第二十九話 月曜日の不覚。職場の階段を踏み外しただけなのに。
十一月五日。
月曜日。
見本誌の続きは、月曜でいい。
月曜で、間に合う。
そのはずだったのに。
今の俺は、サイレンの音とともに救急車で運ばれていたのだった。
まず、音がした。
サイレン。
遠くで鳴っているのではない。
俺のすぐ上で鳴っている。
次に、揺れ。
車体の揺れ。
白い天井。
蛍光灯。
救急隊員の声。
「篠宮さん、聞こえますか」
聞こえている。
聞こえているのだが、返事が遅い。
口が少し重い。
「……はい」
「お名前、言えますか」
「篠宮、怜子です」
「今日は何月何日か分かりますか」
「平成十三年……十一月五日」
「どこで転びましたか」
転んだ。
そうだ。
転んだのだ。
俺は、職場の階段を踏み外した。
ただ、それだけ。
階段を一段。
いや、二段かもしれない。
足元が抜けるような感覚があった。
手すりを掴もうとした。
掴み損ねた。
紙が散った。
誰かが叫んだ。
視界が回った。
それから、床が近かった。
近かったというより、床が来た。
俺に向かって。
違う。
俺が床に向かった。
それだけのことだ。
それだけのはずだった。
「……会社の、階段です」
「頭、打ちましたか」
「たぶん」
「意識が飛んだ感じは?」
「少し」
救急隊員が何かを確認する。
脈。
血圧。
瞳孔。
足首。
肩。
頭。
俺はぼんやりと、それを受けていた。
職場の階段を踏み外しただけなのに。
なぜ救急車なのか。
なぜ俺は、こんな大事になっているのか。
頭のどこかで、冷静な声が言う。
職場で階段から落ちて、一瞬でも意識が飛べば救急車である。
当たり前だ。
危機管理。
労災。
頭部外傷。
骨折確認。
当たり前だ。
当たり前なのだが、当事者になると非常に納得しづらい。
不覚。
あまりにも不覚。
十一月五日、月曜日の不覚である。
*
朝は、普通だった。
いや、普通のふりをしていた。
日曜日は休んだ。
少なくとも、外には出なかった。
航には夕食報告をした。
仕事の紙は開かなかった。
見本誌の夢は、少し見た。
起きてメモは取らなかった。
偉い。
かなり偉い。
そう思っていた。
月曜の朝。
社長室に着くと、小早川が待っていた。
待っていた、というより、構えていた。
「怜子さん」
「はい」
「土曜日の件は聞いています」
「はい」
「休日出勤」
「はい」
「昼食抜き」
「はい」
「航さんとの約束」
「はい」
「連絡なし」
「はい」
「本日は、椅子から勝手に立たないでください」
「最後だけ急ですね」
「急ではありません」
小早川の目は、静かだった。
静かな怒りである。
航とは違う種類の怒り。
航の怒りが心配と生活から来るなら、小早川の怒りは労務管理と秘書課の秩序から来る。
どちらも怖い。
「本日の業務は」
小早川は紙を出した。
「社長の午前予定確認。十一時の会議資料配置。十二月刊見本の社長机上整理。ただし、見本そのものの移動は川辺さんが行います」
「私が持つのでは」
「持ちません」
「一冊だけなら」
「持ちません」
「はい」
敗北。
だが、仕方ない。
倒れた人間に反論権は薄い。
さらに、休日出勤で恋人を怒らせた人間に反論権はもっと薄い。
「航さんには?」
「朝、出社前に連絡しました」
「内容は」
「本日は定時で帰る予定です、と」
「予定?」
小早川の眉がわずかに動く。
「帰ります」
「よろしい」
監督者が社内外で連携している。
恐ろしい時代である。
二〇〇一年なのに、監視網だけは未来並みに強い。
*
午前十時。
川辺が見本の箱を持って来た。
土曜日の箱。
少年陰陽師。
装丁見本。
営業用仮見本。
束見本。
十二月刊の影。
川辺は俺を見るなり言った。
「篠宮さん、今日は座って見てください」
「分かっています」
「本当に?」
「はい」
「土曜日も、午前中だけと言っていました」
「……はい」
制作管理は日付だけでなく人間の嘘にも厳しい。
箱は会議室へ運ばれることになった。
社長室ではなく、十一時の小会議で直接使う。
出席者は社長、佐伯、真鍋、三浦、大町、川辺、岸本。
俺は秘書として、会議室の準備と社長用の一枚メモを置く。
それだけ。
見本を運ばない。
議論を主導しない。
未来を叫ばない。
座る。
昼食を食べる。
定時で帰る。
今日の目標は、出版改革ではなく、人間として最低限の一日を完遂することである。
レベルが低い。
だが、今の俺には高い。
「篠宮さん」
三浦が紙を持ってきた。
「はい」
「少年陰陽師の書店向け仮文言、佐伯さんが少し直しました」
「拝見します」
紙を見る。
まだ小さいけれど、守りたいものがある。
その下に、赤字。
十三歳の少年陰陽師と、物の怪の相棒。
平安の闇へ、まだ小さな一歩を踏み出す。
良い。
硬すぎない。
幼すぎない。
物語の入口がある。
俺は少しだけ胸が熱くなった。
未来の柱候補が、今の言葉で少しずつ形になっている。
見本誌は逃げない。
昨日の自分に言った。
今日、見本はここにある。
逃げなかった。
だから、俺も落ち着けばいい。
そう思った。
思っていた。
*
十時四十五分。
会議室へ向かうことになった。
箱は川辺が持つ。
見本数冊は三浦が持つ。
社長用の一枚メモは、俺が持った。
一枚だけ。
本当に一枚だけ。
小早川も確認した。
「怜子さん」
「はい」
「階段は使わないでください」
「すぐ下の階です」
「エレベーターです」
「混んでいます」
「待ちます」
「はい」
ここで素直に待てばよかった。
待つべきだった。
だが、社長から電話が入った。
会議室の前に来客があり、五分だけ開始を遅らせる。
社長用の別紙を一枚、社長室から持ってくるように。
小早川は別の電話に出ていた。
三浦は見本を運んでいる。
川辺は会議室。
俺の手には一枚の紙。
社長室は同じ階。
別紙を取り、会議室へ戻るだけ。
急ぐ必要はない。
だが、身体が勝手に急いだ。
月曜朝。
土曜の遅れ。
航の怒り。
小早川の検問。
見本誌。
会議開始。
社長の紙。
全部が頭の中で絡んだ。
エレベーターを待つより、階段の方が早い。
一階分だけ。
一枚だけ。
少しだけ。
また出た。
危険語。
少しだけ。
俺は階段へ向かった。
この時点で、すでに負けている。
廊下の角を曲がる。
階段室。
蛍光灯。
コンクリートの壁。
金属の手すり。
足元。
一段。
二段。
その時、視界の端が白くなった。
何かが遅れた。
身体が、俺の指示に一拍遅れた。
足が、思った場所に降りなかった。
「あ」
声が出た。
手すりへ手を伸ばす。
紙が浮いた。
足首が嫌な方向へ曲がる。
肩が壁に当たる。
後頭部ではない。
たぶん側頭部。
いや、分からない。
床。
階段。
視界。
音。
誰かの叫び。
「篠宮さん!」
三浦の声だった気がする。
川辺かもしれない。
小早川かもしれない。
分からない。
ただ、紙が散った。
社長用の一枚。
また紙だ。
俺は、倒れる時まで紙を持っている。
馬鹿なのか。
たぶん馬鹿だ。
次に目を開けた時、天井が見えた。
会社の天井。
白い。
誰かが俺の名前を呼んでいる。
小早川の声。
冷静。
だが、少しだけ速い。
「動かないでください」
「……大丈夫です」
「大丈夫ではありません」
「階段を、踏み外しただけで」
「意識が飛びました」
意識。
飛んだ。
それで、救急車。
俺は理解した。
理解した瞬間、非常に嫌になった。
不覚。
あまりにも不覚。
*
病院。
救急外来。
明るい。
白い。
消毒の匂い。
会社の紙の匂いとは違う。
問診。
検査。
レントゲン。
頭部の確認。
足首。
肩。
肘。
血圧。
医師の声。
「骨折はなさそうです」
その一言で、周囲が少しだけ息を吐いた。
足首は捻挫。
肩と肘に打撲。
軽い頭部打撲。
意識消失があったため経過観察。
過労、睡眠不足、食事の乱れ、低血圧気味。
医師は淡々と言った。
淡々としているからこそ刺さる。
「階段を踏み外した原因は、単なる不注意だけではないと思います」
「はい」
「ここ最近、無理が続いていませんか」
続いている。
続きすぎている。
九月十一日。
差し替え。
卒倒。
記憶の穴。
創刊。
少年陰陽師。
クリスマス広告。
学祭。
TSUTAYA、GEO、Amazon。
休日出勤。
航の怒り。
全部が身体に残っていた。
俺は分かっていた。
分かっていたのに、階段を使った。
「続いていました」
俺は言った。
医師は頷いた。
「しばらく安静にしてください」
安静。
また来た。
嫌な言葉だ。
だが、今回は反論できない。
病院のベッドの上で反論するほど、俺も愚かではない。
たぶん。
*
最初に来たのは、小早川だった。
いや、救急車に同乗していたのかもしれない。
意識がはっきりしなかったので、境目が分からない。
彼女はベッドの横に立っていた。
表情はいつも通り。
だが、いつもより少し怖い。
「怜子さん」
「はい」
「階段は使わないでくださいと言いました」
「はい」
「言いましたね」
「はい」
「なぜ使いましたか」
「一階分でしたので」
「その一階分で救急車です」
「……はい」
完全敗北。
返す言葉がない。
「小早川さん」
「はい」
「申し訳ありません」
「私にではありません」
川辺にも言われた。
今日は全員が同じことを言う。
「航さんに連絡しました」
心臓が跳ねた。
「はい」
「来ます」
「怒っていますか」
「怒る前に、血の気が引いていました」
胸が痛んだ。
まただ。
また、航を怖がらせた。
土曜日に怒らせて、月曜日に救急搬送。
最悪である。
「小早川さん」
「はい」
「航は、悪くありません」
「当たり前です」
即答。
「怒られたから倒れたのではありません」
「はい」
「怒られる前から、倒れる状態だったんです」
その言葉は、予想していたのに刺さった。
前回、俺は航を怒らせた。
でも、航の怒りは正しかった。
約束を破り、連絡せず、昼食を抜き、休日に仕事を優先した俺が悪い。
そして今日倒れたのは、航に怒られたからではない。
その前から、身体が限界へ近づいていた。
「その線は、絶対に間違えないでください」
小早川は言った。
「はい」
「航さんが、次に怒れなくなります」
「はい」
「あなたを大事に思う人を、黙らせる倒れ方をしないでください」
重い。
とても重い。
階段を踏み外しただけなのに。
俺は、人間関係の地雷まで踏んでいる。
*
次に来たのは、社長だった。
病院に社長。
やめてほしい。
非常にやめてほしい。
ただでさえ救急外来で社名が出ている。
そこに社長が来る。
大ごと感が増す。
俺は起き上がろうとした。
「寝ていろ」
「はい」
即座に止められた。
社長はベッド横の椅子に座った。
小早川は少し離れたところに立っている。
「篠宮君」
「はい」
「階段を踏み外したそうだな」
「はい」
「不覚だな」
「はい」
「だが、不覚で済ませるな」
来た。
社長の刺し方。
「はい」
「不注意だけではない。土曜日の休日出勤、昼食抜き、連絡不備、睡眠、緊張、月曜朝の焦り。全部が階段で形になっただけだ」
「はい」
「事故は一瞬だが、原因は一瞬ではない」
その通りだった。
一段踏み外した。
だが、その一段に至るまで、俺は何日も踏み外していた。
休む。
連絡する。
食べる。
待つ。
エレベーターに乗る。
一枚なら大丈夫と思わない。
全部、小さな段差だった。
それを踏み外し続けて、最後に階段で落ちた。
「会議は」
俺は聞いてしまった。
社長の目が冷えた。
しまった。
「会議は進んだ」
「そうですか」
「君がいなくてもな」
「はい」
「川辺が見本の説明をした。佐伯が文言を出した。三浦が書店向けの修正を話した。小早川が社長用の紙を回収した」
「はい」
「会社は止まらなかった」
「はい」
「良いことだ」
「はい」
胸が少し痛む。
俺がいなくても動いた。
それは良いことだ。
君がいないと動かない改革は改革ではない。
前に言われた。
分かっている。
だが、自分が救急車で運ばれている間に見本誌の会議が進んだと聞くと、少しだけ寂しい。
その寂しさもまた、傲慢なのだろう。
「篠宮君」
「はい」
「見本誌は逃げなかった」
「はい」
「会議も逃げなかった」
「はい」
「だが、君の身体は待たなかった」
「はい」
社長は静かに言った。
「身体は、紙より先に締切を出す」
嫌な名言である。
だが、正しい。
「三日、出社停止だ」
「三日」
「最低三日」
「ですが」
「医師の指示と小早川君の判断を優先する」
「社長ではなく?」
「私は会社を動かす。君の身体は医師と秘書課が見る」
「はい」
「航君にも説明する」
俺は顔を上げた。
「社長が?」
「必要ならな」
「それは」
「君が説明すると、仕事の言葉になる」
否定できない。
*
航が来た。
走ってきたのだろう。
息が少し乱れている。
髪も少し乱れている。
顔が白い。
怒っている。
怖がっている。
その両方が見えた。
「さっちゃん」
「航」
俺は起き上がろうとした。
「起きない」
三方向から言われた。
航。
小早川。
社長。
完全包囲。
俺は枕に戻った。
「骨折はありません」
俺は言った。
「足首の捻挫と、打撲と、軽い頭部打撲です」
「医者みたいに説明しないで」
「はい」
航はベッドの横に立った。
手を伸ばしかけて、止めた。
いつものように聞く。
「触っていい?」
その一言で、胸が痛くなった。
「はい」
航は俺の手を握った。
温かい。
九月十一日の夜と同じ。
だが、今日は少し違う。
航の手が、少し震えていた。
「ごめんなさい」
俺は言った。
「うん」
「また、怖がらせました」
「うん」
「土曜日に怒らせて、今日」
「うん」
航は短く返す。
その声が痛い。
「俺、まだ怒ってる」
「はい」
「今日のことも怒ってる」
「はい」
「階段使うなって言われてたんでしょ」
「はい」
「使ったんでしょ」
「はい」
「怒ってる」
「はい」
そこで、航の声が少し揺れた。
「でも、怖かった」
「はい」
「駅じゃなくて、今度は病院で探すのかと思った」
言葉が出なかった。
探す。
また、その言葉。
探さなくても見つかるようにして。
土曜日に言われた。
なのに月曜日、航は病院で俺を見つけた。
最低である。
「航君」
社長が静かに言った。
航が顔を上げる。
「君は間違っていない」
航は黙った。
「怒るべきことを、彼女はした」
「はい」
「今回もそうだ。階段を使うなと言われて使った。出社の判断も甘い。自分の状態も見ていない」
容赦がない。
病人に容赦がない。
だが、正しい。
「だが、怒ったことと、倒れたことを結びつけるな」
社長の声は、低く、はっきりしていた。
「そこを結べば、次に君は怒れなくなる」
航の手が少し強くなった。
「怒られたから倒れたのではありません」
小早川も言った。
「怒られる前から、倒れる状態だったんです」
航は唇を噛んだ。
「でも」
「でも、ではありません」
小早川は強い。
「あなたが怒らなければ、怜子さんはもっと早く紙の中に消えます」
紙の中に消える。
航の言葉が、ここでも返ってきた。
「止めてください」
小早川は言った。
「怒ってください。必要な時は」
航はしばらく黙っていた。
それから、俺を見た。
「さっちゃん」
「はい」
「俺、次も怒る」
「はい」
「倒れたからって、怒らないとか無理」
「はい」
「でも、倒れないで」
「はい」
「怒られたら寝て。食べて。階段使わないで。連絡して」
「はい」
「全部、子どもみたいだけど」
「はい」
「やって」
「はい」
返事しかできなかった。
でも、その返事は仕事の「承知いたしました」ではなかった。
生活の「はい」だった。
たぶん。
*
夕方まで、病院で経過観察になった。
大きな異常はない。
ただし、今日は帰宅後安静。
明日以降も出社禁止。
足首は固定。
階段禁止。
長時間立位禁止。
睡眠。
食事。
水分。
当たり前の指示が並ぶ。
当たり前なのに、今の俺には難しいものばかりだった。
社長と小早川は先に戻った。
いや、小早川は戻る前に、航へ細かな注意事項を渡していた。
完全に引き継ぎである。
俺は貨物か。
いや、救急搬送されたので貨物より扱いに注意が必要である。
航は病室の椅子に座っていた。
手はまだ離していない。
「航」
「うん」
「仕事は」
「今日は休んだ」
「申し訳」
「それ禁止」
「……ごめんなさい」
「うん」
航は少しだけ息を吐いた。
「さっちゃん」
「はい」
「見本誌、見たかったんだね」
「はい」
「嬉しかったんだよね」
「はい」
「それは、悪くない」
俺は黙った。
「そこは悪くない」
航はもう一度言った。
「さっちゃんが本のことで嬉しそうなの、俺は嫌じゃない」
「はい」
「でも、嬉しいものに向かって走って階段から落ちるのは嫌」
「はい」
「小学生みたいな注意だけど」
「はい」
「本当にやめて」
「はい」
航は少し笑った。
疲れた笑いだった。
「クリスマス、車椅子デートとか嫌だよ」
「それは」
「嫌でしょ」
「嫌です」
「じゃあ治して」
「はい」
クリスマス。
十二月二十五日。
紙を広げにくい店。
ケーキ。
航。
まだ先だ。
だが、そこへ行くには、今ここで身体を直さなければならない。
紙の帝国から奪還される前に、病院から退院しなければならない。
情けない。
非常に情けない。
*
夜半過ぎまで二時間を残したタイミングで、部屋に戻った。
航が付き添った。
足首が痛い。
地味に痛い。
階段を踏み外しただけなのに。
いや、踏み外したから痛い。
当たり前だ。
玄関で、航が靴を脱がせようとした。
「自分で」
「今日は駄目」
「しかし」
「駄目」
「はい」
屈辱。
だが、従った。
航は慣れない手つきで靴を脱がせ、荷物を置き、俺をソファに座らせた。
「水」
「はい」
「薬」
「はい」
「ご飯、軽く食べる」
「はい」
「メモ帳は?」
「……」
「さっちゃん」
「今日は」
「駄目」
「一行だけ」
「駄目」
「私的記録」
「駄目」
完全に駄目だった。
航は真顔で言った。
「今日は、頭打ってる」
「はい」
「メモ禁止」
「はい」
「明日、俺がいる時に一行だけなら許す」
「許可制」
「救急車乗った人に権利はない」
「皆さん同じことを言いますね」
「皆、正しいから」
反論できない。
俺はソファに座り、水を飲み、薬を飲み、粥を食べた。
また粥。
最近、人生に粥が多い。
いや、命をつないでいるので文句は言えない。
航は台所で片付けをしている。
俺はソファで、メモ帳を見ないようにした。
見ないようにしている時点で、見ている。
だが、開かない。
今日は開かない。
頭の中だけで、一行を置いた。
見本は逃げない。
約束は傷つく。
身体は待ってくれない。
階段は、使うな。
最後だけ現実的すぎる。
だが、重要だ。
*
眠る前。
航が布団を整えた。
「今日は泊まる」
「はい」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「手、握る?」
俺は少し迷った。
そして、頷いた。
「お願いします」
航は布団の横に座り、手を握った。
温かい。
何度目かの温かさ。
九月十一日。
記憶の穴。
休日出勤のあと。
そして今日。
俺は、この手に何度も戻されている。
「航」
「うん」
「次は、探さなくても見つかるようにします」
「うん」
「連絡します」
「うん」
「階段は使いません」
「しばらくね」
「はい」
「あと、怒られたら言い訳より先に聞く」
「はい」
「仕事なら仕方ない、って勝手に決めない」
「はい」
航は少しだけ握る力を強くした。
「まだ怒ってる」
「はい」
「でも、いてくれてよかった」
胸が詰まった。
「はい」
「寝て」
「はい」
目を閉じる。
サイレンの音が、まだ少し耳に残っている。
階段の白い壁。
浮いた紙。
三浦の声。
小早川の冷静な声。
社長の言葉。
航の手。
全部が混ざる。
十一月五日の不覚。
職場の階段を踏み外しただけなのに。
俺はまた、紙の帝国の外側にあるものを踏み抜いた。
身体。
約束。
怒り。
心配。
生活。
それらは、社長室の机には載らない。
載らないのに、仕事より先に壊れる。
紙より先に締切を出す。
俺は、ようやく少しだけ理解した。
階段は一段でも落ちる。
生活も、一段ずつ踏み外す。
だから、止まる。
手すりを持つ。
待つ。
連絡する。
助けを借りる。
そんな当たり前のことを、俺は救急車に乗って学んでいる。
遅い。
非常に遅い。
だが、まだ間に合う。
たぶん。
いや。
間に合わせる。
見本誌は逃げない。
月曜の会議も、俺がいなくても進む。
そして航は、怒ったままでも、俺を探しに来る。
そのことを、二度と軽く扱ってはいけない。
俺は航の手を握り返した。
仕事の紙ではなく、目の前の生きた、この手を。




