第十三話 ブリタニカとimidasが見てる――梅雨の最中の木曜日は義妹さま候補と一緒――
六月の第二木曜日。
東京は、完全に梅雨だった。
朝から雨。
昼も雨。
夕方も雨。
ビルの窓は白く曇り、コピー用紙はわずかに湿気り、社長室の資料棚は不機嫌そうに沈黙している。
紙の帝国は、梅雨に弱い。
紙が波打つ。
背表紙が水気を吸う。
封筒が少し柔らかくなる。
そして俺の前髪も、朝から微妙に敗北していた。
「篠宮君」
社長が言った。
「はい」
「今日は帰れ」
「まだ何も申し上げていません」
「顔が、これから仕事を増やす顔だ」
「……否定は困難です」
社長は机の上に、分厚い本を二冊置いた。
一冊は、imidas 2001。
もう一冊は、何故かブリタニカ百科事典の一冊だった。
どちらも重い。
物理的にも、意味としても重い。
「これを見ておけ」
「帰れと言った直後に資料を渡すのは矛盾しています」
「今日は読むな」
「またですか」
「まただ」
社長は少し笑った。
「明日以降にしろ。持ち帰ってもいいが、今日は開くな」
「持ち帰ったら開きます」
「だろうな」
「では、なぜ渡すのですか」
「君が開かない練習をするためだ」
何だその修行。
俺は机の上の分厚い紙の塊を見た。
imidas。
現代用語。
時事用語。
未来を紙に閉じ込めようとする年鑑。
ブリタニカ。
百科事典。
世界を項目に分け、索引で整理し、知識として並べる巨大な紙の城。
どちらも、二〇〇一年にはまだ強い。
だが未来を知る俺には、その先が見えている。
ヤフーに成り代わったグーグル。
あっと言う間に遺物と化した電子辞書
極めつけがiモードをガラパゴスに叩き落とした、スマートフォン。
紙の知識は、軽く、速く、検索されるものへ変わっていく。
だが、この時代ではまだ、知識は重い。
机に置くと音がする。
足に落とせば痛い。
ゼクシィで学習済みである。
「篠宮君」
「はい」
「落とすなよ」
「足に、ですか」
「経験者の顔だ」
「判断を保留します」
社長は笑った。
「帰れ」
「承知いたしました」
俺はimidasとブリタニカ資料を、二重にした紙袋に入れ、慎重に抱えた。
重い。
かなり重い。
紙の知識は、筋力を要求してくる。
*
部屋に着いたのは、午後七時半過ぎだった。
雨はまだ降っていた。
マンションの廊下は湿っていて、蛍光灯の光が床にぼんやり反射している。
俺は鍵を開け、部屋に入った。
今日は一人のはずだった。
航は仕事で遅いと連絡があった。
小早川からも「今日は絶対に休むこと」と釘を刺された。
つまり、今夜の敵は俺自身だけである。
開くなと言われたimidas。
開くなと言われたブリタニカ。
封印済みのゼクシィ。
本棚の上に避難させられた、まるマ促販の関連資料。
誘惑が多すぎる。
俺は紙袋を机の横に置いた。
置いた瞬間、部屋の空気が変わった気がした。
ブリタニカとimidasが、こちらを見ている。
見るな。
俺は今日は読まない。
読まない予定だ。
読まない努力をする。
読まない方向で善処する。
かなり怪しい。
着替えようとしたところで、ドアチャイムが鳴った。
心臓が跳ねた。
航か。
いや、航なら合鍵がある。
小早川か。
いや、先輩秘書が自宅訪問してきたら、それはそれで大事件だ。
俺は玄関へ向かい、ドアスコープを覗いた。
そこにいたのは、女子高生だった。
紺のブレザー。
膝より少し上のスカート。
足元はルーズソックス。
肩にはスクールバッグ。
バッグには、やたら多いストラップ。プリクラ帳らしき透明カバーもはみ出している。
手には傘。
もう片方の手は胸元の紙袋。
そして、そこから覗いて見えるのは――。
『今日から(マ)のつく自由業!』
魔王の本体だった。
「……義妹候補」
思わず呟いた。
玄関の向こうには聞こえていないはずだ。
聞こえていたら死ぬ。
俺はドアを開けた。
「こんばんは」
そのJKは、少し緊張した顔で頭を下げた。
「桐生美咲です。航の妹です」
兄を呼び捨て。
距離が近い。
そして、顔立ちが少し航に似ている。
目元が特に似ている。
好奇心が強そうで、遠慮しているのに遠慮しきれていない目。
厄介な血筋である。
「えっと、篠宮です」
俺は頭を下げた。
「雨の中、どうされましたか」
「兄に頼まれて、これ持ってきました。あと、本、返しに来ました」
美咲は紙袋を差し出した。
まるマ。
航の妹が読んで、友達に貸し、その友達が買いに行くと言っていた本。
つまり、読者の声の起点のひとり。
目の前に、読者が来た。
会社でも、会議でも、書店でもない。
俺の部屋の玄関に。
「どうぞ」
言ってから、少し固まった。
入れるのか。
航の妹を。
この部屋に。
年下彼氏の妹を。
俺一人の時に。
いや、雨だ。
玄関先で返すのは失礼だ。
相手は女子高生だ。
濡れている。
中に入れるべきだ。
だが、部屋にはimidasとブリタニカと血染めゼクシィがある。
人を上げるには、最悪の環境である。
「上がっていいですか? 航、ちょっと遅れるってメール来て」
美咲はそう言って、手に持っていた携帯をちらっと見せた。
小さな折りたたみ式。
ストラップが二本ついている。
片方はキャラクターもの。
片方は、たぶん友達とおそろい。
画面を見ながら、親指で慣れた手つきで操作している。
女子高生の携帯メール。
二〇〇一年の生活感が、そこにあった。
詰んだ。
すでに予定されていた。
航め。
いや、連絡くらいしろ。
いや、もしかすると俺が携帯を見ていないだけかもしれない。
俺は小さく息を吐いた。
「どうぞ」
*
リビングに美咲を通すと、彼女は部屋をきょろきょろ見回した。
完全に遠慮がないわけではない。
だが、好奇心が勝っている。
若い。
眩しい。
そして怖い。
「さっちゃんの部屋、初めて入りました」
いきなり来た。
さっちゃん。
航の妹からの、さっちゃん。
破壊力がある。
「その呼び方は」
「あ、ダメですか?」
「いえ」
「兄がそう呼んでるので。あと、前に会った時、さっちゃんって呼んでいいよって言われた気がします」
前に会った時。
身体の奥が少し反応した。
曖昧な記憶。
航の実家ではない。
駅前の喫茶店。
制服姿の美咲。
航に連れられて、少し緊張していた。
篠宮怜子は、彼女と会っている。
完全な初対面ではない。
俺が知らないだけだ。
またひとつ、篠宮怜子の生活が俺の知らない場所から現れた。
「構いません」
「よかった」
美咲はほっとしたように笑った。
バッグを置く時、じゃらっとストラップが鳴った。
その中に、小さなプリクラ帳が見えた。
表紙にシールで名前が貼ってある。
平成の女子高生アイテム。
強い。
「わた兄から聞いてたより、きれいな部屋ですね」
「聞いていたより?」
「あ、すみません。兄が、最近さっちゃんの部屋が紙で埋まりそうって言ってたので」
航。
何を妹に話している。
「業務上の一時的な現象です」
「兄もそう言ってました。さっちゃんは絶対そう言うって」
読まれている。
しかも妹にも共有されている。
俺は麦茶を出した。
美咲は両手でグラスを持った。
「ありがとうございます。超助かります」
超。
そういう言葉が自然に出る。
ただし、令和っぽい軽さとは少し違う。
メールとプリクラと放課後の延長にある「超」だ。
「雨、マジで最悪でした」
「制服、濡れませんでしたか」
「ちょっとだけ。でも平気です。ルーズ、乾きにくいけど」
美咲は自分の足元を見て、少し笑った。
ルーズソックス。
実物として目の前にあると、未来人の俺には歴史資料に見える。
本人には、ただの今日の足元だ。
過去というものは、当事者には過去ではない。
当たり前だ。
*
美咲はテーブルにまるマを置いた。
「これ、面白かったです」
「そうですか」
「はい。友達にも貸しました」
「聞いています」
「あ、わた兄から?」
「はい」
「マジで言ってたんだ」
美咲は少し照れたように笑った。
「変なタイトルなのに、読んだら普通に面白くて。二巻も買いました」
買った。
売上になった。
友達に貸す。
口コミになる。
そして買う。
俺は思わずメモを取りそうになった。
駄目だ。
目の前の人間を観測対象にするな。
読者だ。
数字ではない。
「どこがよかったですか」
聞いてから、やはり仕事になっていると気づいた。
だが、美咲は気にしなかった。
「軽いところです」
「軽い」
「はい。でも、薄いって意味じゃなくて。なんか、主人公が普通にツッコむじゃないですか。変な世界に飛ばされてるのに、読んでるこっちと同じ目線で『いやいやいや』ってなる感じが読みやすいです」
「なるほど」
「あと、キャラが濃いです。名前とか設定とか、ちょっと濃すぎて逆に友達に説明したくなる感じ。」
「説明したくなる」
「はい。『トイレから異世界』って言うと、だいたい一回は聞き返されます」
強い。
確かに強い。
口コミに向いている。
読者が他人に説明する時、一言で引っかかる。
佐伯の赤ペンとは別の現場感だ。
女子高生の口コミ。
プリクラ帳と携帯メールの時代の口コミ。
それは、まだSNSではない。
だが、確実に広がる。
教室。
放課後。
メール。
貸し借り。
プリクラのついでの会話。
書店帰りの寄り道。
作品が届く道は、会社の台帳よりずっと生々しい。
「あと、女の子向けっぽいけど、航も途中まで笑ってました」
「航も読んだのですか」
「読んでましたよ。Amazonで見つけた本、だいたい気になるみたいで」
やはり。
航は本そのものというより、見つけることが好きなのだ。
検索して、引っかかって、知らないものに届く。
その瞬間が好きなのだ。
「わた兄、最近さっちゃんの話ばっかりします」
突然の被弾。
俺は麦茶を置いた。
「仕事の話でしょう」
「仕事の話もです」
「も?」
「はい」
美咲はじっと俺を見た。
まっすぐな目だった。
若い。
だが鋭い。
航に似ている。
本当に厄介な兄妹である。
「兄が、心配してます」
「ご迷惑を」
「迷惑じゃないと思います」
美咲は少しだけ首を傾げた。
「でも、ちょっと寂しそうです」
刺さった。
義妹候補、初手から強い。
「寂しそう」
「はい。さっちゃんが遠いって」
航。
妹にそこまで話すな。
いや、話したくなるほど不安にさせているのは俺だ。
俺は返す言葉を探した。
「最近、体調と仕事の都合で」
「それ、兄にも言ってますよね」
「はい」
「でも、それだけじゃないんですよね?」
直撃。
俺は黙った。
ブリタニカとimidasが、部屋の隅で見ている気がした。
世界を項目に分ける百科事典。
時代を言葉で整理する年鑑。
だが、目の前の女子高生の問いには、どちらも答えを載せていない。
篠宮怜子の中に未来の転売厨がいる場合の、年下彼氏の妹への対応。
そんな項目は、ブリタニカにもimidasにもない。
「……分からないことが多くて」
俺は言った。
「兄のことが?」
「それもあります」
「自分のこと?」
心臓が少し跳ねた。
美咲は、軽い調子ではない。
真面目だった。
「はい」
俺は答えた。
「自分のことも」
美咲は、少しだけ表情を和らげた。
「わた兄、たぶん待ちますよ」
「昨日も言われました」
「しつこいので」
「血筋ですか」
「たぶん」
美咲は笑った。
その笑い方も、少し航に似ていた。
*
雨は強くなっていた。
航からメールが来た。
仕事が少し長引くので、あと一時間ほどかかる。
つまり、俺は年下彼氏の妹と一時間、二人きりである。
義妹さま候補と一緒。
タイトルが発生している。
かなりまずい。
気まずさを紛らわせるため、美咲は部屋の本棚を見た。
「さっちゃん、本多いですね」
「仕事柄です」
「仕事じゃなさそうな本もあります」
「……あります」
篠宮怜子の私物だ。
文庫。
ハードカバー。
映画パンフレット。
雑誌。
読んでいた本。
読みかけの本。
その中に、俺がまだ触れていない怜子の足跡がある。
携帯の履歴を見て以来、俺はそれを無暗に掘り返すのが怖くなっていた。
だが、本棚は部屋の中で静かに存在している。
見てくれ、と言うわけでもなく。
隠れているわけでもなく。
「これ、何ですか?」
美咲が紙袋を見た。
しまった。
imidasとブリタニカだ。
「資料です」
「重そう」
「重いです」
「見てもいいですか?」
「今日は開かないように言われています」
「誰に?」
「社長に」
「社長さんに、家で本を開かないように言われるんですか」
「最近、そういう状態です」
「ヤバい会社ですね」
ストレート。
だが否定できない。
美咲の目はもう紙袋に向いている。
若い読者の好奇心。
これは止めづらい。
俺は、社長の言葉を思い出した。
今日は見るな。
だが、俺が見るなと言われただけで、美咲が見るなとは言われていない。
いや、詭弁だ。
完全に詭弁である。
未来の転売厨の悪い癖が出ている。
「少しだけです」
俺は負けた。
紙袋からimidasを取り出す。
どん、と机に置く。
重い音がした。
美咲の目が輝いた。
「うわ、分厚っ」
「はい」
「辞書ですか?」
「現代用語の年鑑です。時事用語や社会の言葉がまとまっています」
「へえ……紙の検索サイトみたい」
また出た。
航と同じことを言う。
血筋が厄介すぎる。
「雑ですが、遠くはありません」
「わた兄も言いそう」
「言います」
美咲はぱらぱらとページをめくった。
IT。
環境。
医療。
政治。
経済。
社会。
文化。
言葉がぎっしり並んでいる。
紙に閉じ込められた二〇〇一年の世界。
この時代の人間が、自分たちの現在を理解するための地図。
俺から見ると、未来の前史でもある。
「これ、毎年出るんですか?」
「はい」
「毎年、世界を更新するんだ」
美咲の言葉に、俺は少し黙った。
毎年、世界を更新する。
うまい言い方だった。
「そうですね」
「でも、重いですね」
「はい」
「携帯で見られたら便利なのに」
俺は美咲を見た。
彼女は何気なく言っただけだ。
だが、それは未来の方向だった。
携帯で見る。
手のひらで検索する。
紙の年鑑ではなく、常に更新される情報に触れる。
ブリタニカも、imidasも、いずれ重さを捨てる。
紙ではなくなる。
いや、紙でなくならざるを得ない。
「……いずれ、そうなります」
俺は呟いた。
美咲が顔を上げる。
「そう思います?」
「はい」
「航も言ってました。これからは携帯で何でも見るようになるって」
「兄妹ですね」
「よく言われます」
美咲は少し得意そうだった。
次に、ブリタニカのほうを見た。
「百科事典?」
「はい」
「うちにもあります。全部は読めないやつ」
「読めませんね」
「でも、あると頭よさそうに見えるやつ」
「分かります」
分かってしまう。
本棚に百科事典がある家。
知識が家具のように置かれている時代。
情報は、家に招かれるものだった。
未来では違う。
情報はポケットに入り、通知で侵入し、検索で呼び出され、広告で追ってくる。
重さを失った代わりに、逃げ場も失わせる。
ブリタニカとimidasは、机の上で静かに開かれていた。
まるで、俺と美咲の会話を見ているように。
*
美咲はバッグから小さなプリクラ帳を出した。
「これ、見ます?」
「私が見てもいいものですか」
「変なのは貼ってないんで」
そういう問題なのか。
だが、美咲はもう開いていた。
プリクラ。
小さなシール写真。
女子高生たちの顔。
落書き。
丸文字。
日付。
「ズッ友」
「放課後」
「マジ眠い」
「テストやば」
平成十三年の女子高生の生活が、紙の小さな四角に閉じ込められている。
未来のSNSの投稿より、ずっと物理的だ。
撮って、切って、貼る。
見せる相手を選ぶ。
そこにしか残らない。
「これ、友達です」
美咲が指差した。
「この子が、まるマ借りた子」
「この方が」
「はい。今日、二巻買ったって写メ来ました」
また一本。
作品が届く道が、また一本見えた。
女子高生のプリクラ帳。
携帯メール。
貸し借り。
書店。
買う。
その全部がつながっている。
俺は、メモを取りたい衝動を必死で抑えた。
目の前の少女たちを、台帳の項目にするな。
だが、忘れるな。
難しい。
「さっちゃん、今メモ取りたい顔しました」
「なぜ分かるのですか」
「兄が言ってたんです。さっちゃんは、面白いもの見ると仕事の顔になるって」
航。
共有しすぎだ。
「美咲さん」
「はい」
「読者を見て仕事の顔をするのは、失礼でしょうか」
美咲は少し考えた。
「見方によると思います」
「見方」
「売るためだけに見られるのはイヤです。でも、ちゃんと届けたいから見てるなら、まあいいかなって」
十八歳の女子高生に、かなり本質的なことを言われている。
ブリタニカとimidasが沈黙している。
たぶん載っていない。
「それに」
美咲はまるマの表紙を軽く叩いた。
「好きって言ったら、ちゃんと聞いてくれる出版社の人がいるのは、ちょっと嬉しいです」
胸の奥が、少しだけ痛くなった。
嬉しい。
それはたぶん、数字より前の言葉だ。
「ありがとうございます」
「いえ」
「大変参考になりました」
「仕事だ」
「失礼しました」
美咲は笑った。
「でも、そういうところ、嫌いじゃないです」
それは、航にも似た言い方だった。
*
午後九時前。
航が来た。
雨の中、少し息を切らしている。
「ごめん、遅くなった」
「お疲れ様です」
俺が言うと、航は少し安心した顔をした。
美咲は立ち上がる。
「わた兄、遅い」
「悪かった」
「さっちゃんとimidas読んでた」
「読むなって言われてなかった?」
航が俺を見る。
俺は視線を逸らした。
「私は読んでいません。美咲さんが読みました」
「屁理屈」
「判断を保留します」
「それ、便利すぎる」
航は机の上を見た。
imidas。
ブリタニカ。
まるマ。
プリクラ帳。
封印されたゼクシィ。
情報量が多い。
「何この部屋」
「紙の帝国の縮図です」
「説明が仕事」
「事実です」
美咲が笑った。
「わた兄、さっちゃん前より面白くない?」
「だろ」
航がなぜか得意げだった。
「なぜあなたが得意げなのですか」
「俺のさっちゃんなので」
言った瞬間、部屋が静かになった。
航自身も、少し「あ」となった顔をした。
俺も固まった。
美咲だけが、にやっと笑った。
「ほら、そういうとこ」
「美咲」
「待ってる自分を見せるとこ」
航が妹に刺された。
珍しい。
いや、初めて見る。
俺は少しだけ救われた。
航も完全ではない。
優しいが、少しずるい。
待つと言いながら、待っていることを見せる。
大事にするが、大事にしている自分の重さも渡してくる。
人間だ。
航も、人間だ。
当たり前なのに、少し忘れていた。
「航」
「うん」
「重いです」
言った。
航の顔が固まる。
だが俺は続けた。
「ですが、嫌ではありません」
「……うん」
「待たせていることも、分かっています」
「うん」
「でも、待っていることを見せられると、少し苦しいです」
航は、静かに息を吐いた。
「ごめん」
「謝ってほしいわけではありません」
昨日の航の言葉を返した。
航は少し笑った。
「言われると効くね、それ」
「はい」
美咲が満足そうに頷いている。
義妹さま候補、完全に場を支配している。
「わた兄」
「何」
「さっちゃん、逃げてるわけじゃないと思うよ」
美咲は言った。
「混乱してるだけ」
正確すぎる。
「だから、追うと逃げる」
「猫みたいに言うな」
「んーん、わた兄より猫の方が距離感うまいし」
「ひどい」
航は苦笑した。
俺も少しだけ笑った。
たぶん、顔に出た。
航がそれを見て、少し安心したような顔をした。
*
美咲を送るため、航はすぐに帰ることになった。
玄関で、美咲はまるマを俺に返した。
「これ、ありがとうございました」
「こちらこそ、感想をありがとうございます」
「三巻、出たら買います」
「はい」
「あと、さっちゃん」
「はい」
「兄さんのこと、よろしくお願いします」
重い。
義妹さま候補から正式に圧が来た。
「努力します」
「善処じゃなく?」
「努力します」
「ならいいです」
美咲は笑った。
航が傘を開く。
「じゃあ、また連絡する」
「はい」
「今日は仕事しないこと」
「はい」
「imidasも閉じる」
「はい」
「ブリタニカも」
「はい」
「ゼクシィも」
「封印済みです」
航は少し笑った。
「おやすみ、さっちゃん」
「おやすみなさい」
「そこ敬語なんだ」
「癖です」
いつものやりとり。
だが、今日は美咲がいる。
彼女はにやにやしていた。
やめろ。
見守るな。
ブリタニカとimidasだけで十分だ。
扉が閉まる。
雨の音が少し遠ざかる。
部屋に静けさが戻った。
*
机の上には、imidasとブリタニカが開かれたままだった。
俺はそれらを閉じた。
重い。
紙は重い。
知識も重い。
人間関係も重い。
だが、重いからこそ、机の上に残る。
検索すればすぐ消える画面とは違う。
そこにある。
見ている。
今日、この部屋では、ブリタニカとimidasが見ていた。
航の妹が、まるマの読者として来た。
プリクラ帳と携帯メールを持った女子高生が、作品の届き方を教えてくれた。
年下彼氏の重さを、妹が少しほどいた。
俺は、航に「重い」と言った。
そして、嫌ではないとも言った。
それが正解かは分からない。
だが、未送信ではない。
言葉にした。
俺はメモ帳を開いた。
紙の知識は重い。
紙の導線も重い。
人の距離も、重い。
ただし、重いものは、置き場所を決めれば支えられる。
もう一行。
女子高生の口コミは、台帳より速い。
義妹さま候補、強い。
これは消そうかと思った。
だが消さなかった。
平成十三年、梅雨最中の木曜日。
紙の帝国の片隅で、俺はまたひとつ、台帳に載らないものを知った。
読者は数字ではない。
女子高生は流通である。
妹は圧である。
そして、ブリタニカとimidasは、開かなくてもだいたい見ている。




