第十九話 差し替えを巡る小さな諍いと、星が散った話
九月十二日、午後零時四十五分。
社長室の机の上には、紙束が増え続けていた。
安否確認。
海外関係先。
翻訳者。
版権。
出張者。
広告・刊行予定。
読者向け発信文言。
そして、次号の雑誌原稿と広告コピー。
昨日までなら、ただの原稿だったもの。
昨日までなら、ただの煽り文句だったもの。
昨日までなら、ただの娯楽だったもの。
それらが、一夜で別の意味を持ち始めていた。
紙は変わっていない。
インクも変わっていない。
作家も編集者も、昨日までと同じ仕事をしただけだ。
だが、読者の側が変わった。
世界の空気が変わった。
つまり、紙面の意味が変わった。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「顔が死んでいる」
「通常運転です」
「今日はその返しを許さん」
「……はい」
眠れていない。
正確には、航に言われて一時間だけ横になった。
眠ったのかどうかは分からない。
目を閉じた。
テレビの音が遠ざかった。
航が部屋にいた。
それだけは覚えている。
その一時間で、身体は少しだけ持ち直した。
だが、心は戻っていなかった。
戻るはずがない。
「まず、安否確認は小早川さんがまとめます」
俺は紙を見ながら言った。
「海外出張者、翻訳者、版権関係先は、各担当から一時までに一次報告。広告と刊行予定は、岸本さんと真鍋さん、佐伯さんで危険箇所を拾います」
「危険箇所」
真鍋が低い声で繰り返した。
「言い方が悪いですね」
「では、確認箇所で」
「それでも硬い」
「代案を」
「……今はいいです」
真鍋も疲れている。
全員が疲れていた。
世界が変わった日に、元気でいる人間など信用できない。
*
次に問題になったのは、広告コピーだった。
岸本が机に置いたラフには、昨夜見たものと同じ言葉があった。
この秋、世界が崩れる。
昨日までなら、ただの煽りだった。
少し大げさで、少し安くて、それでも紙面上では成立する言葉。
だが、今日見ると違う。
違いすぎる。
「差し替えです」
俺は言った。
「それは同意です」
岸本が頷く。
「問題は、何に差し替えるかです」
「広告主の希望は?」
「強い言葉を残したいそうです」
「強い言葉」
「候補がこれです」
岸本は別紙を差し出した。
この秋、世界が変わる。
会議室が沈黙した。
俺は紙を見た。
世界が変わる。
昨日なら、許されたかもしれない。
いや、昨日でも少し大げさだ。
だが今日では、駄目だ。
「これも駄目です」
「ですよね」
岸本は即答した。
「私もそう思います」
「ではなぜ出しました」
「広告主が出してきました」
「説得が必要ですね」
「はい」
岸本の顔が重い。
広告主との調整。
締切。
紙面。
責任。
宣伝部の仕事は、言葉を作るだけではない。
言葉を通す仕事でもある。
「代案は」
社長が聞いた。
岸本は少し迷ってから言った。
「この秋、新しい物語が始まる」
「弱いですね」
俺は言った。
「分かっています」
「でも、今は弱さが必要です」
岸本が顔を上げた。
「弱くていいと?」
「はい」
俺は紙を指で押さえた。
「今日、強い言葉を無理に使うと、読者の傷口に紙を押し当てます」
昨朝の言葉が、自分の中でまだ残っている。
「強いコピーが必要な商品だとしても、今は読者の方が強い衝撃を受けています。広告がそれに勝とうとする必要はありません」
「勝とうとする広告は、嫌ですね」
佐伯が言った。
「はい」
「では、弱くしましょう」
佐伯は赤ペンを取り、岸本の案を少し直した。
この秋、物語は静かに始まる。
岸本が紙を覗く。
「静かに、ですか」
「今は大声を出さない方がいいです」
「広告として弱い」
「読者に嫌われるよりましです」
佐伯は静かに言った。
岸本はしばらく紙を見ていた。
それから、頷いた。
「広告主に当てます」
「通りますか」
「通します」
宣伝部の顔だった。
*
その次は、短編だった。
佐伯が持ってきた原稿。
導入に飛行機事故がある。
事故そのものが主題ではない。
主人公が過去を背負うためのきっかけ。
物語としては必要な要素。
昨日までなら、問題なかった。
だが今日の読者は、昨日の読者ではない。
「次号送りです」
俺は言った。
「修正ではなく?」
真鍋が聞いた。
「修正すると作品が歪みます」
「載せないのではなく、送る」
「はい」
真鍋は腕を組んだ。
「作者への説明は編集がします」
「お願いします」
「ただし」
真鍋の声が少し硬くなる。
「篠宮さん。こういう判断は、簡単に癖になります」
「はい」
「世の中で何か起きるたびに、事故があるから駄目、戦争があるから駄目、死があるから駄目、と言い始めると、雑誌は何も載せられなくなります」
「承知しています」
「本当に?」
「はい」
真鍋の目が鋭い。
「今回は、飛行機事故が導入にあり、かつ発売時期が直近すぎます。読者が映像を見せられ続けた直後です。だから送ります」
「一か月後なら?」
「再確認します」
「半年後なら?」
「作品として載せます」
「では、基準は時間ですか」
「時間だけではありません」
「では何ですか」
小さな諍いだった。
だが、避けてはいけない諍いだった。
編集は作品を守る。
宣伝は読者への出し方を見る。
社長室は会社全体を見る。
全員が正しい。
だから揉める。
「読者が、その作品を作品として読めるかどうかです」
俺は言った。
「今日出すと、読者は飛行機事故の物語として読んでしまう可能性が高い。作者がそう書いていなくてもです」
真鍋は黙った。
「それは、作品にとって不幸です」
「読者のためではなく?」
「作品のためでもあります」
俺は原稿を見た。
「昨日までなら背負わなくてよかった意味を、今日載せることで背負わせる。それは作者にも作品にも酷です」
佐伯が静かに頷いた。
「私も、次号送りでいいと思います」
真鍋は少しだけ息を吐いた。
「分かりました。ですが、これを前例にしすぎないでください」
「はい」
「作品を守る判断と、作品を怖がる判断は違います」
刺さった。
「肝に銘じます」
「本当に」
「はい」
*
四つ目は、漫画の扉絵だった。
異世界の城塞都市が燃えている。
塔。
煙。
逃げる人影。
炎。
空を飛ぶ黒い影。
内容はファンタジーである。
現実の事件とは何の関係もない。
だが、絵面が近い。
近すぎる。
「差し替えたいです」
岸本が言った。
「扉だけなら、何とか」
川辺が紙を見ていた。
「今日夕方までに代替が来れば」
「今日夕方」
佐伯が眉を寄せる。
「作家さんに無理を言うことになります」
「無理ですか」
「無理ではありません。ただ、理由が重い」
「編集から説明しますか」
「します」
佐伯は扉絵を見た。
「でも、この絵は良いです」
「はい」
「良いから危ない」
「はい」
「嫌ですね」
「はい」
良いものが、時期によって危うくなる。
紙面はそういう場所だった。
真鍋が言った。
「掲載を飛ばすのではなく、扉だけ差し替え。本文はそのまま」
「はい」
「代替扉は、人物寄りに」
「都市の炎を外す」
「はい」
岸本がメモを取る。
川辺が時間を見る。
「夕方までです」
「無理なら?」
「次号送りです」
重い。
だが、決めなければ紙は進まない。
*
一時半を幾らか過ぎた頃、にわかに諍いは大きくなった。
原因は、読者投稿欄だった。
ある雑誌の読者投稿ページに、海外都市崩壊を茶化したイラストがあった。
投稿されたのは事件前。
悪意はない。
完全に偶然。
だが、載せられない。
「これは落とします」
俺は言った。
「当然です」
岸本も同意した。
だが、雑誌編集の担当者は顔をしかめた。
「そのページ、穴が空きます」
「差し替え候補は」
「ありません」
「読者投稿欄の空きは?」
「小さいカットで埋められますが、全体のバランスが崩れます」
「崩してください」
俺は言った。
担当者の目が少し険しくなる。
「簡単に言いますね」
その一言で、部屋の空気が張った。
三浦が俺を見る。
小早川が横から一歩動きかける。
俺は担当者を見た。
疲れている。
怒っている。
この人も現場だ。
紙面を作ってきた。
締切を抱えている。
そこへ社長室が突然来て、落とせ、差し替えろ、と言っている。
腹が立つに決まっている。
「簡単ではありません」
俺は言った。
「では、なぜ簡単に言うんです」
担当者の声は低かった。
「そのページ、何日前から作ってると思いますか。投稿した読者だって、載るのを楽しみにしているかもしれない。紙面のバランスもあります。締切もあります。印刷もあります」
「はい」
「昨日まで問題なかったものを、今日になって駄目だと言う。そんなことを毎回やられたら、雑誌は作れません」
正しい。
この人は正しい。
だから、痛い。
「おっしゃる通りです」
俺は頭を下げた。
担当者が少し詰まる。
「ですが、今日だけは落としてください」
「理由は」
「投稿した読者を守るためです」
担当者の表情が変わった。
「読者を?」
「はい」
俺は投稿イラストを見た。
「この投稿者は、事件前に描いて送っています。悪意はありません。ですが、今日載れば、悪意があるように読まれる可能性があります」
紙を指で押さえる。
「雑誌は、その読者の名前を載せます。ペンネームでも、載せます。読者を、偶然の地雷の上に立たせる必要はありません」
担当者は黙った。
「落とすのは、会社を守るためでもあります。雑誌を守るためでもあります。でも、投稿した読者を守るためでもあります」
しばらく沈黙があった。
担当者は、ゆっくり息を吐いた。
「……差し替えます」
「ありがとうございます」
「ただし、穴埋めは手伝ってください」
「はい」
「社長室も」
「はい」
「篠宮さんも」
「はい」
「逃がしません」
「承知いたしました」
小さな諍いは、そこでいったん収まった。
だが、俺の体力はかなり削られていた。
*
遅くしたはずの昼食は、結局食べ損ねた。
小早川に見つかれば殺される。
いや、殺されはしない。
椅子に座らされ、何か食べさせられる。
だが、その小早川も今日は安否確認と連絡調整で走っていた。
秘書課の人間は、こういう時に強い。
強いが、強い人間ほど倒れる時は急だ。
それは自分にも言える。
分かっている。
分かっているが、手が止まらない。
午後二時。
広告コピーの代案が戻る。
午後二時半。
飛行機事故の短編は次号送りで確定。
午後三時。
漫画の代替扉について、編集から作家に連絡。
午後三時四十分。
読者投稿欄の差し替えカットが足りない。
午後四時。
海外関係先の一次安否確認。
午後四時半。
翻訳者の一人と連絡が取れない。
午後五時。
取れた。
無事だった。
その瞬間、社長室の空気が少しだけ緩んだ。
俺も、少しだけ息を吐いた。
それがいけなかった。
張っていた糸が、一瞬緩んだ。
*
「篠宮さん」
三浦が言った。
「顔、白いです」
「照明です」
「違います」
「通常運転です」
「それ、今日は禁止です」
また禁止された。
禁止語が増えていく。
俺は紙を見た。
赤ペン。
差し替え。
次号送り。
確認済み。
未確認。
連絡待ち。
字が少し揺れている。
いや、紙が揺れているのか。
違う。
俺が揺れている。
「少し座ってください」
三浦が言った。
「座っています」
「立っています」
「……そうでしたか」
いつの間に立ったのか分からない。
机の端に手を置いていた。
指先が冷たい。
頭の奥が、遠くなる。
まずい。
これはまずい。
倒れる前に止まる。
航の声が、頭の中で聞こえた。
今日は、ちゃんと倒れる前に止まって。
止まろう。
そう思った。
だが、身体が先に止まった。
「篠宮さん?」
三浦の声が少し遠い。
小早川がこちらを見る。
社長が立ち上がる。
佐伯が赤ペンを落とす。
真鍋が何か言う。
音が全部、水の中に沈む。
紙が白い。
とても白い。
安否確認。
広告差し替え。
次号送り。
読者の傷口。
初七日。
飛行機。
ビル。
航の手。
美咲のメール。
世界が変わる。
まず人。
それから紙。
それから数字。
その順番を書いた自分が、いま、人として壊れかけている。
ああ。
これは駄目だ。
そう思った時には、床が近かった。
*
目を開けると、天井が見えた。
社長室の天井ではない。
応接用の小部屋。
ソファ。
横になっている。
額に冷たいもの。
小早川の顔。
怖い。
非常に怖い。
「起きましたか」
「はい」
「起きなくていいです」
「はい」
「返事もしなくていいです」
「はい」
「返事」
「……」
黙った。
小早川は濡れたタオルを替えた。
その手つきは丁寧だった。
だが、顔が怖い。
「倒れました」
「……はい」
「綺麗に」
「綺麗に?」
「真横に」
「申し訳ありません」
「謝らなくていいです」
今日、何度その言葉を言われただろう。
「原因は?」
社長の声がした。
部屋の奥にいた。
「睡眠不足、食事抜き、緊張、過労」
小早川が即答した。
「あと、本人の性格です」
「最後は治るか」
「難病です」
「でしょうね」
ひどい会話が聞こえる。
だが、反論できない。
「仕事は」
俺は言いかけた。
小早川の目が細くなった。
黙った。
「仕事は回っています」
社長が言った。
「岸本が広告を通した。佐伯と真鍋が次号送りをまとめている。三浦が穴埋めを手伝っている。川辺が締切を見ている。久我が営業へ連絡した」
「はい」
「君が倒れても、会社は動く」
その言葉は、少し痛かった。
だが、必要な痛みだった。
「それは良いことだ」
社長は続けた。
「君がいないと動かない改革は、改革ではない」
刺さった。
とても刺さった。
「承知……」
小早川の目。
黙った。
社長が少し笑った。
「今日はもう帰れ」
「ですが」
「帰れ」
「まだ」
「篠宮君」
声が低くなった。
「人を見ると言った日に、自分を人に数えられない者は、紙を見る資格がない」
何も言えなくなった。
正しい。
完全に正しい。
俺は、人を見る、と書いた。
まず人。
それから紙。
それから数字。
その最初の「人」に、自分を入れていなかった。
それは、順番を間違えている。
*
夕方。
航が迎えに来た。
なぜ知っている。
と思ったら、小早川が連絡したらしい。
秘書課は怖い。
何でも把握し、必要なら恋人へ連絡する。
人権はどこだ。
いや、倒れた人間に人権を主張する資格は薄い。
「さっちゃん」
航は俺を見るなり、深く息を吐いた。
「倒れたって聞いた」
「軽微です」
「軽微じゃない」
「横になれば」
「なってる」
「はい」
返す言葉がなかった。
小早川が横から言う。
「今日は連れて帰ってください」
「はい」
「食べさせてください」
「はい」
「寝かせてください」
「はい」
「仕事の紙を触らせないでください」
「はい」
「小早川さん」
俺は抗議しかけた。
小早川の目。
黙った。
航が少しだけ苦笑した。
「分かりました」
「お願いします」
小早川は深く頭を下げた。
その動作が、仕事のそれではなく、少しだけ私人のものに見えた。
「怜子さんは、放っておくと自分を数に入れません」
「知ってます」
航が答えた。
知っているのか。
そうか。
知っているのか。
*
帰り道。
航は俺の鞄を持っていた。
中身は軽い。
小早川に検閲されたからだ。
初動七日表もない。
差し替え一覧もない。
メモ帳だけは、なぜか入っていた。
小早川が残したのか。
航が残したのか。
分からない。
「歩ける?」
「歩けます」
「本当?」
「はい」
「じゃあ、ゆっくり」
航は手を差し出さなかった。
ただ、俺の歩幅に合わせた。
それが、今はありがたかった。
駅へ向かう人の流れは、昨日までと同じように見えた。
だが、どこか違う。
新聞を読む人。
携帯でメールする人。
駅のテレビを見上げる人。
声を潜めて話す人。
世界の空気は変わっていた。
それでも、電車は走る。
会社は動く。
紙は刷られる。
人は帰る。
それが、少し不思議だった。
「航」
「うん」
「今日は、迷惑をかけました」
「うん」
「否定しないのですか」
「迷惑はかかったから」
「はい」
「でも、迷惑かけていいよ」
俺は足を止めかけた。
「いいのですか」
「いい」
「なぜ」
「人だから」
短い言葉だった。
だが、今日の俺には、それで十分だった。
まず人。
それから紙。
それから数字。
なら、迷惑をかけることも、たぶん人の中に入る。
*
夜。
部屋に帰ると、航は簡単な粥を作った。
また粥。
この身体は粥に助けられすぎている。
「食べて」
「はい」
「全部じゃなくていい」
「はい」
「食べたら寝る」
「はい」
「紙は?」
「触りません」
「本当?」
「努力します」
「触らない」
「はい」
航は強い。
小早川と同じ種類の強さがある。
俺は粥を少しずつ食べた。
温かい。
胃に落ちる。
身体が、ようやく自分の存在を主張し始める。
人を見る。
紙を見る。
数字を見る。
その順番を間違えてはいけない。
俺はメモ帳を開きかけた。
航が見た。
閉じた。
「書かないの?」
「寝ます」
「偉い」
「不本意です」
「不本意でも偉い」
俺は少しだけ笑った。
それから、布団に入った。
航は部屋の明かりを落とした。
テレビはつけなかった。
世界を見ない夜ではない。
世界を少し遠ざける夜だった。
目を閉じる前に、俺は頭の中だけで一行を書いた。
届けない判断も、届ける仕事のうち。
それを書き留めるのは、明日でいい。
今日は、寝る。
人だから。
平成十三年九月十二日。
差し替えを巡る小さな諍いの果てに、俺は卒倒した。
そして、ようやく少しだけ分かった。
紙の帝国を変える前に。
まず、自分を紙ではなく人として扱わなければならないのだ。




