第十六話 売れなかったことにしないための七日間
月曜日。
夏祭りの翌々日。
俺は社長室の机に、焼きそばソースの記憶を持ち込まないよう努力していた。
無理だった。
唇の端。
紙ナフキン。
航の指。
下がらなかった自分。
怖いが、嫌ではない。
業務メモに書くべきではない内容が、頭の片隅でまだ生きている。
よくない。
非常によくない。
俺は社長室の秘書である。
今は出版改革を考えるべきだ。
恋愛進捗を観測している場合ではない。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「顔が仕事に戻ったな」
「戻しました」
「努力した顔だ」
「努力しました」
「祭りはどうだった」
「業務外です」
「そうか」
社長は少し笑った。
「では、業務内の話をしよう」
机の上に、紙束が置かれた。
新刊初動報告
書店別追加注文
返品見込み
取次在庫
重版検討メモ
来た。
ようやく、本丸だ。
作品を拾う。
棚を見る。
読者の声を聞く。
映画館から書店への導線を見る。
それらは全部、重要だった。
だが、出版改革としては、まだ周辺だ。
本当に変えなければならないのは、ここである。
発売した後。
売れたかどうか。
足りているか。
余っているか。
どこで詰まっているか。
追加するのか。
重版するのか。
見切るのか。
売れなかったことにするのか。
「篠宮君」
「はい」
「君が言い続けている、届かなかった作品を売れなかったことにしない、という話だ」
「はい」
「では、どうする」
社長は短く言った。
問いは単純だった。
だが、答えは重い。
俺は一枚の紙を差し出した。
重点作品・発売初動七日観測案
社長の眉が動いた。
「七日?」
「はい」
「一週間で何が分かる」
「全部は分かりません」
「だろうな」
「ですが、詰まりは見えます」
俺は資料を開いた。
発売前
・初版部数
・配本先
・重点協力店
・既刊併売有無
・書店向け説明文
・Amazon商品情報
・公式ページ導線
発売後三日
・協力店の棚状況
・追加注文の有無
・品切れ報告
・読者反応
発売後七日
・追加注文率
・在庫切れ店舗
・取次在庫
・返品懸念
・重版検討
・販促修正
「重いな」
「はい」
「また現場が死ぬ」
「死なせません」
「誰が削る」
「三浦さんです」
社長が少し笑った。
「本人の了承は」
「まだです」
「ひどいな」
「必要です」
「本人に言え」
「承知いたしました」
*
午前十時。
会議室に、主要な人間が集められた。
営業局長の久我。
取次担当の榊原。
書店営業の大町。
営業の三浦。
文庫編集部の真鍋。
ビーンズ準備の佐伯。
宣伝部の岸本。
制作管理の川辺。
そして社長。
俺。
川辺は初登場だった。
四十代半ば。
痩せた男。
紙の束を見る目が冷たい。
印刷所、製本、納品、倉庫、重版スケジュールを見ている人間の顔だった。
この人はたぶん、夢で本を語るタイプではない。
紙と日数と費用で本を見る人間だ。
必要な人間である。
「また社長室の新しい紙か」
久我が言った。
「はい」
「今度は何を増やす」
「減らすために増やします」
「矛盾している」
「自覚はあります」
三浦が隣で小さくため息をついた。
すまない。
今回も巻き込む。
社長が口を開いた。
「今日は重点作品の発売後初動観測について話す。篠宮君」
「はい」
俺は立ち上がった。
会議室の視線が集まる。
少し前なら、この視線だけで胃が冷えた。
今も冷える。
だが、慣れてきた自分もいる。
それが少し怖い。
「現状、新刊が発売された後の情報は、部門ごとに散っています」
俺は資料を配った。
「編集は読者の反応を見ます。営業は書店の動きを見ます。取次担当は配本と追加注文を見ます。制作管理は重版可能時期と費用を見ます。宣伝は広告反応を見ます」
紙を一枚めくる。
「ですが、それらが同じ作品単位で、同じタイミングで並ぶことが少ない」
久我が腕を組む。
榊原は無表情。
川辺は紙の項目数を数えている。
怖い。
「その結果、売れた理由も、売れなかった理由も、後から語られます」
「後から語ることの何が悪い」
久我が言った。
「悪くありません」
俺は答えた。
「ただし、後から分かっても、発売直後の欠品は戻りません」
会議室が少し静かになった。
「欲しい読者がいた。書店で足が止まった。だが一巻がなかった。追加注文が遅れた。取次在庫が見えなかった。重版判断が数日遅れた」
俺は言葉を切る。
「それは売れなかったのではありません。売る機会を逃した可能性があります」
真鍋が少し目を細める。
佐伯はメモを取っている。
「また機会損失か」
久我が低く言った。
「はい」
「便利な言葉だな」
「便利です。ですが、見えなければ存在しないことにされます」
俺は資料の中央を指した。
売れない
余っている
足りない
届いていない
盗られている
見つかっていない
「この六つは、数字だけ見ると混ざります」
大町が頷いた。
「店では違いますね」
「はい。だから店員所感が必要です」
榊原が眉を寄せる。
「取次に何を求める」
「発売後七日時点で、重点作品について追加注文と在庫状況を見られる範囲で共有していただきたいです」
「簡単に言う」
「簡単ではありません」
「取次は出版社の監視装置ではない」
「承知しております」
俺は頭を下げた。
「だから、全作品ではありません。まずは重点作品のみ。点数を絞ります」
「何点だ」
「三点から五点です」
三浦が横で少し安心した顔をした。
十点と言われると思っていたのだろう。
俺も昔なら言ったかもしれない。
今は言わない。
現場を殺す改革は、改革ではない。
「対象は?」
久我が言った。
「ビーンズ創刊関連の先行観測、まるマ既刊併売、フルメタ既刊在庫、ケロロ軍曹のコミック棚、そして夏休み文庫フェア連動作品から一点」
「多い」
三浦が即答した。
「五点以内です」
「五点は多いです」
「では三点」
三浦が驚いた顔をした。
「引くんですか」
「はい。現場負荷を考慮します」
「成長しましたね」
「評価は不要です」
「褒めてます」
「判断を保留します」
会議室が少しだけ緩んだ。
だが、川辺だけは笑わなかった。
「重版検討とありますが」
川辺が初めて口を開いた。
「はい」
「発売後七日で重版判断など、簡単にはできません」
「承知しております」
「紙を押さえ、印刷所を押さえ、製本し、倉庫へ入れ、取次へ流す。気分で刷れるわけではありません」
「はい」
「初版を絞っておいて、売れたら即重版と言うのは、編集と営業には気持ちいいでしょうが、制作には地獄です」
鋭い。
非常に鋭い。
そして正しい。
俺は頭を下げた。
「だから、発売前に重版候補を指定します」
川辺の目が少し動く。
「発売前?」
「はい。重点作品については、発売前の段階で、重版に入る場合の最短スケジュール、必要部数、紙の手配可否、印刷所の空き、帯修正の有無を確認しておきます」
会議室が静かになる。
「売れるか分からないものに、そこまで見るのか」
久我が言った。
「全作品ではありません」
「重点作品だけ、か」
「はい」
俺は資料を示した。
重点作品・発売前確認項目
・初版部数
・想定追加部数
・重版最短日
・紙手配可否
・帯修正可否
・既刊在庫
・販促修正点
「重版を決めるのではありません。重版できるかどうかを先に知っておく」
川辺は黙った。
「発売後に慌てて確認すると、遅れます。売れてから紙を探すのではなく、売れた時に動けるかどうかを事前に確認する」
「売れなかったら?」
川辺が言った。
「動きません」
「無駄な確認になる」
「はい」
「その無駄を誰が負う」
痛い。
かなり痛い。
制作管理の言葉は現実そのものだ。
俺は少しだけ息を吸った。
「社長室で初期整理します。対象作品を絞り、制作管理に確認する項目を最小限にします」
「最小限とは」
「三項目です」
俺は紙を出す。
一、最短重版可能日
二、追加部数の下限と上限
三、帯・販促物修正の締切
川辺は紙を見た。
「これだけか」
「まずは」
「なら、見られる」
動いた。
小さくだが、動いた。
三浦が横で小さく息を吐いた。
社長は何も言わない。
ただ、見ている。
*
次に、佐伯が口を開いた。
「編集側からも一つ」
「はい」
「初動七日で判断するのはいいですが、読者の反応が遅れて出る作品もあります」
「はい」
「口コミで伸びるもの、書店員が見つけてから動くもの、雑誌掲載や続刊で伸びるもの。七日で切られると困ります」
「切りません」
俺は即答した。
「七日は、切るためではなく、詰まりを見るためです」
佐伯の目が少しだけ和らぐ。
「売れなかった作品を七日で見切るのではありません。七日で、届いていないのか、見つかっていないのか、説明が弱いのか、在庫が足りないのか、棚が合っていないのかを確認する」
「なるほど」
「七日で判決を出すのではなく、七日で診察します」
榊原が眼鏡の奥でこちらを見る。
「また医者みたいなことを」
「血管と体温計の続きです」
「気持ち悪い比喩だ」
「自覚はあります」
だが、伝わるならいい。
伝わらない美文より、伝わる気持ち悪い比喩の方がましだ。
たぶん。
「真鍋さん」
佐伯が横を見る。
「どう思いますか」
真鍋はしばらく黙っていた。
それから言った。
「悪くありません」
珍しい。
真鍋が初手で否定しない。
「ただし、売れているから続けろ、という圧力が増える可能性があります」
来た。
真鍋の刺し方。
「初動が見えると、編集は数字に追われます。続刊判断、方向転換、キャラクターの扱い、終わらせ方。数字が早く来るほど、作品は早く消費される危険もある」
重い。
まるマの未来を知っている俺には、かなり重い。
「はい」
俺は頷いた。
「だから、台帳には編集所感を入れます」
「編集所感?」
「売るための数字だけではなく、作品を続ける上での注意点です」
俺は紙に項目を足した。
編集所感
・作品の伸ばし方
・読者反応への注意
・続刊で壊してはいけない点
・無理な販促で誤解を招く点
佐伯が静かに頷いた。
真鍋は少しだけ目を細めた。
「篠宮さん」
「はい」
「あなたにしては、まともです」
「ありがとうございます」
「褒めてはいます」
「珍しいですね」
「雪が降りますかね」
「梅雨明け前です」
「なら大雨ですね」
会議室が少しだけ笑った。
*
岸本が手を挙げた。
「宣伝としては、販促修正が七日で入るなら助かります」
「具体的には」
「POPの言葉が弱い時、帯の一文が伝わっていない時、書店員さんが説明しづらい時。早めに直せるなら直したい」
佐伯が赤ペンを構える。
「また私の仕事が増えますね」
「増えます」
「認めますか」
「必要です」
「ひどい」
「でも、硬すぎる文言を殺す人が必要です」
佐伯は少し笑った。
「それは認めます」
俺の「検索導線におけるシリーズ認知優位性」は、今でも時々思い出して恥ずかしくなる。
あれは死んでよかった。
「ただ」
岸本は続けた。
「宣伝は発売前に作ります。七日で修正と言われても、すぐ全部差し替えるのは無理です」
「差し替えではありません」
「では?」
「追加です」
俺は紙を出した。
販促修正
・既存POP差し替えではなく、短冊追加
・書店営業向け一言メモ
・公式ページ文言修正
・Amazon商品説明の確認
・次回重版帯への反映
「今あるものを全部作り直すのではなく、足りない言葉を足す。次の刷りで直す。公式や商品説明で補う」
「現実的ですね」
「最近、現実に殴られています」
三浦が小さく頷いた。
「殴ってる側も疲れます」
「感謝しています」
「本当に?」
「はい」
三浦は少しだけ照れたような、疲れたような顔をした。
*
問題は、久我だった。
久我営業局長は、資料をずっと黙って見ていた。
怖い。
沈黙が怖い。
やがて、彼は資料を机に置いた。
「篠宮君」
「はい」
「これは、営業の仕事を社長室が監視する仕組みに見える」
来た。
最大の地雷。
俺は頭を下げた。
「そう見える危険はあります」
「危険ではない。そう見える」
「はい」
「営業は今までも売るために動いている。書店へ行き、取次と話し、棚を取り、追加を拾っている。それを、社長室が紙一枚で見える化する、などと言えば、現場は面白くない」
「承知しております」
「承知でやるのか」
「はい」
会議室が少し冷えた。
だが、ここは引けない。
「ただし、社長室の仕組みとして始めても、社長室に残してはいけません」
久我の眉が動く。
「どういう意味だ」
「初期運用は社長室で行います。ですが、最終的には営業局と編集部が共同で持つべきです」
俺は資料を指で押さえた。
「社長室が監視するのではなく、部門間で同じ紙を見る」
「同じ紙」
「はい。営業の紙、編集の紙、取次の紙、制作の紙、宣伝の紙を別々にするから、後から揉めます。売れた時は誰の手柄か。売れなかった時は誰の責任か。そうではなく、同じ作品について同じ一枚を見る」
「責任を曖昧にするのか」
「逆です」
俺は言った。
「責任を押し付け合う時間を減らします」
久我は黙った。
「売れなかった理由を後から探すより、発売七日で詰まりを共有する。足りなければ補う。弱ければ直す。余っていれば深追いしない。盗られていれば棚の損失として見る」
「理想論だな」
「はい」
「認めるのか」
「理想がないと、現実の修正方向が決まりません」
久我は少しだけ口元を動かした。
笑ったのかもしれない。
怖いので確認しない。
「三浦」
「はい」
「お前はどう見る」
三浦が急に振られた。
気の毒だ。
だが、彼は少し考え、答えた。
「現場に書かせすぎるなら無理です」
「だろうな」
「でも、項目を絞るなら使えます」
「理由は」
「書店で聞いた話を、編集に伝える時に便利です。今は電話やメモでバラバラなので。作品ごとに一枚あれば、説明しやすい」
大町も頷いた。
「店員所感も、営業の感覚だけで終わらせずに残せます」
榊原が続けた。
「取次側も、重点作品に絞るなら数字を出しやすい。ただし、通常業務の範囲を超えないことが条件です」
川辺も言った。
「制作管理としては、重版可能日の事前確認だけなら対応できます。だが、対象を増やすなら無理です」
佐伯が言った。
「編集所感を入れるなら、協力します」
真鍋も渋々頷いた。
「数字だけで作品を潰さない条件なら」
岸本が言った。
「宣伝は、一言メモの追加なら動けます」
久我は、全員の顔を見た。
そして最後に、俺を見る。
「篠宮君」
「はい」
「三点だ」
「はい」
「最初は三作品」
「はい」
「七日観測は一枚」
「はい」
「現場に新しい日報を書かせるな」
「はい」
「既存の情報を集めろ」
「はい」
「営業局に喧嘩を売るな」
「努力します」
「そこは承知しろ」
「承知いたしました」
久我は鼻で笑った。
「よし。試せ」
動いた。
また、人が動いた。
だが、今度は前より重い。
まるマを拾った時のような快感ではない。
取次の血管に指を当てた時のような緊張とも違う。
これは、会社の内臓に触れる感覚だった。
売る。
刷る。
運ぶ。
並べる。
戻る。
余る。
足りない。
それを一枚の紙でつなぐ。
雑にやれば、現場が死ぬ。
丁寧にやれば、作品が助かるかもしれない。
その差は、たぶん紙一枚ではない。
紙を見る人間の姿勢だ。
*
会議後。
三浦が廊下で俺の横に並んだ。
「篠宮さん」
「はい」
「また仕事増やしましたね」
「増やしました」
「認めるんですね」
「はい」
「今回は、ちゃんと出版改革っぽいです」
「今までは違いましたか」
「否定が困難です」
三浦は笑った。
それから、少し真面目な顔になった。
「でも、これ、通ったら大きいですね」
「はい」
「売れた理由も、売れなかった理由も、早く共有できる」
「はい」
「売れなかったことにされてた本が、少し助かるかもしれない」
俺は足を止めた。
三浦が、それを言った。
届かなかった作品を、売れなかったことにしない。
俺が言い続けていた言葉。
それを、営業の若手が自分の言葉として少しだけ持った。
胸の奥で、小さく何かが鳴った。
「三浦さん」
「はい」
「今の言葉、会議で言ってください」
「嫌です」
「なぜ」
「照れるので」
「業務です」
「照れる業務は嫌です」
「判断を保留します」
「便利ですね」
だが、少しだけ笑っていた。
*
社長室に戻ると、社長は窓の外を見ていた。
夏の光が、梅雨の湿気の向こうで揺れている。
「通ったな」
「試験運用です」
「十分だ」
「まだ何も変わっていません」
「紙が変わった」
社長は振り返った。
「会社は、紙が変わると少し変わる」
この時代らしい言葉だった。
未来なら、システムが変わる、データベースが変わる、ダッシュボードが変わる、と言うのかもしれない。
だが、二〇〇一年のここでは紙だ。
一枚の紙。
そこに何を書くか。
誰が見るか。
いつ見るか。
それだけで、少しだけ会社が変わる。
「篠宮君」
「はい」
「最初の三作品は」
「まるマ既刊併売、ビーンズ創刊先行、夏休み文庫フェア連動作品です」
「フルメタは外すのか」
「今回は外します」
「なぜ」
「広げすぎると死にます」
社長は満足そうに笑った。
「学んだな」
「殴られましたので」
「誰に」
「現実に」
「よろしい」
社長は机の上の紙を一枚取った。
「名前をつけろ」
「名前?」
「仕組みに名前がないと、社内では残らん」
確かに。
台帳、観測案、初動確認。
全部硬い。
だが、名前は必要だ。
俺は少し考えた。
「発売初動七日観測表」
「硬い」
「七日初動シート」
「まだ硬い」
「初動七日表」
「地味だな」
「現場で使うなら、地味な方がいいです」
社長は少し笑った。
「では、それで行け」
「はい」
俺は紙の一番上に書いた。
初動七日表
地味だ。
とても地味だ。
だが、それでいい。
改革は、格好いい名前で始まらなくていい。
現場が使える名前で残る方がいい。
*
夜。
俺は早めに会社を出た。
小早川に捕まる前に、ではない。
小早川が出口で待っていた。
「怜子さん」
「はい」
「今日は帰る」
「帰ります」
「資料は?」
「必要最小限です」
「見せて」
検問だった。
鞄を確認された。
入っていたのは、初動七日表の試作一枚だけ。
小早川はそれを見た。
「一枚なら許す」
「ありがとうございます」
「ただし、家で増やさない」
「……努力します」
「増やさない」
「はい」
先輩秘書は強い。
俺は会社を出た。
夏の夜は、まだ蒸し暑い。
街には学生がいる。
映画帰りの親子がいる。
書店の袋を持った少女がいる。
どの本を買ったのかまでは分からない。
だが、袋の中には、誰かの物語が入っている。
俺はそれを見て、少しだけ息を吐いた。
今日、会社は大きく変わったわけではない。
取次はそのまま。
書店もそのまま。
編集も営業も制作も宣伝も、それぞれ忙しいまま。
紙の帝国は相変わらず重い。
返品もある。
欠品もある。
売れなかったことにされる作品も、まだきっとある。
だが、一枚増えた。
初動七日表。
売れない、足りない、届いていない、見つかっていないを、少しだけ分けるための紙。
それは地味だった。
とても地味だった。
だが、地味な紙ほど、会社を変えることがある。
*
部屋に帰ると、航からメールが来ていた。
今日ちゃんと帰った?
美咲が千尋の話をまだしてる。
ハク重い、カオナシ怖い、でも湯婆婆が一番強いらしい。仕事しすぎないでね。 航
俺は返信した。
帰りました。
今日は出版改革らしいことをして、初動七日表を作りました。 怜子
すぐ返ってきた。
何それ。
でも名前は地味で良さそう。
さっちゃん、地味な改革好きそう。
失礼な。
だが、当たっている。
俺は少し笑った。
机に座り、初動七日表を広げる。
小早川には増やすなと言われた。
だから、増やさない。
見るだけだ。
見るだけ。
たぶん。
紙の一番上には、地味な文字。
初動七日表
その下に、空欄が並んでいる。
作品名。
発売日。
初版部数。
重点店。
追加注文。
店員所感。
取次在庫。
重版可能日。
編集所感。
販促修正。
この空欄に、これから作品の最初の七日間が入る。
誰かが手に取った熱。
誰かが買えなかった欠品。
誰かが説明できなかった棚。
誰かが赤ペンで直した言葉。
誰かが守りたい作品の芯。
売れた、売れない。
その二語で潰していたものを、少しだけ分ける。
未来の俺は、売れ残りと高騰だけを見ていた。
今の俺は、その前を見る。
本が読者に届くまでの、最初の七日間。
そこに、たぶん会社の癖が出る。
強さも。
弱さも。
怠慢も。
希望も。
俺はメモ帳を開いた。
改革は、派手な会議ではなく、地味な一枚から始まる。
発売後七日で、作品を裁かない。
発売後七日で、詰まりを見つける。
売れなかったことにしない。
最後に、一行足した。
初動七日表、運用開始。
それは、魔王を拾った時のような高揚ではなかった。
夏祭りの焼きそばソースのような甘さでもなかった。
ゼクシィのような痛みでもなかった。
もっと地味で、もっと重くて、もっと会社っぽい。
だが、たぶんこれが改革だ。
平成十三年、夏。
紙の帝国の片隅で、俺はようやく、紙で紙の流れを変えようとしていた。




