第三十話 見本誌は逃げない。だから俺は布団から出られない
十一月六日。
火曜日。
俺は、布団の中にいた。
出社していない。
社長室にもいない。
階段にもいない。
救急車にも、いない。
大変よろしい。
いや、よろしくはない。
右足首には固定。
肘には湿布。
肩も痛い。
頭の奥には、鈍い重さ。
寝返りを打とうとすると、身体のあちこちが文句を言う。
階段を踏み外しただけなのに。
だけ、ではなかった。
医師にも言われた。
小早川にも言われた。
社長にも言われた。
航にも言われた。
ただの一段ではない。
そこへ至るまでの全部が、階段で形になっただけだ。
つまり、俺は今、階段から落ちたのではなく、十月と十一月の間に溜め込んだツケから落ちている。
非常に嫌な比喩である。
しかも、かなり正しい。
「さっちゃん」
布団の横から、航の声がした。
「起きてる?」
「起きています」
「寝てて」
「起きているか聞いたのでは」
「確認しただけ。起きてるなら、水」
航は枕元に水を置いた。
コップ。
薬。
体温計。
携帯。
メモ帳はない。
ない。
机の上にもない。
航が昨夜、没収した。
正確には、俺の手が届かない棚の上に置いた。
「頭打った人はメモ禁止」
そう言われた。
反論はできなかった。
頭を打った人間は弱い。
さらに階段禁止命令違反者なので、もっと弱い。
「今日は何する日?」
航が聞いた。
「休む日です」
「よし」
「出社停止日です」
「もっとよし」
「見本誌は逃げない日です」
「大変よし」
航は真面目な顔で頷いた。
その真面目さが少し可笑しい。
しかし、航はまだ怒っている。
そこは消えていない。
昨夜も言われた。
まだ怒ってる。
今日も、怒っている。
ただ、怒りながら水を置き、薬を確認し、朝食を作っている。
この男は本当に厄介だ。
優しい。
だが、優しいだけではない。
怒る。
待つ。
手を貸す。
そして、逃がさない。
「航」
「うん」
「仕事は」
「午前だけ休みにした。午後は行く」
「申し訳」
「それ禁止」
「……はい」
「俺が決めたことだから、謝罪じゃなくてありがとうで」
難しい。
かなり難しい。
俺は少し迷ってから言った。
「ありがとうございます」
「うん」
航は少しだけ表情を緩めた。
朝食は粥だった。
また粥。
人生に粥が多い。
だが、今朝の粥は梅干し入りだった。
美味い。
悔しいが、美味い。
*
午前九時。
小早川から固定電話が鳴った。
航が受話器を取った。
「はい、桐生です。……はい。起きています。食べました。薬も。……はい、代わります」
完全に介護報告である。
俺は布団の中で受話器を受け取った。
「はい、篠宮です」
『寝ていてください』
「寝たままです」
『本当ですね』
「なぜ分かるのですか」
『声が低いので』
秘書課、怖い。
『本日の社長室は通常どおり動いています』
「はい」
『十一時の予定も問題ありません』
「はい」
『少年陰陽師の見本確認についても、昨日の会議で必要な点は共有済みです』
胸が少しだけ動いた。
見本。
会議。
俺が救急車で運ばれている間に進んだ紙。
『怜子さん』
「はい」
『聞いていますか』
「はい」
『悔しそうな顔をしない』
「見えますか」
『見えます』
なぜだ。
電話なのに。
『あなたがいなくても会議は進みました』
「はい」
『それは良いことです』
「はい」
『あなたが不要という意味ではありません』
先に刺された。
そして、先に手当てされた。
小早川は容赦がない。
だが、必要な順番を間違えない。
『社長室秘書は、いて当然の仕事です。だからこそ、いない時にも動くようにしておく必要があります』
「はい」
『あなたが倒れても会社が止まらないのは、あなたの失敗ではありません』
「はい」
『ただし、倒れたことは失敗です』
「はい」
そこは容赦がない。
『三日間、出社禁止です』
「はい」
『階段禁止』
「はい」
『仕事の紙を自分から開くこと禁止』
「はい」
『航さんの指示に従ってください』
「そこまで」
『従ってください』
「はい」
完全敗北。
『それから』
「はい」
『見本誌は逃げません』
また言われた。
「はい」
『ただ、読者は待ちません』
「……はい」
『だから、読者に届ける仕事を続けるためにも、あなたは休んでください』
重い。
これは逃げ道を潰す言葉だった。
休むことが仕事。
そんな綺麗な言い方をされると、反発したくなる。
だが、小早川はそう言わなかった。
届ける仕事を続けるために休め。
その方が刺さる。
「承知――」
言いかけて、止める。
「はい」
『よろしい』
電話は切れた。
航が横から聞いていた。
「承知いたしました、って言いそうになった?」
「なりました」
「返事節約」
「はい」
*
午前十時。
携帯にメールが来た。
三浦からだった。
篠宮さん
会議は終わりました。
見本、良かったです。
佐伯さんの赤字が走りました。
川辺さんが「完成品ではない」を三回言いました。
社長が「風神雷神より階段が怖いな」と言いました。休んでください。 三浦
最後の一文で、すべて台無しである。
風神雷神より階段が怖い。
言うと思った。
社長は絶対に言うと思った。
俺は布団の中で額を押さえた。
「何?」
航が聞いた。
「社長が、風神雷神より階段が怖いと」
「合ってる」
「合っていますか」
「昨日のさっちゃんには、風神雷神より階段が怖かったでしょ」
「否定が困難です」
航は少しだけ笑った。
怒っているのに笑った。
それだけで、少し胸が軽くなる。
「見本、良かったって?」
「はい」
「そっか」
「はい」
「嬉しい?」
「……はい」
認める。
嬉しい。
会議に出られなかったことは悔しい。
でも、見本が良かったことは嬉しい。
俺がいなくても、佐伯の赤ペンが走ったことも。
川辺が完成品ではないと三回言ったことも。
三浦がメールで知らせてくれたことも。
社長が階段ネタを拾ったことも。
全部、会社が動いている証拠だ。
俺がいなくても。
俺がいる場所とは別に。
「さっちゃん」
航が言った。
「仕事の話、五分だけしていいよ」
「よろしいのですか」
「嬉しいの、隠すとまた悪化しそうだから」
刺さる。
この男は、最近さらに刺し方を覚えてきた。
「でも五分」
「はい」
「俺が聞く。さっちゃんは説明しすぎない」
「難しいですね」
「練習」
航は時計を見た。
「はい、どうぞ」
面接か。
だが、俺は話した。
少年陰陽師の見本のこと。
まだ完成品ではないこと。
表紙の硬さが、思ったより感情へ寄っていたこと。
十三歳主人公が、幼さだけではなく成長の余白に見えたこと。
物の怪相棒の軽さ。
書店向けの言葉。
まだ小さいけれど、守りたいものがある。
航は黙って聞いた。
途中で一度だけ言った。
「嬉しそう」
俺は止まった。
「顔が?」
「うん」
「仕事の顔ですか」
「仕事の顔だけど、悪い顔じゃない」
「悪い仕事の顔と良い仕事の顔があるのですか」
「ある」
航は即答した。
「紙の中に消えそうな顔は悪い仕事の顔」
「はい」
「今みたいに、ちゃんと戻ってきて話してる顔は、まだ良い」
「戻ってきて」
「うん。俺に話してるから」
何も言えなくなった。
仕事を隠さない。
でも、仕事へ消えない。
航は、そこを見ている。
俺が紙を好きなことも、本が形になることに興奮することも、否定しない。
ただ、それを理由に生活から消えることを怒る。
それはたぶん、かなり正しい。
「五分」
航が言った。
「終了」
「はい」
「続きは、治ってから」
「はい」
俺は素直に頷いた。
*
昼前、美咲からメールが来た。
階段から落ちたってお兄から聞いたよ!
さっちゃん、漫画みたいなことしないで。
学祭のお化け屋敷より怖いじゃん。
階段禁止。 美咲
階段禁止。
また一人、監督者が増えた。
俺は返信した。
反省しています。
しばらく階段は使いません。 怜子
すぐ返ってくる。
しばらくじゃなくて、ちゃんと治るまで。
あと、わた兄を怖がらせた罰でクリスマスはケーキ一口没収!
ケーキ没収。
制度が細分化されている。
一口没収。
軽いようで重い。
一口で済みますか⋯⋯?
そんなの、お兄の気分次第だよ!
私も監視するね? 美咲
恐ろしい義妹予定者様である。
だが、そのメールを見て少し笑えた。
笑えるということは、たぶん少し戻ってきている。
*
午後。
航は仕事へ行った。
出る前に、部屋の中を確認した。
水。
薬。
昼食用の粥。
携帯。
固定電話。
メモ帳はまだ高い棚の上。
脚立禁止。
階段禁止。
椅子に乗るのも禁止。
俺は何歳児なのか。
だが、昨日救急車に乗ったので反論できない。
「夕方、電話する」
「はい」
「出られなかったら、固定にもかける」
「はい」
「それでも出なかったら来る」
「はい」
「探しに来る前に見つかって」
「はい」
それは、ほとんど願いだった。
「航」
「うん」
「昨日は、探させてすみません」
「うん」
「今日は、見つかる場所にいます」
航は少しだけ表情を緩めた。
「そうして」
航が出て行く。
部屋が静かになる。
俺は布団の中で天井を見た。
仕事の紙はない。
メモ帳もない。
机も遠い。
足首は痛い。
頭も重い。
何もできない。
何もしない。
これが、こんなに難しいとは思わなかった。
何もしないでいると、頭の中に紙が出てくる。
少年陰陽師の見本。
佐伯の赤ペン。
三浦のメール。
社長の「風神雷神より階段」。
川辺の「完成品ではない」。
小早川の「読者は待ちません」。
そして、航の「紙の中に消えそうな顔」。
全部が浮かぶ。
メモしたい。
ものすごくメモしたい。
だが、今日は書けない。
書かないのではなく、書けない。
メモ帳は棚の上。
身体は布団。
足は固定。
頭は打撲。
航は監督者。
小早川は職場。
美咲はケーキ没収。
完全封鎖である。
仕方なく、俺は目を閉じた。
眠る。
休む。
仕事ではない。
だが、届ける仕事を続けるために必要な停止。
そう思うことにした。
*
夢を見た。
階段の夢ではなかった。
見本誌の夢でもなかった。
書店の棚だった。
緑の背表紙。
まるマ。
少年陰陽師。
まだ発売されていないはずの本。
棚にある。
読者が手を伸ばす。
だが、棚が遠い。
手が届かない。
一段上にある。
読者が背伸びする。
危ない。
踏み台。
階段。
やめろ。
落ちる。
そう思った瞬間、航の声がした。
「脚立禁止」
夢の中でも監督された。
俺は目を覚ました。
夕方だった。
額に汗をかいている。
足首が痛い。
携帯が光っている。
航からの着信ではない。
社長室からの留守電だった。
再生する。
『小早川です。起きたら水を飲んでください。折り返しは不要です。仕事の話ではありません。水です』
水。
それだけ。
俺は笑ってしまった。
仕事の話ではありません。水です。
秘書課の留守電として、かなり強い。
俺は水を飲んだ。
折り返しはしなかった。
偉い。
非常に偉い。
レベルは低い。
だが、今の俺には大事だ。
*
夜。
航が来た。
仕事帰りの顔。
少し疲れている。
だが、俺の顔を見ると、少しだけ安心したようだった。
「起きてた」
「はい」
「水?」
「飲みました」
「ご飯?」
「昼は食べました」
「夜も食べる」
「はい」
航は上着を脱ぎ、台所へ向かった。
今日はうどんだった。
粥ではない。
進歩。
かなりの進歩。
「メモした?」
「していません」
「本当?」
「メモ帳が届きません」
「届いたらしてた?」
「……判断を保留します」
「危ない」
航は笑った。
昨日より少し笑えるようになっている。
まだ怒っているのかもしれない。
でも、怒りの表面が少しだけ柔らかくなった。
夕食のあと、航はメモ帳を棚から取った。
俺の前に置く。
「一行だけ」
「よろしいのですか」
「俺がいる時に、一行だけなら」
「はい」
「仕事の分析禁止」
「はい」
「自分のことだけ」
「難しいですね」
「練習」
航はペンを渡した。
俺はメモ帳を開いた。
美咲のしおりが挟まっている。
文化祭のロゴ。
色画用紙。
ラミネート。
仕事ではない本を読むための道具。
俺は一行だけ書いた。
見本誌が逃げないことを、俺は布団の中で学んでいる。
航が覗く。
「一行?」
「一行です」
「うん」
「仕事の分析ですか」
「ぎりぎり自分のこと」
「判定ありがとうございます」
そこで止める。
本当に止める。
ペンを置いた。
航が少し驚いた顔をした。
「止めた」
「はい」
「えらい」
「ありがとうございます」
小学生のように褒められている。
だが、今日はそれでいい。
*
寝る前、社長から電話が来た。
航が出て、少し話し、俺に代わった。
「はい、篠宮です」
『寝ていろ』
「寝ています」
『本当か』
「はい」
『今日の会議は進んだ』
「はい」
『見本は逃げなかった』
「はい」
『君も逃げるな』
少し意味が違った。
「逃げる?」
『休むことから逃げるな』
「はい」
『仕事をする方が楽な時がある』
刺さった。
『紙を見て、問題を見つけて、直す。そちらの方が、何もしないで自分の身体を見るより楽だ』
「……はい」
『今の君には、休む方が難しい』
「はい」
『だから休め』
「はい」
『難しい方をやれ』
社長は、そう言った。
仕事より難しい休養。
嫌すぎる。
だが、正しい。
『三日後、まだ足を引きずるなら延長だ』
「はい」
『小早川君と航君に従え』
「はい」
『それから』
「はい」
『風神雷神より階段が怖い、は三浦に言っただけだ。社内標語にするな』
「もう手遅れでは」
『だろうな』
社長は少し笑った。
『では、寝ろ』
「はい」
電話が切れた。
航がこちらを見る。
「難しい方をやれ、って?」
「聞こえていましたか」
「少し」
「休む方が難しいので、休めと」
「良い社長だね」
「はい」
「怖いけど」
「はい」
怖い。
だが、良い。
紙の帝国には、怖い人が多い。
社長。
小早川。
佐伯。
真鍋。
久我。
川辺。
大町。
三浦は怖いというより鋭い。
航も、最近かなり怖い。
美咲も怖い。
俺の周りは怖い人だらけである。
しかし、その怖さがなければ、俺はもう少し早く紙の中へ消えていたのかもしれない。
*
消灯。
航は今日も泊まると言った。
ソファに毛布。
俺は布団。
手は握っていない。
ただ、部屋にいる。
それだけで、少し安心する。
「航」
「うん」
「まだ怒っていますか」
「うん」
「はい」
「でも、昨日よりは少し減った」
「そうですか」
「減った分、ちゃんと寝て」
「はい」
「階段の夢見たら?」
「脚立禁止と言われました」
「夢でも?」
「夢でも」
航が笑った。
小さく。
でも、ちゃんと笑った。
「じゃあ大丈夫」
「大丈夫でしょうか」
「夢の中の俺が仕事してる」
「監督者として?」
「うん」
俺は目を閉じた。
痛みはまだある。
仕事も気になる。
見本誌も気になる。
少年陰陽師の会議結果も、まるマの動きも、年末広告も、全部気になる。
だが、今日は布団の中だ。
ここが俺の仕事場ではない。
ここは休む場所だ。
見本誌は逃げない。
会議は進む。
会社は止まらない。
読者は待たない。
だからこそ、俺は戻れるように休む。
紙の帝国から完全に離れることはできない。
だが、紙の中へ消えないために、生活の側へ戻ってくる必要がある。
水。
薬。
うどん。
足首の固定。
航の声。
美咲のメール。
小早川の留守電。
社長の電話。
それらは全部、社長室の机には載らない。
でも、俺を社長室へ戻すために必要なものだった。
十一月六日。
見本誌は逃げなかった。
俺も、逃げない。
まずは、休むことから。
難しい方をやる。
目を閉じる。
今度こそ、メモを取らずに。




