第二十六話 オータムの憂鬱
十月十五日。
月曜日。
社長室の窓から見える空は、すっかり秋だった。
夏の湿気は抜けた。
朝の空気は少し冷たい。
通勤電車の中でも、薄手の上着を着る人が増えた。
コンビニには中華まんが出始め、書店の棚には年末進行の気配が混じり、雑誌の紙面には冬の特集が顔を出す。
秋。
オータム。
と書くと少し洒落ている。
だが、現実のオータムはあまり洒落ていない。
創刊初動七日表。
少年陰陽師の十二月刊行予定。
年末特集のクリスマス表現差し替え。
広告主への説明。
雑誌の締切。
年末進行。
そして、十月の通常業務。
紙の帝国における秋は、憂鬱である。
紅葉の色よりも赤ペンの色の方が濃い。
読書の秋、などと言う。
しかし出版社にとっては、読まれる前に積まれる紙の秋である。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「顔が秋だな」
「どういう意味でしょうか」
「憂鬱そうだ」
「オータムですので」
「横文字にしても変わらん」
「はい」
俺は社長室の机の上に、週明けの紙を並べた。
ビーンズ創刊後の初動七日表。
七日目以降の追加メモ。
少年陰陽師の共有メモ。
年末広告表現差し替え記録。
そして、雑誌読者アンケートの初回集約予定。
まだアンケートはほとんど来ていない。
当たり前である。
発売してすぐ、読者ハガキが山のように届くわけではない。
読者が買う。
読む。
考える。
ハガキを書く。
切手を貼る。
ポストへ出す。
出版社へ届く。
集約される。
社内に回る。
時間がかかる。
紙の帝国は、読者の声を聞くにも時間がかかる。
それが悪いとは言わない。
ハガキにはハガキの強さがある。
わざわざ書いて出す声は重い。
だが、その重さの外側にも、読者の声はある。
友達に貸す。
メールで薦める。
学校で話す。
掲示板に書く。
個人サイトの日記に残す。
プリクラ帳の隅にメモする。
古本市に並べる。
そして、学祭の中庭で焼きそばを食べながら、こう言う。
面白いのにね。
その一言が、俺の中に残っていた。
美咲の声。
義妹予定者様。
航の妹。
女子高生。
読者。
俺にとっては私生活の人間。
そして、出版社から見ると本を読むかもしれないひとり。
その二つを混ぜてはいけない。
分かっている。
分かっているのに、社長室の机に置かれた紙を見ると、あの言葉が浮かんでしまう。
面白いのにね。
売上ではない。
アンケートでもない。
書店所感でもない。
だが、作品が届き始めている音だった。
非常に小さい。
社長室までは届かない。
だが、確かに存在する音。
「篠宮君」
「はい」
「今、遠くを見ていた」
「遠方の読者を考えていました」
「便利な言い方だな」
「はい」
社長は紙をめくった。
「今日は、その遠方の読者の話か」
「まだ紙にしておりません」
「では、する気はあるのだな」
見抜かれた。
社長、恐ろしい。
*
午前十時。
三浦が社長室へ来た。
手には薄い紙束。
最近、三浦の紙は少しずつ薄くなっている。
本人いわく、削られる前に削る技術を覚えたらしい。
良いことだ。
だが、薄い紙には薄い紙の怖さがある。
削りすぎると、現場の熱まで消える。
紙の厚さは、難しい。
「篠宮さん」
「はい」
「読者アンケート、まだほとんど来てません」
「でしょうね」
「でしょうねって顔しないでください」
「しましたか」
「しました」
三浦は机に紙を置いた。
「現時点であるのは、書店所感、追加注文、営業メモ、編集部に直接来た少数の反応です」
「はい」
「読者の声は、まだ薄いです」
「はい」
「ただ、書店では動いている感じがあります」
「まるマですか」
「まるマも。他もです」
三浦は紙を指で押さえる。
「まるマは、タイトルで笑う。説明するとさらに笑う。一巻を探す。二巻も見る。友達と来ている場合、会話が発生する」
「会話」
「はい。書店員さんの所感です」
俺は少し身を乗り出しかけた。
小早川の視線を感じて、戻る。
「ローゼンクロイツは、表紙で止まる。アンジェリークは既存ファンが手に取る。カーマイン・レッドは、やっぱり説明が必要」
「はい」
「ただ、どれもアンケートにはまだ上がってこない」
「そうですね」
三浦は少しだけ困った顔をした。
「社内の紙に出るまでが遅いんです」
「紙の帝国なので」
「便利な言葉ですね」
「はい」
三浦は一枚のメモを出した。
「大町さんからです。協力店で聞こえた範囲の自然反応」
自然反応。
書店員が業務の中で見聞きした範囲。
読者に聞き込みをしたわけではない。
盗み聞きでもない。
棚前で自然に発生した会話の断片。
それが数行、紙に残っていた。
友達に貸すと言っていた。
男子にも読ませようかな、という声あり。
タイトルを口に出して笑う。
一巻から読むのか確認。
表紙が綺麗だから気になる。
前編なら後編も出るのか確認。
俺は、その紙を見た。
薄い。
だが、濃い。
数字ではない。
でも、入口が見える。
「篠宮さん」
三浦が言った。
「これ、どう扱います?」
「社長報告には、慎重に」
「ですよね」
「読者の私的会話です」
「はい」
「拾いすぎてはいけません」
三浦が少しだけ意外そうにした。
「篠宮さんなら、もっと拾えって言うかと思いました」
「未来を知っているからこそ、拾いすぎる怖さも少し知っています」
「未来?」
「遠方です」
「もう遅いです」
失言。
だが、三浦は深く突っ込まなかった。
ありがたい。
「読者の会話は、出版社の所有物ではありません」
俺は言った。
「書店員さんが自然に拾った範囲の所感として扱うべきです。読者を観測対象にしてはいけない」
「観測対象」
「はい」
「また硬いですね」
「正確です」
「怖いです」
このやり取り、最近多い。
「では、社長報告用には、どう書きますか」
三浦が聞く。
俺はペンを取った。
読者間非公式伝播観測票。
書いた瞬間、三浦が言った。
「怖いです」
「正確です」
「怖いです」
「では」
「書く前に止めます」
「まだ題名です」
「題名で怖いです」
小早川が横から言った。
「怜子さん、使う人間が逃げる名前です」
「……はい」
俺は線を引いた。
読者間非公式伝播観測票。
死亡。
紙の上で即死である。
「では、読者共有メモ?」
三浦が言った。
「弱くないですか」
「使えます」
「正確性が」
「使う人が逃げたら正確でも意味ありません」
小早川が言う。
強い。
非常に強い。
俺は頷いた。
読者共有メモ。
弱い。
だが、使える。
紙は、使われなければ意味がない。
初動七日表もそうだった。
会議室で美しい紙より、現場で汚れる紙。
名前も同じだ。
怖い名前では、誰も書かない。
「項目は少なくします」
俺は言った。
「友達に薦めやすい一言」
三浦が書く。
「貸し借りが起きそうな要素」
「棚外へ広がる時の誤解」
「公式が拾ってよい声、拾ってはいけない私的会話」
小早川が少しだけ頷いた。
「そこは入れてください」
「はい」
「書店員が聞いた範囲の自然な反応」
三浦が続ける。
「読者本人に余計なことを書かせない」
俺が言う。
「また現場に紙を書かせるな、ですね」
「はい」
三浦は笑った。
「榊原さんが喜びます」
「怒られないだけで十分です」
*
午後一時。
小さな確認会。
社長。
久我営業局長。
大町。
三浦。
佐伯。
真鍋。
小早川。
俺。
議題は、ビーンズ創刊後の読者反応の扱い。
重い議題に見える。
だが、紙は薄い。
読者共有メモ。
表だけ。
裏なし。
小早川に裏面を禁止された。
理由は明快。
裏があると、怜子さんは増やす。
反論できなかった。
「読者共有メモ?」
久我が紙を見て、眉を上げた。
「また増えたのか」
「増やすのではなく、既存所感の拾い方を整理します」
俺は言った。
「同じだろう」
「いえ」
「同じだ」
「……近いです」
三浦が横で小さく笑った。
余計な笑いである。
「目的は?」
社長が聞いた。
「読者アンケートと売上に出る前の、読者同士の共有の兆しを、過剰に踏み込まずに見るためです」
「過剰に踏み込まずに、か」
「はい」
俺は紙を指した。
「読者アンケートは、読者が出版社へ向けて出す声です」
「うむ」
「ですが、多くの読者は出版社へ声を出しません」
友達に貸す。
メールする。
学校で話す。
掲示板に書く。
個人サイトの日記に書く。
古本市に出す。
「それらは売上やアンケートにすぐ出ません。ただ、作品が生活の中へ入った兆しです」
「生活の中へ入った兆し」
佐伯が繰り返した。
編集者の顔になっている。
「はい。ただし」
俺はそこで一度切った。
「読者の私生活は、出版社の所有物ではありません」
会議室が少し静かになった。
「拾いすぎてはいけません。読者の会話を監視しようとしてはいけません」
未来の地獄が頭をよぎる。
検索。
掲示板。
ブログ。
SNS。
エゴサ。
炎上。
スクリーンショット。
引用。
ファンの会話に入り込む公式。
褒め言葉を刈り取る広告。
不満を監視する企業。
読者の熱を鉱山のように掘るマーケティング。
知っている。
俺は未来で、そういうものを見てきた。
便利だった。
強かった。
そして時々、とても気持ち悪かった。
「篠宮君」
社長が言った。
「つまり、見たいが、覗くなということか」
「はい」
「難しいな」
「難しいです」
「では、どうする」
「書店員さんが通常業務の中で見た範囲。営業が自然に聞いた範囲。編集部に自発的に届いた範囲。読者アンケート。これらを分けます」
「分ける」
「はい。読者の私的会話を、出版社が勝手に自分たちの成果として扱わないためです」
真鍋が少しだけ目を細めた。
「良いですね」
珍しい。
また褒められた。
縁起物か。
「ただし」
真鍋は続ける。
「読者同士の貸し借りを、売れていると誤認しないこと」
「はい」
「貸し借りは熱です。売上ではありません」
「はい」
「でも、熱です」
佐伯が言った。
「熱があるなら、入口を整える意味があります」
「その通りです」
俺は頷いた。
「友達に貸したくなる本は、次に買われる可能性があります。ただし、貸された一冊を売上として数えてはいけません」
「当たり前だ」
久我が言う。
「当たり前ですが、混ざりやすいです」
「混ぜると?」
「売れていると勘違いするか、売れていないと切り捨てるか、どちらかになります」
熱はある。
売上はまだない。
そこで切るのか。
入口を整えるのか。
その判断が必要になる。
売れていないの前に、届いているのか。
届いているのに、買う入口が詰まっていないか。
貸し借りが起きているなら、次に自分でも欲しいと思う導線があるか。
友達に薦めやすい一言があるか。
棚に戻った時、一巻があるか。
続刊予定が見えるか。
公式に入口があるか。
「篠宮さん」
佐伯が言った。
「“友達に貸したくなる本”でいいと思います」
「何がですか」
「読者共有メモの最初の項目です」
俺の紙には、友人間推薦誘発要素、と書かれていた。
佐伯が赤ペンで殺した。
友達に貸したくなる本。
「こちらの方が良いです」
「はい」
「読者は友人間推薦誘発要素とは言いません」
「言いませんね」
三浦が即答した。
全員が頷いた。
俺は少し傷ついた。
正確なのに。
だが、怖い。
分かっている。
*
読者共有メモは、最終的にこうなった。
一、友達に貸したくなる一言はあるか。
二、貸された人が自分で買える入口はあるか。
三、棚外へ広がる時、誤解されやすい点は何か。
四、公式が拾ってよい声と、拾ってはいけない私的会話を分ける。
五、読者アンケート、書店所感、自然反応、追加注文を混ぜない。
短い。
非常に短い。
だが、使える。
たぶん。
「この五つなら、まだ許す」
久我が言った。
「ありがとうございます」
「ただし、現場に新しい日報を書かせるな」
「はい」
「書店にも書かせるな」
「はい」
「営業がすでに持っているメモの整理に留めろ」
「はい」
榊原がいないのに、榊原の声が聞こえる気がする。
現場に紙を書かせるな。
紙の帝国の改革は、紙を増やせばいいわけではない。
紙を増やすことは簡単だ。
書かせることも簡単だ。
だが、書かせた紙が現場を疲弊させ、結局読者に届く仕事を減らすなら、それは改革ではない。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「これは、社長室の紙か」
「いいえ」
「では何だ」
「営業局と編集部が既存資料を見る時の共有メモです。社長室は、必要な時に要点だけ受けます」
「秘書らしいな」
「はい」
「寂しいな」
「なぜですか」
「地雷が減った」
「減らすべきです」
「その通りだ」
社長は少し笑った。
「ただし、良い紙だ」
「ありがとうございます」
「ただ、気をつけろ」
「はい」
「読者の声は甘い」
社長の声が低くなる。
「甘い?」
「売上より先に、褒め言葉が届くと、人は気持ちよくなる」
「はい」
「気持ちよくなった会社は危ない」
刺さる。
「読者の声を盾にするな」
「はい」
「読者が言っているから、読者が望んでいるから、という言葉で現場や作家を殴るな」
重い。
かなり重い。
未来の景色がまた浮かぶ。
ファンの声。
需要。
期待。
炎上。
続編要求。
改変への怒り。
公式への圧力。
それを会社が都合よく使う地獄。
読者の声は宝だ。
だが、宝を盾にして作品を殴ることもできる。
「肝に銘じます」
俺は言った。
真鍋が静かに頷いた。
*
会議後。
佐伯と三浦が社長室に残った。
読者共有メモの文言をさらに削るためである。
「篠宮さん」
佐伯が言った。
「はい」
「“棚外へ広がる時”が硬いです」
「では」
「“いつもの棚じゃない人に薦める時”」
三浦が頷く。
「それなら分かります」
「少し長いですね」
「でも使えます」
使える。
またそれだ。
俺は線を引いた。
棚外へ広がる時。
死亡。
いつもの棚じゃない人に薦める時。
採用。
「“公式が拾ってよい声”は?」
三浦が言う。
「これは残したいです」
「でも、公式って言葉、少し硬い」
「出版社が使ってよい声」
佐伯が言う。
「それも硬い」
「宣伝に使ってよい声」
三浦。
「近いですが、宣伝だけではありません」
「じゃあ、“会社が使っていい声/使ってはいけない声”」
美しくはない。
だが、分かる。
会社が使っていい声。
使ってはいけない声。
小学生でも分かる。
つまり、強い。
「採用です」
俺は言った。
佐伯が少し笑う。
「篠宮さんが、だんだん諦めを覚えています」
「成長と言ってください」
「成長です」
「ありがとうございます」
三浦が紙を見ながら言った。
「でも、これ大事ですね」
「はい」
「美咲ちゃんの話とか」
俺の手が止まった。
佐伯もこちらを見た。
三浦が、しまった、という顔をする。
「すみません」
「いえ」
美咲。
義妹予定者様。
学祭。
古本市。
面白いのにね。
俺は、その言葉を仕事に持ち込んでいる。
個人名は出していない。
具体的な学校名も出していない。
だが、あの場で拾った感覚が、この紙の元になっている。
それは良いのか。
危ういのか。
たぶん、両方だ。
「篠宮さん」
佐伯が静かに言った。
「読者の声は、個人の生活の中にあります」
「はい」
「それを仕事にする時は、少し痛みが必要です」
「痛み」
「この人の生活を、こちらの都合に変換していないか、という痛みです」
俺は黙った。
佐伯は続ける。
「編集者も同じです。作家の言葉、読者の手紙、書店員さんの所感。それを紙にするとき、必ず何かを削ります」
「はい」
「だから、削ったことを忘れると危ない」
削ったことを忘れる。
それは、社長室の紙にも言える。
俺は美咲の言葉を、そのまま社長の机に置いたわけではない。
面白いのにね。
それを、友達に貸したくなる本、と変えた。
読者共有メモにした。
便利になった。
使える紙になった。
だが、そこには美咲の顔も、焼きそばの匂いも、古本市の教室も、消えている。
消したのは俺だ。
仕事にするために。
「忘れないようにします」
俺は言った。
「はい」
佐伯は頷いた。
*
夕方。
社長への最終報告。
読者共有メモ。
表一枚。
社長は読んで、少しだけ黙った。
「悪くない」
「ありがとうございます」
「会社が使っていい声、使ってはいけない声、か」
「はい」
「小学生のようだな」
「分かりやすさを優先しました」
「良い」
社長は紙を置いた。
「篠宮君」
「はい」
「これを作るきっかけは何だ」
来た。
俺は少しだけ迷った。
言うべきか。
ぼかすべきか。
社長の目は、逃げを許さない。
「学祭で、読者の会話を聞きました」
「誰の」
「航の妹です」
「美咲君か」
名前を覚えている。
社長、怖い。
「はい。ただし、個人名や学校名は紙にしていません」
「そういう問題ではないな」
刺された。
その通りだ。
「はい」
「仕事にしたのか」
「完全には、していないつもりでした」
「つもり」
「はい」
「今は?」
「少し、しました」
認めるしかなかった。
社長は怒らなかった。
ただ、静かに言った。
「人の生活から仕事の種は落ちる」
「はい」
「秘書も、編集も、営業も、そこから学ぶことはある」
「はい」
「だが、その人を資料にするな」
まっすぐ刺さった。
「はい」
「読者は鉱山ではない」
社長は言った。
「掘れば熱が出てくると思うな」
「はい」
「向こうには向こうの生活がある。その生活の中で、本が読まれた。それだけでも、十分重い」
俺は黙って頷いた。
「紙にするなら、その重さを残せ」
「はい」
「便利にしすぎるな」
「はい」
社長は少しだけ笑った。
「難しいな」
「はい」
「憂鬱か」
「オータムですので」
「まだ言うか」
社長は笑った。
*
夜。
部屋に帰ると、航がいた。
スーツの上着を脱いで、台所で何かを温めている。
合鍵。
青い歯ブラシ。
玄関の靴。
もう見慣れた。
見慣れたことが、少し怖い。
だが、嫌ではない。
「おかえり」
航が言った。
「ただいま」
俺は言った。
前より自然に言えた。
たぶん。
「顔、疲れてる」
「オータムですので」
「何それ」
「憂鬱な秋です」
「仕事?」
「はい」
航は鍋の火を弱めた。
「ご飯食べながらでいい?」
「はい」
温められていたのは、肉じゃがだった。
航が作ったらしい。
この男、何者だ。
いや、IT系勤務の年下彼氏である。
なぜ肉じゃがが出てくる。
美味しいからいいが。
食卓につき、俺は今日のことを話した。
読者アンケートがまだ来ていないこと。
書店所感に読者同士の会話が出ていること。
読者共有メモを作ったこと。
友達に貸したくなる本。
会社が使っていい声、使ってはいけない声。
そこまで話したところで、航の箸が止まった。
「美咲の話、仕事にしたの?」
声は穏やかだった。
だが、少しだけ温度が下がった。
「個人名は出していません」
「そういう問題じゃなくて」
同じことを言われた。
社長と同じ。
佐伯とも同じ。
俺は箸を置いた。
「はい」
航は怒鳴らなかった。
責めるような顔もしなかった。
ただ、少し困った顔をした。
「美咲は読者だけど、さっちゃんの資料じゃないよ」
刺さった。
深く。
「はい」
「俺も、資料じゃない」
「はい」
「さっちゃんが仕事でいろいろ考えるのは分かる。美咲の言葉で気づくことがあるのも分かる」
「はい」
「でも、美咲がさっちゃんに言ったことは、仕事のために言ったんじゃない」
「……はい」
その通りだった。
美咲は、義妹予定者様として。
航の妹として。
学祭に来た俺に、焼きそばを食べさせながら話した。
まるマの話もした。
兄の話もした。
結婚のことまで聞いた。
その全部は、仕事のためではない。
俺が勝手に仕事とつなげた。
読者導線だ、共有だ、貸し借りだと。
完全に間違いではない。
だが、完全に正しくもない。
「航」
「うん」
「すみません」
「俺に謝るより、美咲を資料にしないであげて」
「はい」
「気づきにするのは、たぶんいいんだと思う」
「はい」
「でも、材料にしないで」
気づき。
材料。
その違い。
重い。
「分かりました」
「うん」
航はそこで少し笑った。
「肉じゃが冷める」
「はい」
俺は箸を取った。
肉じゃがは温かかった。
じゃがいもが少し煮崩れている。
味は少し濃い。
ご飯に合う。
普通の夕食。
この普通の中に、美咲も航もいる。
仕事の紙には載せてはいけない重さがある。
*
食後。
美咲からメールが来た。
友達に魔王のやつ貸した。
返ってきたら次は別の子に回る予定。
わた兄には内緒ね? 美咲
俺は画面を見つめた。
来た。
まさに今日の議題そのもののようなメール。
友達に貸す。
次の子に回る。
読者共有。
非公式伝播。
違う。
違う。
これは美咲の生活だ。
仕事の資料ではない。
俺は返信に迷った。
社長室なら、こう書きたい。
貸し借り発生。友人間共有あり。購入導線未確認。
違う。
絶対に違う。
俺は一度、携帯を閉じた。
深呼吸した。
そして、もう一度開いた。
面白い本は、ちゃんと返してもらってください。
怜子
送信。
すぐ返ってきた。
そこ?
さっちゃん、まじめ。
でもちゃんと返してもらう。
俺は少し笑った。
航が横から覗く。
「美咲?」
「はい」
「何て返したの」
「ちゃんと返してもらってください、と」
航は笑った。
「さっちゃんらしい」
「仕事の顔ではありませんか」
「うん。生活の顔」
生活の顔。
それは、良い顔なのだろうか。
たぶん、そうだ。
*
夜。
俺はメモ帳を開いた。
航がじっと見る。
「仕事?」
「私的記録です」
「本当?」
「今日は、本当です」
「少しだけね」
「はい」
俺はペンを取った。
読者の声は、ハガキ箱の外にも落ちている。
書く。
ただし、と続ける。
ただし、それを拾う手が汚れていれば、読者は逃げる。
もう一行。
読者の生活から気づくことはある。
だが、読者を材料にしてはいけない。
さらに。
美咲さんは読者でもある。
だが、私の資料ではない。
航も資料ではない。
生活である。
書いてから、少し恥ずかしくなった。
生活である。
何だその一文。
社長報告なら即削除である。
だが、私的記録なら残していい。
たぶん。
最後に、今日のタイトルのような言葉を書いた。
憂鬱なオータム。
秋は紙が増える。
そして、紙にしてはいけないものも増える。
ペンを置いた。
机の端には、美咲にもらったしおりが挟まったメモ帳。
台所には航が洗い物をする音。
携帯には美咲のメール。
社長室には読者共有メモ。
全部がつながっている。
だが、全部を同じ紙にしてはいけない。
仕事と生活は分けきれない。
だが、混ぜてはいけないところがある。
パッチワークは、布を縫い合わせる。
けれど、布を溶かして一色にするわけではない。
赤い布は赤いまま。
青い布は青いまま。
焼きそばの匂いは焼きそばのまま。
美咲のメールは美咲のメールのまま。
読者の声は、出版社の所有物ではない。
それでも、本が誰かの生活に入った音を聞き逃したくはない。
難しい。
とても難しい。
憂鬱である。
オータムなので。
平成十三年十月。
紙の帝国の秋は深まっていた。
創刊したばかりの緑の背表紙は、少しずつ読者の鞄に入り、友達の手に渡り、学校の机の中に潜り、古本市の机に並び、メールの話題になっていた。
その全部を会社は見られない。
見てはいけないものもある。
だから俺たちは、見えるものだけを紙にする。
見えないものは、見えないまま尊重する。
そして、たまに生活の中で聞こえた小さな声に、仕事ではない返事をする。
面白い本は、ちゃんと返してもらってください。
それくらいで、今日は十分だった。




