第二十話 これはおかしい。起きたら、三日過ぎていたのに俺は出社していたらしい件
目を覚ますと、朝だった。
天井。
白い。
見慣れてきた、篠宮怜子の部屋の天井。
寝室。
布団。
枕。
カーテンの隙間から入る光。
俺は、しばらくそれを見つめていた。
身体が重い。
だが、前みたいな鉛のような重さではない。
熱はない。
頭痛もない。
足の甲も痛くない。
指も痛くない。
ただ、身体の芯に妙な空白があった。
何かが抜けている。
何かを落としてきた。
そんな感じだった。
「……何時だ」
声は掠れていた。
俺は枕元の目覚まし時計を見た。
午前八時十二分。
まずい。
遅刻。
いや、今日は何曜日だ。
昨日は九月十二日。
世界が変わった翌日。
差し替え確認。
広告コピー。
短編の次号送り。
読者投稿欄。
それから。
俺は倒れた。
航に連れて帰られた。
粥を食べた。
寝た。
だから今日は、九月十三日。
木曜日。
出社しなければ。
そう思って、起き上がろうとした時だった。
枕元の携帯が光っていた。
メールが来ている。
俺は手を伸ばし、開いた。
差出人は航。
おはよう。
今日は休み。
起きても、会社行くなよ。
土曜だけど敬老の日だから。
敬老の日。土曜日
俺は、画面を見たまま固まった。
⋯⋯土曜日。
そんなはずがない。
昨日が水曜だった。
いや、九月十二日が水曜。
その翌日は木曜。
今日は十三日。
土曜日のはずがない。
俺はカレンダーを見た。
壁に掛かった小さなカレンダー。
青ではなく、赤地がついている日付。
九月十五日。土曜。
敬老の日。
「……は?」
声が出た。
冷たく整っている場合ではなかった。
完全に間抜けな声だった。
九月十五日。
三日過ぎている。
九月十三日と十四日が、ない。
俺の中に、ない。
俺は布団の上で固まった。
倒れて寝込んでいたのか。
それなら分かる。
だが、身体は妙に整っている。
髪もそこまで乱れていない。
部屋も荒れていない。
枕元に水。
薬。
畳まれたハンカチ。
そして、机の上には紙束が置いてある。
仕事の紙だ。
小早川に禁止されていたはずの紙。
俺は、ゆっくり布団から降りた。
足元はふらつかなかった。
つまり、寝たきりではなかった。
嫌な予感がした。
かなり嫌な予感がした。
机に近づく。
そこに置かれていた紙の一番上には、見慣れた字があった。
九月十三日
出社。十時二十分。
社長室。安否確認二次集約。
岸本氏、広告コピー差し替え完了。
佐伯氏、短編次号送り作者了承。
真鍋氏、読者投稿欄差し替え確認。
初動七日表、十七日より再開予定。
俺は、紙を持ったまま動けなくなった。
出社。
十時二十分。
社長室。
つまり、俺は出社している。
九月十三日。
記憶にない。
紙をめくる。
九月十四日
出社。九時四十五分。
小早川氏より体調確認。
社長より「今日は半日で帰れ」と指示。
版権関係先、全件一次連絡完了。
雑誌差し替え一覧、制作へ引き渡し。
佐伯氏より「無理をしている時の方が字が綺麗」と指摘。意味不明。
九月十四日。
金曜日。
出社。
俺は、出社している。
二日連続で。
記憶がない。
俺の中には、九月十二日の夜から、今朝までの間がない。
なのに、紙はある。
仕事は進んでいる。
そして何より、字が俺の字だった。
いや、違う。
俺の字なのか。
篠宮怜子の字なのか。
この身体で書いている以上、字は篠宮怜子のものになる。
だが、俺には分かる。
微妙に違う。
俺が書く時より、線が細い。
角が柔らかい。
漢字が少し旧い。
そして、俺が絶対に書かない言い回しが混じっている。
本日は身体が重い。
だが、社長室の空気はさらに重い。
まず人。
次に言葉。
紙は三番目。
俺は、その一文を見て息を止めた。
俺の考えだ。
だが、俺の文章ではない。
「……誰だ」
声が震えた。
部屋には誰もいない。
航もいない。
美咲もいない。
小早川もいない。
なのに、机の上の紙だけが、ここに誰かがいたことを示している。
俺は、紙の束をさらにめくった。
最後の一枚に、短いメモがあった。
無理をしないで。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
俺は、その文字を見て、しばらく呼吸を忘れた。
*
固定電話が鳴った。
襲撃音。
俺は肩を跳ねさせた。
受話器を取る。
「はい、篠宮です」
『起きた?』
航だった。
声を聞いた瞬間、少しだけ現実に戻った。
「航」
『うん。声、戻ってる』
「戻ってる?」
電話の向こうで、航が少し黙った。
『覚えてない?』
「何を」
『……やっぱりか』
その言い方で、胃が冷えた。
「航」
『うん』
「私は、昨日と一昨日、何をしていましたか」
『会社行ってた』
「本当に?」
『うん』
「私は、寝込んでいたわけではなく?」
『木曜は昼前から。金曜は午前だけ。小早川さんが見張って、社長が半日で帰したって』
「なぜ私は会社へ」
『俺も止めたよ』
「止めた?」
『木曜の朝、さっちゃんが起きて、会社へ行くって言った』
「私は覚えていません」
『うん』
「その時の私は、どうでしたか」
電話の向こうで、航がまた少し黙った。
その沈黙が怖い。
『静かだった』
「いつも静かです」
『違う』
短く否定された。
『いつものさっちゃんは、静かでも中が忙しい。頭の中で何か計算してる感じがする』
「はい」
『木曜と金曜のさっちゃんは、静かだった。本当に静かだった』
俺は受話器を握りしめた。
『あと、俺のことを航さんって呼んだ』
「……は?」
『航さん』
俺は固まった。
航さん。
篠宮怜子が彼氏を呼ぶなら、あり得る。
いや、昔はそう呼んでいたのかもしれない。
だが、今の俺は航と呼ぶ。
たまに敬語になるが、航さんとは言わない。
『それで、ちょっと変だと思った』
「なぜ言わなかったのですか」
『言ったよ。さっちゃん、俺にまで敬語?って』
「返答は」
『“疲れているので”って』
便利な言い訳だ。
俺も使う。
だが、それは俺ではない。
『それで、昨日の夜は早めに寝かせた。今日は起きるまで連絡しないつもりだったけど、メールだけ入れた』
「私は、昨夜は」
『ちゃんと寝た。たぶん』
「たぶん」
『俺、泊まってないから』
「そうですか」
『本当は泊まろうか迷ったけど、さっちゃんが“一人で眠れます”って言った』
その言葉も、俺ではない気がした。
俺なら言いそうで、言わない。
航相手なら、たぶんもっと曖昧に逃げる。
その“私”は、はっきり言っている。
一人で眠れます。
それは、篠宮怜子の声に聞こえた。
「航」
『うん』
「私は、おかしいですか」
聞いてしまった。
電話の向こうで、航が息を吸う音がした。
『おかしい』
即答だった。
「即答ですね」
『うん』
「怖いですか」
『怖い』
また即答。
胸が痛んだ。
『でも、嫌じゃない』
「それは」
『たぶん、さっちゃんが一番怖いと思うから』
返せなかった。
『今日は行く。昼前には行ける』
「無理は」
『行く』
昨日と同じ言い方だった。
いや、三日前と同じか。
俺の中では一晩しか経っていないが、世界では三日経っている。
通話が切れた。
俺は受話器を置いた。
机の上の紙を見る。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
あなたでも私でも。
俺は、膝から力が抜けそうになった。
*
午前十時。
携帯にメールが来た。
小早川からだった。
起きましたか。
今日は出社禁止です。
来たら帰します。
小早川
簡潔。
強い。
怖い。
俺は返信した。
起きました。
出社しません。
記憶が一部ありません。怜子
送信してから、手が止まった。
記憶が一部ありません。
こんなことを小早川に送っていいのか。
だが、嘘をついても仕方がない。
すぐ返信が来た。
やはり。
航さんにも連絡しています。
午後、社長から電話があります。
水を飲んでください。
小早川
やはり。
やはり、とは何だ。
俺は携帯を握ったまま固まった。
次に、三浦からメールが来た。
篠宮さん、今日は休んでください。
昨日、顔が怖いくらい綺麗でした。
あれは仕事していい顔じゃないです。 三浦
顔が怖いくらい綺麗。
何だそれは。
褒めているのか。
怖がっているのか。
たぶん両方だ。
さらに佐伯から。
昨日の字は、いつもより読みやすかったです。
ただ、篠宮さんではない感じがしました。
休んでください。
佐伯
やめろ。
全員、気づいている。
いや、全員ではないかもしれない。
だが、近い人間は気づいている。
俺の中にない二日間を、周囲の人間は見ていた。
俺ではない俺を。
篠宮怜子の身体で動いていた、誰かを。
*
俺は、机の上の紙束を時系列に並べた。
九月十三日。
十時二十分、出社。
社長室へ。
小早川に叱られる。
社長に「半日で帰れ」と言われる。
安否確認二次集約。
差し替え一覧の整理。
昼過ぎ、帰宅。
航が来る。
粥。
就寝。
九月十四日。
九時四十五分、出社。
小早川の検問。
社長と短時間打ち合わせ。
雑誌差し替え一覧を制作へ引き渡し。
広告コピー確定。
初動七日表再開予定を作成。
十三時、退社。
十五時、航と電話。
十八時、睡眠。
きれいだ。
あまりにもきれいだ。
俺が過労でぐちゃぐちゃになりながら仕事をしている時より、よほど整っている。
無駄がない。
会話も少ない。
紙も少ない。
決めることだけを決め、帰る時は帰っている。
篠宮怜子という女は、もしかして俺より仕事ができるのではないか。
いや、当たり前だ。
この身体の本来の持ち主なのだから。
俺は、この女の生活と身体と職場に居候しているだけなのかもしれない。
そう思った瞬間、寒気がした。
では、俺は何だ。
篠宮怜子はどこにいた。
眠っていたのか。
消えていたのか。
それとも。
俺が勝手に、彼女の席を奪っていただけなのか。
「……やめろ」
声に出した。
考え始めると、戻れなくなる。
だが、考えないわけにもいかない。
俺は、最後のメモをもう一度見た。
無理をしないで。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
あなた。
私。
同じ身体。
これは、夢ではない。
少なくとも、俺の筆跡ではない何かが、紙に残っている。
*
昼前、航が来た。
チャイムが鳴る。
俺は玄関に向かった。
扉を開けると、航が立っていた。
手には袋。
また食べ物だ。
この男は、危機が起きると食べ物を持ってくる。
正しい。
かなり正しい。
「さっちゃん」
「はい」
「顔、戻ってる」
「戻っているのですか」
「うん」
「昨日は」
「昨日は、違った」
航は靴を脱いで入った。
リビングに座る。
俺は机の紙束を見せた。
航は無言で読んだ。
読み終えるまで、何も言わなかった。
「これ、さっちゃんが書いたの?」
「身体は」
「中身は?」
「分かりません」
航は紙をもう一度見た。
最後のメモで手が止まる。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
「これ」
「はい」
「さっちゃんじゃない?」
「少なくとも、今の私ではありません」
「今の私」
航が小さく繰り返した。
痛いところを拾われた。
「俺、と言うべきでしたか」
「どっちでもいい」
航は顔を上げた。
「さっちゃんが楽な方でいい」
俺は黙った。
「でも、これを書いた人は、たぶん“私”って言うんだね」
その一言が刺さった。
俺の中に、私がいる。
あるいは、私の中に、俺がいる。
どちらが正しいのか分からない。
「航」
「うん」
「昨日の私は、あなたに何かしましたか」
「何か?」
「変なことを」
航は少し考えた。
「俺に、謝った」
「何を」
「ずっと心配をかけているって」
胸が詰まった。
「それから?」
「“あなたは優しいので、私が甘えすぎないようにしなければいけません”って言った」
「……」
「さっちゃんが言うには、硬すぎた」
「はい」
「だから俺、言った」
「何を」
「甘えていいよって」
航は少しだけ苦笑した。
「そしたら、“検討します”って」
検討。
俺なら判断を保留しますと言う。
篠宮怜子なら、検討しますと言うのか。
近い。
でも違う。
俺は、思わず笑いそうになって、笑えなかった。
「あと」
航は少し迷った。
「俺のこと、航さんって呼んだあと、一回だけ航って呼んだ」
「はい」
「その時、ちょっと泣きそうな顔してた」
呼吸が止まる。
「さっちゃん」
「はい」
「昨日のさっちゃんは、俺を知ってた」
その言葉は、重かった。
知っていた。
篠宮怜子は、航を知っている。
当然だ。
恋人なのだから。
だが、俺にとっては当然ではない。
俺は、航との関係を後から覚えた。
メモ、歯ブラシ、身体の反応、電話、食事、距離。
少しずつ知った。
だが彼女は違う。
最初から知っている。
航の声も、癖も、優しさも、距離も。
知っている人間の顔を、昨日の彼女はしたのだろう。
それを想像すると、胸が痛んだ。
「航」
「うん」
「私は、あなたの恋人を奪っていますか」
言ってしまった。
航の顔が変わった。
「それ、今聞く?」
「今でないと、聞けません」
航はしばらく黙った。
それから、ゆっくり言った。
「分からない」
正直だった。
「正直に言うと、分からない」
「はい」
「俺の知ってるさっちゃんは、ここにいる」
「はい」
「でも、今のさっちゃんは、前と違う」
「はい」
「昨日のさっちゃんは、前に近かった。でも完全に同じかは分からない」
「はい」
「だから、奪ったとか奪ってないとか、今は決められない」
航は紙を見た。
「でも、どっちにしても、この身体は壊したら駄目だ」
最後のメモと同じだった。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
「そこは、たぶん二人とも同じこと言ってる」
「二人」
「うん」
航はまっすぐ俺を見た。
「さっちゃんが二人いるなら、二人とも寝て、食べて、無理しないで」
「雑では」
「でも大事」
「はい」
返す言葉がなかった。
*
午後二時。
社長から電話が来た。
「はい、篠宮です」
『起きているな』
「はい」
『記憶が飛んだそうだな』
小早川。
報告が早い。
「はい」
『慌てるな』
「無理です」
『だろうな』
社長の声は落ち着いていた。
『この二日、君は出社した』
「はい」
『仕事もした』
「はい」
『だが、いつもの君ではなかった』
「やはり」
『正直に言えば、昔の篠宮君に近かった』
昔の篠宮君。
俺は受話器を握った。
『静かで、無駄がなく、よく気が回る。だが、少し遠い』
「遠い」
『今の君は、近すぎる』
「褒めていますか」
『判断を保留する』
社長に取られた。
俺は少しだけ息を吐いた。
『篠宮君』
「はい」
『君が何者か、私は知らん』
心臓が跳ねた。
『だが、篠宮怜子が戻ったのか、君が疲れて別の顔になったのか、あるいはその両方か。それを今ここで決める必要はない』
「必要は、ないのでしょうか」
『仕事上はな』
「仕事上は」
『人としては、君が向き合え』
厳しい。
だが、正しい。
『ただし、これだけは言う』
「はい」
『この二日、君がいなくても社長室は動いた。だが、君がいたから動いた部分もある』
「はい」
『篠宮怜子がいたから動いた部分もある』
俺は黙った。
『その二つを、敵にするな』
「敵に」
『君は、すぐに自分を責める。あるいは、理屈で片付けようとする。だが、自分の中にあるものを敵にすると、仕事も身体も壊れる』
「……承知いたしました」
『今日は休め』
「はい」
『月曜も午前休だ』
「それは」
『命令だ』
「承知いたしました」
『あと』
「はい」
『航君に礼を言え』
「なぜ」
『君が出社している間、彼が朝晩に確認していた』
俺は航を見た。
航は台所にいた。
聞こえているのか、聞こえていないのか分からない。
『君の改革は、社内だけで動いているわけではない』
「はい」
『生活に支えられている。忘れるな』
「はい」
通話が切れた。
俺は受話器を置いた。
生活に支えられている。
紙ではなく。
数字ではなく。
人でもなく。
生活。
もっと具体的で、もっと面倒なもの。
粥。
水。
電話。
毛布。
メール。
朝晩の確認。
出社を止める人。
帰らせる人。
食べさせる人。
寝かせる人。
その全部が、俺を動かしている。
*
夕方。
俺はメモ帳を開いた。
航がすぐ見た。
「仕事?」
「違います」
「本当?」
「たぶん」
「たぶん禁止」
「では、私的記録です」
「それなら少しだけ」
許可制になっている。
俺の生活は、完全に監視下に入った。
仕方ない。
倒れたし、記憶も飛んだ。
俺はペンを取った。
九月十五日。
起きたら三日過ぎていた。
その間、私は出社していたらしい。
私、というべきか、俺、というべきかは不明。
少し迷って、続ける。
九月十三日、十四日の記録あり。
筆跡は身体のもの。
文章は俺と違う。
“倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。”
手が止まる。
航が横からお茶を置いた。
「震えてる」
「はい」
「やめる?」
「もう少し」
「少しだけ」
「はい」
俺は書いた。
篠宮怜子は、消えていないのかもしれない。
あるいは、俺が勝手に彼女を消えたことにしていただけかもしれない。
今は決めない。
敵にしない。
同じ身体を壊さない。
最後に、一行。
まず人。
その中に、自分も入れる。
ペンを置いた。
息が少しだけ深くなった。
航が言った。
「書けた?」
「はい」
「じゃあ寝る」
「まだ夕方です」
「横になる」
「はい⋯⋯」
反論する気力はなかった。
*
その夜。
俺はベッドに入った。
航は帰らなかった。
ソファにいる。
美咲からは、短いメールが来た。
さっちゃん、ちゃんと寝て。
わた兄がうるさかったら殴っていい。
殴らない。
たぶん。
俺は布団の中で、暗い天井を見た。
九月十三日。
九月十四日。
俺の知らない二日間。
そこで社長室は動いた。
雑誌差し替えは進んだ。
広告コピーは変わった。
初動七日表は止まり、再開予定が組まれた。
航は朝晩に確認した。
小早川は見張った。
三浦は気づいた。
佐伯は字を見た。
社長は、昔の篠宮君に近かったと言った。
昔の篠宮怜子。
本来の彼女。
俺が借りている身体の持ち主。
彼女は、まだここにいるのかもしれない。
その事実は怖い。
だが、少しだけ救いでもあった。
俺は一人でこの身体を背負っているわけではない。
同時に、一人で好き勝手していいわけでもない。
この身体には、生活がある。
恋人がいる。
職場がある。
名前がある。
そして、たぶん。
俺以外の意思がある。
眠りに落ちる直前、机の上のメモが頭に浮かんだ。
無理をしないで。
倒れたのは、あなたでも私でも同じ身体です。
その通りだ。
俺でも。
私でも。
この身体はひとつしかない。
平成十三年九月十五日。
起きたら三日過ぎていた。
なのに、俺は出社していたらしい。
これはおかしい。
かなりおかしい。
だが、世界が変わった週において、俺の中だけが無事でいられるはずもなかった。
俺は目を閉じた。
今夜は、眠る。
たぶん。
俺と、私のために。




