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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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25/33

第二十五話 義妹予定者様とのサシメシは学祭で

 十月十三日。


 土曜日。


 俺は、女子高の校門前に立っていた。


 違う。


 正確には、共学の高校の校門前だ。


 だが、目に入る制服の密度と、模擬店の呼び込みの声と、甘い匂いと、校舎の窓に貼られた色紙のせいで、俺の脳は勝手に女子高判定を出していた。


 文化祭。


 いや、この学校では学祭と呼ぶらしい。


 正門には手作りのアーチ。


 色画用紙の花。


 段ボールの看板。


 クラス企画の一覧。


 焼きそば。


 たこ焼き。


 喫茶。


 お化け屋敷。


 演劇。


 軽音。


 占い。


 古本市。


 謎の展示。


 そして、やたら元気な高校生。


 平成十三年の高校生は、情報量が多い。


 いや、令和の高校生も多いのだろうが、二〇〇一年の高校生には二〇〇一年の眩しさがある。


 携帯ストラップ。


 プリクラ帳。


 ルーズソックス。


 スクールバッグの落書き。


 ピッチだか携帯だか分からない小さな端末。


 MDウォークマン。


 手書きのポスター。


 ポスカの文字。


 そして、そこらじゅうから漂うソースの匂い。


 焼きそば。


 また焼きそばである。


 俺と焼きそばの縁は、最近少し強すぎる。


 夏祭りの焼きそばソース。


 航の指。


 唇の端。


 下がらなかった自分。


 思い出すな。


 ここは高校の校門前だ。


 思い出す場所ではない。


 俺は社長室秘書である。


 今日は業務ではない。


 私用である。


 義妹予定者様から招待された学祭である。


 義妹予定者様。


 桐生美咲。


 航の妹。


 高校二年生。


 まるマを読み、千尋を語り、九月十一日の夜には「さっちゃんも起きてるならちょっと安心」とメールを寄越した女子高生。


 そして、俺にとっては非常に厄介な存在である。


 なぜなら彼女は、航の妹だからだ。


 航の妹ということは、篠宮怜子がこのまま航と関係を続ければ、将来的には義妹になる可能性がある。


 予定は未定。


 だが、可能性はある。


 つまり、義妹予定者様。


 敬称をつけたくなる圧がある。


 その義妹予定者様から、昨日メールが来た。



 土曜、学祭です。

 わた兄は仕事で無理っぽいので、さっちゃん来ませんか。

 焼きそば奢ります。

 仕事の顔したら追加料金です。 美咲



 何だ、追加料金とは。


 だが、断れなかった。


 航からもすぐメールが来た。



 美咲、本気で誘ってるよ。

 無理しなくていいけど、行けたら行ってあげて。

 俺は午後まで仕事。

 さっちゃん、学祭で仕事の観測しないように。航



 観測しないように。


 無理である。


 高校の学祭など、読者の生活導線の塊ではないか。


 模擬店。


 友人関係。


 部活。


 クラスの空気。


 携帯メール。


 プリクラ。


 漫画回し読み。


 文庫の貸し借り。


 学祭帰りの書店。


 全部がつながる。


 だが、今日は業務外だ。


 仕事の顔をしてはいけない。


 ケーキ没収ならぬ焼きそば追加料金を取られる。


 俺は校門前で深呼吸した。


 そこへ、声が飛んできた。


「さっちゃーん!」


 校門の向こうから、美咲が手を振っていた。


 制服。


 エプロン。


 髪を少しだけ結んでいる。


 首からクラス企画の手書き札。


 明るい。


 眩しい。


 若い。


 物理的に若い。


 俺は思わず姿勢を正した。


「こんにちは」


「かたい!」


 初手で刺された。


 美咲は駆け寄ってきて、俺を上から下まで見る。


「うわ、ちゃんと来た」


「招待されましたので」


「招待って言うとかたい。学祭だよ?」


「学祭に来ました」


「うん。よし」


 何がよしなのか分からない。


 美咲は俺の腕を見て、少しだけ目を細めた。


「今日、仕事の鞄じゃない」


「はい」


「偉い」


「ありがとうございます」


「わた兄に報告しとく」


「なぜ」


「監督」


 監督者が増えている。


 航。


 小早川。


 美咲。


 社長。


 三浦。


 佐伯。


 俺はいつから被監督対象になったのか。


 たぶん、倒れてからだ。


「あ。今日は私とサシメシね。わた兄いないし」


「サシメシ」


「二人でご飯って意味」


「意味は分かります」


「さっちゃん、言い方が大人」


「大人ですので」


「そういうところ」


 美咲は笑った。


 その笑顔は航に少し似ていた。


 目元が似ている。


 笑う時に、少しだけ相手を見てから崩れるところも似ている。


 兄妹だ。


 当たり前だが、兄妹である。


 俺は、それだけで少し緊張した。


     *


 校内は、熱かった。


 物理的にも、精神的にも。


 廊下には装飾があり、教室ごとに企画の看板が出ている。


 模擬店の匂い。


 呼び込み。


 笑い声。


 スピーカーから流れる軽音部の音。


 どこかの教室から聞こえる劇の台詞。


 階段に座る生徒。


 廊下で写真を撮る女子。


 手帳にプリクラを貼っている女子。


 携帯でメールを打つ男子。


 二〇〇一年の高校は、紙と携帯の境目にいた。


 貼り紙は手書き。


 連絡はメール。


 写真はプリクラ。


 宣伝は声。


 情報の流れが、まだ人の口と紙に近い。


 だが、もう画面も入り込んでいる。


 俺は思わず廊下の掲示物を見た。


 手作りのクラス案内。


 色ペン。


 目立つ文字。


 短い煽り。


 説明不足な企画。


 妙に上手いイラスト。


 ここにも、棚前の一秒がある。


 通りすがりの生徒や来客に、これは自分が入る教室かどうか判断させる一秒。


 書店と同じだ。


 いや、違う。


 業務外だ。


 今日は業務外。


「さっちゃん」


 美咲が言った。


「はい」


「今、仕事の顔した」


「していません」


「した」


「観測ではなく、見学です」


「言い訳が仕事」


 鋭い。


 女子高生、怖い。


「罰として、まずうちのクラスの焼きそば買って」


「追加料金ですか」


「うん。仕事の顔料金」


「徴収されるのですね」


「もちろん。言ったっしょ?」


 美咲は当然の顔で言った。


 俺は財布を出した。


 焼きそば二パック。


 紙皿ではなく、透明なパック。


 輪ゴム。


 紅しょうが。


 青のり。


 割り箸。


 高校生が作る焼きそば特有の、少し油が強い匂い。


 美咲は中庭の端にあるベンチへ俺を案内した。


 人通りが少し落ち着く場所。


 校舎と校庭の境目。


 文化祭の騒がしさが遠すぎず近すぎず聞こえる。


「ここ、穴場」


「詳しいですね」


「在校生だから」


「当然でした」


 俺たちは並んで座った。


 サシメシ。


 義妹予定者様とのサシメシである。


 非常に緊張する。


 仕事の会議より緊張するかもしれない。


 なぜなら、会議なら紙がある。


 社長がいる。


 議題がある。


 だが、ここには焼きそばしかない。


 焼きそばは議題にならない。


 いや、なり得る。


 やめろ。


 何でも仕事にするな。


「いただきます」


 美咲が言った。


「いただきます」


 焼きそばを食べる。


 少し濃い。


 少し焦げている。


 キャベツが大きい。


 麺が一部固まっている。


 だが、悪くない。


 高校の学祭の焼きそばとしては、かなり正しい。


「どう?」


「おいしいです」


「ほんと?」


「はい」


「仕事の評価じゃなくて?」


「純粋な食事評価です」


「言い方」


 美咲が笑った。


 その笑い方が、また航に似ていた。


「お兄ちゃんから聞いたけど、クリスマス、店決めてるんだって?」


 聞き馴れない呼び方とクリスマスの言葉。

 焼きそばが喉に詰まりかける。


 危ない。


「⋯⋯聞いているのですか」


「聞いてるよ。私も行くかもって言ったし」


「本当に来るのですか」


「分かんない。邪魔なら行かない」


「邪魔ではありません」


「即答じゃないんだ」


「邪魔ではありません」


「二回言った」


 言わされた気がする。


 美咲は焼きそばを食べながら、俺を見る。


「でも、兄と二人の方がいい?」


「それは」


 困る。


 非常に困る。


 航と二人。


 クリスマス。


 紙を広げにくい店。


 ケーキ。


 仕事の顔禁止。


 想像すると、顔が熱くなる。


 ここは高校の中庭である。


 義妹予定者様の前で顔を熱くするな。


「美咲さんの都合で決めてください」


「逃げた」


「逃げていません」


「逃げた顔」


「顔で読まないでください」


「兄が読めるから、私も少し読める」


 兄妹、怖い。


     *


 焼きそばを半分ほど食べたところで、美咲が急に言った。


「さっちゃんって、わた兄と結婚する気あるの?」


 世界が止まった。


 いや、止まっていない。


 軽音部の音は続いている。


 中庭では高校生が笑っている。


 焼きそばは温かい。


 だが、俺の中だけが止まった。


「……はい?」


「いや、クリスマスとか、そういう話になってるし」


「クリスマスと結婚は、距離があります」


「まあね」


 美咲はあっさり頷いた。


「でも、気になるじゃん」


 気になる。


 それはそうだろう。


 兄の恋人。


 年上。


 社長室秘書。


 過労で倒れる。


 最近様子が少し変。


 自分にも優しい。


 でも、兄との関係がどこへ向かうのかは分からない。


 妹としては、気になるに決まっている。


 俺は箸を止めた。


 篠宮怜子なら、どう答えるのか。


 昔の彼女なら。


 九月十三日と十四日に現れた“私”なら。


 航さん、と呼んだ彼女なら。


 分からない。


 俺は、未来の男だった。


 転売厨だった。


 結婚とは縁遠い生活をしていた。


 誰かと生活を作ることを避けてきた。


 それなのに今、篠宮怜子の身体で、航の妹から結婚の意思を聞かれている。


 状況が複雑すぎる。


「すぐには、答えられません」


 俺は正直に言った。


「うん」


 美咲は怒らなかった。


「でも、考えてはいる?」


 考えている。


 考えていないはずがない。


 青い歯ブラシ。


 合鍵。


 お泊り。


 ゼクシィ。


 クリスマス。


 航の手。


 美咲のメール。


 篠宮怜子の記憶。


 俺の記憶の穴。


 同じ身体。


 全部が絡んでいる。


「考えています」


 俺は言った。


「ただ、私だけで決めていい話ではありません」


「わた兄もいるから?」


「はい」


「さっちゃん自身も、まだ分かんないから?」


 刺さった。


 女子高生のくせに、刺し方が鋭い。


 いや、高校生だから鈍いわけではない。


 読者も同じだ。


 若いから分かっていない、などと決めつけるのは地雷である。


「はい」


 俺は頷いた。


「まだ、自分のことも分からないところがあります」


 美咲はしばらく焼きそばを見ていた。


 それから、小さく言った。


「同時多発テロのあと?」


 あの夜。


 テレビ。


 航の手。


 美咲のメール。


 倒れた翌日。


 記憶の穴。


「それもあります」


「そっか」


 美咲は、それ以上深掘りしなかった。


 ありがたかった。


 そして、少し申し訳なかった。


「わた兄、さっちゃんのこと大事にしてるよ」


「はい」


「でも、わた兄って、けっこう無理するから」


「はい」


「さっちゃんもさ、甘えていいけど、わた兄が潰れるまで甘えちゃ駄目だよ」


 痛い。


 かなり痛い。


 それは、義妹予定者様の言葉だった。


 妹としての言葉。


 航を見てきた人間の言葉。


「はい」


 俺は素直に頷いた。


「肝に銘じます」


「かたい」


「大事なことですので」


「うん」


 美咲は少しだけ笑った。


「じゃあ、わた兄に甘えすぎないために、私もたまに監視する」


「監視者が増えました」


「義妹予定者様だから」


 俺は固まった。


「その呼び方」


「って、わた兄が言ってた」


「⋯⋯⋯⋯」


 あの男。


 何を妹に漏らしている。


 美咲はけらけら笑った。


「さっちゃん、顔!」


「どんな顔ですか」


「仕事じゃない顔」


「……そうですか」


「うん。良い顔」


 小早川にも言われた。


 美咲にも言われた。


 良い顔とは、何だろう。


 少なくとも、社長室で紙を睨んでいる顔ではないらしい。


     *


 食後、美咲は校内を案内してくれた。


 お化け屋敷。


 入らなかった。


 理由は、仕事の顔が出るからではない。


 普通に怖いからだ。


 いや、違う。


 作り物の暗闇で女子高生に悲鳴を聞かれるのが嫌だった。


「さっちゃん、お化け屋敷苦手?」


「判断を保留します」


「苦手なんだ」


「保留です」


「じゃあやめとこ」


 美咲は軽く流した。


 次に、古本市。


 これは危険だった。


 非常に危険。


 教室の机に、文庫、漫画、雑誌、参考書が並んでいる。


 値札は手書き。


 五十円。


 百円。


 二百円。


 古い少女漫画。


 ティーンズ文庫。


 ライトノベル。


 雑誌の付録。


 同人誌ではないが、手作り冊子もある。


 俺の中の転売厨が、一瞬だけ目を覚ました。


 相場。


 希少性。


 状態。


 帯。


 初版。


 やめろ。


 ここは高校の古本市だ。


 仕入れ場所ではない。


 断じて違う。


「さっちゃん」


 美咲が言った。


「はい」


「今、めっちゃ怖い顔した」


「していません」


「した。獲物を探す顔」


「人聞きが悪い」


「何見てたの?」


「本の状態を」


「仕事?」


「違います」


「じゃあ趣味?」


 趣味。


 転売は趣味ではない。


 だが、ここで説明するものではない。


「昔の癖です」


「ふうん」


 美咲は机の上から一冊を取った。


 今日から(マ)のつく自由業!


 俺は固まった。


「これ、誰かもう出してる」


「早いですね」


「たぶんダブったんじゃない? 友達に貸す用とかで」


 美咲は本をめくる。


「私の周りでも読んでる子いるよ」


「そうですか」


「うん。タイトルで笑う。あと、説明がしやすい」


「水洗トイレから異世界へ」


「それそれ」


 美咲は笑った。


「でも、男子に言うと変な顔される」


「女性向けの棚にありますから」


「でも、面白いのにね」


 その一言が、胸に残った。


 面白いのにね。


 読者は、棚の分類より先にそう言う。


 面白い。


 友達に貸す。


 男子に言うと変な顔される。


 でも面白い。


 これも入口だ。


 社長室の紙には載りにくい入口。


 高校の学祭の古本市で、女子高生が言う入口。


 仕事の顔をするな。


 だが、記憶には残す。


 メモ帳には書かない。


 今日は書かない。


「美咲さん」


「何?」


「それ、買いますか」


「持ってるからいい」


「そうですか」


「さっちゃん、買う?」


「いえ」


「仕事の資料にしようとした?」


「していません」


「嘘」


 読まれている。


 完全に読まれている。


     *


 次は喫茶企画だった。


 教室を暗くして、布をかけた机。


 紙コップの紅茶。


 ホットケーキらしきもの。


 メイド喫茶ではない。


 この時代にもある場所にはあるかもしれないが、ここは普通の高校の喫茶企画である。


 ただし、制服の上にエプロン。


 これはこれで強い。


 美咲は慣れた様子で席を取った。


「ここ、友達のクラス」


「なるほど」


「さっちゃん、ケーキ食べる?」


 クリスマスケーキ。


 独身女。


 広告ラフ。


 人をケーキにするな。


 ケーキはケーキとして食べる。


 それが頭をよぎった。


「食べます」


「即答」


「ケーキはケーキとして食べるべきです」


「何それ」


「仕事で得た教訓です」


「仕事の顔?」


「少し」


「追加料金」


「まだですか」


 美咲は笑い、ショートケーキを二つ頼んだ。


 高校の喫茶企画のケーキ。


 スポンジは市販。


 クリームは少し粗い。


 苺は小さい。


 でも、ちゃんとケーキだった。


 俺はフォークで一口食べた。


 甘い。


 普通に甘い。


 ケーキはケーキだ。


 人間ではない。


「わた兄、ああ見えてケーキ好きだよ」


 美咲が言った。


「そうなのですか」


「うん。甘いものけっこう食べる。でも、かっこつけてそんなに好きじゃないふりする」


「そうなのですか」


「クリスマス、ケーキ没収って言ってたでしょ」


「はい」


「たぶん、自分も食べたいだけ」


 航。


 お前。


 俺は少し笑ってしまった。


「あ、わた兄には言わないでね」


「言いません」


「言ったら、照れるはずだし」


「見たい気もします」


「見たいんだ」


 しまった。


 美咲がにやにやしている。


 義妹予定者様、強い。


「さっちゃん、わた兄のこと好き?」


 また来た。


 急に来る。


 女子高生の会話は急に核心へ来る。


 俺はフォークを止めた。


「……好き、だと思います」


「思います?」


「はい」


「まだ断定じゃないんだ」


「難しいです」


「中学生みたい」


「申し訳ありません」


「謝ることじゃないよ」


 美咲はケーキを食べながら言った。


「でも、わた兄の前でもそれくらい言ってあげたら喜ぶと思う」


「言えますかね」


「知らない」


「無責任ですね」


「うん。義妹予定者様だから」


 便利な立場である。


「わた兄、さっちゃんに甘いけど、けっこう不安がってるよ」


「はい」


「さっちゃん、急に遠くなる時あるから」


 九月十三日と十四日。


 俺の知らない二日間。


 昔の篠宮怜子に近かったと社長は言った。


 航は、俺に「さっちゃんが二人いるなら、二人とも寝て」と言った。


 美咲も、たぶん気づいている。


 兄から聞いたのか。


 メールで見たのか。


 直接感じたのか。


 分からない。


「遠くなるつもりはありません」


 俺は言った。


「うん」


「ただ、まだ自分でも距離が分からない時があります」


「わた兄との?」


「航との」


「お」


 美咲が反応した。


「今、航って言った」


「言います」


「うん。いいね」


 何がいいのか分からない。


 でも、悪くない気がした。


     *


 学祭の最後に、美咲は俺を体育館へ連れて行った。


 軽音部の演奏が始まるところだった。


 体育館の中は熱気でいっぱいだった。


 ステージ。


 アンプ。


 マイク。


 ドラム。


 ギター。


 少し音が割れている。


 生徒が床に座り、後ろでは保護者や卒業生らしき人たちが立っている。


 美咲は後ろの壁際に立った。


「ここならうるさいから、仕事の話できないでしょ」


「そのためですか」


「うん」


 強い。


 完全に対策されている。


 紙を広げにくい店。


 仕事の話ができない体育館。


 俺は、周囲から少しずつ仕事を奪われている。


 それが、思ったより悪くない。


 演奏が始まった。


 うるさい。


 若い。


 下手なところもある。


 だが、熱がある。


 ステージの上の生徒たちは、今この瞬間、自分たちが世界の中心だと思っているように見えた。


 それでいい。


 高校の学祭で、それくらい思っていい。


 美咲が横で手拍子をしている。


 俺も少し遅れて手を叩いた。


 仕事の顔ではない。


 たぶん。


 少なくとも、社長室の顔ではない。


 演奏の合間に、美咲が叫ぶように言った。


「さっちゃん!」


「はい!」


「今日、来てくれてありがと!」


 音が大きいから、声も大きい。


「こちらこそ、誘ってくれてありがとうございます!」


「また来年も来る?」


 来年。


 平成十四年。


 俺は、その言葉に少し詰まった。


 来年、俺はここにいるのか。


 篠宮怜子はどうなっているのか。


 航とはどうなっているのか。


 美咲は高校三年生になっている。


 受験。


 進路。


 兄。


 俺。


 私。


 紙の帝国。


 未来。


 分からない。


 何も分からない。


 だが。


「呼ばれたら、来ます!」


 俺は答えた。


 美咲は笑った。


「じゃあ呼ぶ!」


 その笑顔は、音の中でもはっきり見えた。


     *


 夕方。


 校門を出る頃には、空が少し赤くなっていた。


 秋の夕方。


 学祭帰りの生徒たち。


 保護者。


 紙袋。


 残った焼きそばの匂い。


 片付け始めた看板。


 祭りの終わり。


 美咲は校門のところで俺に小さな紙袋を渡した。


「これ、わた兄に」


「何ですか」


「うちのクラスの残り。焼きそばと、喫茶のクッキー」


「航に?」


「うん。仕事で来られなかったから」


「渡します」


「あと、これはさっちゃんに」


 別の小さな袋。


 中には、手作りのしおりが入っていた。


 文化祭のロゴ入り。


 色画用紙とラミネート。


 不器用だが、丁寧。


「本読むでしょ」


「読みます」


「仕事じゃなくても」


「……はい」


 美咲は少し笑った。


「使って」


 胸の奥が、変な形に温かくなった。


「ありがとうございます」


「かたい」


「ありがとう」


「うん」


 美咲は満足そうに頷いた。


「わた兄に、さっちゃん仕事の顔あんまりしてなかったって言っとく」


「あんまり」


「ちょっとはしてた」


「申し訳ありません」


「でも、良い顔もしてた」


 また言われた。


 良い顔。


 俺はその言葉を、まだうまく扱えない。


「美咲さん」


「何?」


「今日は、楽しかったです」


 美咲は少しだけ目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「うん。私も」


     *


 夜。


 部屋に帰ると、航が来ていた。


 合鍵。


 青い歯ブラシ。


 玄関のスニーカー。


 もう驚かない。


 いや、少し驚く。


 だが、以前ほどではない。


「おかえり」


 航が言った。


 その言葉に、俺は少しだけ立ち止まった。


「ただいま」


 言えた。


 自然に。


 たぶん。


 航の顔が少し緩む。


「美咲、どうだった?」


「手 強かったです」


「それはそう」


「義妹予定者様でした」


「本人言った?」


「言いました」


「ごめん」


「漏らしましたね」


「ちょっと」


 ちょっとではない。


 だが、怒る気にはなれなかった。


 俺は紙袋を渡した。


「美咲さんからです」


「お、焼きそば?」


「はい。あとクッキー」


「ありがたい」


 航は中を見て、笑った。


 その笑顔が、美咲と似ている。


 今日は、そのことが少し嬉しかった。


「さっちゃんは?」


「私は、しおりをもらいました」


「見せて」


 俺はしおりを見せた。


 航はそれを見て、少しだけ目を細めた。


「美咲、こういうの渡すんだ」


「珍しいのですか」


「うん。気に入られてると思う」


 気に入られている。


 義妹予定者様に。


 それは、少し重い。


 だが、悪くない。


「航」


「うん」


「今日、美咲さんに聞かれました」


「何を」


「あなたと結婚する気があるのか、と」


 航が固まった。


 完全に固まった。


 見事だった。


「……美咲」


「返答に困りました」


「ごめん」


「謝らなくていいです」


「いや、これは謝る」


「すぐには答えられないと言いました」


「うん」


「考えてはいる、とも」


 航の顔が変わった。


 ほんの少し。


 だが、分かる。


「そっか」


「はい」


「ありがとう」


「ありがとう?」


「ちゃんと考えてるって言ってくれて」


 俺は何も言えなくなった。


 航は、それ以上踏み込まなかった。


 この男は、いつもそうだ。


 必要以上に近づかない。


 でも、離れない。


 待つ。


 それが救いで、重い。


「航」


「うん」


「クリスマス」


「うん」


「楽しみにしています」


 今度は、自分で言った。


 仕事の返事ではなく。


 少しだけ、声が柔らかくなった気がした。


 航は一瞬黙り、それから笑った。


「うん。俺も」


     *


 夜。


 俺はメモ帳を開いた。


 今日は業務メモではない。


 私的記録。


 たぶん。


 義妹予定者様とのサシメシ。

 学祭の焼きそばは、少し焦げていて正しい。

 古本市でまるマ発見。

 女子高生の「面白いのにね」は、社長報告には載らない入口。


 次。


 美咲さんに、航との結婚意思を問われる。

 即答できず。

 考えてはいる、と答える。

 逃げきれず。


 さらに。


 ケーキはケーキとして食べた。

 人間ではない。

 航は甘いものが好きらしい。

 クリスマス、ケーキ没収回避必須。


 最後に、しおりを見た。


 色画用紙。


 ラミネート。


 少し曲がった角。


 手作りの文字。


 そこに書かれている学祭のロゴ。


 俺は、そのしおりをメモ帳に挟んだ。


 本を読む道具。


 仕事ではなくても、本を読む道具。


 今日の俺は、社長室秘書ではなかった。


 編集者でもない。


 営業でもない。


 転売厨でも、たぶん少しだけなかった。


 航の恋人で。


 美咲の兄の恋人で。


 義妹予定者様に焼きそばを奢られたようで奢らされて。


 学祭でケーキを食べて。


 軽音部の音の中で、来年も呼ばれたら来ると言った。


 それだけの日だった。


 だが、それだけの日を持てることが、今の俺には少し眩しい。


 紙の帝国では、読者を入口へ戻すために紙を整える。


 だが、俺自身にも、戻る場所が必要なのかもしれない。


 社長室ではない。


 机でもない。


 初動七日表でもない。


 航のいる部屋。


 美咲のいる学祭。


 焼きそばの匂い。


 仕事の顔ではないと言われる場所。


 そこに、俺と私の縫い目がまた一つ増えた。


 平成十三年十月。


 義妹予定者様とのサシメシは、学祭で行われた。


 議題は焼きそば。


 議題はケーキ。


 議題は兄。


 議題は結婚。


 そして、たぶん。


 俺がこの世界で、少しずつ生活を持ち始めているという、非常に厄介な事実だった。

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