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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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18/33

第十八話 初七日の憂鬱(後編) 海の向こうで飛行機がビルに墜ちた日

 九月十一日。


 火曜日。


 東京ディズニーシーの開園から、ちょうど一週間後。


 朝、社長室の机に置かれたカレンダーを見て、俺は少しだけ手を止めた。


 九月十一日。


 その数字の並びが、胸の奥に引っかかる。


 未来の俺は、その日付を知っている。


 知らないはずがない。


 けれど、平成十三年の東京では、まだ普通の火曜日だった。


 朝の電車は混んでいる。


 駅の売店では新聞が売られている。


 会社には紙が届く。


 電話が鳴る。


 会議が入る。


 初動七日表は、まだ初七日などという不穏な略称を背負ったまま、現場に回り始めたばかりだった。


 何も起きていない。


 まだ、何も起きていない。


 それが、ひどく怖かった。


「篠宮君」


 社長が言った。


「はい」


「顔が悪い」


「通常運転です」


「違うな」


 社長は机の向こうから俺を見た。


「今日は、未来を見ている顔だ」


 心臓が跳ねた。


「比喩ですか」


「君の真似だ」


「笑えません」


「そういう顔をしている」


 俺はカレンダーから目を離した。


 九月十一日。


 数字は、紙の上で静かだった。


 紙は何も知らない。


 人間だけが、その先を知っている。


 いや。


 この世界で、その先を知っているのは俺だけかもしれない。


 それが、どうしようもなく重かった。


     *


 午前中、初動七日表の改訂確認があった。


 会議室には、いつもの面々が集まっていた。


 久我。


 榊原。


 大町。


 三浦。


 佐伯。


 真鍋。


 岸本。


 川辺。


 社長。


 そして俺。


 机の中央には、表裏一枚になった初動七日表。


 すでに赤ペンと鉛筆と修正線が入っている。


 綺麗な紙ではなくなっていた。


 だが、使われる紙にはなり始めている。


「では、初七日の件だが」


 久我が言った。


「初動七日表です」


 俺は即座に訂正した。


「まだ言うのか」


「正式名称です」


「現場では初七日の方が通りがいい」


「通さないでください」


 久我は鼻で笑った。


「縁起が悪いくらいが忘れん」


「忘れなくていいので、別の名前で覚えてください」


 三浦が横で小さく笑っていた。


 佐伯は赤ペンを持ったまま言う。


「私は嫌いではありません」


「佐伯さんまで」


「発売七日で作品を成仏させないための紙だと思えば、意味は通ります」


「通らないでください」


 真鍋が目を伏せたまま続ける。


「七日で死んだことにしない。生きているか、届いているか、詰まっているかを見る。皮肉としては悪くありません」


「全員、敵ですか」


「味方だから言っています」


 それは分かる。


 分かるが、初七日は嫌だった。


 あまりにも縁起が悪い。


 だが、今日に限っては、その縁起の悪さが妙に胸に残った。


 初七日。


 死者を数える言葉。


 発売七日で死んだことにするな、という意味なら、確かに忘れにくい。


 嫌だ。


 それでも、忘れにくい。


「篠宮さん」


 佐伯が言った。


「今日は反応が遅いです」


「睡眠不足です」


「嘘ですね」


 鋭い。


 俺は返せなかった。


 九月十一日。


 今日という日が、紙の上で進んでいる。


 時計の針が、夜へ向かっている。


 何かしなければならないのではないか。


 だが、何を。


 誰に。


 どう言えばいい。


 アメリカで。


 飛行機が。


 ビルに。


 その断片は知っている。


 だが、未来の知識は神の視点ではない。


 俺は、世界史の見出しを知っているだけだ。


 何便か。


 何時か。


 どこで止めればいいのか。


 誰に信じてもらえばいいのか。


 それを説明する言葉を、俺は持っていない。


 持っていないくせに、日付だけを知っている。


 人を救うにはあまりにも粗い。


 背負うにはあまりにも重い。


     *


 午後は、仕事をした。


 した、というより、手を動かし続けた。


 初動七日表の項目を削る。


 店員所感の選択肢を整理する。


 追加注文と実売の違いを太字にする。


 重版可能日を「最短」と「現実的」に分ける。


 販促修正を「即時」と「次回反映」に分ける。


 佐伯の赤ペンで、また一行が増える。


 棚で効く雑さと、公式が背負う言葉は分ける。


 それは正しい。


 とても正しい。


 だが、俺の意識の半分は、ずっと時計を見ていた。


 日本時間の夜。


 ニューヨークの朝。


 時差。


 九月十一日。


 紙の帝国の中で、俺は紙に向かっている。


 その間に、世界は別の場所で、別の扉を開こうとしている。


 いや、扉ではない。


 穴だ。


 落とし穴だ。


 そこに人が落ちる。


 たくさんの人が。


「篠宮君」


 夕方、社長が俺を呼んだ。


「はい」


「今日はもう帰れ」


「まだ確認が」


「帰れ」


「ですが」


「君の顔を見ていると、こちらまで落ち着かない」


 俺は黙った。


「何かあるのか」


 社長は静かに聞いた。


 この人は、たぶん本気で聞いている。


 俺は答えられない。


 答えたところで、どうなる。


 いや、答えなければ、何もしなかったことになる。


 喉の奥が詰まる。


「社長」


「何だ」


「もし」


 言葉が止まる。


 未来を知っていると言えない。


 飛行機が墜ちると言えない。


 ビルが崩れると言えない。


 人が死ぬと言えない。


 言えば狂人だ。


 言わなければ、臆病者だ。


 どちらにしても、俺は救えない。


「もし、遠い場所で大きな出来事が起きたら」


 絞り出すように言った。


「出版は、どう動きますか」


 社長はしばらく俺を見た。


「遠い場所とは」


「海外です」


「事故か」


「……分かりません」


「戦争か」


 鋭い。


 俺は答えなかった。


 社長は椅子に背を預けた。


「まず、情報を見る」


「はい」


「次に、人を見る。社員、海外出張者、取引先、翻訳者、版権関係者。安全の確認だ」


「はい」


「その後で予定を見る。刊行、広告、イベント、宣伝文句。世の中の空気に対して、今出す言葉が合っているかどうか」


「はい」


「最後に、売上を見る」


「最後ですか」


「最初に見れば、会社が腐る」


 その言葉は、静かだった。


「だが、見ないわけにもいかない。人が不安になると、買う本も変わる。読むものも変わる。外へ出るか、家にこもるかも変わる」


 社長は少し間を置いた。


「出版は世の中の空気を食っている。だから、大きな空気の変化には逆らえない」


「では、どうするのですか」


「空気が変わったことを、まず認める」


 俺は何も言えなかった。


 空気が変わる。


 今夜、世界の空気は変わる。


 そのことを、この人はまだ知らない。


 知らないまま、正しいことを言っている。


「篠宮君」


「はい」


「何が見えているのかは聞かん」


 心臓が止まりかけた。


「だが、君が今日、何かに怯えていることは分かる」


「……申し訳ありません」


「謝るな」


 社長は短く言った。


「帰れ。ひとりで抱えるな」


「はい」


「航君に電話しろ」


「なぜ航の名前が」


「君が一番嫌がらずに弱る相手だ」


 返せなかった。


     *


 夜。


 部屋に帰った。


 テレビはつけなかった。


 つければ、その時が来る気がした。


 つけなければ、来ない気がした。


 そんなわけがない。


 世界は、俺がテレビをつけるかどうかで止まらない。


 それでも、リモコンに手を伸ばせなかった。


 部屋は静かだった。


 初動七日表の改訂版が、鞄の中に入っている。


 小早川に見つかったら怒られる量ではない。


 だが、今は開く気になれなかった。


 七日で裁かない。


 七日で成仏させない。


 七日で詰まりを見る。


 そんな言葉が、急に苦くなる。


 東京ディズニーシーが開園してから、七日。


 海の名を冠した新しい夢の国から、七日。


 そして今日。


 海の向こうで、悪夢が来る。


 携帯が鳴った。


 航だった。


「はい」


『さっちゃん?』


「はい」


『声、変』


「そうですか」


『うん。今日、何かあった?』


 何か。


 まだ、何も起きていない。


 いや、もう起きているのかもしれない。


 時差が頭の中でうまく結べない。


 九月十一日。


 ニューヨークの朝。


 東京の夜。


「航」


『うん』


「テレビをつけてもらえますか」


『テレビ?』


「ニュースを」


 電話の向こうで、少し間があった。


 リモコンの音。


 番組の音。


 そして。


『……え』


 航の声が変わった。


『さっちゃん、これ』


 俺はゆっくりテレビをつけた。


 画面の中に、見たことのある映像があった。


 高いビル。


 煙。


 信じられないほど青い空。


 アナウンサーの声はまだ混乱している。


 事故。


 航空機。


 ニューヨーク。


 世界貿易センター。


 俺は、ソファの前で立ったまま動けなくなった。


 知っていた。


 知っていたはずだ。


 未来の映像で何度も見た。


 教科書でも、ニュース特番でも、ネットの記事でも、切り取られた動画でも見た。


 だが、二〇〇一年の今、リアルタイムのニュースとして見るそれは、記憶とは違った。


 まだ、意味が確定していない。


 まだ、世界が名前をつけていない。


 まだ、誰も「歴史」として整理していない。


 ただ、煙が上がっている。


『さっちゃん』


 電話の向こうで航が言った。


『これ、事故?』


 俺は答えられなかった。


 事故ではない。


 だが、まだ言えない。


 言いたくない。


 言えば、次が来る。


 画面の中で、もう一機が入ってきた。


 その瞬間、航の息が止まった。


 俺も息が止まった。


 テレビの中の声が乱れる。


 スタジオが混乱する。


 世界が、事故ではないことを理解し始める。


 俺は受話器を握ったまま、膝から力が抜けた。


 ソファに座ったのか、崩れたのか分からない。


「……来た」


『さっちゃん?』


「来てしまった」


『知ってたの?』


 その問いは、小さかった。


 だが、逃げ場がなかった。


 知っていた。


 少なくとも、日付と出来事を。


 だが、止められなかった。


 止めようともしなかったのか。


 その問いが、自分の内側から来る。


「知っている、というほどではありません」


 嘘だ。


 だが、全部を言うこともできない。


「ただ、嫌な日付でした」


『日付?』


「九月十一日」


 電話の向こうで、航が黙った。


 画面の中では煙が増えている。


 アナウンサーが言葉を探している。


 世界が、言葉を失っている。


     *


 電話は切らなかった。


 航も切らなかった。


 ただ、互いにテレビを見ていた。


 同じ映像を、別々の部屋で。


 俺は、もう一つ、またもう一つと、これから届く情報を知っていた。


 ペンタゴン。


 ペンシルベニア。


 四機。


 その単語が、頭の中に並んでいる。


 並んでいるのに、画面の中ではまだ断片だ。


 情報は、届くまでに時間がかかる。


 届いても、整理されるまで時間がかかる。


 正確になるまで時間がかかる。


 誤報も流れる。


 不安も流れる。


 言葉が、世界を追いかけられない。


 出版も、新聞も、テレビも、ネットも、まだ追いつけない。


 未来の俺は、結果だけを知っていた。


 だが、現在の人間たちは、結果の途中にいる。


 それが、こんなにも苦しいとは思わなかった。


『美咲からメール来た』


 航が言った。


『怖いって』


「返してあげてください」


『うん』


「ひとりにしないで」


『さっちゃんも』


「はい」


『ひとりにしないでいい?』


 俺は受話器を握った。


 今から来るのか。


 この状況で人に会うのは怖い。


 だが、ひとりでいるのも怖い。


 画面の中の煙は、現実感を奪っていく。


「来ても、構いません」


『分かった。すぐ行く』


「無理は」


『行く』


 通話が切れた。


 俺はテレビを見続けた。


 何もできない。


 ただ、見る。


 未来を知っていても、何もできない。


 出版改革も、初動七日表も、ビーンズ文庫も、まるマも、ゼクシィも、imidasも、ブリタニカも、ディズニーシーも。


 全部が一瞬、遠くなった。


 人が死ぬ。


 飛行機が墜ちる。


 ビルが燃える。


 そして、ビルが墜ちる。


 いや、違う。


 ビルは墜ちない。


 崩れる。


 それでも、あの映像の中では、ビルまで空から墜ちたように見えた。


 空にあったものも、地上に立っていたものも、同じように崩れ墜ちていく。


 世界が、墜落する。


 その前で、紙の流れを変えようとしていた自分が、あまりにも小さく見えた。


 だが、小さいから意味がないのか。


 分からない。


 分からないまま、テレビの音だけが部屋に満ちていた。


     *


 航は本当に来た。


 雨ではなかった。


 だが、夜の空気は重かった。


 ドアチャイムが鳴る。


 俺は玄関へ向かった。


 扉を開けると、航が立っていた。


 息が少し上がっている。


 手にはコンビニの袋。


 中身は水と、温かいお茶と、たぶん食べ物。


「さっちゃん」


「はい」


「入っていい?」


「はい」


 航は靴を脱ぎ、部屋に入った。


 テレビの音が流れている。


 画面を見て、彼は一瞬だけ顔を歪めた。


 それから、俺の方を見た。


「大丈夫?」


「分かりません」


「正直」


「はい」


 航は少しだけ近づいた。


 だが、触れなかった。


 いつものように、距離を確認している。


 俺はそれを見て、胸が苦しくなった。


 こんな夜にも、この男は俺の距離を測ってくれる。


 それがありがたくて、重くて、泣きそうになる。


「航」


「うん」


「今日は、少し近くにいてください」


 言ってしまった。


 航の目が揺れた。


「触っていい?」


 聞いてくれる。


 この状況でも。


「手だけ」


「うん」


 航は俺の隣に座り、ゆっくり手を取った。


 指先が触れる。


 温かい。


 現実の温度だった。


 テレビの中の映像は、現実感がないほど現実だった。


 だが、航の手は俺の手のひらより大きくて、具体的で、今ここにあった。


 俺はその手を握り返した。


 少しだけ。


 強くはない。


 でも、下がらなかった。


 焼きそばソースの時より、もう少しだけ進んだ。


 こんな夜に進むな、と思った。


 だが、こんな夜だからこそ、進んでしまうものもあるのかもしれない。


     *


 固定電話が鳴った。


 襲撃音めいたベルの音。


 俺はびくっとした。


 航が手を離そうとしたが、俺は離さなかった。


 彼が少し驚いた顔をする。


「出ます」


 俺は手を離し、受話器を取った。


「はい、篠宮です」


『私だ』


 社長だった。


「はい」


『ニュースは見ているな』


「はい」


『明日、朝一で社長室。海外関係、翻訳、版権、出張、広告、刊行予定を確認する』


「承知いたしました」


『初動七日表も一度止める』


「止めるのですか」


『一日だけだ』


 社長の声は低い。


『世界の空気が変わる。今日の夜に、初動の数字だけ追う会社にはなるな』


「はい」


『だが、捨てるな』


「はい」


『こういう時こそ、届くものと届かないものが変わる。だが、まず人だ』


「はい」


『社員の安全。関係先。海外出張者。翻訳者。取引先。そこからだ』


「承知いたしました」


『篠宮君』


「はい」


『ひとりか』


 俺は少し黙った。


 航を見る。


 彼は何も言わず、ただこちらを見ている。


「いいえ」


『ならいい』


 通話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


「社長?」


 航が聞いた。


「はい」


「仕事?」


「明日の仕事です」


「今夜は?」


「今夜は、ひとりではありません」


 航は少しだけ目を見開いた。


 それから、静かに頷いた。


「うん」


     *


 テレビの中では、ずっと映像が流れていた。


 止まることなく。


 繰り返しされる切り抜きではなく。


 見てはいけない気がした。


 だが、目を離せなかった。


 未来の俺は、記録として繰り返される「この日」を知っている。


 映像が記憶になる過程も知っている。


 何度も流されることで、人の頭に焼きつくことも知っている。


 それでも、二〇〇一年の俺は、流れ続ける画面の前でただ固まっていた。


「さっちゃん」


 航が言った。


「知ってたのかどうか、今は聞かない」


 俺は息を止めた。


「聞いたら、たぶんさっちゃんが壊れる顔してる」


「……すみません」


「謝らなくていい」


「でも」


「今日は、謝らなくていい」


 航は俺の手をもう一度取った。


 今度は、俺からも握った。


「ただ、覚えてて」


「何を」


「知ってても、全部は背負えない」


 その言葉は、あまりにも正しかった。


 正しすぎて、痛かった。


「背負わなくていい、とは言わない」


 航は続けた。


「さっちゃんは、たぶん背負っちゃうから」


「はい」


「でも、全部は無理」


「はい」


「それだけ」


 俺は、頷いた。


 テレビの中で、世界が変わっている。


 その前で、俺は航の手を握っている。


 小さい。


 あまりにも小さい。


 だが、小さいことが、今は必要だった。


     *


 夜が深くなっても、眠れなかった。


 航はソファにいた。


 俺はベッドには行かなかった。


 リビングで、テレビの音を小さくして、二人で座っていた。


 言葉は少なかった。


 時々、美咲から航にメールが来た。



 こわい。

 まだ起きてる。

 学校でこの話になると思う。

 千尋の話してたのが遠い。



 航は短く返していた。



 寝られたら寝ろ。

 怖かったら電話していい。

 さっちゃんも起きてる。



 俺の名前を出すな、と一瞬思った。


 だが、美咲からすぐ返ってきた。



 さっちゃんも起きてるならちょっと安心。



 俺は携帯の画面を見せられて、何も言えなくなった。


 俺が起きていることが、誰かの安心になる。


 そんなことがあるのか。


 未来の俺は、たぶん誰の安心にもならなかった。


 転売市場の歪みに寄生していた男だ。


 だが今、篠宮怜子の名前で、美咲が少し安心している。


 それが、痛い。


 とても痛い。


     *


 午前三時を過ぎた頃。


 俺はメモ帳を開いた。


 航が横で言った。


「仕事?」


「違います」


「本当?」


「たぶん」


 俺はペンを持った。


 何かを書かなければ、頭の中で映像が回り続ける気がした。


 九月十一日。

 海の向こうで、飛行機がビルに墜ちた日。


 世界の空気が変わる。

 出版も無関係ではいられない。

 物流。航空。翻訳。版権。広告。読者の不安。読む本の変化。


 だが、最初に見るのは数字ではない。

 人。


 手が止まった。


 社長の言葉。


 最初に数字を見れば、会社が腐る。


 俺は、それを書いた。


 最初に数字を見るな。

 まず人。

 それから紙。

 それから数字。


 さらに、初動七日表のことを書く。


 七日で裁かない。

 七日で成仏させない。

 七日で詰まりを見る。


 だが、世界が変わる夜には、紙を閉じる勇気も必要。


 ペンを置いた。


 手が少し震えていた。


 航が何も言わず、温かいお茶を置いた。


 いつの間に淹れたのか。


 生活力が高すぎる。


「ありがとう」


「うん」


 俺はお茶を飲んだ。


 ぬるい。


 だが、そのぬるさがちょうどよかった。


     *


 明け方。


 テレビの音はまだ続いていた。


 世界はもう、前の日の世界ではなかった。


 だが、窓の外は少しずつ明るくなる。


 東京の朝が来る。


 会社へ行かなければならない。


 社長室で確認することが山ほどある。


 海外関係。


 翻訳。


 版権。


 出張者。


 刊行予定。


 広告文言。


 初動七日表は、一日止める。


 だが、捨てない。


 届くものと届かないものは、これから変わる。


 本も。


 情報も。


 不安も。


 怒りも。


 祈りも。


 世界中を、別の速度で流れ始める。


「さっちゃん」


 航が言った。


「少し寝た方がいい」


「寝られません」


「横になるだけ」


「会社が」


「一時間だけ」


「ですが」


「今日は、ちゃんと倒れる前に止まって」


 その言葉で、俺は黙った。


 倒れる前に止まる。


 それを、何度言われてきただろう。


 小早川に。


 航に。


 社長に。


 篠宮怜子の身体に。


 世界が変わる夜でも、身体は身体だ。


 壊れれば動けない。


 俺は、ようやく頷いた。


「一時間だけ」


「うん」


「起こしてください」


「起こす」


「仕事の時間に」


「うん」


 俺はソファに横になった。


 ベッドではない。


 航が毛布をかけた。


 昔なら、触られるだけで固まったかもしれない。


 今も少し固まる。


 だが、逃げなかった。


 目を閉じる直前、テレビの音が小さくなる。


 航が消したのではない。


 音量を下げた。


 世界を完全には消さない。


 ただ、少し遠ざける。


 その距離の取り方が、航らしかった。


     *


 九月十二日の朝。


 俺は社長室へ向かった。


 眠れていない。


 目は重い。


 身体はだるい。


 だが、歩ける。


 社長室には、すでに人が集まっていた。


 社長。


 小早川。


 三浦。


 岸本。


 真鍋。


 佐伯。


 大町。


 川辺。


 久我。


 全員、顔が重い。


 世界が変わった朝の顔だった。


 社長が口を開いた。


「まず、人を確認する」


 誰も異論を言わなかった。


 出版改革の会議ではない。


 初動七日表の会議でもない。


 だが、これも出版の仕事だった。


 人がいて、紙があり、本が動く。


 その順番を間違えれば、会社は腐る。


 俺は席に着き、紙を一枚取り出した。


 初動七日表ではない。


 白紙だった。


 そこに、最初の項目を書いた。



 安否確認


 次に。



 海外関係先

 翻訳者

 版権

 出張者

 広告・刊行予定

 読者向け発信文言



 小早川が横から静かに言った。


「字が震えています」


「はい」


「でも、読めます」


「はい」


 社長がこちらを見た。


「篠宮君」


「はい」


「始めよう」


「承知いたしました」


 声は少し掠れていた。


 それでも、返事はできた。


 そこへ、岸本が紙束を抱えて入ってきた。


 顔が青い。


 宣伝部の顔ではない。


 紙面を持ってきた人間の顔だった。


「社長」


 岸本は机の上に紙束を置いた。


「次号の雑誌原稿と広告コピーです。確認が必要です」


 社長の目が細くなる。


「どれだ」


「全部ではありません。ただ、飛行機、ビル、爆破、戦争、テロ、海外都市崩壊。引っかかりそうなものを拾いました」


 会議室の空気が、また少し沈んだ。


 昨日までなら、ただの煽り文句だったもの。


 昨日までなら、ただの娯楽だったもの。


 昨日までなら、ただの偶然だったもの。


 それらが、一夜で意味を変える。


 岸本が一枚の広告ラフを差し出した。


 そこには、大きくこう書かれていた。


 この秋、世界が崩れる。


 誰も、すぐには喋らなかった。


 昨日までなら、よくあるコピーだった。


 少し大げさで、少し安くて、けれど紙面の上では成立していたはずの言葉。


 だが、今日見ると違う。


 違いすぎる。


「差し替えです」


 俺は言った。


 声が、自分でも驚くほど冷えていた。


「広告主確認が要ります」


 岸本が言う。


「今日中に」


「やります」


 短い返事だった。


 宣伝部の顔になっていた。


 次に、佐伯が別の原稿を開いた。


「短編に、飛行機事故があります」


 胸の奥が沈んだ。


「内容は?」


「事故そのものが主題ではありません。ただ、導入に使われています」


 作品に罪はない。


 作者にも罪はない。


 昨日までなら載せられた。


 だが、今日の読者は昨日の読者ではない。


 テレビで何度も、飛行機がビルに突っ込む映像を見せられた翌朝なのだ。


「次号送りです」


 俺は言った。


「修正ではなく?」


 真鍋が聞いた。


「修正すると、作品が歪みます」


 俺は紙を見た。


「載せないのではありません。送ります」


 佐伯は、静かに頷いた。


「編集から作者に説明します」


 社長が俺を見た。


「篠宮君」


「はい」


「基準を一行で言え」


 俺は、机の上の紙束を見た。


 安否確認。


 海外関係先。


 翻訳者。


 版権。


 出張者。


 広告・刊行予定。


 読者向け発信文言。


 そして、昨日まで無害だったはずの言葉たち。


「読者の傷口に、こちらから紙を押し当てないことです」


 会議室が静かになった。


 社長は、少しだけ頷いた。


「それで行け」


 俺は赤ペンを持った。


 初動七日表ではない。


 売上を見る紙でもない。


 今日は、言葉を見る紙だった。


 届ける仕事には、届けない判断も含まれる。


 そのことを、世界が変わった翌朝に、俺たちは思い知らされていた。


     *


 海の向こうで、飛行機がビルに墜ちた日。


 その夜、俺は未来を知っていても何もできないことを知った。


 そして、何もできないからといって、何もしなくていいわけではないことも知った。


 世界は大きすぎる。


 俺は小さすぎる。


 出版改革は、さらに小さい。


 紙一枚の初動七日表など、煙を上げる空の前では、あまりにも地味で、あまりにも脆い。


 だが。


 人を確認する。


 言葉を選ぶ。


 刊行を見直す。


 不安な読者に、余計な刃物を渡さない。


 届かなくなるものを見つける。


 届くべきものを、ちゃんと届ける。


 小さいことは、無意味ではない。


 小さいことを捨てた時、人はもっと大きなものを雑に扱う。


 俺はメモ帳に、あとで一行だけ書いた。


 初七日は、作品を死んだことにしないための紙。

 だが、世界が傷ついた日は、まず人を見る。


 それは、改革というにはあまりにも地味だった。


 だが、たぶん。


 地味な順番を間違えないことも、改革なのだ。

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