第二十七話 TSUTAYAで見つからないならGEOへ。それでもダメならAmazonで。
十月二十日。
土曜日。
俺は、TSUTAYAの棚の前に立っていた。
業務ではない。
断じて業務ではない。
今日は休日である。
社長室の机は遠い。
小早川の検問もない。
三浦の削除線もない。
佐伯の赤ペンもない。
社長の「それで?」もない。
ただ、目の前には棚がある。
本の棚。
CDの棚。
ビデオの棚。
ゲームの棚。
雑誌の棚。
レジ前の新作告知。
手書きのPOP。
返却されたばかりのビデオが積まれたカート。
そして、店内を歩く高校生、大学生、親子連れ、会社員。
生活導線の塊だった。
仕事ではない。
仕事ではないが、これはかなり仕事である。
いや、違う。
休日だ。
俺は心の中で三回唱えた。
休日。
休日。
休日。
「さっちゃん」
横から航が言った。
「今、仕事の顔」
「していません」
「してる」
「棚を見ているだけです」
「それが仕事の顔」
「否定が難しいですね」
航は苦笑した。
今日は航と、美咲と三人で出かけている。
目的は単純だった。
美咲の友達が、まるマの一巻を自分でも買いたいと言い出した。
ついでに、映画で陰陽師が話題になっているから、何かそれっぽい本や映像も見たい。
それで美咲が言った。
TSUTAYAで見つからなかったらGEO行こ。
それでもなかったらわた兄にAmazonで探させる。
美咲
軽い。
非常に軽い。
だが、その一文は俺の頭に刺さった。
TSUTAYAで見つからないならGEOへ。
それでもダメならAmazonで。
これは、二〇〇一年の読者の探索経路だった。
いや、すべての読者がそうするわけではない。
書店へ行く人もいる。
駅前の本屋で済ませる人もいる。
友達に借りる人もいる。
学校帰りにコンビニで雑誌だけ見る人もいる。
だが、美咲のような高校生にとって、TSUTAYAやGEOは本屋だけではない。
放課後の寄り道。
週末の目的地。
ビデオを借りる場所。
CDを探す場所。
ゲームを見る場所。
漫画や文庫を眺める場所。
友達と時間を潰す場所。
つまり、生活の中にある検索窓だった。
紙ではない。
画面でもない。
店そのものが検索窓なのだ。
「さっちゃん、また顔」
美咲が言った。
「していません」
「今、TSUTAYAを検索窓とか思ってた顔」
「なぜ分かるのですか」
「やっぱ思ってたんだ」
誘導された。
女子高生、恐ろしい。
*
TSUTAYAの本の棚には、当然ながらすべての本があるわけではなかった。
新刊。
売れ筋。
映像化作品。
雑誌。
コミック。
文庫。
少しだけライトノベル。
地域と店舗によって品揃えは違う。
それは当然だ。
棚は有限である。
売場の面積も有限。
担当者の知識も時間も有限。
全部置ける店などない。
だからこそ、何を置くかが店の顔になる。
俺は棚の背表紙を見た。
まるマ。
あった。
二巻が。
一巻がない。
俺は固まった。
「さっちゃん?」
美咲が覗き込む。
「あ、二巻だけある」
「はい」
「一巻ないね」
「はい」
「こういうの、困るよね」
「はい」
とても困る。
ものすごく困る。
二巻がある。
タイトルで笑う。
手に取る。
でも一巻がない。
戻す。
読者が帰る。
横浜の書店で見た光景だ。
そして今、休日のTSUTAYAでも起きている。
初動七日表の上だけではない。
協力店だけではない。
生活導線の棚でも、同じ詰まりが起きる。
俺は思わず棚の前でしゃがみかけた。
背表紙の奥を見るために。
「さっちゃん」
航が止めた。
「はい」
「今日は棚卸しじゃない」
「……はい」
「店員さんに聞く?」
美咲が言った。
「聞きましょう」
即答した。
「仕事じゃない?」
「読者としてです」
「便利な言い方」
美咲が笑う。
レジ近くの店員に聞く。
今日から(マ)のつく自由業!の一巻はありますか。
店員は端末を見た。
少し待つ。
この時間が長い。
在庫を聞く読者は、いつもこの小さな待ち時間の中にいる。
あるか。
ないか。
取り寄せできるか。
そもそも伝わるか。
タイトルが変わっているので、口に出すのも少し恥ずかしい。
今日から、ま、のつく自由業。
括弧マ。
水洗トイレから異世界へ。
慣れていなければ、言うだけでハードルだ。
店員は言った。
「すみません、一巻は今、店頭在庫がないですね」
ない。
その一言で、読者は帰る。
だが、美咲は帰らない。
「取り寄せできますか?」
強い。
義妹予定者様、強い。
店員は少し確認してから、取り寄せは可能だが時間がかかると説明した。
美咲は少し考えた。
「じゃあ、今日はいいです」
その声は軽かった。
責める感じはない。
ただ、今日は買わない。
それだけ。
だが出版社にとっては、かなり重い。
今日は買わない。
この言葉は、売上に出ない。
店頭在庫なし。
取り寄せ可能。
でも今日は買わない。
ここで一冊、棚からこぼれた。
読者は怒らない。
苦情も言わない。
ただ、次の店へ行く。
「GEO行こ」
美咲が言った。
「近いのですか」
「ちょっと歩く」
航が俺を見た。
「さっちゃん、行ける?」
「行けます」
「仕事の顔しすぎたら休憩」
「はい」
休日のはずなのに、業務命令のようだった。
*
TSUTAYAを出て、歩いた。
十月の風は少し冷たい。
美咲は前を歩きながら、学校の友達の話をする。
誰がまるマを読んだ。
誰がまだタイトルで止まっている。
誰が陰陽師の映画を見に行くと言っている。
誰が野村萬斎をかっこいいと言っている。
誰が「平安って難しそう」と言っている。
誰が「でも物の怪とか出るなら読めるかも」と言っている。
全部、社長室の紙に上がらない声だ。
全部、読者の生活だ。
俺は聞いている。
聞いてしまう。
メモは取らない。
携帯にも打たない。
頭の中には残る。
それが難しい。
「さっちゃん」
航が横で言った。
「はい」
「今、美咲の話を仕事にしないように頑張ってる顔」
「顔に出ていますか」
「出てる」
「努力しています」
「うん。分かる」
航は少しだけ笑った。
「でも、聞くのはいいと思う」
「はい」
「美咲の話を聞いてるさっちゃんは、仕事の顔だけじゃないから」
俺は少し黙った。
「そうですか」
「うん」
「では、何の顔ですか」
「兄の彼女の顔」
心臓が妙な動きをした。
「……それは」
「嫌?」
「嫌ではありません」
「そっか」
航はそれ以上言わなかった。
いつもそうだ。
近づく。
でも、踏み込まない。
その距離が、ありがたくて、少しずるい。
*
GEOは、TSUTAYAとは少し空気が違った。
ビデオ。
ゲーム。
中古ソフト。
CD。
棚の密度。
ポスター。
貸出中の札。
返却棚。
店内の音。
同じ「探す場所」でも、置かれている重心が違う。
TSUTAYAが本と映像と音楽を広く束ねる生活導線なら、GEOはもう少しレンタルとゲームの匂いが強い。
美咲は慣れた様子で店内へ入った。
「こっち、映画の方が探しやすい時あるんだよね」
「本は?」
「本はあんまり期待してない」
「では、なぜ」
「陰陽師っぽいの見るなら、ビデオとかあるかもだし」
なるほど。
本が見つからないから、別の本屋へ行くのではない。
作品の周辺へ行く。
陰陽師という言葉を、映像の棚で探す。
平安を、映画やドラマの棚で探す。
そこで興味が続けば、また本へ戻るかもしれない。
逆もある。
読者は、出版社の分類どおりに動かない。
本。
映画。
CD。
ゲーム。
雑誌。
全部をまたいで探す。
メディアミックスという言葉は会議室で使うと大きく見える。
だが、生活の中ではもっと雑だ。
TSUTAYAで見つからないからGEOへ。
それでもなければAmazonで。
読者は、かなり雑に、かなり自然に、媒体を越える。
俺たちの紙は、それについていけているのだろうか。
「さっちゃん」
美咲が言った。
「また仕事」
「すみません」
「謝るようになった」
「成長です」
「うん。成長」
美咲は笑った。
俺は少しだけ救われた。
GEOには、まるマは当然なかった。
そもそも探す場所が違う。
だが、美咲は落胆しなかった。
陰陽師関連の棚を見て、映画のチラシを見て、平安ものらしきビデオの背表紙を眺めて、友達にメールを打った。
まるマ一巻はTSUTAYAなかった。
GEOは本じゃなくてビデオ寄り。
わた兄にAmazonで見てもらうね! 美咲
俺はその画面を見ないようにした。
だが、見えてしまった。
その文章の軽さ。
読者は、この程度の軽さで次へ進む。
見つからなければ、次。
なければ、別の店。
それでもなければ、ネット。
その軽さは、良い。
だが、怖い。
なぜなら、途中で諦めるのも同じくらい軽いからだ。
*
店を出たあと、近くのファミレスに入った。
航が「さっちゃん休憩」と言ったからだ。
俺は反論しなかった。
倒れた人間に反論権は薄い。
美咲はドリンクバーに向かい、航はメニューを見る。
「甘いもの食べる?」
「はい」
「即答」
「ケーキはケーキとして食べるべきです」
「まだ言ってる」
「重要です」
航は笑った。
美咲が戻ってきて、パフェを注文した。
俺はケーキ。
航もケーキ。
美咲がにやりとする。
「わた兄、甘いもの好きだもんね」
「言うな」
「さっちゃん知ってるよ」
「美咲」
「だって学祭で言ったし」
航が少し照れた。
なるほど。
美咲の証言は正しかった。
俺はそれを見て、少し笑った。
「さっちゃんまで笑うな」
「すみません」
「絶対すみませんと思ってない」
「判断を保留します」
「便利」
ケーキが来た。
ファミレスのケーキ。
しっかり甘い。
これはこれで良い。
美咲はドリンクバーのグラスを置き、航を見た。
「さ、お兄ちゃん、Amazonで探して」
「今ここで?」
「今じゃなくてもいいけど、忘れるじゃん」
「忘れないよ」
「わた兄、仕事始めると忘れるし」
「それはさっちゃんにも刺さる」
「はい」
刺さった。
俺はケーキを食べた。
甘い。
現実逃避には甘さが必要である。
「Amazonってさ」
美咲が言った。
「便利だけど、なんか届くまで不安なんだよね」
俺は顔を上げた。
「不安?」
「うん。ほんとに来るのかなって。店なら棚にあるの見えるじゃん」
その一言が、非常に重かった。
棚にあるのが見える。
手に取れる。
レジへ持っていける。
今、自分のものになる。
Amazonは違う。
検索できる。
注文できる。
でも届くまでは、そこにない。
二〇〇一年のAmazonは、未来の怪物ではない。
まだ、生活のすべてを飲み込んでいない。
読者にとっては便利で、少し不安な場所だ。
それが新鮮だった。
未来の俺は、Amazonを当たり前に使っていた。
在庫、価格、配送日、レビュー、ランキング。
当たり前に見ていた。
だが、二〇〇一年の美咲にとっては違う。
TSUTAYAで棚を見る。
GEOで探す。
それでもなければAmazonで頼む。
Amazonは最後の手段であり、少し不安な便利さだった。
「美咲さん」
「何?」
「店にあることと、ネットで注文できることは違いますか」
「違うよ」
即答。
「どう違いますか」
「え、だって店なら今あるじゃん。友達と見れるし。表紙も見れるし。ついでに他のも見れるし」
「はい」
「Amazonは探せるけど、ひとりで探す感じ」
ひとりで探す。
また刺さった。
ネットは便利だ。
だが、ひとりだ。
もちろん、未来ではレビューやSNSやおすすめがその孤独を埋める。
時に埋めすぎる。
だが、今のAmazonはまだ少しひとりだ。
TSUTAYAやGEOは、友達と探せる。
棚の前で話せる。
ついでがある。
寄り道がある。
読者導線という言葉ではこぼれるものが、そこにある。
「さっちゃん」
航が静かに言った。
「今の、仕事にする?」
俺は少し黙った。
「したくなりました」
「正直」
「はい」
「でも、美咲の名前は出さない」
「もちろんです」
「あと、美咲に聞いたことをそのまま使わない」
「はい」
「気づきとして?」
「はい」
航は頷いた。
「なら、いいと思う」
「許可制ですか」
「監督者なので」
「強いですね」
「小早川さんに鍛えられた」
連携が深まっている。
非常に危険である。
*
日曜日。
俺は紙を増やさなかった。
増やさなかった。
正確には、メモ帳に三行だけ書いた。
これは私的記録である。
業務紙ではない。
TSUTAYA:友達と探せる。棚にある安心。ついで買い。
GEO:映像・ゲーム側からの入口。媒体を越える寄り道。
Amazon:検索できるが、届くまで不安。ひとりで探す感じ。
書いてから、ペンを置いた。
航が横から見た。
「三行?」
「三行です」
「偉い」
「ありがとうございます」
「でも、その三行、月曜に増えるでしょ」
「判断を保留します」
「増えるやつだ」
見抜かれている。
*
十月二十二日。
月曜日。
社長室の机に、俺は一枚の紙を置いた。
探索導線メモ。
タイトルは最後まで迷った。
読者購買探索経路別心理差分。
三浦に殺される未来が見えた。
生活導線別到達可能性整理。
小早川に削られる未来が見えた。
結局、探索導線メモ。
弱い。
だが、使える。
最近、俺は負け方を覚えつつある。
「篠宮君」
社長が紙を見る。
「また増えたな」
「一枚です」
「一枚ずつ増えるな」
「社長への提案ではなく、気づきの整理です」
「便利な言い換えだ」
「はい」
出席者は少ない。
社長。
三浦。
大町。
佐伯。
小早川。
俺。
久我や榊原を呼ぶほどではない。
呼べば怒られる。
紙が増えるからだ。
「休日にTSUTAYAとGEOを見ました」
俺は言った。
三浦が少し笑う。
「休日に?」
「はい」
「本当に休日でしたか」
「同行者に監視されていました」
「航さんですか」
「はい」
「美咲ちゃんも?」
「はい」
「強いですね」
「強いです」
社長が咳払いした。
話を戻せ、という咳払いだった。
「TSUTAYAで、まるマ二巻のみ店頭にあり、一巻がありませんでした」
俺は言った。
「店員さんに確認したところ、店頭在庫なし。取り寄せ可能。ただし、その場では購入に至りませんでした」
大町が眉を動かす。
「協力店以外でも起きていますね」
「はい」
「分かってはいましたが、現実に見ると痛い」
「はい」
「ただし、全店に一巻二巻をそろえろとは言えません」
「分かっています」
棚は有限だ。
すべての店にすべての本を置けない。
だから、責める話ではない。
これは、詰まりを見る話だ。
「GEOでは本そのものではなく、映像やゲームの棚から周辺興味へ入る導線を見ました」
佐伯が頷く。
「陰陽師ですか」
「はい。映画の影響で、言葉の入口があります。読者は本の棚だけでなく、映像の棚から興味を持ちます」
「十二月の少年陰陽師にもつながる可能性がありますね」
「ただし、便乗ではなく入口共有です」
「分かっています」
佐伯は少し笑った。
十月二日の紙が生きている。
「Amazonは?」
社長が聞いた。
「探せます。ただし、現時点の読者にとっては、店の棚とは違う心理があります」
「心理」
「店は、友達と探せます。棚にある安心があります。ついでに別の本や映像にも出会います」
「うむ」
「Amazonは、検索できます。遠方でも探せます。店にない本へ到達できます」
「良いことだな」
「はい。ただし、届くまで不安があります。そして、ひとりで探す感覚があります」
会議室が少し静かになった。
「ひとりで探す」
三浦が繰り返す。
「はい」
「それ、誰の言葉ですか」
来た。
俺は一瞬迷った。
「個人名は出しません。休日に聞いた読者感覚です」
航に言われたことを思い出す。
美咲は資料ではない。
俺は続けた。
「ただ、社長報告としては、個人の発言ではなく、探索導線ごとの違いとして扱います」
社長が俺を見た。
少しだけ頷いた。
許された、のかもしれない。
「つまり」
社長が言った。
「TSUTAYA、GEO、Amazonは敵味方ではない」
「はい」
「それぞれ別の入口か」
「はい」
「書店は?」
「もちろん第一の入口です。ただ、読者は出版社や書店の都合どおりには動きません」
駅前書店。
大型書店。
TSUTAYA。
GEO。
友達の本棚。
学校の古本市。
Amazon。
読者は、それらを雑にまたぐ。
その雑さは、こちらから見ると制御不能だ。
だが、読者にとっては自然だ。
「探索導線メモの目的は、どこで詰まったかを責めることではありません」
俺は言った。
「読者が次の入口へ進めるように、最低限の情報を整えることです」
「最低限とは」
大町が聞く。
「シリーズ順。発売日。既刊情報。公式ページ。店頭でない場合の注文方法。取り寄せ可否の説明に使える一言」
「また書店に紙を」
「書かせません」
即答した。
大町が少しだけ笑った。
「成長しましたね」
「はい」
「では誰が」
「出版社側の既存資料を整えます。営業が持っている書店向け資料、公式ページ、Amazonの商品情報、広告文言。それぞれで、読者が迷いやすい点を減らす」
佐伯が赤ペンを持つ。
「まるマなら、一巻から読むこと。二巻があるなら一巻の入口を見せること」
「はい」
「少年陰陽師なら、十二月発売予定であること。映画の陰陽師とは別物だが、陰陽師語の入口があること」
「はい」
「硬いですね」
「削ってください」
「削ります」
佐伯が笑った。
*
探索導線メモは、最終的にこうなった。
一、店にある安心。棚で友達と話せる入口。
二、別媒体から興味が戻る入口。
三、店になくても探せる入口。
四、ただし、どの入口でもシリーズ順と発売日が迷子になると読者は帰る。
五、Amazonは敵ではなく、店頭で拾えない探索の補助。ただし、店頭の代わりではない。
短い。
使える。
たぶん。
三浦は紙を見ながら言った。
「篠宮さん、最初の案よりだいぶ人間の言葉になりましたね」
「ありがとうございます」
「褒めています」
「最近、皆さんが褒めるので不安です」
「倒れないように育ててるんです」
「私は新人ですか」
「ある意味」
否定できない。
二〇〇一年の出版業界において、俺は新人である。
篠宮怜子は新人ではない。
そのズレが、今も時々痛む。
*
会議後。
社長室に残った社長が、探索導線メモをもう一度見た。
「篠宮君」
「はい」
「TSUTAYAで見つからないならGEOへ。それでもダメならAmazonで、か」
「はい」
「その言葉、誰のものだ」
「美咲さんです」
今回は言った。
社長は頷いた。
「では、紙にする時は借りた言葉だと忘れるな」
「はい」
「読者は、会社のために良い言葉を言っているわけではない」
「はい」
「生活の中で言っただけだ」
「はい」
「それを拾うなら、敬意を持て」
「はい」
敬意。
大事な言葉だ。
読者の声を拾うこと。
生活導線を見ること。
探索経路を整理すること。
それらは便利だ。
だが、便利にしすぎると人が消える。
美咲が消える。
航が消える。
TSUTAYAで棚を見ていた女子高生が消える。
GEOでビデオの棚を眺めていた友達同士が消える。
Amazonを少し不安だと言った声が消える。
消してはいけない。
「篠宮君」
「はい」
「休日は休め」
「はい」
「その顔は、半分休んで半分仕事をした顔だ」
「申し訳ありません」
「だが、悪くない休日だったな」
俺は少し黙った。
「はい」
「ならいい」
*
夜。
航からメールが来た。
今日、TSUTAYAとGEOの話、仕事にした? 航
早い。
なぜ分かる。
いや、分かるか。
俺だからだ。
俺は正直に返信した。
しました。
ただし、美咲さんの名前は社内資料には出していません。
読者の生活の言葉として、慎重に扱いました。 怜子
少し間が空いた。
怒られるかもしれない。
そう思った。
返信。
そっか。美咲の言葉、大事にしてくれたならいい。
でも今度、本人に一言言っといて。
俺が勝手に言うより、さっちゃんがちゃんと言った方がいい。
正しい。
かなり正しい。
俺は返信した。
分かりました。次に会った時、伝えます。
続けて美咲からメールが来た。
わた兄から聞いた。私のTSUTAYA→GEO→Amazonのやつ、仕事っぽくなった? なんかすごい。
俺は携帯を握った。
どう返すべきか。
資料ではない。
だが、何も言わないのも違う。
少し考えて、打った。
仕事の紙には、あなたの名前は出していません。
でも、探す順番の話は、とても大事な気づきになりました。ありがとうございます。
ただし、あなたの生活を勝手に資料にしないよう気をつけます。 怜子
長い。
硬い。
送ってから後悔した。
返事はすぐ返ってきた。
かたい!(笑)
でも、いいよ。
見つからないと普通に次行くし、なかったら諦める時もあるよってだけ。
そこ見てくれるならいいんじゃない?
軽い。
だが、深い。
見つからないと普通に次へ行く。
なかったら諦める時もある。
そこを見てくれるならいい。
読者は、いつもそんなふうに去っていたのかもしれない。
怒らず。
騒がず。
少し探して。
次へ行き。
それでもなければ、諦める。
その軽さを見落として、出版社は「売れなかった」と言う。
違う。
見つからなかったのかもしれない。
探し方が分からなかったのかもしれない。
一巻がなかったのかもしれない。
届くまで不安だったのかもしれない。
友達と一緒に探せなかったのかもしれない。
俺は返信した。
見つからないまま諦められる本を、少しでも減らしたいと思います。 怜子
美咲から。
うん。
でも今日は仕事の顔やめて寝て。
監督者がまた一人、強くなった。
*
メモ帳を開く。
航がいない夜だった。
だから、少しだけ長く書いた。
TSUTAYAで見つからないならGEOへ。
それでもダメならAmazonで。
読者は、出版社の想定より軽く媒体を越える。
そして、同じ軽さで諦める。
店にある安心。
友達と探せる棚。
別媒体から戻る入口。
ひとりで探すAmazon。
届くまでの不安。
最後に、今日の一行。
見つからなかった本は、売れなかった本と同じ顔をして数字に沈む。
ペンが止まった。
この一文は重い。
かなり重い。
だが、残す。
見つからなかった本。
売れなかった本。
数字の上では、同じゼロに見えることがある。
だが、その中身は違う。
見つからなかった。
迷った。
聞けなかった。
注文が不安だった。
一巻がなかった。
棚にないと思った。
検索語が分からなかった。
友達と探せなかった。
それらを全部まとめて「売れなかった」と言うのは、あまりにも雑だ。
届かなかった作品を、売れなかったことにしない。
その言葉は、また少し形を変えた。
届く場所は、書店だけではない。
TSUTAYA。
GEO。
Amazon。
学校。
友達の鞄。
古本市。
メール。
その全部に、入口と詰まりがある。
紙の帝国は、その全部を支配できない。
してはいけない。
だが、どこで読者が帰るのかを想像することはできる。
平成十三年十月。
秋は深まっていた。
紙の帝国の外側で、読者は棚から棚へ、店から店へ、画面へ、友達の手元へと移動していた。
TSUTAYAで見つからないならGEOへ。
それでもダメならAmazonで。
それでもダメなら。
読者は、静かに別の物語へ行く。
その前に、せめて一つでも入口を増やしたい。
俺はメモ帳を閉じた。
今日は、仕事の顔をやめる。
たぶん。
いや、努力ではなく。
やめる。
美咲に怒られる前に。




