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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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第二十一話 創刊前夜、深化するパッチワーク

 九月二十七日、木曜日。


 社長室の机の上に、黄色の帯見本が置かれていた。


 角川ビーンズ文庫。


 十月一日創刊。


 物語の扉、異世界への鍵――。


 俺は、その一文を見て、しばらく黙った。


 ずるい。


 これは、ずるい。


 扉。


 鍵。


 異世界。


 新しい文庫の棚に立つ読者へ向けて、何を渡すのかが一行で分かる。


 しかも、少し恥ずかしい。


 少し恥ずかしいが、恥ずかしさを越えて強い。


 俺が以前書いた「検索導線におけるシリーズ認知優位性」など、最初から存在しなかったことにしていい。


 いや、存在していた。


 そして佐伯の赤ペンに殺された。


 正しい死だった。


「篠宮君」


 社長が言った。


「はい」


「顔が負けている」


「負けていません」


「帯コピーに負けた顔だ」


「優れた言葉への敬意です」


「便利な言い換えだな」


「はい」


 俺は帯見本に触れないように、紙の端をそろえた。


 触ると、また仕事の顔になる。


 いや、すでに仕事の顔だ。


 だが、今日は忘れてはいけないことがある。


 俺は社長秘書である。


 編集者ではない。


 営業でもない。


 書店員でもない。


 宣伝部でもない。


 制作管理でもない。


 取次担当でもない。


 俺が創刊を動かすわけではない。


 創刊を動かしているのは、現場だ。


 佐伯が赤ペンを入れる。


 三浦が営業資料を整える。


 大町が書店を見に行く。


 岸本が広告と言葉を調整する。


 川辺が紙と日付と印刷を睨む。


 榊原が取次の数字を線引きする。


 久我が営業局の現実を背負う。


 小早川が社長室の空気と俺の顔色を管理する。


 社長が、最後に紙を見る。


 俺の仕事は、その紙を社長の机に届く形にすることだった。


 正確に。


 薄くしすぎず。


 重くしすぎず。


 現場の熱を殺さず。


 現場の怒りも消さず。


 そして、俺の未来知識で勝手に上書きしない。


 秘書という仕事は、思っていたよりずっと難しい。


 社長室の机に置かれる紙は、ただの紙ではない。


 その紙を見て、誰かが動く。


 その紙を見て、誰かが止まる。


 その紙を見て、誰かが呼ばれる。


 その紙を見て、社長が一言いう。


 だから、社長室の秘書は、紙を作っているようでいて、実は会社の呼吸を少しだけ整えている。


 たぶん。


 言いすぎかもしれない。


 だが、そう思わないと、この紙の重さに耐えられない。


「篠宮君」


「はい」


「今日の確認は」


「三点です」


 俺は紙束から三枚だけ抜いた。


「創刊ラインナップの社長報告用整理。既刊併売確認の要点。初動七日表の創刊版、ただし運用主体は営業局と編集部です」


「よろしい」


 社長は少し笑った。


「前より秘書らしい」


「私は秘書ですので」


「たまに忘れているだろう」


「判断を保留します」


「便利だな」


 言い返さなかった。


 事実だからだ。


 俺は何度も踏み込みすぎた。


 現場の正しさを、未来知識で刺しに行った。


 編集者でもないのに作品の未来を語り、営業でもないのに棚を語り、取次でもないのに血管などと言った。


 そのたびに、誰かが俺を止めた。


 真鍋が刺した。


 三浦が削った。


 小早川が寝かせた。


 航が食わせた。


 社長が紙を戻した。


 篠宮怜子が、俺の知らない二日間で仕事を整えた。


 その全部が、今の俺を少しだけ秘書に戻している。


 多分。


 戻していると信じたい。


     *


 九月二十七日の社長室は、紙で埋まっていた。


 ビーンズ創刊ラインナップ。


 帯見本。


 書店向け一言メモ。


 営業局からの重点協力店リスト。


 既刊併売確認。


 Amazon商品情報の印刷紙。


 公式ページ仮文言。


 初動七日表、創刊版。


 九月十一日以降の差し替え記録。


 そして、俺の机の端に置かれた、別のメモ。


 九月十三日、十四日の記録。


 俺が覚えていない二日間の記録。


 無理をするな。


 倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。


 その一文は、まだ机の引き出しに入れてある。


 持ち歩く気にはならない。


 だが、捨てる気にもならない。


 俺の文字ではない。


 だが、この手で書いた文字だ。


 篠宮怜子の文字なのか。


 俺が疲れすぎて別の顔になっただけなのか。


 それとも、俺と彼女が同じ身体の中で、知らない間に縫い合わされ始めているのか。


 分からない。


 分からないまま、俺は仕事をしている。


 パッチワークだ。


 最近、その言葉が頭から離れない。


 九月十一日の世界。


 九月十二日の差し替え。


 九月十三日と十四日の記憶の穴。


 航の手。


 美咲のメール。


 小早川の検問。


 佐伯の赤ペン。


 三浦の削除線。


 初動七日表。


 そして、十月一日に創刊される新しいレーベル。


 全部が別々の布だった。


 色も違う。


 手触りも違う。


 傷も違う。


 それを、無理やり一枚に縫い合わせている。


 綺麗な布にはならない。


 だが、穴を塞ぐことはできるかもしれない。


「怜子さん」


 小早川が言った。


「はい」


「立っています」


「……はい」


 俺は椅子に座った。


 最近、立っていることに自覚がない。


 紙をそろえようとして立つ。


 電話を取って立つ。


 会議資料を取りに立つ。


 そのまま考え込む。


 そして小早川に座らされる。


「本日の確認は三点までです」


「三点です」


「増やしませんね」


「増やしません」


「本当に?」


「努力します」


「増やしませんね」


「はい」


 監視が厳しい。


 だが、倒れた人間に反論権はない。


 俺は一枚目の紙を社長の机に置いた。


 創刊ラインナップ、社長報告用。


 そこには、作品名と簡単な位置づけだけを書いた。


 書きすぎない。


 語りすぎない。


 未来を匂わせすぎない。


 社長が見るべき情報は、作品の細かい萌えどころではない。


 創刊の顔として、棚にどう並ぶのか。


 どの読者層に入口があるのか。


 どこで説明が必要なのか。


 どこに既存ファンがいるのか。


 どこで書店員の一言が効くのか。


 それだけだ。


 それ以上は、編集部の仕事である。


 俺は深呼吸した。


 秘書。


 社長秘書。


 越境しない。


 見えても、全部は言わない。


 言うべき形に直して、机へ置く。


 これが今日の仕事だ。


     *


 午前十時。


 文庫編集部へ向かった。


 用件は、社長への報告用に創刊前の最終状況を確認すること。


 そう言葉にしてから行った。


 編集判断をしに来たのではない。


 指示を出しに来たのでもない。


 社長室で必要な紙を受け取りに来た。


 そう自分に言い聞かせる。


 文庫編集部は、いつもより少しざわついていた。


 創刊前の空気。


 紙。


 ゲラ。


 電話。


 赤ペン。


 段ボール。


 見本誌。


 机の上に積まれた新しい文庫。


 まだ読者の手垢がついていない本たち。


 生まれる前の棚が、編集部の机の上に仮置きされている。


「篠宮さん」


 佐伯が顔を上げた。


 顔が白い。


 だが、目が生きている。


 赤ペンを持つ指が、少しだけインクで汚れている。


「社長室です」


「知っています」


「本日は、社長への報告用に創刊前の確認を」


「秘書らしい入り方ですね」


「秘書ですので」


「たまに忘れていました」


「私もです」


 佐伯は少し笑った。


 その笑いが疲れていた。


「ラインナップです」


 彼女は紙を差し出した。


 今日から(マ)のつく自由業!


 今度は(マ)のつく最終兵器!


 ローゼンクロイツ アルビオンの騎士(前編)


 アンジェリーク EXTRA


 カーマイン・レッド セトの神民(前編)


 相変らずの救世主


 名前が並ぶ。


 それだけで、棚の匂いがする。


 女性向け。


 異世界。


 歴史幻想。


 ゲームファン。


 美形。


 主従。


 魔王。


 水洗トイレ。


 最後だけおかしい。


 だが、強い。


「報告用には、どうまとめますか」


 俺は聞いた。


 指示ではなく、確認。


 佐伯は少し考えた。


「新レーベルの顔としては、異世界と幻想、ゲーム由来の読者導線、そして既刊の再入口です」


「再入口」


「まるマは新刊ではありません。でも、創刊で棚に置き直す意味があります」


「はい」


「既刊を古い本として扱わない。入口として扱う」


 俺はメモを取った。


 既刊を入口として扱う。


 良い。


 かなり良い。


「それ、社長報告に入れます」


「お願いします」


「あと、書店向け一言メモは?」


「営業とすり合わせ中です。大町さんが現場の言葉に直しています」


「編集部としては?」


「公式文言は崩しすぎない。棚の言葉は強くていい。ただし、作品の品位を壊さない」


 佐伯の赤ペンが紙の端を叩いた。


「水洗トイレから異世界へ、は棚なら可。公式では不可」


「承知いたしました」


「篠宮さん」


「はい」


「今、笑いましたね」


「いいえ」


「笑いました」


「水洗トイレは強いので」


「強いです」


 二人で、少しだけ黙った。


 真顔で水洗トイレを強いと言い合う出版社。


 紙の帝国、奥が深い。


「佐伯さん」


「はい」


「創刊、怖いですか」


 聞いてしまった。


 これは秘書の質問ではないかもしれない。


 だが、社長室に置く紙には、数字だけではなく空気も必要だ。


 たぶん。


 佐伯は赤ペンを置いた。


「怖いです」


 即答だった。


「編集者でも?」


「編集者だからです」


 彼女は見本誌を見た。


「創刊は、お祭りみたいに見えます。でも本当は、読者への約束です」


「約束」


「この背表紙の本なら、あなたの好きな物語に出会えるかもしれない。次もある。続きもある。そう思って、また棚に戻ってきてもらうための約束です」


 俺は黙った。


 レーベルは、単なる分類ではない。


 約束。


 その言い方は、とても編集者らしかった。


 一冊を売るのではなく、棚に戻ってきてもらう。


 出版における生活圏を作る。


 未来のプラットフォームとは違う。


 だが、読者が戻る場所を作るという意味では、同じ根を持っている。


「社長報告に、そのまま入れていいですか」


「そのままですか」


「はい」


「少し恥ずかしいですね」


「良い言葉は少し恥ずかしいものです」


「それ、篠宮さんの言葉ですか」


「今、考えました」


「珍しく良いです」


「判断を保留します」


「便利ですね」


     *


 文庫編集部を出る前に、真鍋に呼び止められた。


「篠宮さん」


「はい」


「社長室に戻る前に、一つだけ」


 真鍋の顔は、いつも通り渋い。


 だが、目は少し疲れている。


「創刊で浮かれている時に言うことではないかもしれませんが」


「はい」


「売れた時の扱いを、最初から考えておいてください」


 来た。


 真鍋の刺し方。


「まるマですか」


「まるマも。他もです」


「はい」


「売れない時は、届かせる努力が必要です。ですが、売れた時は、壊さない努力が必要です」


「承知しています」


「本当に?」


「肝に銘じています」


 真鍋は少しだけ眉を上げた。


「言い方を変えましたね」


「小早川さんに返事を節約しろと言われました」


「それは良い指導です」


 真鍋は見本誌を見た。


「レーベルは、作品を抱えます。売れた作品ほど、レーベルの顔になる。すると、作品だけではなく、読者も抱えることになる」


「はい」


「数字で急かすと、作家も読者も疲れます」


「はい」


「初動七日表は便利でしょう。でも、七日で見える熱だけを信じるな」


 刺さる。


 かなり刺さる。


「社長への報告には、初動で見るべきことと、初動では見えないことを分けて書きます」


「そうしてください」


「初動では、入口を見る。継続では、壊してはいけないものを見る」


 真鍋は少し黙った。


「篠宮さん」


「はい」


「今のは、少しまともです」


「ありがとうございます」


「褒めています」


「珍しいですね」


「創刊前なので」


「どういう意味ですか」


「縁起物です」


 縁起物。


 真鍋が褒めるのは縁起物らしい。


 雪が降らなければいいが、九月末なのでたぶん大丈夫だ。


     *


 社長室へ戻ると、小早川が待っていた。


「怜子さん」


「はい」


「顔が仕事を増やした顔です」


「増やしていません」


「紙は?」


「三枚です」


「見せてください」


 検問。


 完全に検問。


 俺は紙を出した。



 一、佐伯所感。


 二、真鍋注意点。


 三、創刊ラインナップ報告用修正。



 小早川は紙を見た。


「三枚ですね」


「はい」


「増えていませんね」


「はい」


「ただし、文字が多いです」


「……はい」


「削ってください」


「承知いたしました」


「返事」


「はい」


 返事も管理される。


 秘書課、怖い。


 だが、これも必要だ。


 社長の机に置く紙は、長ければいいわけではない。


 重ければいいわけでもない。


 創刊前の現場の熱を、そのまま置けば社長が燃える。


 燃やしてはいけない。


 伝えるべき火だけを残して、煙を減らす。


 秘書の仕事は、たぶんそういうものだ。


 俺は紙を削った。


 佐伯の「約束」は残す。


 真鍋の「売れた時に壊さない」は残す。


 俺の余計な分析は削る。


 水洗トイレは残すか迷った。


 迷った末に、注記へ回した。


 棚では強い。


 社長報告では危険だ。


     *


 午後一時。


 営業局から三浦が来た。


 手には、いつもの紙束。


 ただし、今日は少し薄い。


「篠宮さん」


「はい」


「小早川さんに、薄くしろって言われました」


「私も言われました」


「全員言われてますね」


「秘書課の支配です」


「社長室では?」


「はい」


 三浦は机に紙を置いた。


 重点協力店リスト。


 池袋。


 横浜。


 名古屋。


 大阪。


 女性向け文庫に強い店。


 コミックとの行き来がある店。


 店員が棚を見ている店。


 既刊併売の確認が可能な店。


 あの横浜の店も入っている。


 初動七日表で、一巻がないだけで読者が帰りかけた店。


 戻らなかった一冊を拾った店。


「大町さんからです」


 三浦が言う。


「大きく展開できる店ではなく、ちゃんと見てくれる店を優先しています」


「はい」


「創刊だからといって、全店に無理を言うな、と久我局長からも」


「はい」


「現場に新しい紙を書かせるな、と榊原さんからも」


「はい」


「篠宮さんの名前、けっこう出てます」


「悪い意味で?」


「半分」


「残り半分は?」


「便利な地雷」


「褒めていませんね」


「判断を保留します」


 取られた。


 三浦まで使うようになった。


 便利な言葉は感染する。


 危険である。


「まるマについては、一巻二巻の順番を確認します」


 三浦が紙を指した。


「特に横浜、池袋、大阪。二巻だけ目立つ状態は避けたい」


「はい」


「ただし、まるマだけを強くしすぎると、創刊全体が歪む」


「はい」


「なので、棚全体は“異世界への入口”として見せる」


「その言葉、大町さんですか」


「はい」


 強い。


 編集のコピーが、営業の棚言葉に落ちている。


 物語の扉、異世界への鍵。


 そこから、異世界への入口。


 読者に届く言葉は、部署をまたいで少しずつ姿を変える。


 公式の言葉。


 営業の言葉。


 棚の言葉。


 読者の言葉。


 それらが全部同じである必要はない。


 だが、芯がずれてはいけない。


「社長報告には、営業側の観測は“初日判断ではなく入口確認”として上げます」


「良いと思います」


 三浦が頷く。


「数字は?」


「初日は薄く。七日で見る」


「初七日ですか」


「初動七日表です」


「まだ抵抗してる」


「正式名称なので」


 三浦は笑った。


 その笑いは、少しだけ明るかった。


 九月十一日以降、社内の笑いは少し固くなっていた。


 だが、創刊が近づくにつれて、紙の帝国はまた紙の速度を取り戻しつつある。


 それが良いことなのか、少し怖いことなのか。


 まだ分からない。


     *


 午後三時。


 Amazon商品情報の紙が届いた。


 画面ではない。


 紙である。


 この時代、会議に持ち込むなら紙だ。


 三浦が印刷したページを持ってきた。


 今日から(マ)のつく自由業!


 今度は(マ)のつく最終兵器!


 タイトル。


 著者名。


 発売日。


 商品説明。


 在庫表示。


 まだ、未来のAmazonではない。


 まだ、物流を支配し、価格を揺らし、転売市場と絡み、公式が取り逃がした需要を勝手に拾う巨大な怪物ではない。


 だが、検索される場所ではある。


 検索される場所に、正しい入口がなければ、読者は迷う。


 それは横浜の棚と同じだ。


 一巻がない。


 順番が分からない。


 説明が弱い。


 それだけで、読者は帰る。


 画面でも、棚でも、入口が塞がれば同じである。


「篠宮さん」


 三浦が言った。


「これ、社長に上げます?」


「そのままでは上げません」


「ですよね」


「要点だけです」


 俺は別紙に書いた。



 Amazon確認要点。


 一、シリーズ順の明記。


 二、商品説明の最低限の補足。


 三、公式ページへの入口整備。


 四、在庫表示の確認。



 そして、最後に小さく。


 Amazonは売る場所である前に、探される場所。


 書いてから、少し迷った。


 社長に上げるには強いか。


 いや、これは残す。


 航が最初に持ってきた紙から始まった話だ。


 Amazonは、最初から怪物だったわけではない。


 最初は、探す道具だった。


 それを忘れると、未来の俺と同じになる。


「篠宮さん」


「はい」


「顔が航さんです」


「どういう意味ですか」


「航さんのこと考えてる顔です」


「違います」


「違いますか」


「Amazonのことを考えていました」


「ほぼ航さんですね」


 否定が難しい。


 かなり腹立たしい。


     *


 夕方。


 社長に、創刊前最終報告を上げた。


 紙は三枚。



 一枚目、創刊の位置づけ。


 二枚目、営業・書店導線。


 三枚目、初動七日表の創刊版。



 社長は黙って読んだ。


 俺は机の横に立っていた。


 小早川に見つかると座らされるので、姿勢だけは整える。


 社長は一枚目を軽く叩いた。


「読者への約束、か」


「佐伯さんの言葉です」


「良い」


「はい」


「売れた時に壊さない、か」


「真鍋さんの言葉です」


「これも良い」


「はい」


「君の言葉はどれだ」


「社長への報告に不要な分析は削りました」


 社長がこちらを見た。


「本当に秘書らしくなったな」


「はい」


「寂しいな」


「なぜですか」


「地雷が減った」


「減らすべきです」


「その通りだ」


 社長は二枚目を見る。


「既刊を入口として扱う。まるマ一巻二巻併売。棚全体は異世界への入口」


「はい」


「水洗トイレから異世界へ、は?」


「注記に回しました」


「なぜ」


「社長報告の本文に入れるには強すぎます」


 社長は少し笑った。


「入れてもよかった」


「入れません」


「秘書だな」


「はい」


 三枚目。


 初動七日表、創刊版。


 社長の目が少し細くなる。


「初七日か」


「初動七日表です」


「まだ抵抗しているのか」


「正式名称です」


「現場が呼ぶ名が現場の名だ」


「認めません」


「頑固だな」


「はい」


 社長は紙を置いた。


「十月一日、何を見る」


「入口です」


「売上ではなく?」


「売上も見ます。ただし、初日に売れた売れないで判断しません」


「なぜ」


「創刊は、読者が棚を認識するところから始まります。初日は、どの入口から入ったかを見るべきです」


「入口」


「はい。既存ファン、タイトル、表紙、書店員の一言、公式情報、Amazon検索、友人同士の会話」


「多いな」


「多いので、社長報告には要点だけ上げます」


「よろしい」


 社長は少しだけ満足そうだった。


「篠宮君」


「はい」


「九月は重かった」


「はい」


「人を見て、言葉を見て、紙を止めて、また紙を動かした」


「はい」


「十月は、入口を見る」


「はい」


「忙しい会社だな」


「出版なので」


 社長は笑った。


     *


 九月二十八日。


 金曜日。


 社長室の朝は、少しだけ早かった。


 創刊前の最終平日。


 電話が多い。


 紙も多い。


 だが、俺の机は以前より少しだけ整っている。


 小早川の圧力。


 三浦の削除線。


 航の監視。


 そして、篠宮怜子のメモ。


 無理をするな。


 倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。


 あの一文が、俺の手を止める。


 少しだけ。


 止める。


「怜子さん」


 小早川が言った。


「はい」


「午前中は、社長の予定確認と電話の取り次ぎだけです」


「創刊関連は」


「午後です」


「ですが」


「午後です」


「はい」


 強い。


 秘書課は強い。


 俺は社長の予定表を見た。


 午前、来客二件。


 午後、創刊報告確認。


 夕方、営業局長との短時間打ち合わせ。


 夜、会食。


 社長は社長で忙しい。


 創刊だけを見ているわけではない。


 会社は同時に複数の現実を抱えている。


 九月十一日以降の海外対応。


 雑誌差し替え。


 既存刊行物。


 創刊。


 取次。


 書店。


 広告。


 それらが同時に社長室へ流れ込む。


 俺がするべきことは、全部を一枚に縫い付けることではない。


 必要な布を、必要な順番で机に置くことだ。


 パッチワークは、布を全部重ねればいいわけではない。


 重ねすぎると、針が通らない。


 俺は、ようやくそれを少し学んだ。


     *


 午後二時。


 大町から電話が来た。


『篠宮さん、社長報告用に一点だけ』


「はい」


『横浜の店、まるマ一巻二巻の併売を創刊棚に入れます。ただし、場所は平台の端です』


「端で十分です」


『そう言うと思いました』


「なぜ」


『前に言ってました』


「言いましたか」


『言いました』


 疲れると口が軽い。


 いや、最近は疲れていなくても言っている気がする。


『店員さんから、一言メモの修正案が来ています』


「はい」


『水洗トイレから異世界へ、だと少し強すぎるので、“水洗トイレから異世界へ。まずは一巻から。”にするそうです』


「ほぼ同じでは?」


『“まずは一巻から”が大事です』


「なるほど」


 確かに。


 雑な強さに、入口を足している。


 水洗トイレから異世界へ。


 まずは一巻から。


 棚の言葉としては、強い。


 そして、親切だ。


「社長報告には、棚一言メモとして要約します」


『そのまま載せてもいいですよ』


「社長報告には強すぎます」


『佐伯さんも同じこと言ってました』


「はい」


『あと、アンジェリークは既存ファンが強いので、書店さんが女性向けゲームの流れで見せたいと』


「それも入れます」


『ローゼンクロイツは表紙で足が止まるそうです』


「はい」


『カーマイン・レッドは説明が必要』


「はい」


『全部、一行で書けます?』


「努力します」


『無理ですね』


「努力します」


 電話を切った。


 紙に書く。


 まるマ:既刊を入口化。一巻二巻併売、順番明示。


 アンジェリーク:既存ゲームファン導線。


 ローゼンクロイツ:表紙・歴史幻想導線。


 カーマイン・レッド:説明補助必要。


 相変らずの救世主:タイトル反応確認。


 創刊棚:異世界への入口として見せる。


 短い。


 だが、足りる。


 社長に上げるなら、これでいい。


 現場の細かい呼吸は、大町と三浦の紙に残っている。


 俺が全部を社長室へ引っ張り上げる必要はない。


     *


 九月二十九日。


 土曜日。


 本来なら休み。


 だが、創刊前の週末に完全な休みなど存在しない。


 少なくとも現場には存在しない。


 ただし、俺は出社禁止だった。


 社長。


 小早川。


 航。


 三方向から禁止。


 さらに美咲からもメールが来た。



 さっちゃん、会社行ったら兄が怒るよ。

 私も怒る。

 創刊ってすごそうだけど寝て。



 女子高生にまで監視されている。


 なぜだ。


 いや、倒れたからだ。


 すべてはそこに戻る。


 俺は部屋で休んだ。


 休む。


 休むはずだった。


 机の上には紙がない。


 鞄にもない。


 小早川と航の二重検閲で、仕事の紙は排除された。


 だが、頭の中には紙がある。


 物語の扉、異世界への鍵。


 創刊棚。


 既刊併売。


 初動七日表。


 入口。


 約束。


 売れた時に壊さない。


 水洗トイレから異世界へ。


 言葉がぐるぐる回る。


 俺はベッドに横になり、天井を見た。


「さっちゃん」


 台所から航の声。


「仕事の顔」


「寝ています」


「顔が仕事してる」


「顔面管理の問題です」


「頭の問題」


「反論が困難です」


 航は朝食を持ってきた。


 粥ではない。


 トースト。


 卵。


 ヨーグルト。


 普通の朝食。


 普通。


 それが、少し嬉しかった。


 九月十一日以降、世界は重かった。


 差し替え、安否確認、記憶の穴、創刊前の紙。


 全部が重い。


 だが、パンは焼ける。


 卵は固まる。


 ヨーグルトは冷たい。


 航はそこにいる。


 その普通さに、少しだけ救われる。


「創刊、月曜だっけ」


 航が言った。


「はい」


「緊張してる?」


「はい」


「素直」


「倒れたので」


「便利な理由になってる」


「はい」


 航は笑った。


「創刊って、本が何冊か出るだけじゃないんだよね」


「はい」


「どういう感じ?」


 俺は少し考えた。


 社長に説明するより難しい。


 航に説明する時は、仕事の言葉がそのままでは通らない。


 いや、通る時もある。


 この男は厄介なので。


「棚に、約束を作る感じです」


「約束」


「この背表紙の本なら、自分に合うかもしれない。次もあるかもしれない。そう思って、読者がまた戻ってくる場所を作る」


「ブランド?」


「近いです。でも、もう少し生活に近い」


「生活?」


「書店に行って、あの棚を見る。新刊がないか確認する。友達に話す。貸す。次を待つ。そういう習慣ができると、レーベルになります」


 航は少し黙った。


「それ、いいね」


「佐伯さんの言葉を借りました」


「だと思った」


「なぜ分かる」


「さっちゃんの説明にしては、編集者っぽかった」


「失礼です」


「褒めてる」


「判断を保留します」


 航は笑った。


 その笑いが、部屋の空気を少し軽くした。


「さっちゃん」


「はい」


「月曜、無理しないでね」


「努力します」


「無理しない」


「はい」


「倒れたら、俺と小早川さんと美咲に怒られる」


「多いですね」


「社長もたぶん怒る」


「四方向」


「三浦さんも」


「五方向」


「佐伯さんも」


「もう十分です」


 監視網が広すぎる。


 だが、その広さが少しだけありがたかった。


 俺は一人で仕事をしているわけではない。


 俺は一人でこの身体を動かしているわけでもない。


 それを忘れると、また倒れる。


     *


 九月三十日。


 日曜日。


 夕方、佐伯から電話が来た。


 社用ではない。


 だが、完全に私用でもない。


 創刊前夜の電話だった。


『篠宮さん』


「はい」


『明日です』


「はい」


『怖いです』


 佐伯が、そう言った。


 俺は少しだけ受話器を握り直した。


「私も怖いです」


『篠宮さんでも?』


「はい」


『未来を見ているような顔をするのに?』


「未来は、棚前の一冊を拾ってくれません」


 電話の向こうで、佐伯が少し笑った気配がした。


『そうですね』


「明日、全部は見えません」


『はい』


「初動七日表でも、全部は拾えません」


『はい』


「でも、一巻がないので戻される、くらいは拾えるかもしれません」


『それで十分ですか』


「十分ではありません」


 俺は言った。


「でも、ゼロよりはいいです」


 佐伯はしばらく黙っていた。


『篠宮さん』


「はい」


『まるマ、売れますか』


 来た。


 未来を知っている俺は、答えを知っている。


 売れる。


 伸びる。


 柱になる。


 アニメにもなる。


 読者を増やす。


 それでも、綺麗に終われるとは限らない。


 売れることは、救いだけではない。


 真鍋の言葉が残っている。


 売れた時に、壊さない努力が必要です。


「売れる可能性はあります」


 俺は慎重に言った。


『可能性』


「はい」


『篠宮さんにしては控えめですね』


「売れる、という言葉は危険です」


『なぜ』


「売れた時に、作品を雑に扱いやすくなるからです」


 電話の向こうが静かになる。


「売れるなら続けろ。広げろ。もっと出せ。もっと使え。そういう圧力が来ます」


『はい』


「だから、明日見るべきなのは、売れたかどうかだけではありません」


『何を見るんですか』


「入口です」


 棚。


 タイトル。


 一巻二巻。


 書店員の一言。


 Amazonの商品説明。


 公式の入口。


 友達同士の会話。


 どこから来て、どこで迷い、どこで手に取ったか。


「出口ではなく、入口を見ます」


『出口?』


「売上です」


『なるほど』


「売上は見ます。でも、それだけでは、どこから入ったかが分かりません」


『入口を見る』


「はい」


 佐伯は小さく息を吐いた。


『分かりました』


「佐伯さん」


『はい』


「明日は、倒れないでください」


『それ、篠宮さんに言われたくありません』


「判断を保留します」


『便利ですね』


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 日曜日の部屋は静かだった。


 机の上に紙はない。


 だが、頭の中には扉がある。


 物語の扉。


 異世界への鍵。


 明日、それが書店に置かれる。


 置かれるだけではない。


 誰かが手を伸ばす。


 伸ばさないかもしれない。


 迷うかもしれない。


 帰るかもしれない。


 買うかもしれない。


 友達に貸すかもしれない。


 その全部は見えない。


 だが、入口くらいは見たい。


 届かなかった作品を、売れなかったことにしない。


 その言葉は、創刊にも適用できる。


 届かなかったレーベルを、望まれなかったことにしない。


 重い。


 かなり重い。


 社長秘書が背負うには重すぎる。


 だから、背負わない。


 社長の机に置く紙にする。


 それが俺の仕事だ。


     *


 十月一日。


 月曜日。


 角川ビーンズ文庫、創刊。


 朝、社長室の机に、見本誌が置かれていた。


 新しい背表紙。


 新しいロゴ。


 新しい帯。


 まだ読者の手垢がついていない本。


 まだ書店袋に入っていない本。


 まだ誰かの鞄に入っていない本。


 まだ友達に貸されていない本。


 生まれたばかりの紙。


 俺は、それを手に取ろうとして、止めた。


 触らない。


 いや、触ってもいい。


 だが、今は社長の机の上に置かれた見本誌だ。


 俺のものではない。


 俺は、秘書である。


「篠宮君」


 社長が言った。


「はい」


「触らないのか」


「社長の確認後に」


「秘書だな」


「はい」


 社長は少し笑って、見本誌を一冊持ち上げた。


 今日から(マ)のつく自由業!


 物語の扉、異世界への鍵――。


 水洗トイレから異世界へ。


 魔王。


 コメディ。


 女性向け。


 だが、棚を狭くしすぎると損をする作品。


 そして、未来で大きくなる作品。


 俺は、それを知っている。


 知っているが、今日の社長室では言わない。


 未来を叫ぶのではなく、今日の入口を見る。


「始まったな」


 社長が言った。


「はい」


「顔が怖い」


「緊張しています」


「素直だな」


「倒れましたので」


「便利な理由になっている」


「はい」


 社長は見本誌を机に置いた。


「本日は」


「協力店からの初日所感を、営業局経由で受けます。社長室では、夕方に要点だけ整理します」


「営業局経由か」


「はい」


「君が直接見に行かないのか」


「私は秘書ですので」


 社長は少しだけ満足そうにした。


「よろしい」


「ただし」


「ただし?」


「報告が来たら、顔は崩れる可能性があります」


「それは許す」


「ありがとうございます」


     *


 午前十一時。


 大町から営業局経由で第一報。


 池袋。


 平台の端にビーンズ文庫展開。


 まるマ一巻二巻、併売確認。


 ローゼンクロイツ、表紙で足が止まる。


 アンジェリーク、既存ファン導線あり。


 カーマイン・レッド、説明補助必要。


 相変らずの救世主、タイトル反応あり。


 三浦がメモを持ってきた。


「篠宮さん」


「はい」


「第一報です」


「社長報告用に要点を」


「もうまとめてあります」


「優秀ですね」


「鍛えられました」


 紙を見る。


 短い。


 良い。


 数字はまだ薄い。


 だが、入口は見える。


 棚に置かれ、足が止まり、説明が必要な作品があり、既存ファンが手に取る。


 それで十分ではない。


 だが、初日の午前としては十分だ。


「泣きます?」


 三浦が言った。


「泣きません」


「顔が」


「通常運転です」


「それ、まだ禁止では?」


「はい」


 なら使うな。


 自分で思った。


     *


 午後一時。


 横浜から第二報。


 まるマ一巻二巻併売。


 棚前で女子高生二人組が足を止める。


 ひとりが二巻を持つ。


 もうひとりが一巻を探す。


 書店員が「最初はこっちです」と一巻を差す。


 一冊、動く。


 また、一冊。


 たった一冊。


 だが、帰らなかった一冊。


 俺はメモに書いた。


 横浜。


 入口あり。


 一巻購入確認。


 戻らなかった一冊。


 その横に、三浦が小さく書き足した。


 初七日、効いてます。


 俺は赤ペンで線を引いた。


 初動七日表。


 三浦が笑った。


 不謹慎かもしれない。


 だが、笑えた。


 九月十一日以降、笑える時に笑うことも、たぶん必要だ。


     *


 午後三時。


 佐伯が社長室に来た。


 顔色は悪い。


 だが、目は生きている。


 手には、書店でもらったらしい袋。


 空だ。


 中身は編集部へ置いてきたのだろう。


「篠宮さん」


「はい」


「見てきました」


「書店を?」


「はい」


 本来、佐伯がここで報告する義務はない。


 これは社長室の正式ラインではなく、編集者が創刊日に棚を見てきた、その熱の報告だった。


 俺は立ち上がりかけて、小早川の視線を感じ、座ったまま姿勢を正した。


「どうでした」


「怖かったです」


「はい」


「でも、ありました」


「何が」


「棚に」


 佐伯は短く言った。


「ちゃんと、ありました」


 その言葉は、数字ではなかった。


 初動でもない。


 消化率でもない。


 だが、今日だけはそれで良かった。


 創刊の日に、本が棚にある。


 読者の前にある。


 入口がある。


 それが、まず第一だった。


「佐伯さん」


「はい」


「創刊、おめでとうございます」


 佐伯は一瞬、目を見開いた。


 それから、少しだけ顔を歪めた。


「まだ早いです」


「はい」


「七日見ないと」


「初動七日表です」


「初七日ですね」


「違います」


 佐伯は少し笑った。


「でも、ありがとうございます」


     *


 夕方。


 社長室に、初日の要点が集まった。


 大きな数字はまだない。


 爆発的な動きでもない。


 重版を叫ぶような話でもない。


 だが、入口はあった。


 棚で足が止まる。


 タイトルで笑う。


 一巻を探す。


 二冊を並べる。


 既存ファンがアンジェリークを手に取る。


 表紙でローゼンクロイツを見る。


 説明が必要な作品に、書店員の一言が入る。


 物語の扉は、少しずつ開いていた。


 開ききってはいない。


 だが、鍵は棚に置かれた。


 俺は社長報告用の紙を一枚にまとめた。



 創刊初日要点。


 一、協力店で棚展開確認。


 二、まるマ既刊併売、一巻入口確認。


 三、既存ファン導線あり。


 四、説明補助が必要な作品あり。


 五、初日は売上判断ではなく入口確認を優先。



 短い。


 かなり短い。


 だが、社長に上げるにはこれでいい。


 細部は営業局と編集部にある。


 社長室は、細部を奪ってはいけない。


「篠宮君」


 社長が言った。


「はい」


「今日は何を見た」


「入口です」


「売上ではなく?」


「売上も見ます。ただ、初日は入口です」


「九月は人を見た」


「はい」


「言葉を見た」


「はい」


「今日は入口を見る」


「はい」


「次は何を見る」


 俺は少し考えた。


「続くかどうかです」


 社長は黙った。


「レーベルは約束です。今日、棚に置かれたことで約束が始まりました。次は、その約束が続くかを見ます」


「佐伯君の言葉だな」


「借りました」


「返せるか」


「仕事で」


 社長は少し笑った。


「倒れるなよ」


「はい」


「返事が軽い」


「倒れません」


「根拠は」


「今日は、帰ります」


 社長が驚いた顔をした。


「本当に?」


「はい」


「小早川君」


 社長が呼ぶ。


 小早川が即座に現れた。


「篠宮君が帰るそうだ」


「確認します」


「なぜ確認が必要なのですか」


 俺は抗議しかけた。


 小早川の目。


 黙った。


「鞄を見ます」


「はい」


 鞄を開ける。


 紙は少ない。


 創刊初日要点の控え一枚。


 メモ帳。


 それだけ。


 小早川は頷いた。


「許可します」


「ありがとうございます」


「ただし、家で増やさない」


「はい」


「航さんに連絡します」


「なぜ」


「監督者です」


 いつから俺の監督者になったのか。


 たぶん、九月十二日からだ。


 いや、もっと前かもしれない。


 青い歯ブラシを見つけた朝から、すでにそうだったのかもしれない。


     *


 夜。


 部屋に帰ると、航からメールが来ていた。



 創刊どうだった?

 美咲が「魔王のやつ買った友達いた」って言ってる。 

 さっちゃん、今日は帰れ。

 もう帰ってるなら偉い。 航



 俺は少し笑った。


 返信する。



 帰りました。

 棚にありました。入口が、ありました。 怜子



 すぐ返ってきた。



 よかったね。

 ちゃんと寝ろ。

 入口の夢見るな。



 無理かもしれない。


 だが、努力はする。


 俺は机に座り、メモ帳を開いた。


 今日は紙を増やさない。


 ただ、一行だけ。



 十月一日。

 角川ビーンズ文庫、創刊。

 物語の扉、異世界への鍵。

 今日は売上ではなく、入口を見る日。



 もう数行。


 棚にあった。

 読者が足を止めた。

 一冊が帰らなかった。

 それだけで、始まりとしては十分だ。



 ペンを置いた。


 九月二十七日から十月一日まで。


 たった五日。


 だが、その五日は重かった。


 九月十一日の傷はまだ残っている。


 差し替えた紙の痛みも残っている。


 俺の中にいるかもしれない篠宮怜子の気配も、消えていない。


 それでも、十月一日には本が出る。


 世界が変わっても、棚は作られる。


 人が傷ついても、言葉は選ばれる。


 紙が重くても、読者の前に置かれる。


 それが出版なのだと、少しだけ分かってきた。


 物語の扉。


 異世界への鍵。


 扉は、勝手には開かない。


 鍵も、勝手には回らない。


 誰かが棚に置き。


 誰かが説明し。


 誰かが一巻を補充し。


 誰かが公式ページを直し。


 誰かが広告の言葉を弱め。


 誰かが帰りかけた読者を戻す。


 その全部があって、ようやく物語は入口になる。


 俺は編集者ではない。


 営業でもない。


 宣伝でもない。


 書店員でもない。


 社長秘書だ。


 社長の机に、どの紙を置くかを考える人間だ。


 それでも、その紙が少しだけ人を動かすことがある。


 なら、俺は今日も紙を整える。


 全部を動かそうとしない。


 全部を背負おうとしない。


 俺と、私の身体を壊さない。


 そうやって、穴だらけの布を少しずつ縫い合わせる。


 創刊前夜。


 深化するパッチワーク。


 九月の傷と、十月の扉。


 過去の怜子と、未来の俺。


 現場の紙と、社長室の机。


 全部は一枚にならない。


 だが、縫い目は増えた。


 平成十三年十月一日。


 紙の帝国の片隅に、新しい扉が置かれた。


 俺はその前で、まだ鍵を回したばかりだった。

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