペンを受け取った。


 水底。


 篠宮怜子。


 身体は沈む。


 航の声。


 水面担当。


 階段禁止。


 書きたいことは多い。


 でも、一行だけ。


 俺は書いた。


 水の底で紙を拾うより先に、呼ばれた声へ浮かなければならない。


 航が覗く。


「一行?」


「一行です」


「仕事の分析?」


「ぎりぎり自分のことです」


「合格」


 合格らしい。


 俺はペンを置いた。


 ちゃんと置いた。


 航はそれを確認して、メモ帳を閉じた。


 今日は、棚には戻さなかった。


 机の端に置いたままだ。


「信用が少し戻りましたか」


「少し」


「少し」


「救急車一回分だから、回復も少しずつ」


「はい」


 納得せざるを得ない。


     *


 寝る前。


 航は今日も泊まることになった。


 ソファに毛布。


 俺は布団。


 ただ、昨夜と少し違った。


 航が「手、握る?」と聞く前に、俺は少しだけ手を出していた。


 自分でも驚いた。


 航も驚いた顔をした。


 出したものは仕方ない。


「お願いします」


 俺は言った。


 航は静かに手を握った。


 温かい。


 水の夢が、少し遠くなる。


「航」


「うん」


「今朝、顔が近かったのは」


「うん」


「魘されていたからですよね」


 聞いてしまった。


 聞かなくてもよかったのかもしれない。


 でも、聞いてしまった。


 航は少しだけ黙った。


「最初は、そう」


 最初は。


 その言い方は、非常によろしくない。


「最初は?」


「呼吸が変で、熱もあるかと思って、起こそうか迷って覗き込んだ」


「はい」


「そのあと、起きるまで見てた」


「なぜ」


「怖かったから」


 まっすぐだった。


「それだけですか」


 口が勝手に動いた。


 航の手が少し止まる。


 俺も止まる。


 何を聞いている。


 微熱明け。


 頭部打撲後。


 足首固定。


 強制休養中。


 聞くことではない。


 航は困ったように笑った。


「それだけ、って言ったら嘘かも」


 心臓が変な動きをした。


「でも、さっちゃんが魘されてる時に、何かしようとしたわけじゃない」


「はい」


「ただ、起きた時に俺がいるって分かったら、少し安心するかなと思った」


 その答えは、優しくて、危険だった。


 魘されてたから覗き込まれていただけ。


 そう思いたい。


 そう思いたかった。


 でも、それだけではなかったとしても。


 今は、それでいいのかもしれない。


「安心しました」


 俺は言った。


「少し」


「そっか」


「はい」


「じゃあ、寝て」


「はい」


「水底に行ったら?」


「まず浮きます」


「紙は?」


「拾いません」


「階段は?」


「使いません」


「夢の中でも?」


「使いません」


「よし」


 航は笑った。


 俺も少しだけ笑った。


 目を閉じる。


 仄暗い水の底は、まだ怖い。


 篠宮怜子も、まだ怖い。


 俺が誰なのか分からないことも、怖い。


 だが、今夜は手がある。


 声がある。


 水面担当がいる。


 かなり変な役職だ。


 しかし、悪くない。


 仄暗い水の底を彷徨う夢を見ていた。


 目覚めたら、航に顔を覗き込まれていた。


 魘されてたから覗き込まれていただけ。


 そう思いたい。


 でも、それだけではなかったとしても。


 今夜は、怖くなかった。


 少なくとも、ひとりで彷徨うよりは。

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