第二十三話 棚前の一秒と、創刊の初七日目
十月八日。
月曜日。
角川ビーンズ文庫が創刊してから、七日が過ぎた。
つまり。
初動七日表の七日目である。
営業の一部では、相変わらず初七日と呼ばれている。
認めていない。
断じて認めていない。
だが、七日目の朝にその略称を聞くと、さすがに少しだけ負けた気がする。
縁起が悪い。
縁起が悪すぎる。
しかし、妙に本質を突いている。
発売から七日。
作品を死んだことにするには早すぎる。
だが、生きているかを見るには遅すぎない。
初七日。
いや。
初動七日表。
正式名称で呼べ。
俺は社長室の机に、創刊七日目の集計紙を置いた。
紙は一枚。
表裏一枚。
これ以上増やすと、小早川に怒られる。
三浦にも削られる。
航にもメールで詰められる。
美咲にも怒られる。
俺の監視網は、もはや社内外を問わない。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「今日は、初七日か」
「初動七日表の七日目です」
「長いな」
「正式名称です」
「現場では?」
「認めません」
社長は少し笑った。
「頑固だな」
「はい」
「で、どうだ」
社長の声が、少しだけ仕事の温度になった。
俺は紙を一枚、机の中央へ滑らせた。
「創刊七日目の社長報告用です。営業局、書店営業、編集部、宣伝、制作からの既存資料を一枚に整理しました」
「君の判断は」
「最小限にしています」
「本当か」
「はい」
「見よう」
社長が紙を手に取る。
俺は、背筋を伸ばした。
今回は、俺が創刊を動かしたわけではない。
俺が売ったわけでもない。
俺が棚を作ったわけでもない。
俺が読者に手渡したわけでもない。
営業が動いた。
書店が置いた。
編集が言葉を整えた。
宣伝が弱すぎず強すぎないコピーを残した。
制作が日付を守った。
取次が流した。
社長室は、その結果を社長の机に置いた。
それが今日の俺の仕事だ。
越境しない。
全部背負わない。
紙を整える。
秘書として。
そう思っていた。
思っていたのだが。
「篠宮さん」
三浦が社長室へ入ってきた。
顔が悪い。
かなり悪い。
「はい」
「横浜の店、追記が来ました」
「追記」
「まるマです」
俺の手が止まった。
「一巻ですか」
「はい」
三浦は紙を差し出した。
そこには、大町の字で短く書かれていた。
二巻から手に取る客あり。
一巻併売で戻り防止。
友人同士で一巻二巻を分けて購入。
貸し借り発生見込み。
貸し借り。
その言葉に、胸の奥が少し動いた。
売上にはならない。
少なくとも、直接は。
だが、読者の間で作品が動く。
一冊が、別の手へ渡る。
航の妹、美咲がまるマを友達に貸した時と同じだ。
数字の前に、声がある。
売上の前に、貸し借りがある。
ランキングの前に、「これ面白かったよ」がある。
「篠宮さん」
三浦が俺の顔を見た。
「泣きます?」
「泣きません」
「顔が」
「通常運転です」
「禁止では?」
「解除申請中です」
「誰に?」
「小早川さんに」
「却下されそうですね」
されるだろう。
確実に。
俺は紙を受け取り、社長報告用の裏面に追記した。
貸し借り発生見込み。
ただし、直接売上には未反映。
それを書いて、少し手が止まった。
直接売上には未反映。
この一文が大事だった。
売上には現れない熱がある。
だが、売上に現れないからといって、それを売れていると誤認してもいけない。
熱は熱。
売上は売上。
どちらも見る。
混ぜない。
初動七日表は、そのための紙でもある。
*
午前十時。
小さな確認会が開かれた。
小さな、と言っても、顔ぶれは重い。
社長。
久我営業局長。
榊原取次担当。
大町書店営業課長。
三浦。
佐伯。
真鍋。
岸本。
川辺。
小早川。
そして俺。
会議室の机には、初動七日表の創刊版。
表裏一枚。
その上に、赤ペン、鉛筆、付箋、電話メモが重なっている。
綺麗な紙ではない。
むしろ、かなり汚い。
だが、汚れた紙は使われた紙だ。
会議室で作られただけの綺麗な紙より、ずっと信用できる。
「では」
社長が言った。
「創刊七日目の確認だ。久我」
久我営業局長が腕を組んだ。
「まず、全体としては悪くない」
その一言で、少し空気が動いた。
悪くない。
営業局長の悪くないは、かなり重い。
褒めている。
たぶん。
いや、判断を保留する。
「ただし、飛び抜けた初動ではない」
久我は続ける。
「創刊だからといって、棚が勝手に動くわけではない。書店によって温度差がある。説明が入った店は動く。置いただけの店は埋もれる」
正しい。
かなり正しい。
レーベルは約束だ。
だが、約束は読者に届かなければ存在しない。
「まるマは?」
社長が聞いた。
大町が資料を開く。
「一巻二巻の併売ができた店では、反応が出ています。特に横浜と池袋。タイトルで止まり、説明で笑い、一巻を探す流れがあります」
「説明で笑う」
社長が繰り返す。
「はい。“水洗トイレから異世界へ”は強いです」
会議室が少しだけ静かになった。
真顔で言うには強すぎる言葉である。
しかし、現場では効く。
佐伯が静かに言った。
「公式では使いません」
「分かっている」
大町が頷く。
「棚の言葉です」
棚の言葉。
公式が背負う言葉。
広告が打つ言葉。
読者が友達に言う言葉。
全部同じではない。
それを分ける。
九月十一日以降、俺たちは嫌というほど知った。
言葉は、出る場所と時期で意味が変わる。
「アンジェリークは」
岸本が資料を見る。
「既存ファン導線があります。ゲーム由来の読者が手に取る。ただ、新規読者には説明が必要」
「ローゼンクロイツは」
佐伯が答える。
「表紙で止まります。歴史幻想、騎士、ロマンの入口があります。ただし、前編であることをきちんと伝える必要があります」
「カーマイン・レッド」
三浦が言った。
「説明が必要です。棚前で足は止まるが、何の話か伝わりにくい。書店員さんから、一言欲しいと」
佐伯が赤ペンを構える。
「作ります」
「相変らずの救世主は」
「タイトル反応はあります。ただし、レーベル内での位置づけがまだ弱い」
真鍋が言う。
「全部を同じ熱で押すと、棚がぼやけます」
久我が頷いた。
「創刊棚だからといって、全部平等に強く見せると、逆に何も立たない」
全員が正しい。
そして、全員が少しずつ違う方向を見ている。
営業は棚。
編集は作品。
宣伝は言葉。
制作は次の動き。
取次は流れ。
社長は全体。
秘書である俺は、その違いを一枚にする。
全部を混ぜるのではない。
違いがあることを、社長の机に置く。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「まとめろ」
来た。
俺は紙を見た。
数字。
所感。
メモ。
赤字。
付箋。
そして、各部署の顔。
「創刊七日目時点で、レーベルとしての入口は確認できています」
俺は言った。
「ただし、棚に置くだけでは弱いです。各作品ごとに入口が違います」
まるマはタイトルと併売。
アンジェリークは既存ファン。
ローゼンクロイツは表紙と歴史幻想。
カーマイン・レッドは説明補助。
相変らずの救世主はタイトル反応。
「レーベルの約束は見え始めていますが、まだ読者が戻ってくる場所になったとは言えません」
社長の目が少し動いた。
「初動七日表として見るべきは、売れたかどうかだけではなく、どの入口が開いたか、どの入口が詰まっているかです」
「詰まりは?」
榊原が聞いた。
「一巻不在、シリーズ順不明、説明不足、前後編の伝達不足、既存ファン以外への導線不足です」
「取次側の在庫は?」
榊原が資料を出す。
「現時点では大きな問題なし。ただし、まるマ一巻は協力店以外で偏りが出る可能性がある」
「重版は?」
川辺が言った。
「まだ判断には早いです」
俺は即答した。
自分で言って、少し驚いた。
未来の俺なら、ここで重版だ、在庫だ、機会損失だと騒いだかもしれない。
だが、今は違う。
七日で裁かない。
七日で成仏させない。
七日で詰まりを見る。
重版は、熱だけで決めるものではない。
紙。
印刷所。
倉庫。
取次。
書店。
全部がある。
「ただし、重版可能日と必要条件は確認しておくべきです」
川辺が頷く。
「それなら見ます」
「ありがとうございます」
久我が腕を組んだまま言う。
「三点から増やすなよ」
「はい」
「創刊で浮かれて、全部を初七日に入れるな」
「初動七日表です」
「そこは相変わらずか」
「はい」
会議室が少しだけ笑った。
笑える。
九月のあとで、この会議室で笑える。
それだけでも、何かが少し戻っている。
*
会議後。
佐伯が社長室に残った。
手には、少年陰陽師の企画紙。
十月二日の話の続きだ。
創刊七日目の紙の上に、もう次の紙が重なる。
出版は休まない。
棚が生まれた瞬間、次の棚を考え始める。
読者が一冊を手に取った瞬間、次に戻ってくる理由を作らなければならない。
「篠宮さん」
「はい」
「少年陰陽師の社長報告、一枚にまとまりました」
「拝見します」
佐伯は紙を差し出した。
俺は受け取る。
可能性。
平安・陰陽師・安倍晴明。
十三歳主人公。
物の怪相棒。
成長。
守りたいもの。
危険。
幼く見える。
硬く見える。
男児向けに見える。
棚前の第一印象。
そして、書店向け仮文言。
まだ小さいけれど、守りたいものがある。
強い。
やはり強い。
「三浦さんの案、生きましたね」
「生きました」
佐伯は少し悔しそうに言った。
「営業に良い文言を出されると、少し悔しいです」
「編集者として?」
「はい」
「でも、採用する」
「良いものは採用します」
それでいい。
たぶん、それが強い。
部署の手柄ではなく、読者に届く言葉を選ぶ。
簡単に見えて、たぶん難しい。
「篠宮さん」
「はい」
「十三歳主人公って、やっぱり怖いです」
「はい」
「でも、昨日から考えていて」
「はい」
「子どもっぽく見える危険と、読者が守りたくなる入口は、たぶん同じ場所にあります」
俺は黙った。
「弱さを隠すと、幼さだけが残る。弱さを感情にすると、入口になる」
「良いですね」
「社長報告に入れますか」
「入れましょう」
また紙が濃くなる。
だが、これは必要な濃さだ。
風神雷神より恐いものは、棚前の一秒。
その一秒に、弱さが幼さとして見えるのか、感情として見えるのか。
そこが勝負になる。
「篠宮さん」
「はい」
「クリスマス、予定ありますか」
突然来た。
俺は紙を落としかけた。
「なぜ」
「顔が面白いです」
「質問の意図が不明です」
「少年陰陽師、十二月末です」
「はい」
「年末進行です」
「はい」
「クリスマスを潰すと、航さんに怒られますよ」
「なぜ佐伯さんまで」
「小早川さんから聞きました」
情報漏洩。
秘書課から編集部へ私生活が漏れている。
これは問題ではないのか。
いや、俺が倒れたせいで、社内の一部が俺の私生活を労務管理情報として扱い始めている。
非常にまずい。
「予定は入れました」
「偉いです」
「なぜ褒められるのでしょうか」
「倒れた人が私用の予定を入れられるようになったので」
ひどい。
だが、反論できない。
「二十四日の夜は、空けます」
「空けるだけでは駄目です」
「はい?」
「仕事の顔をしないでください」
「航にも言われました」
「でしょうね」
「ケーキ没収されるそうです」
佐伯が吹き出した。
編集者が笑った。
かなり珍しい。
「それは怖いですね」
「風神雷神よりも?」
「篠宮さんには、その方が怖いのでは」
「判断を保留します」
否定できなかった。
*
昼。
社長室に戻ると、小早川がいた。
「怜子さん」
「はい」
「今日は昼食を」
「取ります」
「よろしい」
「先に言いました」
「成長しましたね」
「ありがとうございます」
「褒めています」
また褒められた。
縁起物が多い。
いや、これは本当に褒めているのかもしれない。
倒れた人間が昼食を自主的に取る。
レベルが低い。
だが、重要だ。
俺は食堂へ向かおうとして、携帯が鳴った。
航からメール。
今日、昼食べた?
小早川さんより先に確認。 航
俺は立ち止まった。
連絡網が多すぎる。
返信する。
今から食べます。
小早川さんにも確認されています。 怜子
すぐ返ってくる。
よし。
クリスマス、店探し始めていい?
美咲が混ざる可能性あり。兄としては複雑。
クリスマス。
店。
美咲。
仕事ではない文字が、携帯の小さな画面に並んでいる。
それだけで、少し心拍が変わる。
俺は返信に迷った。
恋人として、どう返すのが正解なのか分からない。
篠宮怜子ならどう返すのか。
九月十三日と十四日に出てきた“私”なら、どう書くのか。
考えても分からない。
だから、今の俺で打つ。
探してください。
美咲さんが来る場合、仕事の話を止める人員が増えるので助かります。 怜子
送信。
すぐ返る。
デートの監視員扱いするな。
でもたぶん必要。
俺は少しだけ笑った。
デート。
その単語が、携帯の画面にある。
デート。
航との。
クリスマスの。
まずい。
顔が熱い。
「怜子さん」
小早川の声。
「はい」
「顔が仕事ではありませんね」
「……はい」
「それは良い顔です」
俺は固まった。
小早川は、それ以上何も言わずに歩き出した。
「昼食へ行きます」
「はい」
良い顔。
そう言われたのは、たぶん初めてだった。
*
午後。
社長室で、少年陰陽師の報告紙を整えた。
創刊七日表とは別の紙。
だが、つながっている。
ビーンズ文庫は創刊した。
入口は見えた。
次に必要なのは、読者が戻る理由。
その一つとして、十二月の和風ファンタジーがある。
平安。
陰陽師。
安倍晴明。
十三歳。
物の怪。
成長。
守りたいもの。
棚前の一秒。
風神雷神より恐いもの。
俺は、一枚にまとめた。
そして、最後に小さく書いた。
社長室は、売れると断じない。
入口の危険と可能性を共有する。
これが大事だった。
俺は未来を知っている。
だが、未来を知っているからこそ、今の現場を雑に扱ってはいけない。
売れると知っている作品ほど、今の紙の弱さを見る。
今の不安を見る。
今の棚前の危険を見る。
未来の成功は、現在の作業を免除しない。
「篠宮君」
社長が声をかけた。
「はい」
「紙は」
「一枚です」
「本当に?」
「はい」
「見せろ」
社長は紙を読んだ。
そして、少しだけ黙った。
「十三歳は弱点ではなく、感情の入口」
「佐伯さんの言葉をもとにしています」
「まだ小さいけれど、守りたいものがある」
「三浦さんの仮文言です」
「風神雷神より恐いものは、棚前の一秒」
「私の比喩です」
「そこだけ妙に癖があるな」
「申し訳ありません」
「悪くない」
社長は紙を置いた。
「これを文庫編集部と営業局へ戻せ。社長室の意見ではなく、共有メモとして」
「承知いたしました」
「あと、君の名前を前に出すな」
「はい」
「君は秘書だ」
「はい」
「だが、秘書が縫い目を見ることはある」
縫い目。
俺は一瞬、息を止めた。
社長は知らないはずだ。
俺がメモ帳で、パッチワークと書いていることを。
それでも、この人は同じような言葉を使う。
「部署と部署の縫い目だ」
社長は言った。
「そこがほつれると、作品が落ちる」
「はい」
「見えたら、紙にしろ。ただし、縫うのは現場だ」
「はい」
縫うのは現場。
俺は紙を整える。
社長の机に置く。
縫い目を指す。
だが、自分で全部を縫わない。
それが、今の俺の立ち位置だった。
*
夜。
部屋に帰ると、航からメールが来ていた。
店、いくつか候補見つけた。
クリスマスっぽいやつ。
さっちゃんが仕事の顔しにくそうな店にする。 航
仕事の顔しにくそうな店。
どんな店だ。
俺は少し考えて、返信する。
仕事の顔しにくそうな店とは。 怜子
すぐ返る。
暗め。
紙を広げにくいよう小さめのテーブルの、
ケーキがおいしいところ。
なるほど。
かなり対策されている。
紙を広げにくい。
それは効く。
対策が具体的ですね。怜子
そりゃそう。こっちは紙の帝国からさっちゃんを奪還する予定なので。
紙の帝国から奪還。
俺は、その文を見て、少しだけ息が詰まった。
奪還。
誰を。
俺を。
篠宮怜子を。
それとも、仕事に飲まれるこの身体を。
分からない。
だが、悪くない言葉だった。
俺は返信した。
奪還される努力をします。怜子
返事。
努力じゃなくて、されて。
クリスマスは予約しとく。
俺は携帯を閉じた。
十二月二十四日。クリスマスイブ。
予定が、少し具体的になった。
まだ先だ。
少年陰陽師の発売予定の直前。
年末進行。
確実に忙しい。
だが、先に予定を置いた。
仕事の紙より先に。
俺はメモ帳を開いた。
今日の一行。
創刊七日目。
売上ではなく、入口を見る。
入口は一つではない。
作品ごとに違う。
次の一行。
少年陰陽師。
十三歳は弱点ではなく、感情の入口。
風神雷神より恐いものは、棚前の一秒。
さらに、少し迷ってから書いた。
十二月二十四日。
紙の帝国から奪還される予定。
ケーキ没収回避。
書いてから、顔が熱くなった。
業務メモではない。
完全に私用だ。
だが、もう消さなかった。
仕事と生活は、完全には分けられない。
分ける努力は必要だ。
だが、分けきれないものをなかったことにすると、また倒れる。
パッチワークは、さらに布を増やした。
ビーンズ創刊。
初動七日表。
少年陰陽師。
棚前の一秒。
クリスマス。
ケーキ。
航。
篠宮怜子。
俺。
私。
全部が同じ布ではない。
だが、縫い目はある。
平成十三年十月。
紙の帝国の片隅で、新しい扉の初七日が終わった。
そして、その扉の奥から、次の影が見え始めていた。
風神雷神よりも恐いもの。
それは、妖ではない。
呪詛でもない。
平安の闇でもない。
読者が棚前で、自分の物語ではないと判断して去っていく、その一秒。
だから俺たちは、今日も紙に縫い目を書く。
読者が帰る前に。
物語が、ちゃんと自分の入口を持てるように。




