第十五話 2001年の夏休みへの扉。千尋の谷に落ちた少女の滝登り映画は、数字を叩き出す
七月二十日。
金曜日。
社長室から見下ろす二〇〇一年の東京は、夏休みの入口に立っていた。
駅のホームには、平日の昼間なのに学生が増えている。
映画館の前には親子連れ。
書店の平台には夏の文庫フェア。
青い帯。
課題図書。
読書感想文。
夏休み。
読者が、学校から解放される季節。
つまり、棚まで歩いてくる季節である。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「顔が、仕事を増やす顔だ」
「通常運転です」
「悪化しているな」
「否定は困難です」
社長室の机には、朝から資料が積まれていた。
角川ビーンズ文庫創刊準備資料。
まるマ既刊併売確認表。
ローゼンクロイツの帯文案。
月の人魚姫の販促メモ。
協力店別平台案。
そして、宣伝部から回ってきた映画関連の小さな紙束。
夏休み映画動向メモ
ジブリ新作公開
来た。
ついに来た。
『千と千尋の神隠し』。
夏休みの入口に、巨大な物語が落ちてくる。
未来の俺は知っている。
この映画は、人々の口に幾度となくあがる数字を叩き出す。
ただのヒットではない。
映画館に人を集める。
家族を動かす。
少女を動かす。
街を動かす。
そして、物語の熱を持った人間を、映画館の外へ吐き出す。
そこに書店があるなら、棚も動く。
「これは映画の話だ」
社長が言った。
「いいえ」
俺は資料を見た。
「読者の夏の動線の話です」
社長は少し笑った。
「そう来ると思った」
*
午前十時。
会議室には、宣伝部の岸本、書店営業の大町、営業の三浦、編集の佐伯、真鍋、そして俺が集められていた。
社長は窓際に座っている。
令和ほどでなくても、平成半ばの夏の会議室は暑い。
冷房は入っている。
だが、紙と人間と湿気と熱気が勝つ。
この時代の空調は強いのに雑だ。
効いている場所は寒く、効いていない場所は暑い。
平成十三年の夏は、人間にも紙にも優しくない。
「数字が来ました」
岸本が紙を配った。
いつもの宣伝資料より字が荒い。
赤丸。
矢印。
メモ。
電卓の跡。
現場が走っている紙だった。
「本日封切りのジブリ新作です」
会議室の空気が変わった。
ジブリ。
平成十三年の夏において、その単語はほとんど暴力である。
「『千と千尋の神隠し』。初日から、かなり強い動きになる見込みです。劇場側の反応もいい。親子連れ、学生、女性客まで広く動く可能性があります」
知っている。
知っているが、言えない。
これは強いどころではない。
社会現象になる。
後に何度も語られる数字になる。
だが、今この部屋の人間はまだそこまでは知らない。
巨大なものが来たことには気づいている。
ただ、その巨大さの最終形は見えていない。
それが、気持ち悪い。
「篠宮さん」
三浦がこちらを見た。
「顔、怖いです」
「通常運転です」
「違います。未来を見てる顔です」
やめろ。
その言い方はやめろ。
社長がこちらを見た。
俺は咳払いした。
「映画館から書店への導線を見ます」
「映画館から書店」
大町が繰り返す。
「はい。夏休みの読者は、単体で動きません。映画を観る。友達と話す。食事をする。駅ビルに寄る。書店に入る。文庫フェアを見る。コミック棚を見る。雑誌棚を見る」
俺は資料に線を引いた。
「映画で物語の熱を持った読者が、帰り道で何に触れるか。そこが重要です」
「つまり、ジブリの客を文庫棚に拾う?」
三浦が雑に言った。
「表現は雑ですが、方向は近いです」
「また雑」
「雑さにも使い道があります」
佐伯が小さく笑った。
「でも、ジブリを見た帰りにまるマを買いますか?」
岸本が言った。
当然の問いだった。
「全員は買いません」
俺は即答した。
「ですが、映画の熱を持った少女が書店に入り、そこで“異世界への扉”という言葉を見る可能性はあります」
佐伯の目が動いた。
「ビーンズのコピー」
「はい」
物語の扉、異世界への鍵――。
まだ紙の上で震えている言葉。
「千尋は、自分で扉を開けたわけではありません」
俺は言った。
「落ちたんです」
会議室が静かになる。
「トンネルを抜けて、異界に入り、名前を奪われ、働き、帰る道を探す。千尋は物語に落ちる少女です」
言いながら、自分にも刺さっていた。
名前を奪われる少女。
篠宮怜子の身体にいる俺。
怜子という名前を使い、怜子の生活に入り、怜子の関係を借りている俺。
千尋の話は、遠くない。
むしろ近すぎる。
「一方で、ビーンズ文庫は読者を落とすのではなく、鍵を渡す」
俺は続けた。
「自分から開けられる扉を用意する。まるマも、月の人魚姫も、ローゼンクロイツも、“今いる場所ではないどこか”への入口です」
佐伯が赤ペンを止めていた。
真鍋も黙っている。
岸本はメモを取っていた。
「落とし穴ではなく、扉」
岸本が呟いた。
「使えますね」
「使うなら柔らかくしてください」
「佐伯さんに直してもらいます」
「私の文章はいつも殺されます」
「必要な殺しです」
佐伯が淡々と言った。
知っている。
*
昼前。
携帯が震えた。
画面を見る。
美咲だった。
義妹さま候補。
女子高生読者代表。
平成十三年の流通そのもの。
メールを開く。
さっちゃん、千と千尋、見に行くことになった。
今日じゃなくて明日だけど。
友達と。
帰りに本屋行く。
まるマ三巻まだ?
早い。
情報も行動も早い。
そして最後が強い。
まるマ三巻まだ。
読者の声は、時に刃物である。
俺は返信した。
三巻はまだです。
映画の帰りに書店へ行くなら、棚をよく見てください。
ただし、楽しむこと優先。 怜子
送信。
二分も経たずに返事は、すぐに返ってきた。
仕事モードだ。
でも見る。
パンフ今見てる。ハク重そうだったら報告するね。
ハク重そうだったら報告。
何を報告するつもりだ。
女子高生読者代表の観測項目は、こちらの台帳とは違う。
だが、たぶんそちらの方が鋭い。
俺は携帯を閉じた。
「篠宮さん」
三浦がこちらを見る。
「美咲さんですか」
「はい」
「また現場情報ですか」
「映画後に書店へ行くそうです」
岸本が食いついた。
「本当に?」
「はい」
「すごいですね。映画館から書店導線、実例が来た」
「ただし、個人情報です」
「もちろん」
岸本は真面目に頷いた。
「数字にしない。でも、動線としては覚えておきます」
その言い方に、少し安心した。
数字にしない。
でも忘れない。
最近の俺にとって、その線引きは大事だった。
*
午後。
社長室に戻ると、社長が待っていた。
「どうだった」
「夏が来ました」
「詩的だな」
「数字の夏です」
「いつもの君だ」
社長は少し笑った。
机の上には、ジブリ関連の新聞記事の切り抜きが置かれていた。
まだ初日だ。
最終的な数字など、誰にも分からない。
だが、空気はすでに動いている。
映画館が動く。
交通広告が動く。
親子が動く。
少女たちが動く。
そして、書店も動く。
「篠宮君」
「はい」
「映画がヒットすると、出版はどう動く」
「直接の関連書籍があれば、それが動きます」
「当然だな」
「ですが、それだけではありません」
俺は資料を広げた。
「巨大な物語体験は、読者の物語をもっと浴びたい気持ちを上げます」
「少しマシな表現だ」
「最初は物語摂取欲と書きました」
「やめろ」
「はい」
俺は続けた。
「映画を見た読者は、感想を話します。似たものを探します。違う物語にも手を伸ばします。特に夏休みは時間があります。書店に寄る余裕もある」
「財布は?」
「薄いです」
「現実的だな」
「女子高生の財布は、需要に対して軽すぎます」
「誰の話だ」
「観測結果です」
社長は笑った。
「美咲君か」
「名前を出さないでください」
「君が出した」
「失礼しました」
「続けろ」
俺は資料に書いた。
夏休み読者導線
映画館
友人との会話
携帯メール
プリクラ
夏祭り
書店
貸し借り
既刊購入
次巻待ち
「夏祭り?」
社長が目を留めた。
「はい。明日、友人たちと、近所の夏祭りへ行く予定が入りました」
「君が?」
「はい」
「珍しい」
「私もそう思います」
「観測か?」
「……業務外です」
「間があったな」
「業務外です」
社長は楽しそうに笑った。
「なら、業務外らしくしてこい」
「努力します」
「善処ではなく?」
「努力します」
「よろしい」
社長は資料に視線を戻した。
「映画館、書店、夏祭り。全部、読者が歩く場所だ」
「はい」
「だが、仕事にしすぎるな」
「難しいです」
「だから努力しろ」
「承知いたしました」
*
翌日。
土曜日。
美咲は千尋を観た。
俺は朝から携帯の前で、なぜか落ち着かなかった。
仕事ではない。
仕事ではないはずだ。
だが、女子高生読者代表がジブリの巨大映画を観て、そのまま書店へ行く。
この動線が気にならないわけがない。
午後三時過ぎ。
メールが来た。
見た。
やばい。
名前取られるの怖い。
湯婆婆こわい。
ハクは良くて、カオナシは意外と可愛かった。
帰りに本屋寄って来るね
女子高生読者代表、要約が鋭すぎる。
俺は返信した。
楽しめたみたいでよかった。
書店では無理に買わなくていいです。
見るだけでも構いません。
すぐ返事。
見るだけのつもりで買うのが本屋。
強い。
この子は強い。
俺は携帯を閉じた。
胸の奥が少しだけ熱くなる。
夏休み。
映画。
書店。
女子高生。
貸し借り。
読者は動いている。
会議室の外で。
*
夕方。
俺は航と美咲に連れられて、近所の夏祭りへ行くことになった。
なぜこうなったのか。
発端は美咲のメールだった。
夜、祭り行く。
さっちゃんも来る?
仕事じゃなくて。
仕事じゃなくて。
念を押された。
俺は一度断ろうとした。
夏祭り。
屋台。
人混み。
浴衣。
航。
美咲。
業務外。
すべてが難しい。
だが、航からもメールが来た。
無理しなくていい。
でも来たら嬉しい。
焼きそばとか買うつもり。
焼きそば。
なぜそこで焼きそばなのか。
だが、少しだけ行きたくなった。
悔しい。
食べ物と人間関係の組み合わせは強い。
俺は結局、行くことにした。
浴衣は着ない。
着られない。
篠宮怜子の部屋に浴衣はあるかもしれないが、着付けなど無理だ。
仕事用ではないワンピースを選んだ。
薄い色。
少し柔らかい素材。
鏡の中の篠宮怜子は、社長室の氷点下ではなかった。
それが少し怖い。
だが、今日は業務外である。
たぶん。
*
夏祭りの屋台は、情報量が多すぎた。
焼きそば。
たこ焼き。
りんご飴。
金魚すくい。
射的。
かき氷。
綿あめ。
水風船。
浴衣姿の女子高生たち。
美咲は当然のようにその中に混ざっていた。
紺地に朝顔柄の浴衣。
帯は明るい黄色。
髪には小さな飾り。
昨日までスクバにストラップをじゃらじゃらつけていた女子高生が、今日は完全に夏祭りの生き物になっている。
「さっちゃん、かき氷食べます?」
「まだ焼きそばを処理中です」
「処理って言わない」
航が横から笑った。
航は浴衣ではなかった。
シャツにジーンズ。
手にはたこ焼き。
もう片方の手には、美咲が途中で飽きた水風船。
年下彼氏というより、今日は完全に兄だった。
「航」
「うん」
「あなた、荷物持ちが似合いますね」
「褒めてる?」
「判断を保留します」
「それ、だいたい褒めてないやつ」
美咲が笑う。
「航、昔からそうですよ。私が金魚すくい失敗したあとも、ずっと袋持ってた」
「失敗した金魚はいないだろ」
「だから袋だけ」
「虚無を持たされた兄」
兄妹の会話は軽い。
だが、軽い分だけ生活が見える。
篠宮怜子は、この二人の中にどれくらいいたのだろう。
俺はまだ、その距離を測りかねている。
焼きそばを一口食べる。
甘辛いソース。
少し焦げた麺。
屋台の味。
冷静に考えれば、栄養バランスは悪い。
衛生管理も未来の基準では怪しい。
だが、うまい。
こういうものは、数字で食べるものではない。
「さっちゃん」
航が急に言った。
「はい」
「動かないで」
「なぜ」
「ソースついてる」
俺は固まった。
美咲がにやっとした。
「どこに」
「唇の端」
準備万端なことに、紙ナフキンをつかんでいた航の手がさっと上がる。
距離が近づく。
俺は反射的に一歩下がりかけた。
だが、止まった。
昨日までなら、たぶん下がっていた。
玄関でそうした。
航の手を止めた。
傷つけた。
今日は。
今日は、どうする。
航は俺の反応を見て、手を止めた。
「自分で拭く?」
聞いてくれる。
逃げ道を置いてくれる。
その優しさが、少し重い。
だが、今日は重いだけではなかった。
「……お願いします」
俺は言った。
声が、少し掠れた。
航の目がわずかに揺れた。
それから、彼はゆっくり近づいた。
紙ナフキンごしの体温が、唇の端に触れる。
軽く。
本当に軽く。
ソースを拭うだけの接触。
それだけなのに、心臓がうるさい。
屋台の音。
太鼓の音。
人の声。
全部が少し遠くなる。
触られるのが怖い。
だが、嫌ではない。
その二つが、同時に存在していた。
「取れた」
航が言った。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
航はすぐに一歩引いた。
約束を守る距離。
近づきすぎない。
でも、離れすぎない。
それが、今の俺にはありがたかった。
美咲が、横でにやにやしている。
「何ですか」
「別に」
「顔が別にではありません」
「さっちゃん、今ちょっとかわいかった」
「業務外の発言として処理します」
「処理しないで受け取ってください」
強い。
義妹さま候補、相変わらず強い。
航が少し赤い顔でたこ焼きを食べている。
年下彼氏も、完全ではない。
それが少しだけ嬉しかった。
*
そんな時だった。
「篠宮さん?」
聞き慣れた声がした。
振り返る。
屋台の明かりの向こうに、佐伯がいた。
文庫編集部の佐伯。
赤ペンで俺の文章を容赦なく殺す女。
その佐伯が、仕事用のブラウスではなく、薄いカーディガンにスカートという私服で立っていた。
隣には、眼鏡をかけた男がいる。
年は佐伯より少し上だろうか。
穏やかそうな顔で、手には焼きとうもろこし。
俺は一瞬、完全に固まった。
佐伯に恋人がいる。
いや、いて当然だ。
当然なのだが、社内で赤ペンを握っている佐伯しか知らない俺には、衝撃が大きかった。
「佐伯さん」
「こんばんは。珍しいですね、篠宮さんがこういう場所にいるの」
「業務外です」
「分かってます」
佐伯は少し笑った。
その顔が、会社より柔らかい。
やめろ。
知らない顔を見せるな。
処理が追いつかない。
航が自然に一歩前に出た。
「こんばんは。桐生航です」
「佐伯です。文庫編集部の」
「いつもさっちゃんが赤ペンで刺されてる方ですね」
「航」
俺は低い声で止めた。
佐伯の目が細くなる。
「篠宮さん、家で何を話してるんですか」
「誤解です」
「だいたい合ってますよ」
佐伯が笑った。
隣の男が軽く頭を下げる。
「佐伯がお世話になっています」
お世話。
誰が誰を。
いや、たぶん恋人だ。
夫ではなさそうだが、距離が近い。
佐伯の職場の顔を知っている男。
佐伯が仕事以外の顔を見せる相手。
俺は、妙な感覚に襲われた。
職場の人間にも、生活がある。
当たり前だ。
真鍋にも、小早川にも、三浦にも、大町にも、久我にも、社長にも。
会社の中で役割として見えていた人間たちには、会社の外で別の名前と別の顔がある。
それを、俺はまた忘れかけていた。
「篠宮さん」
佐伯が言った。
「顔が仕事になってます」
「失礼しました」
「夏祭りで観測しない」
「……承知しました」
「いたしました、じゃないんですね」
「業務外なので」
佐伯は少し笑った。
「なら、業務外らしく楽しんでください」
その言葉が、少し刺さった。
業務外らしく楽しむ。
難しい。
俺は未来でも、たぶんそれが下手だった。
美咲が俺の横からひょいと顔を出す。
「佐伯さんって、ビーンズの人ですか?」
「そうです」
「まるマ面白かったです」
佐伯の顔が、はっきり変わった。
仕事の顔ではない。
編集者が読者の声を受け取った顔だった。
「ありがとう」
短い言葉だった。
だが、熱があった。
美咲はにこっと笑う。
「三巻待ってます」
「頑張ります」
「佐伯さんが書くんですか?」
「書くのは作家さんです」
「じゃあ届ける方?」
佐伯は少し驚いた顔をした。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうですね。届ける方です」
俺はその横顔を見ていた。
夏祭りの屋台の明かり。
焼きそばの匂い。
遠くの太鼓。
水風船を持つ航。
浴衣姿の美咲。
恋人連れの佐伯。
そして、まるマを読んだ女子高生の「待ってます」。
全部が、会社の会議室とは違う形でつながっている。
読者は、会議室には来ない。
だが、夏祭りにはいる。
映画館にもいる。
書店にもいる。
友達の隣にもいる。
屋台の前で、かき氷を持って笑っている。
俺はそれを、数字にしてはいけない。
でも、忘れてはいけない。
「篠宮さん」
佐伯が言った。
「今、また仕事の顔です」
「……すみません」
「今日は減点です」
「何の点数ですか」
「業務外適応点」
「そんな項目はありません」
「作ればいいじゃないですか。台帳好きでしょう」
ぐうの音も出ない。
航が笑い、美咲も笑った。
佐伯の隣の男も笑っている。
俺は、焼きそばを一口食べた。
少し冷めていた。
だが、悪くなかった。
*
祭りの帰り道。
美咲は途中で友達と合流し、駅の方へ走っていった。
浴衣の袖を揺らしながら、携帯を片手にメールを打っている。
器用すぎる。
平成十三年の女子高生は、親指で世界をつなぎ始めている。
俺と航は、少し遅れて歩いた。
夜風が少しだけ涼しい。
遠くで太鼓の音がまだ聞こえる。
屋台の明かりが背中に遠ざかる。
「さっちゃん」
「はい」
「今日は仕事しなかった?」
「しました」
「正直」
「ですが、少しだけです」
「少しだけならいいか」
「いいのですか」
「うん」
航は水風船を片手で揺らした。
「さっちゃんは、全部仕事にしないと落ち着かないんでしょ」
「否定は困難です」
「でも、全部仕事にしたあと、ちゃんと食べて、ちょっと笑えばいいよ」
俺は足を止めかけた。
「笑っていましたか」
「少し」
「それは不覚です」
「不覚なんだ」
「はい」
航は笑った。
それから、少しだけ真面目な声になる。
「さっき、下がらなかったね」
焼きそばのソース。
紙ナフキン。
唇の端。
俺は、視線を少し落とした。
「下がりかけました」
「うん」
「でも、下がりませんでした」
「うん」
「怖くなかったわけではありません」
「うん」
「ですが」
言葉を探す。
夜風。
夏祭りの匂い。
遠くの太鼓。
航の横顔。
篠宮怜子の身体。
俺の中の混乱。
全部が、まだうまく並ばない。
「嫌ではありませんでした」
ようやく言った。
航は、しばらく黙った。
それから、小さく息を吐いた。
「そっか」
「はい」
「じゃあ、今日はそれで十分」
「十分ですか」
「十分」
航は俺を見る。
「次、手をつなぐかどうかは、また別の日に考えよう」
直球だった。
だが、逃げ道もあった。
今日ではない。
別の日。
待つが、押さない。
その距離が、少しだけ分かってきた気がした。
「航」
「うん」
「あなたは重いですが」
「うん」
「少し、扱い方が分かってきました」
「俺、荷物なの?」
「水風船くらいには」
「軽いのか重いのか分からない」
「割れると面倒です」
「ひどい」
航は笑った。
俺も、少しだけ笑った。
今度は、自覚があった。
*
部屋に帰ると、机の上にはビーンズ創刊予告案が置かれたままだった。
開かなかった。
今日は開かなかった。
偉業である。
俺はメモ帳だけを開いた。
> 七月二十日。
千尋公開。
映画館から書店への導線。
少女は物語に落ちる。
出版社は、落とし穴ではなく鍵を渡す。
その下に、今日の祭りのことを書く。
夏祭り。
美咲、まるマ三巻待ち。
佐伯さん、恋人連れ。
職場の人にも生活がある。
読者は会議室ではなく、屋台の前にもいる。
少し迷って、もう一行。
焼きそばソース。
下がらなかった。
怖いが、嫌ではない。
書いた瞬間、耳が熱くなった。
これは業務メモではない。
完全に私的な記録だ。
だが、消さなかった。
未送信ではない。
未記録でもない。
俺は、篠宮怜子の生活の中で、少しずつ言葉を置き始めている。
平成十三年七月二十日。
二〇〇一年の夏への扉は、映画館の暗闇から開いた。
千尋の谷に落ちた少女の滝登り映画は、これから数字を叩き出す。
だがその前に、彼女は誰かの胸の中に落ちる。
美咲の中に。
佐伯の中に。
書店へ向かう少女たちの中に。
そして、少しだけ俺の中にも。
物語に落ちた人間には、帰り道が必要だ。
読者にも。
作品にも。
作り手にも。
そして、俺にも。
だから俺は、落とし穴ではなく扉を作る。
そしていつか、その扉を自分で開けられるように。
今日はまず、焼きそばのソースを拭われても逃げなかった自分を、少しだけ認めることにした。




