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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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28/33

第二十八話 十一月三日の休日出勤で見た見本誌と、航を怒らせてしまった件について

 十一月三日。


 土曜日。


 文化の日。


 休日である。


 休む日である。


 祝日である。


 紙の帝国においても、少なくとも建前上は休む日である。


 だが、俺は会社にいた。


 社長室の前で、鍵を開けていた。


 言い訳はある。


 あるにはある。


 朝、固定電話が鳴った。


 小早川ではない。


 社長でもない。


 制作管理の川辺からだった。


『篠宮さん、申し訳ありません。社長室宛の見本が本日届きます』


「本日?」


『はい』


「文化の日ですが」


『文化の日ですね』


「休日ですが」


『出版ですので』


 非常に便利で、非常に駄目な言葉だった。


 出版ですので。


 その一言で、休日も、昼食も、睡眠も、予定も、だいたい曖昧になる。


 危険である。


 危険だと分かっている。


 九月に倒れた人間が、その危険を分からないはずがない。


 だが、川辺は続けた。


『十二月刊の社長確認用です。正確には販売用の完成見本ではありません。束見本と装丁確認、営業用の仮見本に近いものです』


「十二月刊」


『はい。例の、陰陽師の』


 その瞬間、俺の中で何かが鳴った。


 少年陰陽師。


 十三歳。


 安倍晴明の孫。


 物の怪の相棒。


 まだ小さいけれど、守りたいものがある。


 十月に社長室の机へ置いた紙が、少しだけ形になって戻ってくる。


 まだ本ではない。


 だが、本に近いもの。


 見本。


 紙の帝国における、未来の影。


『本来は月曜でよかったんですが、月曜朝の会議に使いたいという話が出まして』


「誰が」


『営業と編集と社長です』


 全員重い。


『篠宮さんが来る必要はありません。社長室に置いておくだけでも』


 そこで俺は言うべきだった。


 月曜に確認します。


 休日なので受け取りは当番へ。


 社長室への配置だけお願いします。


 私は休みます。


 言うべきだった。


 だが、俺は言った。


「分かりました。午前中だけ出ます」


 出た。


 言ってしまった。


 午前中だけ。


 この言葉ほど信用できないものはない。


 少しだけ。


 確認だけ。


 受け取るだけ。


 紙の帝国において、この三つは危険語である。


 小早川がいたら即座に取り上げられていた。


 だが、今日は文化の日。


 小早川は休み。


 社長室に、小早川はいない。


 だから俺は、会社にいた。


 鞄の中には、手帳と財布と携帯。


 仕事の紙は入れていない。


 航には、まだ連絡していない。


 午後に会う約束があった。


 具体的には、昼過ぎに駅前で待ち合わせ、映画館の時間を見て、無理なら喫茶店でケーキを食べる予定だった。


 映画は『陰陽師』。


 航が「仕事の顔になりそうだけど、どうせ気になるなら一緒に見た方がいい」と言った。


 俺は「業務外で見ます」と返した。


 航は「その返事がもう業務」と言った。


 そんな約束があった。


 だから、午前中だけなら問題ない。


 少しだけ社に寄って、見本を社長の机に置き、帰ればいい。


 航には、あとで連絡すればいい。


 そう思った。


 この時点で、すでにかなり駄目だった。


     *


 休日の会社は、静かだった。


 平日の紙の音がない。


 電話の音も少ない。


 廊下の空気が少し冷たい。


 誰もいない社長室は、普段より広く見える。


 机。


 椅子。


 書棚。


 予定表。


 灰皿。


 紙の匂い。


 窓の外の秋空。


 文化の日の社長室。


 文化の会社が、文化の日に休めていない。


 笑えない冗談だった。


 しばらくして、川辺が紙袋と薄い段ボール箱を抱えて来た。


 休日出勤の顔をしている。


 つまり、少し諦めた顔である。


「篠宮さん、本当に来たんですか」


「呼ばれましたので」


「置くだけでよかったんですよ」


「社長室宛ですので」


「秘書ですね」


「はい」


「でも、倒れた人ですよね」


「……はい」


 制作管理にも刺される。


 社内の監視網は広がりすぎている。


 川辺は段ボール箱を机に置いた。


「こちらが十二月刊の社長確認用です。全部完成品ではありません。装丁見本、束見本、本文の抜き、営業用の仮見本が混じっています。社長にはその旨を」


「承知いたしました」


「返事が重い」


「はい」


「本当に分かっていますか」


「見本誌と完成見本は違う」


「そうです」


 川辺は箱を開けた。


 紙の匂いが立った。


 新しい紙。


 インク。


 糊。


 まだ読者の手に渡っていない本の匂い。


 俺は、その匂いだけで少し息を止めた。


 危険だ。


 これは危険な匂いだ。


 未来の本が形になる直前の匂い。


 転売厨だった俺が知っていた商品とは違う。


 これは、値段がつく前の本だ。


 まだ市場に出ていない。


 まだ誰にも所有されていない。


 まだ誰かの本棚にも、鞄にも、学校の机にも入っていない。


 生まれる前の紙。


 川辺が一冊を取り出した。


 少年陰陽師 異邦の影を探しだせ。


 俺は、手を伸ばしかけて止めた。


 社長確認用。


 俺のものではない。


 社長室の机に置く紙。


 そう思う。


 思った。


 だが、目は離せなかった。


 表紙の少年。


 和風の空気。


 硬すぎない線。


 物の怪の気配。


 平安。


 陰陽師。


 十三歳。


 血筋。


 未熟さ。


 守りたいもの。


 あの会議室で紙に書いた要素が、絵と題字と厚みを持ってそこにある。


 まだ小さいけれど、守りたいものがある。


 三浦の仮文言。


 佐伯の赤ペン。


 真鍋の警告。


 社長の一言。


 それらが、一冊の影になっている。


「篠宮さん」


 川辺が言った。


「顔が危ないです」


「通常――」


 小早川はいない。


 だが、言葉が喉で止まった。


 禁止語は、本人がいなくても効く。


「危ないです」


「自覚があるなら良いです」


「拝見しても?」


「社長確認用ですが、社長室秘書としての確認なら」


「社長室秘書として」


「仕事の顔ですね」


「仕事ですので」


 言い訳が成立してしまった。


 俺は見本を手に取った。


 軽い。


 まだ完成品ではないからか、どこか仮の重さがある。


 だが、背幅がある。


 紙がある。


 表紙がある。


 帯の仮案が挟まっている。


 物語が、棚に置かれる形になりつつある。


 未来で長く続く作品の入口が、今、俺の手の中にある。


 これはまずい。


 非常にまずい。


 胸が熱くなる。


 未来知識の快感。


 危険な快感。


 これが伸びる。


 知っている。


 だが、知っているからこそ、今の紙を雑に扱ってはいけない。


 分かっている。


 分かっているのに、手が震えそうになる。


「篠宮さん」


「はい」


「座ってください」


 川辺に座らされた。


 制作管理にまで座らされる社長室秘書。


 屈辱である。


 だが、座った。


     *


 見本は少年陰陽師だけではなかった。


 十二月刊の別紙。


 年末フェアの帯案。


 書店向け注文書の仮。


 ビーンズ創刊後の追加展開案。


 まるマの既刊併売再確認。


 アンジェリーク関連の棚戻し。


 ローゼンクロイツの後編告知。


 そして、年末商戦へ向けた店頭資料。


 十一月三日の休日に、十二月の紙が並ぶ。


 これが出版である。


 読者が十二月に手に取る紙は、十一月の休日に誰かが見ている。


 休日出勤の川辺。


 午前だけと言いながら会社に来た俺。


 見本を作った印刷所。


 装丁を確認する編集部。


 棚へ落とす営業。


 全部が、読者の一秒より前に存在している。


 そのことは、美しい。


 そして、かなり不健康だ。


 俺は社長用の一枚メモを作り始めた。


 月曜朝会議用。


 十二月刊見本確認メモ。


 一、見本は完成品ではない。装丁・束・営業用仮見本の混在。


 二、少年陰陽師は、硬さより感情の入口が見える。


 三、十三歳主人公の幼さは、表紙では弱さより成長の余白として見える。


 四、物の怪相棒による軽さあり。


 五、書店向け文言は、まだ小さいけれど、守りたいものがある、を基調に再調整可。


 書いてから、手が止まる。


 これは、月曜でよかったのではないか。


 いや、月曜朝の会議に必要。


 でも、俺が今日ここで書く必要があったのか。


 川辺が置いて、月曜朝に俺が見ればよかった。


 俺は何をしている。


 休日に。


 航との約束の前に。


 連絡もせず。


 そこで携帯が震えた。


 航からだった。



 さっちゃん、今どこ?

 駅、着いたけど。



 時間を見る。


 十三時十二分。


 午前中だけ。


 その言葉は、すでに死んでいた。


 俺は血の気が引いた。


 待ち合わせは十三時。


 駅前。


 俺は会社。


 社長室。


 見本誌。


 未連絡。


 完全にアウトだった。


     *


 返信しようとした。


 指が止まる。


 何と打つ。


 会社にいます。


 午前中だけのつもりでした。


 見本誌が届きました。


 少年陰陽師です。


 社長室に置く紙で。


 月曜朝に必要で。


 全部、言い訳だ。


 事実だが、言い訳だ。


 携帯が鳴った。


 電話。


 航。


 出るしかない。


「はい、篠宮です」


『今どこ』


 声が低かった。


 怒っている。


 静かに怒っている。


「会社です」


 沈黙。


 その沈黙が、かなり痛い。


『会社?』


「はい」


『今日、休みだよね』


「はい」


『約束、あったよね』


「はい」


『連絡、なかったよね』


「はい」


 はいしか言えない。


『何かあった?』


「社長室宛の見本が届きました」


『見本?』


「十二月刊の。少年陰陽師の装丁確認と、営業用の仮見本で」


 言いながら、分かった。


 これは駄目だ。


 説明が仕事の顔すぎる。


『さっちゃん』


「はい」


『俺、見本誌の説明を聞きたいんじゃない』


 刺さった。


「……はい」


『大丈夫なのか聞いてる』


「大丈夫です」


『本当に?』


「はい」


『昼食は?』


 止まった。


 食べていない。


『食べてないんだね』


「これから」


『午前中だけって思って行った?』


「はい」


『今、午後だよ』


「はい」


『俺、駅にいるんだけど』


「すみません」


『謝るなら、最初に連絡して』


「はい」


 電話の向こうで、航が息を吐いた。


 怒鳴らない。


 この男は怒鳴らない。


 だから、余計に痛い。


『迎えに行く』


「いえ、私が」


『迎えに行く』


「航」


『探しに行く』


 その言葉で、俺は黙った。


 迎えに行く、ではない。


 探しに行く。


 俺は見つからなかった本のことを考えていた。


 TSUTAYAで見つからないならGEOへ。


 それでもダメならAmazonで。


 見つからない本は、売れなかった本と同じ顔をして数字に沈む。


 そんなことを書いた。


 だが、俺自身が、休日の約束の場所で見つからない人間になっていた。


 航は、駅から俺を探しに来る。


 怒りながら。


 心配しながら。


 通話が切れた。


 俺は携帯を握ったまま、しばらく動けなかった。


     *


 川辺は、何も言わなかった。


 ただ、机の上の紙を見て、俺を見て、静かに言った。


「篠宮さん」


「はい」


「帰った方がいいです」


「ですが、社長用の」


「月曜で間に合います」


「しかし」


「月曜で間に合います」


 二回言われた。


 制作管理の声だった。


 日付を知る人間の声。


 締切を知る人間の声。


 だからこそ、今日でなくていいことも分かる。


「これは、私が月曜朝まで保管します。社長室の机に置く必要があるなら、私から小早川さんへ連絡します」


「小早川さんに」


「はい」


 終わった。


 小早川に知られる。


 いや、知られるべきだ。


「篠宮さん」


「はい」


「見本を見るのは大事です」


「はい」


「でも、見本は逃げません」


 刺さった。


 かなり刺さった。


 見本は逃げない。


 読者は逃げる。


 約束も、たぶん逃げる。


 逃げるというより、傷つく。


「分かりました」


 俺は紙を揃えた。


 社長用の一枚は途中まで。


 未完成。


 それを見て、少しだけ悔しかった。


 だが、未完成のまま置く。


 今日の俺に必要なのは、紙を完成させることではない。


 会社を出ることだ。


 俺は鞄を持った。


 川辺が箱を閉じる。


「川辺さん」


「はい」


「申し訳ありませんでした」


「私にではありません」


「はい」


 その通りだった。


     *


 航は、会社のロビーにいた。


 休日のロビー。


 人は少ない。


 外の光が大きなガラス越しに入っている。


 航はコートを着て、手に映画館の時間表を持っていた。


 駅で取ってきたのだろう。


 その紙を見ただけで、胸が痛くなった。


 彼は今日を予定していた。


 俺も予定していた。


 だが、俺は紙を優先した。


 いや、違う。


 紙を優先したというより、予定を軽く見た。


 仕事なら仕方ない、と。


 自分に言い訳した。


「航」


 声をかける。


 航は俺を見た。


 怒っている。


 静かに。


 目が笑っていない。


「帰れる?」


「はい」


「昼は?」


「まだです」


「分かった」


 航はそれだけ言って歩き出した。


 俺は追いかけた。


 ビルを出る。


 秋の空気が冷たい。


 文化の日の東京。


 人々は休日の顔をして歩いている。


 俺だけが社長室の紙の匂いをまとっている気がした。


「航」


「うん」


「申し訳ありません」


「うん」


「連絡せず」


「うん」


「約束を」


「うん」


 返事はする。


 だが、柔らかくない。


「言い訳になりますが」


「聞く」


「朝、社長室宛に十二月刊の見本が届くと連絡がありました。月曜朝の会議に必要で、受け取りだけなら午前中で終わると思いました」


「うん」


「少年陰陽師の見本で」


「うん」


「気づいたら、時間が」


「うん」


 航は足を止めた。


 路地の端。


 休日の人通りから少し外れた場所。


「さっちゃん」


「はい」


「見本誌が大事なのは分かる」


「はい」


「仕事が大事なのも分かる」


「はい」


「でも、俺は見本誌と争いたいんじゃない」


 言葉が刺さった。


「はい」


「紙と俺、どっちが大事、みたいな話をしたいわけじゃない」


「はい」


「そうじゃなくて」


 航は少しだけ言葉を探した。


「さっちゃんが、仕事なら仕方ないって顔で、自分の予定も、昼ご飯も、連絡も、全部後ろに置くのが嫌なんだよ」


 何も言えなかった。


「俺との約束だけじゃない。さっちゃん自身のことも」


「はい」


「午前だけって言って、午後まで食べずに会社にいて、連絡もしない。それ、九月から何回やった?」


「……」


「俺、怒ってるけど、怒りたいだけじゃない」


 航の声が少し揺れた。


「怖いんだよ」


 怖い。


 それは、九月にも聞いた。


 記憶が飛んだ時。


 航は、怖いと言った。


 でも嫌じゃない、と。


 今は違う。


 彼は怒っている。


 そして怖がっている。


「駅に行って、さっちゃんがいなくて、連絡もなくて。会社かなって思った時、また倒れてるんじゃないかって思った」


「すみません」


「迷惑とかじゃない」


 航の声が少し強くなった。


「それ言われると、俺が迷惑がってるみたいになる」


「……はい」


「約束を破られたことも嫌だった。でも、それ以上に、さっちゃんが自分を約束の中に数えてないのが嫌だった」


 自分を約束の中に数えていない。


 社長に言われた。


 人を見ると言った日に、自分を人に数えられない者は、紙を見る資格がない。


 小早川に言われた。


 私用の予定を先に置け。


 航に言われた。


 仕事の紙より先に予定を入れて。


 俺は、分かっているつもりだった。


 だが、十一月三日。


 文化の日。


 見本誌が届いた瞬間、全部忘れた。


 いや、忘れたのではない。


 後回しにした。


 仕事なら仕方ない、と。


「航」


「うん」


「怒ってください」


「怒ってる」


「はい」


「でも、怒鳴りたいわけじゃない」


「はい」


「さっちゃんに、俺を大事にしろって言いたいんじゃない」


 航は俺を見た。


「自分を、大事にして」


 胸が詰まった。


 それは、いちばん痛いところだった。


「俺との約束も、その中に入れて」


「はい」


「俺は、仕事の敵じゃない」


「はい」


「紙の帝国からさっちゃんを奪還するって言ったけど、会社と戦いたいわけじゃない」


「はい」


「さっちゃんが、勝手に紙の中へ消えるのを止めたいだけ」


 紙の中へ消える。


 その言葉が、怖かった。


 俺は本当に、紙の中へ消えかけていたのかもしれない。


 社長室の机。


 見本誌。


 初動七日表。


 探索導線メモ。


 読者共有メモ。


 創刊。


 少年陰陽師。


 全部が大事だ。


 でも、その全部の中で、俺自身が薄くなっていく。


 篠宮怜子の身体を借りている俺。


 篠宮怜子かもしれない私。


 航の恋人。


 美咲の義妹予定者様候補。


 生活する人間。


 その全部が、紙に押し込まれる。


 それは駄目だ。


「申し訳ありません」


 俺は言った。


「ごめんなさい」


 言い直した。


 仕事の謝罪ではなく。


 生活の謝罪として。


 航の顔が少しだけ変わった。


「うん」


「今日は、私が悪いです」


「うん」


「見本誌は逃げませんでした」


「うん」


「約束は、傷つきます」


 航は少し黙った。


「それ、誰かに言われた?」


「川辺さんに、見本は逃げない、と」


「川辺さん、いいこと言うね」


「はい」


「約束は?」


「今、思いました」


「そっか」


 航は息を吐いた。


「じゃあ、昼食べよう」


「映画は」


「時間、たぶん無理」


「すみません」


「今日は謝る日だね」


「はい」


「でも、昼食べたら、少しだけ歩こう」


「はい」


「仕事の話は?」


「しません」


「本当に?」


「努力ではなく、しません」


 航はようやく少しだけ笑った。


「そこまで言えるなら、今日は許すか考える」


「まだ許されていない」


「怒ってるから」


「はい」


 当然だった。


     *


 昼食は、駅近くの喫茶店になった。


 映画は諦めた。


 陰陽師はまた今度。


 俺はサンドイッチとスープを食べた。


 航はパスタ。


 ケーキも頼んだ。


 なぜか航がケーキを二つ頼んだ。


「怒っているのでは」


「怒っててもケーキは食べる」


「甘いものが好きですものね」


「美咲」


「美咲さんです」


 航は少し照れた。


 怒っていても照れる。


 それが少し可笑しくて、少し救われた。


 ただ、会話は少なかった。


 航は無理に明るくしなかった。


 俺も仕事の話をしなかった。


 少年陰陽師の見本がどれほど良かったか。


 表紙の硬さがどう消えていたか。


 十三歳の弱さがどう感情の入口に見えたか。


 言いたいことは山ほどあった。


 だが、言わなかった。


 今日は、その話をする日ではない。


 それを言えば、航は聞いてくれるだろう。


 理解しようとしてくれるだろう。


 でも、それに甘えてはいけない。


 この男は優しい。


 だからこそ、俺はその優しさを仕事の受け皿にしてはいけない。


「さっちゃん」


 航が言った。


「はい」


「見本誌、嬉しかった?」


 聞かれた。


 俺は少し迷った。


「嬉しかったです」


「そっか」


「ただ、それで予定を壊していい理由にはなりません」


「うん」


「でも、嬉しかったです」


「じゃあ、今度ちゃんと聞く」


 俺は顔を上げた。


「今度?」


「今日は怒ってるから聞かない」


「はい」


「でも、さっちゃんが嬉しかったものを、ずっと聞かないのも違うから」


 航はケーキを一口食べた。


「今度、ちゃんと時間を取って聞く」


 優しい。


 そして、ずるい。


「ありがとうございます」


「仕事の顔しない時間にね」


「はい」


「ケーキ没収なしの日に」


「没収制度は継続ですか」


「継続」


 厳しい。


 だが、仕方がない。


     *


 夕方。


 航は俺を部屋まで送った。


 いつもなら、そのまま上がることもある。


 だが、今日は玄関の前で止まった。


「今日は帰る」


「はい」


「怒ってるから、というより」


「はい」


「さっちゃん、自分で考えた方がいいと思う」


「はい」


 航は俺を見た。


「でも、夜ご飯は食べて」


「はい」


「食べたらメール」


「はい」


「仕事の紙は?」


「開きません」


「本当に?」


「開きません」


「見本誌のメモも?」


「月曜にします」


「よし」


 航は少しだけ笑った。


「じゃあ、また」


「航」


「うん」


「今日は、ごめんなさい」


「うん」


「探しに来てくれて、ありがとうございます」


 航は少し黙った。


「次は、探さなくても見つかるようにして」


「はい」


「連絡して」


「はい」


「それだけ」


 航は帰った。


 扉が閉まる。


 部屋が静かになる。


 俺は玄関に立ったまま、しばらく動けなかった。


 探さなくても見つかるようにして。


 それだけ。


 重い。


 とても重い。


     *


 夜。


 俺は夕食を食べた。


 簡単なもの。


 味噌汁。


 ご飯。


 冷蔵庫にあった惣菜。


 食べた証拠として、航にメールした。



 夕食を食べました。

 仕事の紙は開いていません。 怜子



 返事は少し遅れて来た。



 よし。

 今日は寝て。

 見本誌の夢は見てもいいけど、起きてメモするのは禁止。 航



 見抜かれている。


 俺は返信した。



 承知しました。

 いえ、はい。 怜子



 返事節約できてえらい。

 まだ怒ってるけど。



 まだ怒っている。


 それを隠さないのが、少しありがたかった。


 許されたふりをされるより、ずっといい。


 俺は机に座った。


 メモ帳を開くか迷った。


 航には、仕事の紙は開かないと言った。


 メモ帳は、仕事か。


 私的記録か。


 今日は、かなり境目が危うい。


 だから、一ページだけ。


 仕事ではなく、自分のために書く。


 十一月三日。文化の日。

 休日出勤。

 少年陰陽師の見本を見る。

 嬉しかった。

 かなり嬉しかった。

 だが、航との約束を壊した。


 次。


 見本は逃げない。

 約束は傷つく。


 ペンが止まった。


 この一文は、今日のすべてだった。


 さらに書く。


 紙の帝国では、仕事なら仕方ない、という言葉が生き残る。

 その言葉で、休日も、昼食も、連絡も、生活も後ろへ押される。

 私はそれを知っていた。

 知っていたのに、同じことをした。


 私。


 今日は、自然に私と書いた。


 俺ではなく。


 篠宮怜子の身体で、航を怒らせたのは俺だ。


 だが、約束を壊した痛みを受けているのは、私でもある。


 俺と私。


 どちらでもいい。


 航にとっては、目の前のさっちゃんが約束の場所にいなかった。


 それがすべてだった。


 最後に書く。


 探さなくても見つかるようにする。

 連絡する。

 自分を予定の中に数える。

 航との約束も、仕事の外にある紙ではなく、生活の中にある予定として扱う。


 ペンを置いた。


 メモ帳の端には、美咲にもらったしおりが挟まっている。


 文化祭のロゴ。


 色画用紙。


 ラミネート。


 仕事ではない本を読むための道具。


 そのしおりを見ると、少しだけ呼吸が戻った。


 見本誌は逃げない。


 約束は傷つく。


 読者も、恋人も、黙って去ることがある。


 怒ってくれる人間は、まだそこにいる人間だ。


 航は怒った。


 静かに。


 ちゃんと。


 それは、俺がまだ見つけられる場所にいるということなのかもしれない。


 平成十三年十一月三日。


 文化の日。


 俺は休日出勤で、未来へ続く見本誌を見た。


 それは美しかった。


 嬉しかった。


 紙の帝国にいる意味を、少しだけ見せてくれるものだった。


 そして同じ日に、俺は航を怒らせた。


 それもまた、俺がこの世界で生活を持ち始めた証拠だった。


 紙だけではない。


 見本だけではない。


 棚だけではない。


 俺には、待ち合わせ場所がある。


 そこにいなければ、探しに来る人がいる。


 そのことを、休日の社長室より重く扱わなければならない。


 俺はメモ帳を閉じた。


 明日は休む。


 たぶん、ではなく。


 休む。


 見本誌の続きは、月曜でいい。


 月曜で、間に合う。


 そのはずだったのに。


 今の俺は、サイレンの音とともに救急車で運ばれていたのだった。


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