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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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14/33

第十四話 角川の少女向け新規レーベル ――発芽前の小さな豆に寄せて――

 金曜日。


 梅雨は、遠慮なく紙の帝国を湿らせていた。


 朝から雨。


 昼も雨。


 夕方も雨。


 社長室の窓は白く曇り、コピー用紙は少し波打ち、資料棚の隅では紙袋が自重で沈みかけている。


 紙は重い。


 知識も重い。


 人間関係も重い。


 昨日、俺は航の妹――桐生美咲と、ブリタニカとimidasに見守られながら、それを再確認した。


 女子高生。


 ルーズソックス。


 スクバ。


 携帯メール。


 プリクラ帳。


 まるマを読んで、友達に貸して、その友達が二巻を買った読者。


 彼女は言った。


 好きって言ったら、ちゃんと聞いてくれる出版社の人がいるのは、ちょっと嬉しいです。


 それが頭から離れない。


 読者は数字ではない。


 女子高生は流通である。


 義妹さま候補は圧である。


 そして今日、その圧はそのまま会議資料になっていた。


 机の上には、新しい紙束がある。



 少女向け新規文庫レーベル

 創刊準備会議資料



 来た。


 ついに来た。


 角川の少女向け新規レーベル。


 未来の名前で言えば、角川ビーンズ文庫。


 だが今はまだ、仮称だ。


 棚もない。


 読者への言葉も固まりきっていない。


 書店向け説明も揺れている。


 レーベル名も、会議資料の上ではまだインクの匂いがする。


 未来で見慣れた名前が、現在ではまだ雨に濡れないよう抱えられた薄い紙束でしかない。


 それは、何度見ても気持ち悪い。


 そして少しだけ、胸が高鳴る。


「篠宮君」


 社長が言った。


「はい」


「顔が怖い」


「通常運転です」


「違う。今日は、仕事を増やす顔だ」


「……否定は困難です」


 社長は資料を一枚めくった。


「今日は編集、営業、書店営業、宣伝を入れる。君も入れ」


「私は秘書ですが」


「まだその言い訳を使うのか」


「職制上は事実です」


「実態と乖離している」


「判断を保留します」


「保留するな」


 社長は少し笑った。


 それから、声を低くした。


「少女向けを軽く見るな」


「承知しております」


「男向けより小さい市場、などと言う者がいたら刺せ」


「物理ではなく?」


「数字と文脈で」


「承知いたしました」


 それなら得意だ。


 得意になってはいけないが、得意だ。


「それと」


「はい」


「未来という言葉を使うな」


 心臓が少し跳ねた。


「比喩です」


「便利な比喩は、使いすぎると疑われる」


 刺さった。


 最近、何度も刺さっている。


 航にも。


 美咲にも。


 三浦にも。


 鷹取にも。


 俺は未来を知っている。


 だからこそ、現在を雑に扱いやすい。


 社長の言葉は、いつもそこを突いてくる。


「留意します」


「留意では弱い」


「使いません」


「よろしい」


     *


 会議室には、すでに人がいた。


 文庫編集部の真鍋。


 少女向け新レーベル準備の佐伯。


 営業の三浦。


 書店営業の大町。


 宣伝部の岸本。


 営業局長の久我。


 そして社長。


 俺。


 資料の中央には、仮レーベルロゴ案、創刊ラインナップ案、帯文案、平台POP案、書店向け説明文案が並んでいる。


 紙。


 紙。


 紙。


 未来のレーベルは、まだ紙の山だった。


「では始めよう」


 社長が言った。


「秋の少女向け新規文庫レーベルについて、編集側から」


 佐伯が立った。


 目の下に疲れはある。


 だが、目は強い。


 まるマの説明文を赤ペンで殺した女である。


 信用できる。


「現行のティーンズルビー系統から、よりエンタメ色の強い少女向け文庫として再編します。読者層は中高生から二十代前半の女性を中心に想定。ただし、作品によっては男性読者や既存のファンタジー読者も取り込めると考えています」


 真鍋が資料を配る。


「レーベル名は、仮に『角川ビーンズ文庫』」


 ビーンズ。


 豆。


 未来で知っている名前が、会議室で仮称として発音される。


 俺は無表情を保った。


 保ったつもりだった。


 三浦がちらっとこちらを見た。


 見るな。


「ビーンズ?」


 久我が眉を寄せた。


「なぜ豆なんだ」


 当然の問いだった。


 佐伯は落ち着いて答える。


「種、芽、伸びる、若い読者に向けた物語の芽、というイメージです」


「豆か」


 久我は納得したような、していないような顔をした。


 大町が資料を見ながら言う。


「書店では説明が必要ですね。名前だけだと、最初は分からない」


「はい」


 佐伯は頷いた。


「そこが課題です」


 岸本が紙を出した。


「創刊時キャッチコピー案です」


 そこには、いくつかの文言が並んでいた。



 少女たちへ、新しい物語を。

 物語の扉、異世界への鍵――。

 恋も冒険も、この一冊から。

 まだ知らない世界へ、ようこそ。



 俺の目が止まった。



 物語の扉、異世界への鍵――。



 これだ。


 未来に残るやつだ。


 いや、今はまだ案だ。


 他の言葉と同じ重さで並んでいる一行にすぎない。


 誰かが選ぶ前の可能性。


 未来で公式の歴史に載る言葉が、今はまだ決定前の紙にある。


 鳥肌が立った。


「篠宮さん」


 佐伯が言った。


「どう思います?」


 来た。


 俺はすぐには答えなかった。


 未来を知っている。


 このコピーが残ることを知っている。


 だからこそ、そのまま「これです」と言ってはいけない。


 未来をなぞるだけなら、俺は現在から選択を奪っている。


 ここにいる人間が、今の理由で選ばなければ意味がない。


「まず」


 俺は紙を見た。


「『少女たちへ』は少し閉じすぎます」


 岸本が顔を上げた。


「閉じすぎ?」


「はい。少女向けであることは明確にすべきです。ただ、入口の言葉で読者を狭めすぎると、棚の外にいる読者が手を伸ばしにくくなります」


 美咲の顔が浮かぶ。


 ルーズソックス。


 プリクラ帳。


 まるマを友達に貸した女子高生。


 彼女は言った。


 女の子向けっぽいけど、航も途中まで笑っていた、と。


 あの感覚は重要だ。


「『恋も冒険も』は分かりやすいですが、少し既存の少女小説感が強い」


「では、どれがいいと」


 岸本が聞く。


 俺は一呼吸置いた。


「『物語の扉、異世界への鍵――。』が最も広いです」


 言った。


 未来をなぞった。


 だが、理由は今の言葉で言う。


「扉は読者が開けるものです。鍵は、こちらが渡すものです。異世界という言葉は、ファンタジーだけでなく、読者がまだ知らない場所全体を指せる」


 俺は続ける。


「少女向けでありながら、閉じすぎない。恋愛にも、冒険にも、歴史にも、学園にも、異国にも使える。創刊時の器として強いです」


 佐伯の目が少し動いた。


 岸本がメモを取る。


 大町は棚を想像している顔をしている。


「ただし」


 俺は言った。


「読者向けのコピーと、書店向けの説明文は分けるべきです」


「棚の言葉が要る、ということですね」


 大町が言った。


「はい」


 俺は資料の余白に書いた。



 中高生から大人まで楽しめる、少女向けエンタメ文庫。

 ファンタジー、恋愛、歴史、冒険。

 物語の入口を広く取る。



 佐伯が覗き込む。


「硬いですね」


「自覚はあります」


「でも、前よりマシです」


「ありがとうございます」


「褒めてます」


 珍しい。


 佐伯に褒められた。


 梅雨なのに明日は雪でも降るのかもしれない。


     *


 創刊ラインナップの話に移った。


 紙には、作品名が並んでいる。



 今日から(マ)のつく自由業!

 今度は(マ)のつく最終兵器!

 ローゼンクロイツ 仮面の貴婦人

 月の人魚姫     ほか調整中




 月の人魚姫。


 榎木洋子。


 俺は、タイトルを見て少し固まった。


 月。


 人魚姫。


 宇宙飛行士。


 二十歳になったら性別を選ぶ海の王族。


 情報量が多い。


 しかも二〇二六年の俺の脳が、今流行りの別の「かぐや姫」を勝手に引っ張ってきそうになる。


 月から来た少女。


 仮想空間。


 歌。


 配信。


 違う。


 落ち着け。


 まだ平成十三年だ。


 ここにあるのは仮想空間の歌姫ではなく、少女向け新レーベルの創刊候補である。そもそも初音ミクの前夜だってまだ遠いのだ。


「篠宮さん?」


 佐伯に見られていた。


「失礼しました。タイトルの情報量を処理していました」


「情報量」


「はい」


 俺は資料を指で押さえた。


「これは入れるべきです」


 佐伯の目が少し細くなる。


「理由は?」


「レーベルの幅が出ます」


 俺は言った。


「まるマは、普通の少年が異世界で魔王になるコメディ。ローゼンクロイツは、仮面、身分、陰謀、ロマンス。月の人魚姫は、海と月、性別、種族、宇宙への憧れ。並べることで、ビーンズ文庫が単なる恋愛文庫ではないと示せます」


 会議室が静かになる。


 俺は続けた。


「少女向けだから恋を置く。ですが、恋だけに閉じない。変身、越境、異世界、性別、身分、宇宙。女の子が“今いる場所ではないどこか”を選べる棚にする」


 言ってから、胸の奥が少し痛んだ。


 今いる場所ではないどこかを選ぶ。


 その言葉は、篠宮怜子の身体にいる俺には、痛すぎる。


 佐伯が、静かに言った。


「それ、いいですね」


「どれですか」


「今いる場所ではないどこかを選べる棚」


 佐伯は赤ペンを走らせる。


 俺は少し焦った。


「そのまま使うには硬いです」


「直します」


「お願いします」


 佐伯の赤ペンは信頼できる。


 たまに俺の文章を殺すが、必要な殺しである。


「ローゼンクロイツはどう見ますか」


 真鍋が聞いた。


「必要です」


「なぜ」


「正統派に見える作品があることで、棚が安定します」


 俺は資料を並べた。


「魔王だけだと、レーベルがコメディ色に寄りすぎます。月の人魚姫だけだと、越境や変身の色が強くなる。ローゼンクロイツのような華やかな歴史ロマンが並ぶことで、読者にも書店にも『この棚は複数の入口を持つ』と伝わる」


 大町が頷いた。


「書店では、それは大きいです。一作だけだと平台で終わる。複数の方向が見えると、棚になる」


 そう。


 そこだ。


 俺は、思わず言った。


「一作で勝つのではなく、棚で勝つべきです」


 会議室が少し静かになった。


 自分でも、言ってから分かった。


 これは今回の核だ。


 一作で勝つのではない。


 棚で勝つ。


 レーベルとは、そういうものだ。


 まるマを読んだ読者が、同じレーベルの別作品を見る。


 ローゼンクロイツを読んだ読者が、魔王に引っかかる。


 月の人魚姫に惹かれた読者が、異世界への扉に気づく。


 書店員が「この棚は動く」と思う。


 営業が「このレーベルは説明できる」と思う。


 編集が「ここに出したい」と思う。


 作家が「ここに書きたい」と思う。


 それがレーベルだ。


「篠宮さん」


 佐伯が言った。


「今の、もらいます」


「どれですか」


「一作で勝つのではなく、棚で勝つ」


「どうぞ」


「今回はすぐ使えます」


「前回は?」


「硬すぎました」


 知っている。


     *


 そこで、久我営業局長が資料をめくりながら唸った。


「しかし、なんだ」


 嫌な予感がした。


 久我は悪人ではない。


 現場を見ている。


 書店を見ている。


 取次を軽く見ない。


 地方を無視しない。


 だが、古い営業畑の人間である。


 こういう時、雑な言葉で地雷を踏む可能性がある。


「最近の少女向けは、男同士の距離が近い話が多くないか」


 会議室の空気が、少しだけ硬くなった。


 久我は資料から目を離さず、続けた。


「要するに、ホモっぽいというか――」


 その瞬間。


 佐伯の赤ペンが止まった。


 岸本が顔を上げた。


 真鍋が目を閉じた。


 三浦が「あ」と小さく息を漏らした。


 大町は無言で資料を伏せた。


 俺は、資料から顔を上げた。


 地雷だった。


 しかも、かなり踏み抜いた。


「久我局長」


 佐伯の声は低かった。


「その言い方は、読者にも作家にも失礼です」


 会議室が静まり返った。


 久我は一瞬、何を咎められたのか分からない顔をした。


「いや、悪い意味で言ったわけでは――」


「悪い意味でなくてもです」


 佐伯は即答した。


「読者が何に惹かれているのかを、雑な言葉で片づけた瞬間に、こちらは棚を見誤ります」


 強い。


 かなり強い。


 編集者の怒りだった。


 感情的ではない。


 だが、冷えている。


 この冷え方は、篠宮怜子の声にも少し似ていた。


「男同士の距離が近いから売れる、ではありません」


 佐伯は資料を指で押さえた。


「主従、忠誠、友情、対等な相棒、選ばれること、守られること、守ること。そういう関係性を、読者は読んでいるんです」


 真鍋が目を開けた。


「昔からありますよ。耽美も、JUNEも、やおいも。少女向けの読者は、男同士の関係性を読む訓練をとっくに積んでいます」


 久我は渋い顔をした。


「だが、書店で説明しづらい」


「説明しづらいのは、こちらの言葉が足りないからです」


 佐伯が言った。


「読者のせいではありません」


 会議室の空気が、さらに重くなる。


 ここで、俺は口を開いた。


「久我局長」


「何だ、篠宮君」


「今の発言は、地雷です」


「地雷?」


「はい。読者理解を破壊する種類の地雷です」


 久我の眉が動いた。


「言うなあ」


「言います」


 俺はまるマの資料を一枚抜いた。


「まるマの強さは、単に男性キャラクターが多いことではありません。主人公が異世界で、複数の濃い関係性に巻き込まれることです」


 次にローゼンクロイツの資料。


「こちらは仮面、身分、陰謀、ロマンス」


 さらに、月の人魚姫。


「こちらは性別、種族、海と月、宇宙への憧れ。今いる場所ではないどこかへ行きたいという欲望です」


 俺は資料を並べた。


「これらを雑に“ホモっぽい”で括ると、何が読まれているのか見えなくなります」


 久我は腕を組んだ。


「では、書店には何と言う」


「関係性が強い物語です」


 俺は言った。


「恋愛、友情、主従、家族、相棒、宿敵、忠誠、依存、救済。読者はそれらを読み分けます」


「関係性」


「はい」


「硬いな」


「自覚はあります」


 そこで、岸本が口を開いた。


「でも、宣伝の芯にはなります。恋だけではない、関係性で読む少女向け文庫」


 大町も頷く。


「“男同士がどうこう”で説明されたら、書店には持っていけません。でも、“関係性が強い物語”なら棚で説明できます」


 久我は大町を見る。


「本当か」


「はい。店員も説明できます。読者も怒らない」


「怒るのか」


 大町は少しだけ苦笑した。


「雑な売り方をすれば、怒ります」


 その通りだった。


 俺は昨日の美咲を思い出した。


 プリクラ帳。


 携帯メール。


 まるマを貸した友達。


 彼女なら何と言うだろう。


 たぶん、こう言う。


男同士だから読むんじゃなくて、関係が重いから読むんです。

 そこ間違えると、キモい売り方になります。



 女子高生読者代表、強い。


 俺はそれをそのままは言わなかった。


 だが、少しだけ言葉を借りる。


「現役女子高生の読者から、近い意見を聞いています」


 岸本が食いつく。


「どういう?」


「男同士だから読むのではなく、関係が重いから読む。そこを間違えると売り方が気持ち悪くなる、と」


 会議室が静かになった。


 三浦が小さく「美咲さん強い」と呟いた。


 聞こえているぞ。


 佐伯の赤ペンが動く。



 恋だけじゃない。

 友情、忠誠、変身、越境。

 関係性で読む、新しい少女向け文庫。



 真鍋が覗き込む。


「硬い」


「あとで直します」


 佐伯が即答した。


 俺は少しだけ安心した。


 地雷は踏まれた。


 だが、ただの事故では終わらなかった。


 地雷を踏んだからこそ、言葉が生まれた。


 久我はしばらく黙っていたが、やがて低く言った。


「分かった。今の言い方は取り消す」


 佐伯はすぐには頷かなかった。


「取り消すだけでは足りません」


「何だと?」


「書店向け資料からも、そういう雑な言い方が出ないようにしてください」


 久我は苦い顔をした。


 だが、最後には頷いた。


「分かった」


「ありがとうございます」


 佐伯は静かに頭を下げた。


 強い。


 このレーベルには、こういう編集者が必要だ。


     *


 会議後半、創刊時の棚作りの話になった。


 大町が資料を出す。


「創刊台は、店舗を絞るべきです。全部の書店に同じことはできません。女性向け文庫が強い店、少女小説の動きが見える店、コミック売場との距離が近い店を優先します」


「東京だけで見るな」


 久我が言った。


「はい」


 大町が頷く。


「池袋、横浜、名古屋、大阪。それに地方の協力店も入れます」


「地方を無視すると、レーベルにはならん」


 久我の言葉は重い。


 さっき地雷を踏んだ人間と同じ人間とは思えないくらい、現場を見ている。


 だから厄介だ。


 正しいところと古いところが同居している。


 人間は単純ではない。


「確認項目は?」


 久我が言った。


 俺は資料を出した。



 創刊時確認項目

 ・創刊台設置店舗

 ・一巻二巻併売率

 ・書店向け説明文の使用状況

 ・平台POP有無

 ・追加注文発生時期

 ・読者反応

 ・若年女性読者の口コミ経路

 ・Amazon商品情報整備

 ・公式ページ導線

 ・次巻発売時の既刊維持



「多い」


 久我が即答した。


「はい」


「減らせ」


「三浦さん」


 俺は横を見た。


 三浦が露骨に嫌な顔をした。


「私ですか」


「現場負荷の観点から」


「また私ですか」


「はい」


 三浦はため息をつき、赤ペンを持った。


「必須は、創刊台設置、一巻二巻併売、追加注文、店員所感。POPと説明文は写真か営業確認。Amazonと公式は社長室側。口コミ経路は……聞ける範囲で」


「女子高生のプリクラ帳は?」


 岸本が少し笑って言う。


「資料化しません」


 俺は即答した。


「そこは守ります」


 会議室が少しだけ柔らかくなった。


 だが、俺は本気だった。


 美咲を台帳にしてはいけない。


 彼女の友達も、プリクラ帳も、携帯メールも。


 読者を数字にしない。


 でも、声は聞く。


 難しい。


 とても難しい。


「久我局長」


 大町が言った。


「このレーベルは、書店側の説明ができれば動くと思います」


「根拠は」


「棚前で止まるタイトルがあります。まるマです。それと、華やかな正統派も並べられる。さらに月の人魚姫のような、少し変わった越境ものもある。少女向けの棚に、新しい動きを作れる可能性があります」


「可能性か」


「はい。ただ、今見ないと、他社の棚に先に取られます」


 大町の声は静かだった。


 だが強い。


 書店営業の言葉だ。


 久我はしばらく黙り、それから資料を置いた。


「創刊台は絞れ」


「はい」


「強い店で見ろ」


「はい」


「ただし、地方を無視するな」


「はい」


「三浦を殺すな」


「はい」


 三浦が小さく頷いた。


 俺も頷いた。


 すまない。


 だが、たぶん殺さない。


 たぶん。


     *


 会議の終盤。


 佐伯が創刊帯の案を出した。


 物語の扉、異世界への鍵――。

 角川ビーンズ文庫、創刊。



 その下に、作品紹介。


 ある日突然、魔王になりました。

 仮面の下に隠された、恋と陰謀のロマン。

 海の王の末っ子は、月の向こうを夢見る。



 俺は、その紙を見た。


 未来の歴史が、少しずつ形を持つ。


 航がAmazonで見つけたまるマ。


 美咲が友達に貸したまるマ。


 相沢が平台に出したまるマ。


 佐伯が赤ペンで磨いた一文。


 大町が見た棚。


 三浦が削った確認項目。


 久我が踏んだ地雷と、そこから生まれた言葉。


 ローゼンクロイツ。


 月の人魚姫。


 物語の扉。


 異世界への鍵。


 それらが、一本のレーベルの創刊へ向かっている。


 これは快感だ。


 だが、初期の快感とは違う。


 一冊を拾う快感ではない。


 棚を作る快感だ。


 読者が次の一冊に進む道を作る。


 転売厨だった俺が、未来で値段をつけていたものとは違う。


 これは、値段の前にあるものだ。


 出会う場所。


 探せる名前。


 並ぶ背表紙。


 レーベルロゴ。


 読者が覚える棚。


「篠宮さん」


 佐伯が言った。


「顔が変です」


「失礼です」


「褒めてません」


「でしょうね」


「でも、少し嬉しそうです」


 俺は黙った。


 佐伯は紙を整えた。


「私も、少し嬉しいです」


 意外だった。


「新しい棚を作るのは怖いです。失敗したら、作品も作家も読者も巻き込む。編集も営業も書店も疲れる」


「はい」


「でも、怖いだけなら、やらない方が楽です」


 佐伯は創刊帯の案を見た。


「それでも、扉を作るなら、ちゃんと鍵を渡したい」


 俺は少しだけ息を止めた。


 この人は編集者だ。


 作品を売る人ではある。


 だが、それだけではない。


 読者に鍵を渡したい人だ。


「佐伯さん」


「はい」


「このレーベルは、伸びます」


 言ってしまった。


 未来が、少しだけ漏れた。


 佐伯がこちらを見る。


「断言しますね」


「いえ」


 俺は言い換える。


「伸びるようにしましょう」


 佐伯は少し笑った。


「そっちの方がいいです」


「はい」


     *


 会議が終わった後、社長室に戻ると、机の上に紙が一枚置かれていた。


 小早川の字だった。



 怜子さんへ

 今日は疲れた顔をしているので、帰ること。

 あと、ビーンズを家で読まない。

 小早川




 情報が早すぎる。


 秘書課、怖い。


 その横で、携帯が震えた。


 航からのメールだった。



 美咲が、ビーンズって名前かわいいって言ってた。

 でも豆って言われるとお腹すくとも言ってた。

 今日ちゃんと帰れる?  航



 美咲。


 早い。


 女子高生の情報伝達速度が速すぎる。


 俺は返信を打った。



 帰ります。

 豆ではなく、物語の芽です。

 たぶん。 怜子



 送信。


 数秒。


 届く。


 未送信ではない。


 俺は社長室の窓を見た。


 雨はまだ降っていた。


 紙の帝国は湿っている。


 だが、その湿った紙の中から、芽が出ようとしている。


 ビーンズ。


 豆。


 種。


 芽。


 異世界への鍵。


 未来で知っている名前が、今はまだ会議資料の上で震えている。


 俺はその震えを、確かに見た。


 平成十三年六月。


 梅雨の角川書店で、少女向け新規レーベルは、まだ誰かの未来ではなかった。


 ただ、雨に濡れないよう抱えられた、薄い紙束だった。


 だからこそ。


 落とさないようにしなければならない。


 ゼクシィのように足に落とすな。


 売れた後に作品を潰すな。


 棚で勝つために、読者を狭めるな。


 雑な言葉で、関係性を殺すな。


 未来の名前を、現在の人間から奪うな。


 俺はメモ帳を開き、一行書いた。



 一作で勝つのではなく、棚で勝つ。

 ただし、棚は檻にもなる。



 もう一行。



 扉を作るなら、鍵を渡す。



 さらに、赤ペンで小さく足した。



 恋だけじゃない。

 読者は関係性を読む。



 最後に、少し迷ってから書いた。



 ビーンズ、発芽前。



 それは、少しだけ希望のある言葉に見えた。

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