第二十五話 義妹予定者様とのサシメシは学祭で
十月十三日。
土曜日。
俺は、女子高の校門前に立っていた。
違う。
正確には、共学の高校の校門前だ。
だが、目に入る制服の密度と、模擬店の呼び込みの声と、甘い匂いと、校舎の窓に貼られた色紙のせいで、俺の脳は勝手に女子高判定を出していた。
文化祭。
いや、この学校では学祭と呼ぶらしい。
正門には手作りのアーチ。
色画用紙の花。
段ボールの看板。
クラス企画の一覧。
焼きそば。
たこ焼き。
喫茶。
お化け屋敷。
演劇。
軽音。
占い。
古本市。
謎の展示。
そして、やたら元気な高校生。
平成十三年の高校生は、情報量が多い。
いや、令和の高校生も多いのだろうが、二〇〇一年の高校生には二〇〇一年の眩しさがある。
携帯ストラップ。
プリクラ帳。
ルーズソックス。
スクールバッグの落書き。
ピッチだか携帯だか分からない小さな端末。
MDウォークマン。
手書きのポスター。
ポスカの文字。
そして、そこらじゅうから漂うソースの匂い。
焼きそば。
また焼きそばである。
俺と焼きそばの縁は、最近少し強すぎる。
夏祭りの焼きそばソース。
航の指。
唇の端。
下がらなかった自分。
思い出すな。
ここは高校の校門前だ。
思い出す場所ではない。
俺は社長室秘書である。
今日は業務ではない。
私用である。
義妹予定者様から招待された学祭である。
義妹予定者様。
桐生美咲。
航の妹。
高校二年生。
まるマを読み、千尋を語り、九月十一日の夜には「さっちゃんも起きてるならちょっと安心」とメールを寄越した女子高生。
そして、俺にとっては非常に厄介な存在である。
なぜなら彼女は、航の妹だからだ。
航の妹ということは、篠宮怜子がこのまま航と関係を続ければ、将来的には義妹になる可能性がある。
予定は未定。
だが、可能性はある。
つまり、義妹予定者様。
敬称をつけたくなる圧がある。
その義妹予定者様から、昨日メールが来た。
土曜、学祭です。
わた兄は仕事で無理っぽいので、さっちゃん来ませんか。
焼きそば奢ります。
仕事の顔したら追加料金です。 美咲
何だ、追加料金とは。
だが、断れなかった。
航からもすぐメールが来た。
美咲、本気で誘ってるよ。
無理しなくていいけど、行けたら行ってあげて。
俺は午後まで仕事。
さっちゃん、学祭で仕事の観測しないように。航
観測しないように。
無理である。
高校の学祭など、読者の生活導線の塊ではないか。
模擬店。
友人関係。
部活。
クラスの空気。
携帯メール。
プリクラ。
漫画回し読み。
文庫の貸し借り。
学祭帰りの書店。
全部がつながる。
だが、今日は業務外だ。
仕事の顔をしてはいけない。
ケーキ没収ならぬ焼きそば追加料金を取られる。
俺は校門前で深呼吸した。
そこへ、声が飛んできた。
「さっちゃーん!」
校門の向こうから、美咲が手を振っていた。
制服。
エプロン。
髪を少しだけ結んでいる。
首からクラス企画の手書き札。
明るい。
眩しい。
若い。
物理的に若い。
俺は思わず姿勢を正した。
「こんにちは」
「かたい!」
初手で刺された。
美咲は駆け寄ってきて、俺を上から下まで見る。
「うわ、ちゃんと来た」
「招待されましたので」
「招待って言うとかたい。学祭だよ?」
「学祭に来ました」
「うん。よし」
何がよしなのか分からない。
美咲は俺の腕を見て、少しだけ目を細めた。
「今日、仕事の鞄じゃない」
「はい」
「偉い」
「ありがとうございます」
「わた兄に報告しとく」
「なぜ」
「監督」
監督者が増えている。
航。
小早川。
美咲。
社長。
三浦。
佐伯。
俺はいつから被監督対象になったのか。
たぶん、倒れてからだ。
「あ。今日は私とサシメシね。わた兄いないし」
「サシメシ」
「二人でご飯って意味」
「意味は分かります」
「さっちゃん、言い方が大人」
「大人ですので」
「そういうところ」
美咲は笑った。
その笑顔は航に少し似ていた。
目元が似ている。
笑う時に、少しだけ相手を見てから崩れるところも似ている。
兄妹だ。
当たり前だが、兄妹である。
俺は、それだけで少し緊張した。
*
校内は、熱かった。
物理的にも、精神的にも。
廊下には装飾があり、教室ごとに企画の看板が出ている。
模擬店の匂い。
呼び込み。
笑い声。
スピーカーから流れる軽音部の音。
どこかの教室から聞こえる劇の台詞。
階段に座る生徒。
廊下で写真を撮る女子。
手帳にプリクラを貼っている女子。
携帯でメールを打つ男子。
二〇〇一年の高校は、紙と携帯の境目にいた。
貼り紙は手書き。
連絡はメール。
写真はプリクラ。
宣伝は声。
情報の流れが、まだ人の口と紙に近い。
だが、もう画面も入り込んでいる。
俺は思わず廊下の掲示物を見た。
手作りのクラス案内。
色ペン。
目立つ文字。
短い煽り。
説明不足な企画。
妙に上手いイラスト。
ここにも、棚前の一秒がある。
通りすがりの生徒や来客に、これは自分が入る教室かどうか判断させる一秒。
書店と同じだ。
いや、違う。
業務外だ。
今日は業務外。
「さっちゃん」
美咲が言った。
「はい」
「今、仕事の顔した」
「していません」
「した」
「観測ではなく、見学です」
「言い訳が仕事」
鋭い。
女子高生、怖い。
「罰として、まずうちのクラスの焼きそば買って」
「追加料金ですか」
「うん。仕事の顔料金」
「徴収されるのですね」
「もちろん。言ったっしょ?」
美咲は当然の顔で言った。
俺は財布を出した。
焼きそば二パック。
紙皿ではなく、透明なパック。
輪ゴム。
紅しょうが。
青のり。
割り箸。
高校生が作る焼きそば特有の、少し油が強い匂い。
美咲は中庭の端にあるベンチへ俺を案内した。
人通りが少し落ち着く場所。
校舎と校庭の境目。
文化祭の騒がしさが遠すぎず近すぎず聞こえる。
「ここ、穴場」
「詳しいですね」
「在校生だから」
「当然でした」
俺たちは並んで座った。
サシメシ。
義妹予定者様とのサシメシである。
非常に緊張する。
仕事の会議より緊張するかもしれない。
なぜなら、会議なら紙がある。
社長がいる。
議題がある。
だが、ここには焼きそばしかない。
焼きそばは議題にならない。
いや、なり得る。
やめろ。
何でも仕事にするな。
「いただきます」
美咲が言った。
「いただきます」
焼きそばを食べる。
少し濃い。
少し焦げている。
キャベツが大きい。
麺が一部固まっている。
だが、悪くない。
高校の学祭の焼きそばとしては、かなり正しい。
「どう?」
「おいしいです」
「ほんと?」
「はい」
「仕事の評価じゃなくて?」
「純粋な食事評価です」
「言い方」
美咲が笑った。
その笑い方が、また航に似ていた。
「お兄ちゃんから聞いたけど、クリスマス、店決めてるんだって?」
聞き馴れない呼び方とクリスマスの言葉。
焼きそばが喉に詰まりかける。
危ない。
「⋯⋯聞いているのですか」
「聞いてるよ。私も行くかもって言ったし」
「本当に来るのですか」
「分かんない。邪魔なら行かない」
「邪魔ではありません」
「即答じゃないんだ」
「邪魔ではありません」
「二回言った」
言わされた気がする。
美咲は焼きそばを食べながら、俺を見る。
「でも、兄と二人の方がいい?」
「それは」
困る。
非常に困る。
航と二人。
クリスマス。
紙を広げにくい店。
ケーキ。
仕事の顔禁止。
想像すると、顔が熱くなる。
ここは高校の中庭である。
義妹予定者様の前で顔を熱くするな。
「美咲さんの都合で決めてください」
「逃げた」
「逃げていません」
「逃げた顔」
「顔で読まないでください」
「兄が読めるから、私も少し読める」
兄妹、怖い。
*
焼きそばを半分ほど食べたところで、美咲が急に言った。
「さっちゃんって、わた兄と結婚する気あるの?」
世界が止まった。
いや、止まっていない。
軽音部の音は続いている。
中庭では高校生が笑っている。
焼きそばは温かい。
だが、俺の中だけが止まった。
「……はい?」
「いや、クリスマスとか、そういう話になってるし」
「クリスマスと結婚は、距離があります」
「まあね」
美咲はあっさり頷いた。
「でも、気になるじゃん」
気になる。
それはそうだろう。
兄の恋人。
年上。
社長室秘書。
過労で倒れる。
最近様子が少し変。
自分にも優しい。
でも、兄との関係がどこへ向かうのかは分からない。
妹としては、気になるに決まっている。
俺は箸を止めた。
篠宮怜子なら、どう答えるのか。
昔の彼女なら。
九月十三日と十四日に現れた“私”なら。
航さん、と呼んだ彼女なら。
分からない。
俺は、未来の男だった。
転売厨だった。
結婚とは縁遠い生活をしていた。
誰かと生活を作ることを避けてきた。
それなのに今、篠宮怜子の身体で、航の妹から結婚の意思を聞かれている。
状況が複雑すぎる。
「すぐには、答えられません」
俺は正直に言った。
「うん」
美咲は怒らなかった。
「でも、考えてはいる?」
考えている。
考えていないはずがない。
青い歯ブラシ。
合鍵。
お泊り。
ゼクシィ。
クリスマス。
航の手。
美咲のメール。
篠宮怜子の記憶。
俺の記憶の穴。
同じ身体。
全部が絡んでいる。
「考えています」
俺は言った。
「ただ、私だけで決めていい話ではありません」
「わた兄もいるから?」
「はい」
「さっちゃん自身も、まだ分かんないから?」
刺さった。
女子高生のくせに、刺し方が鋭い。
いや、高校生だから鈍いわけではない。
読者も同じだ。
若いから分かっていない、などと決めつけるのは地雷である。
「はい」
俺は頷いた。
「まだ、自分のことも分からないところがあります」
美咲はしばらく焼きそばを見ていた。
それから、小さく言った。
「同時多発テロのあと?」
あの夜。
テレビ。
航の手。
美咲のメール。
倒れた翌日。
記憶の穴。
「それもあります」
「そっか」
美咲は、それ以上深掘りしなかった。
ありがたかった。
そして、少し申し訳なかった。
「わた兄、さっちゃんのこと大事にしてるよ」
「はい」
「でも、わた兄って、けっこう無理するから」
「はい」
「さっちゃんもさ、甘えていいけど、わた兄が潰れるまで甘えちゃ駄目だよ」
痛い。
かなり痛い。
それは、義妹予定者様の言葉だった。
妹としての言葉。
航を見てきた人間の言葉。
「はい」
俺は素直に頷いた。
「肝に銘じます」
「かたい」
「大事なことですので」
「うん」
美咲は少しだけ笑った。
「じゃあ、わた兄に甘えすぎないために、私もたまに監視する」
「監視者が増えました」
「義妹予定者様だから」
俺は固まった。
「その呼び方」
「って、わた兄が言ってた」
「⋯⋯⋯⋯」
あの男。
何を妹に漏らしている。
美咲はけらけら笑った。
「さっちゃん、顔!」
「どんな顔ですか」
「仕事じゃない顔」
「……そうですか」
「うん。良い顔」
小早川にも言われた。
美咲にも言われた。
良い顔とは、何だろう。
少なくとも、社長室で紙を睨んでいる顔ではないらしい。
*
食後、美咲は校内を案内してくれた。
お化け屋敷。
入らなかった。
理由は、仕事の顔が出るからではない。
普通に怖いからだ。
いや、違う。
作り物の暗闇で女子高生に悲鳴を聞かれるのが嫌だった。
「さっちゃん、お化け屋敷苦手?」
「判断を保留します」
「苦手なんだ」
「保留です」
「じゃあやめとこ」
美咲は軽く流した。
次に、古本市。
これは危険だった。
非常に危険。
教室の机に、文庫、漫画、雑誌、参考書が並んでいる。
値札は手書き。
五十円。
百円。
二百円。
古い少女漫画。
ティーンズ文庫。
ライトノベル。
雑誌の付録。
同人誌ではないが、手作り冊子もある。
俺の中の転売厨が、一瞬だけ目を覚ました。
相場。
希少性。
状態。
帯。
初版。
やめろ。
ここは高校の古本市だ。
仕入れ場所ではない。
断じて違う。
「さっちゃん」
美咲が言った。
「はい」
「今、めっちゃ怖い顔した」
「していません」
「した。獲物を探す顔」
「人聞きが悪い」
「何見てたの?」
「本の状態を」
「仕事?」
「違います」
「じゃあ趣味?」
趣味。
転売は趣味ではない。
だが、ここで説明するものではない。
「昔の癖です」
「ふうん」
美咲は机の上から一冊を取った。
今日から(マ)のつく自由業!
俺は固まった。
「これ、誰かもう出してる」
「早いですね」
「たぶんダブったんじゃない? 友達に貸す用とかで」
美咲は本をめくる。
「私の周りでも読んでる子いるよ」
「そうですか」
「うん。タイトルで笑う。あと、説明がしやすい」
「水洗トイレから異世界へ」
「それそれ」
美咲は笑った。
「でも、男子に言うと変な顔される」
「女性向けの棚にありますから」
「でも、面白いのにね」
その一言が、胸に残った。
面白いのにね。
読者は、棚の分類より先にそう言う。
面白い。
友達に貸す。
男子に言うと変な顔される。
でも面白い。
これも入口だ。
社長室の紙には載りにくい入口。
高校の学祭の古本市で、女子高生が言う入口。
仕事の顔をするな。
だが、記憶には残す。
メモ帳には書かない。
今日は書かない。
「美咲さん」
「何?」
「それ、買いますか」
「持ってるからいい」
「そうですか」
「さっちゃん、買う?」
「いえ」
「仕事の資料にしようとした?」
「していません」
「嘘」
読まれている。
完全に読まれている。
*
次は喫茶企画だった。
教室を暗くして、布をかけた机。
紙コップの紅茶。
ホットケーキらしきもの。
メイド喫茶ではない。
この時代にもある場所にはあるかもしれないが、ここは普通の高校の喫茶企画である。
ただし、制服の上にエプロン。
これはこれで強い。
美咲は慣れた様子で席を取った。
「ここ、友達のクラス」
「なるほど」
「さっちゃん、ケーキ食べる?」
クリスマスケーキ。
独身女。
広告ラフ。
人をケーキにするな。
ケーキはケーキとして食べる。
それが頭をよぎった。
「食べます」
「即答」
「ケーキはケーキとして食べるべきです」
「何それ」
「仕事で得た教訓です」
「仕事の顔?」
「少し」
「追加料金」
「まだですか」
美咲は笑い、ショートケーキを二つ頼んだ。
高校の喫茶企画のケーキ。
スポンジは市販。
クリームは少し粗い。
苺は小さい。
でも、ちゃんとケーキだった。
俺はフォークで一口食べた。
甘い。
普通に甘い。
ケーキはケーキだ。
人間ではない。
「わた兄、ああ見えてケーキ好きだよ」
美咲が言った。
「そうなのですか」
「うん。甘いものけっこう食べる。でも、かっこつけてそんなに好きじゃないふりする」
「そうなのですか」
「クリスマス、ケーキ没収って言ってたでしょ」
「はい」
「たぶん、自分も食べたいだけ」
航。
お前。
俺は少し笑ってしまった。
「あ、わた兄には言わないでね」
「言いません」
「言ったら、照れるはずだし」
「見たい気もします」
「見たいんだ」
しまった。
美咲がにやにやしている。
義妹予定者様、強い。
「さっちゃん、わた兄のこと好き?」
また来た。
急に来る。
女子高生の会話は急に核心へ来る。
俺はフォークを止めた。
「……好き、だと思います」
「思います?」
「はい」
「まだ断定じゃないんだ」
「難しいです」
「中学生みたい」
「申し訳ありません」
「謝ることじゃないよ」
美咲はケーキを食べながら言った。
「でも、わた兄の前でもそれくらい言ってあげたら喜ぶと思う」
「言えますかね」
「知らない」
「無責任ですね」
「うん。義妹予定者様だから」
便利な立場である。
「わた兄、さっちゃんに甘いけど、けっこう不安がってるよ」
「はい」
「さっちゃん、急に遠くなる時あるから」
九月十三日と十四日。
俺の知らない二日間。
昔の篠宮怜子に近かったと社長は言った。
航は、俺に「さっちゃんが二人いるなら、二人とも寝て」と言った。
美咲も、たぶん気づいている。
兄から聞いたのか。
メールで見たのか。
直接感じたのか。
分からない。
「遠くなるつもりはありません」
俺は言った。
「うん」
「ただ、まだ自分でも距離が分からない時があります」
「わた兄との?」
「航との」
「お」
美咲が反応した。
「今、航って言った」
「言います」
「うん。いいね」
何がいいのか分からない。
でも、悪くない気がした。
*
学祭の最後に、美咲は俺を体育館へ連れて行った。
軽音部の演奏が始まるところだった。
体育館の中は熱気でいっぱいだった。
ステージ。
アンプ。
マイク。
ドラム。
ギター。
少し音が割れている。
生徒が床に座り、後ろでは保護者や卒業生らしき人たちが立っている。
美咲は後ろの壁際に立った。
「ここならうるさいから、仕事の話できないでしょ」
「そのためですか」
「うん」
強い。
完全に対策されている。
紙を広げにくい店。
仕事の話ができない体育館。
俺は、周囲から少しずつ仕事を奪われている。
それが、思ったより悪くない。
演奏が始まった。
うるさい。
若い。
下手なところもある。
だが、熱がある。
ステージの上の生徒たちは、今この瞬間、自分たちが世界の中心だと思っているように見えた。
それでいい。
高校の学祭で、それくらい思っていい。
美咲が横で手拍子をしている。
俺も少し遅れて手を叩いた。
仕事の顔ではない。
たぶん。
少なくとも、社長室の顔ではない。
演奏の合間に、美咲が叫ぶように言った。
「さっちゃん!」
「はい!」
「今日、来てくれてありがと!」
音が大きいから、声も大きい。
「こちらこそ、誘ってくれてありがとうございます!」
「また来年も来る?」
来年。
平成十四年。
俺は、その言葉に少し詰まった。
来年、俺はここにいるのか。
篠宮怜子はどうなっているのか。
航とはどうなっているのか。
美咲は高校三年生になっている。
受験。
進路。
兄。
俺。
私。
紙の帝国。
未来。
分からない。
何も分からない。
だが。
「呼ばれたら、来ます!」
俺は答えた。
美咲は笑った。
「じゃあ呼ぶ!」
その笑顔は、音の中でもはっきり見えた。
*
夕方。
校門を出る頃には、空が少し赤くなっていた。
秋の夕方。
学祭帰りの生徒たち。
保護者。
紙袋。
残った焼きそばの匂い。
片付け始めた看板。
祭りの終わり。
美咲は校門のところで俺に小さな紙袋を渡した。
「これ、わた兄に」
「何ですか」
「うちのクラスの残り。焼きそばと、喫茶のクッキー」
「航に?」
「うん。仕事で来られなかったから」
「渡します」
「あと、これはさっちゃんに」
別の小さな袋。
中には、手作りのしおりが入っていた。
文化祭のロゴ入り。
色画用紙とラミネート。
不器用だが、丁寧。
「本読むでしょ」
「読みます」
「仕事じゃなくても」
「……はい」
美咲は少し笑った。
「使って」
胸の奥が、変な形に温かくなった。
「ありがとうございます」
「かたい」
「ありがとう」
「うん」
美咲は満足そうに頷いた。
「わた兄に、さっちゃん仕事の顔あんまりしてなかったって言っとく」
「あんまり」
「ちょっとはしてた」
「申し訳ありません」
「でも、良い顔もしてた」
また言われた。
良い顔。
俺はその言葉を、まだうまく扱えない。
「美咲さん」
「何?」
「今日は、楽しかったです」
美咲は少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑った。
「うん。私も」
*
夜。
部屋に帰ると、航が来ていた。
合鍵。
青い歯ブラシ。
玄関のスニーカー。
もう驚かない。
いや、少し驚く。
だが、以前ほどではない。
「おかえり」
航が言った。
その言葉に、俺は少しだけ立ち止まった。
「ただいま」
言えた。
自然に。
たぶん。
航の顔が少し緩む。
「美咲、どうだった?」
「手 強かったです」
「それはそう」
「義妹予定者様でした」
「本人言った?」
「言いました」
「ごめん」
「漏らしましたね」
「ちょっと」
ちょっとではない。
だが、怒る気にはなれなかった。
俺は紙袋を渡した。
「美咲さんからです」
「お、焼きそば?」
「はい。あとクッキー」
「ありがたい」
航は中を見て、笑った。
その笑顔が、美咲と似ている。
今日は、そのことが少し嬉しかった。
「さっちゃんは?」
「私は、しおりをもらいました」
「見せて」
俺はしおりを見せた。
航はそれを見て、少しだけ目を細めた。
「美咲、こういうの渡すんだ」
「珍しいのですか」
「うん。気に入られてると思う」
気に入られている。
義妹予定者様に。
それは、少し重い。
だが、悪くない。
「航」
「うん」
「今日、美咲さんに聞かれました」
「何を」
「あなたと結婚する気があるのか、と」
航が固まった。
完全に固まった。
見事だった。
「……美咲」
「返答に困りました」
「ごめん」
「謝らなくていいです」
「いや、これは謝る」
「すぐには答えられないと言いました」
「うん」
「考えてはいる、とも」
航の顔が変わった。
ほんの少し。
だが、分かる。
「そっか」
「はい」
「ありがとう」
「ありがとう?」
「ちゃんと考えてるって言ってくれて」
俺は何も言えなくなった。
航は、それ以上踏み込まなかった。
この男は、いつもそうだ。
必要以上に近づかない。
でも、離れない。
待つ。
それが救いで、重い。
「航」
「うん」
「クリスマス」
「うん」
「楽しみにしています」
今度は、自分で言った。
仕事の返事ではなく。
少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
航は一瞬黙り、それから笑った。
「うん。俺も」
*
夜。
俺はメモ帳を開いた。
今日は業務メモではない。
私的記録。
たぶん。
義妹予定者様とのサシメシ。
学祭の焼きそばは、少し焦げていて正しい。
古本市でまるマ発見。
女子高生の「面白いのにね」は、社長報告には載らない入口。
次。
美咲さんに、航との結婚意思を問われる。
即答できず。
考えてはいる、と答える。
逃げきれず。
さらに。
ケーキはケーキとして食べた。
人間ではない。
航は甘いものが好きらしい。
クリスマス、ケーキ没収回避必須。
最後に、しおりを見た。
色画用紙。
ラミネート。
少し曲がった角。
手作りの文字。
そこに書かれている学祭のロゴ。
俺は、そのしおりをメモ帳に挟んだ。
本を読む道具。
仕事ではなくても、本を読む道具。
今日の俺は、社長室秘書ではなかった。
編集者でもない。
営業でもない。
転売厨でも、たぶん少しだけなかった。
航の恋人で。
美咲の兄の恋人で。
義妹予定者様に焼きそばを奢られたようで奢らされて。
学祭でケーキを食べて。
軽音部の音の中で、来年も呼ばれたら来ると言った。
それだけの日だった。
だが、それだけの日を持てることが、今の俺には少し眩しい。
紙の帝国では、読者を入口へ戻すために紙を整える。
だが、俺自身にも、戻る場所が必要なのかもしれない。
社長室ではない。
机でもない。
初動七日表でもない。
航のいる部屋。
美咲のいる学祭。
焼きそばの匂い。
仕事の顔ではないと言われる場所。
そこに、俺と私の縫い目がまた一つ増えた。
平成十三年十月。
義妹予定者様とのサシメシは、学祭で行われた。
議題は焼きそば。
議題はケーキ。
議題は兄。
議題は結婚。
そして、たぶん。
俺がこの世界で、少しずつ生活を持ち始めているという、非常に厄介な事実だった。




