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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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第十二話 一人だけの日曜日。iモードなんて懐かしすぎる。ブラウザの履歴に残った怜子の足跡

 日曜日。


 俺は、ひとりだった。


 航はいない。


 小早川もいない。


 三浦もいない。


 社長からの電話もない。


 真鍋の刺すような正論も、佐伯の赤ペンも、相沢の棚の声も、大町の現場感も、久我の低い声も、榊原の冷たい確認もない。


 あるのは、篠宮怜子の部屋と、雨上がりの湿った空気と、鍋に残った貝柱入り中華粥。


 そして、下腹部の鈍い痛みだった。


「……まだ痛い」


 声は冷たく整っている。


 内容は完全に弱音だった。


 薬は効いている。


 昨日よりはマシだ。


 だが、マシというだけで、消えたわけではない。


 身体の奥に、重いものが残っている。


 男だった頃の俺にはなかった種類の不調。


 寝れば治るとか、飯を食えば戻るとか、そういう雑な回復とは違う。


 身体が、今日は静かにしていろと言っている。


 静かにしていろ。


 難しい命令だった。


 未来の俺は、静かにしていられなかった。


 通知を見る。


 注文を見る。


 相場を見る。


 発送する。


 文句を返す。


 価格を変える。


 寝る前も、起きた直後も、画面を見ていた。


 その結果、たぶん倒れた。


 いや、死んだのかもしれない。


 なのに今、また同じことをしようとしている。


 机の上には、封印されたゼクシィ。


 新聞紙がかけられている。


 航の字で、上にメモが貼られていた。



 開くな。 航




 命令が雑である。


 だが、効果はある。


 俺はゼクシィから目をそらした。


 魔王も封印されている。


 まるマの一巻と二巻は、本棚の上に避難させられていた。


 航め。


 仕事の資料も、昨日のうちに鞄から抜かれていた。


 小早川か。


 航か。


 両方か。


 俺の周囲には、俺に仕事をさせないための包囲網が形成されつつある。


 怖い。


 ありがたい。


 怖い。


 俺は布団から抜け出し、台所へ向かった。


 中華粥を温める。


 貝柱の匂いが立つ。


 昨日の朝、女の子の日という現実に叩き潰されながら食べた粥。


 今日もまだうまい。


 悔しい。


 体調が悪い時にうまい食べ物は、相手に対する警戒心を削ってくる。


 航、危険である。


 器を持ってリビングへ戻る。


 テーブルの上に、篠宮怜子の携帯電話が置いてあった。


 折りたたみ式。


 小さい画面。


 外側のサブディスプレイ。


 ストラップ。


 未来のスマートフォンに比べると、玩具みたいに見える。


 だが、二〇〇一年の東京では、これが十分に未来だった。


 俺はしばらく、その携帯を見つめた。


 昨日までは、電話とメールを受ける道具としてしか見ていなかった。


 航から電話が来る。


 小早川から電話が来る。


 会社から電話が来る。


 そういう、襲撃装置だった。


 だが、この時代の携帯には、もうひとつの顔がある。


 iモード。


「……懐かしすぎるだろ」


 俺は携帯を手に取った。


 正確には、俺の時代の記憶として懐かしい。


 自分が使い込んでいたかと言われると、世代的には少しズレる。


 だが、名前は知っている。


 絵文字。


 着メロ。


 公式メニュー。


 メール。


 小さい画面で見るニュース。


 占い。


 待受画像。


 携帯サイト。


 パケット代。


 パケ死。


 最後の言葉は、二〇〇一年の俺が使っていいか微妙だ。


 いや、未来人だからいい。


 内心なら許される。


 携帯を開く。


 液晶が光る。


 小さい。


 恐ろしく小さい。


 未来のスマホに慣れた目には、情報量が少なすぎる。


 だが、その少なさが逆に怖い。


 この小さな窓から、人はもうネットへ出始めている。


 まだ細い道だ。


 遅い。


 狭い。


 画像も弱い。


 検索も貧弱。


 だが、道は道だ。


 俺はiモードボタンを押した。


 接続中。


 数秒。


 遅い。


 だが、つながる。


 小さな画面にメニューが出た。


 ニュース。


 天気。


 メール。


 占い。


 交通。


 タウン情報。


 公式サイト。


 文字が並ぶ。


 未来から見れば、原始的だ。


 だが、二〇〇一年の俺から見れば、これはもう十分に怪物の幼体だった。


 手のひらの中に、情報の入口がある。


 書店の棚でもない。


 新聞でもない。


 雑誌でもない。


 パソコンの前でもない。


 電車の中でも、ベッドの中でも、喫茶店でも、会議室の外でも、情報へ触れる。


 まだ小さい。


 だが、この先、これがすべてを飲む。


 検索も、購買も、読書も、感想も、炎上も、孤独も、暇つぶしも。


 未来の俺は、それを知っている。


「……本屋どころじゃないな」


 Amazonだけではない。


 iモードも、携帯も、手のひらのネットも、全部が来る。


 出版社が見ている未来は、たぶんまだパソコンの画面だ。


 だが本当は、もっと小さい画面が読者の時間を奪いに来る。


 雑誌を読む電車内。


 文庫を開く待ち時間。


 書店に寄る帰り道。


 その隙間に、携帯が入り込む。


 少しずつ。


 静かに。


 そして、いつか当たり前になる。


 俺は背筋が冷えた。


 いや、今日は冷やしてはいけない。


 腹が痛いのだ。


 温めろ。


 俺は粥を一口食べた。


 温かい。


 よし。


 それから携帯のメニューを触った。


 操作しづらい。


 十字キー。


 決定ボタン。


 戻る。


 文字入力。


 未来のフリック入力に慣れた人間には、拷問に近い。


 だが、身体が知っていた。


 篠宮怜子の指は、迷いながらも動く。


 メール。


 ブックマーク。


 画面メモ。


 履歴。


 俺は、そこで手を止めた。


 履歴。


 ブラウザの履歴。


 篠宮怜子が見たもの。


 彼女の足跡。


 他人の携帯を見るのは、まずい。


 かなりまずい。


 手帳を見るのとは違う。


 仕事資料を見るのとも違う。


 これは、私生活だ。


 篠宮怜子の内側に近い。


 見るべきではない。


 そう思った。


 だが、俺はもうこの身体で生活している。


 彼女の家に帰り、彼女の服を着て、彼女の恋人と向き合い、彼女の痛みを受けている。


 彼女が何を見ていたのか知らないまま、この生活を続ける方が危険なのではないか。


 正当化。


 便利な言葉だ。


 未来の俺は、正当化が得意だった。


 定価で買っている。


 需要がある。


 市場原理だ。


 ルール上は問題ない。


 今も同じ匂いがする。


 他人の履歴を見る理由を、俺は探している。


 最低だ。


 だが、見なければ分からない。


 この身体の持ち主が、何を考えていたのか。


 何に触れていたのか。


 どこへ行こうとしていたのか。


「……必要最低限だ」


 誰に言い訳しているのか分からない。


 俺は履歴を開いた。


 小さな画面に、数件のサイト名が並んだ。


 天気。


 乗換案内。


 ニュース。


 これは普通だ。


 仕事のためだろう。


 会食の店。


 地図。


 映画館の上映時間。


 百貨店の催事情報。


 これも分かる。


 秘書の生活だ。


 来客、手配、会食、移動。


 そして、いくつかの読書系サイト。


 新刊情報。


 文庫発売予定。


 書店の在庫案内らしきページ。


 携帯向けの小さなレビューサイト。


 篠宮怜子は、やはり本を見ている。


 仕事としてだけではなく、たぶん私生活でも。


 俺は少しだけ安心した。


 だが、次の履歴で手が止まった。



 女性のからだ相談



 心臓が跳ねた。


 開くか迷った。


 迷ったが、履歴だけでは分からない。


 俺は開いた。


 小さな画面に、体調や月経周期に関する説明が出る。


 貧血。


 腹痛。


 不規則。


 ストレス。


 受診目安。


 篠宮怜子は、これを見ていた。


 いつだ。


 履歴の日付は、数日前。


 俺がこの身体に来る前か、来た直後か。


 いや、携帯の履歴は詳細な時刻まで分からない。


 だが、最近だ。


 彼女は自分の体調を気にしていた。


 もしかすると、昨日のこれは予定外だったのかもしれない。


 疲労。


 ストレス。


 仕事。


 社長室。


 篠宮怜子もまた、自分の身体を限界まで使っていたのか。


 俺だけではない。


 この女も、休むのが下手だったのか。


 小早川の言葉を思い出す。


 あなた、自分の身体を道具みたいに扱ってる。


 それは俺だけに向けた言葉だったのか。


 それとも、前から篠宮怜子に向けて言いたかった言葉だったのか。


「……お前もかよ」


 俺は携帯を見つめた。


 篠宮怜子。


 社長室秘書。


 冷たい顔。


 数字で人を刺しそうな女。


 だが、携帯の履歴には、体調不安の小さな足跡が残っている。


 誰にも言わず、小さい画面で調べていた。


 俺はその事実に、妙に胸を掴まれた。


 次の履歴へ移る。



 退職 挨拶 文例



 呼吸が止まった。


 退職。


 挨拶。


 文例。


 篠宮怜子は、退職を考えていたのか。


 俺は画面を見たまま固まった。


 いや、仕事上の調べ物かもしれない。


 誰かの退職挨拶文を用意したのかもしれない。


 秘書なら、そういうこともある。


 社内向けの文章。


 役員の挨拶。


 花束。


 送別会。


 いくらでも理由はある。


 だが、履歴の並びが嫌だった。


 女性のからだ相談。


 退職 挨拶 文例。


 天気。


 乗換。


 航くんへのメール。


 俺はメールという文字で手を止めた。


 履歴ではない。


 メール。


 見るべきではない。


 絶対に見るべきではない。


 だが、携帯の未送信フォルダに、一件だけ下書きがあるのが見えた。


 宛先は、航くん。


 くん付け。


 信じがたい。


 そして、痛い。


 俺はしばらく携帯を閉じようとした。


 閉じるべきだった。


 だが、閉じられなかった。


 俺は下書きを開いた。



 航くんへ


 今日は行けなくなりました。

 ごめんなさい。

 最近、少し疲れています。

 仕事が嫌いなわけではないけれど、

 仕事をしている時の自分ばかりが残って、

 それ以外の自分が薄くなっていく感じがします。


 こんなことを言われても困ると思うので、

 送らないかもしれません。



 そこで文章は終わっていた。


 俺は、動けなかった。


 送らなかったメール。


 篠宮怜子の足跡。


 彼女は、疲れていた。


 仕事が嫌いなわけではない。


 だが、仕事をしている自分ばかりが残る。


 それ以外の自分が薄くなる。


 俺が感じていたことと、似ている。


 いや、俺が感じていたのではないのかもしれない。


 篠宮怜子の感覚が、俺に混ざっていたのか。


 それとも、俺と彼女が似ているから、この身体に落ちたのか。


 分からない。


 分からないが、確かなことが一つある。


 篠宮怜子は、消える前から消えかけていた。


 仕事の中で。


 冷たい秘書の顔の中で。


 社長室の空気の中で。


 人に頼らず、弱音を送らず、下書きに残したまま。


「……ふざけるなよ」


 誰に言ったのか分からない。


 篠宮怜子にか。


 俺にか。


 会社にか。


 未来にか。


 分からない。


 だが、腹の奥の痛みとは違う痛みが胸に来た。


 俺はこの身体を奪ったのかもしれない。


 だが、彼女は本当に消えたのか。


 それとも、俺が来る前から、少しずつ自分を削っていたのか。


 航はそれに気づいていたのか。


 小早川は気づいていたのか。


 社長は。


 俺は、携帯を閉じた。


 これ以上見るのは駄目だ。


 もう十分だ。


 十分すぎる。


     *


 昼前。


 固定電話が鳴った。


 俺は一瞬びくっとした。


 だが、今日は出られる。


 腹は痛いが、昨日よりは動ける。


「はい、篠宮です」


『さっちゃん?』


 航だった。


「はい」


『体調どう?』


「昨日よりはマシです」


『よかった』


 その声が、携帯の下書きと重なった。


 航くんへ。


 今日は行けなくなりました。


 ごめんなさい。


 最近、少し疲れています。


 俺は、受話器を握る手に力を入れた。


『お粥、食べた?』


「食べました」


『薬は?』


「飲みました」


『ゼクシィは?』


「封印されています」


『よし』


 いつもの軽いやりとり。


 だが、今日は少し違って聞こえる。


 この男は、篠宮怜子の何を知っていたのだろう。


 どこまで気づいていたのだろう。


 そして、俺の中にいるものが違うことに、どこまで気づきかけているのだろう。


「航」


『うん』


「私は、最近、変ですか」


 聞いてしまった。


 電話の向こうが少し静かになる。


『変だよ』


 即答だった。


「即答ですか」


『うん』


「どのように」


『仕事の話は前より増えた。未来とか観測とか、よく分からない言葉も増えた。敬語も増えた。たまに、俺のことを初めて見るみたいな顔をする』


 刺さった。


『でも』


「はい」


『前から、変だったところもある』


「前から」


『うん。無理する。疲れてるのに大丈夫って言う。仕事の話になると顔が冷たくなる。自分のことを後回しにする。謝る前に、まず寝てほしい時がある』


 それは、俺ではない。


 篠宮怜子だ。


 俺だけではない。


『だから、最近のさっちゃんが全部別人みたいってわけじゃない』


 心臓が少し痛くなった。


『むしろ、変なところが表に出てきた感じ』


「変なところ」


『本当は怒ってたんだな、とか。本当は本が好きなんだな、とか。本当は怖いんだな、とか』


 俺は黙った。


 航は続けた。


『それが見えるようになったのは、嫌じゃない』


「そうですか」


『うん。でも、急に遠くなるのは怖い』


 理由が分からないのが怖い。


 昨日の言葉を思い出す。


「すみません」


『謝らなくていいって』


「癖です」


『知ってる』


 航が小さく笑った。


 俺は少し迷ってから、言った。


「携帯を見ました」


『携帯?』


「iモードです」


『ああ。何か調べた?』


「履歴を」


 電話の向こうが静かになった。


 当然だ。


 それは他人の足跡だ。


 俺は続ける。


「すみません。見るべきではありませんでした」


『何を見たの』


 怒ってはいない。


 だが、声は真面目だった。


「体調のことと」


『うん』


「退職挨拶の文例と」


『……うん』


 航の声が少し沈んだ。


 知っていたのか。


 知らなかったのか。


 分からない。


「それから、未送信のメールを」


 言ってしまった。


 航はしばらく黙った。


『俺宛て?』


「はい」


『そっか』


「本当に、すみません」


『読んだんだ』


「はい」


『怒ってないよ』


「怒るべきです」


『そうかもしれないけど、怒るより先に、そっか、って思った』


「そっか」


『あの子、送らなかったんだなって』


 あの子。


 航の口から出たその言葉が、妙に重かった。


 航は篠宮怜子を、さっちゃんとも呼び、あの子とも言う。


 近い。


 長い。


 俺が入り込む前から、関係がある。


『最近、疲れてるのは分かってた』


 航は言った。


『でも、仕事の話をすると、平気な顔になるから。俺が聞くと、大丈夫って言うから。あんまり踏み込むと怒るかなって』


 俺は目を閉じた。


 篠宮怜子は、言わなかった。


 航は、聞けなかった。


 小早川は、気づいていた。


 社長も、おそらく。


 だが、誰も完全には止められなかった。


 そして、そこに俺が落ちた。


「航」


『うん』


「私は、彼女を壊しているのでしょうか」


 口に出した瞬間、血の気が引いた。


 彼女。


 まずい。


 言い方がまずい。


 だが、もう遅い。


 電話口の向こうで、航の息が止まった気配がした。


『彼女?』


 終わった。


 俺は言葉を探した。


 言い訳。


 比喩。


 仕事。


 体調。


 どれも足りない。


「……仕事をしている時の自分、という意味です」


 苦しい。


 あまりにも苦しい。


 航はしばらく黙っていた。


『さっちゃん』


「はい」


『今日は、もう何も見ない方がいい』


「はい」


『履歴も、メールも、ゼクシィも、仕事も』


「はい」


『今のさっちゃん、たぶん底まで行きそうだから』


 図星だった。


 この小さな携帯の履歴だけで、俺はかなり深いところまで落ちかけている。


『夕方、行く?』


「いえ」


 俺は少しだけ息を吸った。


「今日は、一人でいます」


 電話の向こうで、航が少し黙る。


 昨日なら、その沈黙が怖かった。


 今日は少し違う。


 これは拒絶ではない。


 たぶん、必要な一人だ。


「逃げるためではありません」


『うん』


「考えるためです」


『分かった』


「明日、話します」


『うん』


「全部は話せないかもしれません」


『それでもいい』


 航は静かに言った。


『でも、嘘を重ねるよりは、話せるところから話して』


 重い。


 優しい。


 逃げ道を塞がないのに、逃げ続けることも許さない。


 この男は、厄介だ。


「はい」


『お粥、食べてね』


「はい」


『薬も』


「はい」


『携帯は閉じて』


「はい」


『お大事に、さっちゃん』


「ありがとう」


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 部屋は静かだった。


 昨日のように航はいない。


 小早川もいない。


 社長もいない。


 ひとりだ。


 ひとりだけの日曜日。


     *


 俺は携帯を閉じた。


 電源は切らない。


 切る勇気はない。


 だが、もう履歴は見ない。


 メールも見ない。


 篠宮怜子の足跡を、これ以上勝手に掘り返さない。


 すでに見てしまったものは消せない。


 だから、そこから逃げない。


 俺はメモ帳を開いた。


 仕事用ではない方。


 篠宮怜子の部屋にあった、私用らしい小さなメモ帳。


 そこに書いた。



 怜子は、疲れていた。

 退職を考えていた可能性。

 航に弱音を送ろうとして、送らなかった。

 身体の不調を調べていた。

 仕事をしている自分ばかりが残る、と書いていた。



 書いてから、手が震えた。


 これは調査ではない。


 人の痛みだ。


 台帳にしてはいけないものだ。


 俺はページを閉じようとして、もう一行だけ書いた。



 彼女を道具にしない。



 それは昨日も似たことを書いた。


 だが、今日は意味が違う。


 篠宮怜子の身体だけではない。


 彼女の生活。


 彼女の関係。


 彼女の疲れ。


 彼女の未送信メール。


 それらを、俺の改革のための道具にしてはいけない。


 俺は未来を知っている。


 だが、怜子の過去を知らない。


 それなのに、この身体で未来を変えようとしている。


 危うい。


 とても危うい。


 社長は言った。


 未来を見る者は、現在を雑に扱う。


 俺は今、篠宮怜子という現在を雑に扱いかけている。


     *


 夕方。


 雨は降らなかった。


 空は曇ったままだが、少しだけ明るい。


 腹の痛みは、波のように強くなったり弱くなったりしている。


 俺は中華粥を温め直して食べた。


 貝柱は偉大だ。


 これだけは確定している。


 机の上には、封印されたゼクシィ。


 本棚には、魔王。


 携帯は閉じたまま。


 テレビをつけても、頭に入らない。


 俺は何もしない時間に、慣れていなかった。


 何もしないと、考える。


 考えると、沈む。


 だから未来の俺は、ずっと画面を見ていたのかもしれない。


 相場を見ていれば、自分を見なくて済む。


 注文を処理していれば、人生を処理している気になれる。


 忙しければ、壊れていることに気づかない。


 篠宮怜子も、そうだったのだろうか。


 仕事をしていれば、怜子でいられたのだろうか。


 社長室秘書として冷たく整っていれば、それ以外が薄くなっていく怖さを見なくて済んだのだろうか。


「……似てるのか」


 俺は呟いた。


 俺と、篠宮怜子。


 性別も、時代も、職業も違う。


 片方は未来の転売厨。


 片方は二〇〇一年の社長秘書。


 だが、どちらも、自分を削って仕事をしていた。


 どちらも、画面や紙や数字の向こうに逃げていた。


 だから、俺はここにいるのか。


 分からない。


 分からないが、偶然にしては、痛すぎる。


     *


 夜。


 携帯にメールが届いた。


 差出人は、航くん。


 くん付け。


 やはり信じがたい。


 だが、今は少しだけ、その表示が痛くて温かい。


 メールを開く。



 今日は電話しないでおく。

 でも何かあったら呼んで。 

 中華粥、明日の朝までに食べきって。


 それと、さっちゃんが送らなかったメールのこと、怒ってない。

 でも、今度は送って。

 短くてもいいから。


 おやすみ。 航



 俺は画面を見つめた。


 小さな液晶。


 短い文字。


 絵文字もない。


 それでも、十分だった。


 iモードなんて懐かしすぎる。


 そう思った。


 だが、この時代の人間にとって、それは懐かしいものではない。


 今ここにある、つながるための道具だ。


 篠宮怜子は、その小さな画面に弱音を書いて、送らなかった。


 俺は今、その同じ小さな画面で、航から「今度は送って」と言われている。


 未来のスマホよりずっと不便だ。


 文字も打ちにくい。


 画面も狭い。


 だが、送るか送らないかを決めるのは、結局人間だ。


 俺は返信画面を開いた。


 文字入力が遅い。


 面倒だ。


 でも、打つ。


 今日は一人でいてよかったです。

 少し怖いものを見ました。

 でも、見なかったことにはしません。

 お粥は食べます。

 ありがとう。 怜子



 怜子。


 打ってから、指が止まった。


 俺は怜子ではない。


 だが、この携帯で、この生活で、この身体で送るなら、署名は怜子になる。


 消そうか迷った。


 迷って、消さなかった。


 送信。


 画面に、送信中と出る。


 数秒。


 遅い。


 だが、届く。


 送信完了。


 俺は携帯を閉じた。


 小さな音がした。


 それだけのことだった。


 だが、篠宮怜子が送らなかった言葉の後に、俺は初めて自分から短い言葉を送った。


 それが正しいのかは分からない。


 だが、未送信ではない。


 少なくとも、届いた。


 平成十三年五月最後の日曜日。


 ひとりだけの部屋で、俺はiモードの小さな画面に残された怜子の足跡を見た。


 そして、その足跡を踏み荒らさないように、そっと一歩だけ横に並んだ。


 未来を変える前に。


 まず、彼女の現在を見失わないために。

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