第十一話 半ドンの日の有給休暇と疼痛に効果覿面な中華粥貝柱入り 年下彼氏のお泊りイベントとゼクシィの先月号は血に染まる 後編
前触れは、確かにあった。
ゼクシィ先月号が足の甲に落ちた。
紙で指を切った。
雷が鳴った。
年下彼氏が泊まった。
寝室は分けた。
俺はベッドで眠り、航はソファで眠った。
そこまではよかった。
いや、よくはない。
だが、少なくとも致命傷ではなかった。
問題は翌朝だった。
*
土曜日の朝。
俺は、腹の奥を握り潰されるような痛みで目を覚ました。
「……っ」
声が出なかった。
痛い。
鈍い。
重い。
腹というより、腰の奥と下腹部の底に、濡れた鉛を詰め込まれたような感覚がある。
寝違えたのとは違う。
食あたりとも違う。
脳溢血の再来でもない。
いや、脳溢血だったら腹は痛くない。
冷静なツッコミが浮かぶ程度には意識はある。
だが、痛い。
俺は布団の中で身体を丸めた。
篠宮怜子の身体は、昨日の雷鎚――ゼクシィ直撃による足の甲の痛みもまだ引きずっている。
指先の切り傷も疼く。
そこへ下腹部の疼痛。
満身創痍である。
紙の帝国に来てから、紙と身体に痛めつけられてばかりだ。
「さっちゃん?」
リビングの方から航の声がした。
近い。
そうだ。
航が泊まっている。
俺は一瞬で覚醒した。
覚醒したが、腹は痛い。
「……問題ありません」
声はかすれていた。
完全に問題ある声だった。
案の定、すぐに返事が来る。
「問題ある時の返事だよ、それ」
流行語にするな。
俺は起き上がろうとした。
その瞬間、違和感があった。
布団。
身体。
下着。
何かが、違う。
嫌な予感がした。
俺はそっと布団をめくった。
そして、固まった。
「……あ」
血だった。
昨日、ゼクシィの白いページに落ちた一滴とは違う。
これは、もっと生活に近い血だった。
もっと身体に近い血だった。
篠宮怜子の身体が、当然のように持っていた機能。
だが、俺にとっては初めての現実。
月経。
女の子の日。
言葉としては知っていた。
知識としては知っていた。
用品も、痛みも、個人差も、予定が狂うことも、頭では知っていた。
だが、知っていることと、自分の身体から血が出ていることは、まったく違った。
脳が一瞬で処理を拒否した。
男だった頃の俺が、内側で悲鳴を上げた。
篠宮怜子の身体は、たぶん何度も経験している。
だから本来なら、これは初めてではない。
だが、俺には初めてだった。
完全に、初めてだった。
「無理だろ……」
声が震えた。
痛み。
血。
寝室。
リビングには年下彼氏。
最悪の組み合わせである。
ゼクシィが血に染まった翌朝に、本人まで血で詰むとは思わないだろう。
伏線回収が雑すぎる。
「さっちゃん? 大丈夫?」
航の声が近づいた。
「来ないでください!」
思ったより強い声が出た。
航の足音が止まった。
しまった。
また傷つけた。
だが、今は無理だ。
見られたくない。
説明したくない。
自分でも処理できていないものを、他人に処理させるな。
「ごめん。入らない」
航の声は、扉の向こうで止まった。
「何か必要?」
必要。
必要なものはある。
たぶん。
ナプキン。
着替え。
洗濯。
痛み止め。
温かいもの。
知識。
冷静さ。
全部足りない。
俺は必死で記憶を探った。
篠宮怜子の身体の生活習慣。
洗面台の下。
右側の引き出し。
ポーチ。
予備。
ある。
たぶん、ある。
「洗面台の……右下の引き出しに、必要なものがあると思います」
言ってから、自分で赤面した。
何を年下彼氏に言っているんだ。
だが、航は変に茶化さなかった。
「分かった。扉の前に置く。見ないから」
足音が遠ざかる。
引き出しを開ける音。
少し探す音。
戻ってくる音。
寝室の扉の前に、そっと何かが置かれた。
「置いたよ」
「ありがとうございます」
「水と痛み止めも持ってくる?」
痛み止め。
欲しい。
ものすごく欲しい。
「お願いします」
「分かった」
航はそれ以上、聞かなかった。
その距離感に、少しだけ救われた。
*
処理には、しばらくかかった。
詳しくは語らない。
歴史ジャンルだからな。
いや、ジャンルの問題ではない。
俺の精神衛生上の問題である。
篠宮怜子の身体は、手順を知っていた。
どこに何があるか。
どう使うか。
どう片づけるか。
身体の奥に、生活の記憶があった。
だが、中身の俺は完全に置いていかれていた。
自分の身体が、自分の知らない規則で動いている。
その事実が怖い。
いや、そもそもこの身体は俺のものではない。
だから知らなくて当然なのかもしれない。
だが、今痛いのは俺だ。
今血を見ているのも俺だ。
今、下腹部を押さえて冷や汗をかいているのも俺だ。
身体は借り物なのに、痛みだけは容赦なく自分のものになる。
あまりにも理不尽だった。
ようやく着替えを終え、寝室の扉を少し開けると、床にトレーが置かれていた。
水。
痛み止め。
小さなメモ。
> 無理に出てこなくていい。
必要なら声かけて。
航
字が少し乱れている。
慌てて書いたのだろう。
俺は水で薬を飲んだ。
痛みはすぐには消えない。
当然だ。
薬は魔法ではない。
魔王は昨夜読んだが、現実には効かない。
俺はベッドに戻り、布団にくるまった。
「……土曜日でよかった」
小さく呟いた瞬間、思い出した。
今日は土曜日。
だが、完全な休日ではない。
半ドンの日だ。
午前中だけ出勤予定がある。
社長室の確認。
昨日置かれたゼクシィの媒体資料。
次世代複合企画の台帳修正。
協力店確認項目の整理。
やることはある。
あるが、動けない。
これは無理だ。
腹が痛い。
腰が重い。
身体がだるい。
心がもっとだるい。
俺は天井を見た。
半ドンの日に有給を切る。
損だ。
ものすごく損だ。
半日しか働かない日に、有給休暇を使う。
未来の俺なら絶対に嫌がる。
効率が悪い。
コスパが悪い。
だが、身体はそれどころではない。
その時、固定電話が鳴った。
土曜の朝から襲撃である。
俺は布団の中で固まった。
出られない。
航がリビングで取った。
「はい、篠宮です――あ、いえ、桐生です」
やめろ。
篠宮の家の電話に男が出るな。
いや、出てもおかしくない関係なのか。
もう分からない。
「はい。います。少し体調が悪くて……はい。小早川さんですか」
小早川。
詰んだ。
航が寝室の扉の前に来た。
「さっちゃん、小早川さん」
「……代わります」
俺は這うようにして受話器を受け取った。
「はい、篠宮です」
『声が死んでる』
第一声がそれだった。
「おはようございます」
『おはようじゃない。何があったの』
「少々、体調が」
『月?』
即答だった。
怖い。
「……はい」
『予定より早い?』
「把握していません」
『把握していません?』
しまった。
普通は把握している。
いや、ずれることもあるだろうが、怜子なら手帳につけている可能性が高い。
俺は慌てて言い換えた。
「最近の疲労で、ずれているかもしれません」
『でしょうね』
小早川はため息をついた。
『今日は休みなさい』
「ですが、半ドンです」
『半ドンでも休みなさい』
「半日のために有給を」
『使いなさい』
「損では」
『損得で子宮を運用しない』
言葉が強すぎる。
俺は沈黙した。
航が扉の向こうで何かを噴き出しかけた気配がした。
笑うな。
いや、笑えない。
『玲子さん』
「はい」
『今日は年休。私から社長に伝える』
「社長には私から」
『その声で?』
「……」
『無理。私が言う』
「しかし」
『倒れてから休む方が迷惑』
正論だった。
今日も正論で殴られる。
『航くん、いるんでしょう』
「……はい」
『なら、お粥でも作ってもらいなさい』
「なぜお粥」
『食べやすいから』
「承知いたしました」
『いたしました、じゃない』
「……分かった」
『よろしい』
小早川は少し声を柔らかくした。
『玲子さん』
「はい」
『恥ずかしがることじゃない。でも、無理することでもない』
その言葉に、少しだけ喉が詰まった。
恥ずかしい。
かなり恥ずかしい。
怖い。
痛い。
自分の身体が分からない。
それを、恥ずかしがることじゃないと言われても、すぐには納得できない。
だが、無理することでもない。
それは分かった。
「ありがとうございます」
『寝ること。温めること。痛みがひどいなら病院。航くんに遠慮しすぎないこと』
「はい」
『それと』
「はい」
『血染めのゼクシィは、今日は絶対に開かない』
情報が早すぎる。
「なぜご存じで」
『社長から聞いた』
あの人。
何を共有している。
『お大事に』
電話が切れた。
俺は受話器を置いた。
年休が確定した。
半ドンの日に、有給休暇を切った。
腹が痛い。
心も痛い。
だが、少しだけ楽になった。
*
航は本当にお粥を作り始めた。
台所から、鍋の音がする。
米。
水。
出汁。
そして、何か別の匂い。
俺は布団にくるまったまま、声をかけた。
「航」
「何?」
「何を作っていますか」
「中華粥」
「なぜ」
「小早川さんが、お粥って言ってたから」
「中華である必要は」
「貝柱があった」
「なぜある」
「昨日買った。安かったから」
生活力が高い。
というか、冷蔵庫と乾物の把握力が高い。
この男、本当に二十五歳か。
「さっちゃん、食べられそう?」
「少しなら」
「じゃあ、薄めにする」
台所から、湯気の匂いが流れてくる。
貝柱の出汁。
米がほどける匂い。
生姜も少し入っているのか、温かい香りがした。
腹は痛い。
腰も重い。
だが、その匂いだけで少しだけ体が緩む。
悔しい。
料理がうまい年下彼氏は強い。
しばらくして、航が小さな器を持って寝室の前に来た。
「入っていい?」
聞いてくれる。
昨日の約束を守っている。
触らない。
近づきすぎない。
でも帰らない。
「はい」
航は入ってきた。
器とスプーンを持っている。
目線は必要以上にこちらを見ない。
布団の端も、身体も、見ないようにしているのが分かる。
優しさが具体的だった。
「起きられる?」
「はい」
俺は身体を起こした。
腹が痛い。
顔に出たらしい。
航が眉を寄せる。
「無理なら、こぼしてもいいからゆっくりで」
「こぼしません」
「そういうところだよ」
「どこですか」
「弱ってる時までちゃんとしようとするところ」
俺は反論できなかった。
器を受け取る。
温かい。
湯気が顔に当たる。
貝柱入り中華粥。
土曜日の朝に、年下彼氏が作ったやつ。
情報量が多い。
一口食べた。
うまい。
やさしい味だった。
米が柔らかい。
貝柱の旨味がある。
生姜が少し効いている。
腹の奥の痛みまでは消えない。
だが、身体の外側から少しずつ温められる感じがした。
「おいしいです」
「よかった」
「かなり」
「かなり?」
「観測対象として優秀です」
「それ、褒めてる時に使うのやめた方がいいよ」
「善処します」
航はベッドから少し離れた椅子に座った。
距離を保っている。
だが、部屋からは出ていかない。
その距離が、今はありがたかった。
「さっちゃん」
「はい」
「今日、会社休める?」
「有給になりました」
「よかった」
「半ドンの日に使うのは、損ですが」
「小早川さんと同じこと言うけど、損得で身体を運用しない」
「流行らせないでください」
「流行らせたいくらい正しいよ」
正しい。
分かっている。
だが、未来の俺は身体を損得で運用していた。
寝る時間を削る。
発送する。
仕入れる。
価格改定する。
問い合わせに返す。
食事も睡眠も、全部利益率の後ろに置いていた。
その結果、倒れた。
たぶん死んだ。
そして今、別の身体でまた同じことをしようとしている。
俺は学習能力が低い。
「航」
「うん」
「女性は、大変ですね」
言ってから、軽すぎたと思った。
大変ですね、で済む話ではない。
航はそれを茶化さなかった。
「俺は分からないけど」
「はい」
「分からないから、できることだけする」
短い。
だが、ありがたい言葉だった。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
「ですが、あまり近づかれるとまだ混乱します」
「うん。分かった」
「嫌なわけではありません」
「うん」
「ただ」
「ただ?」
「自分の身体に、まだ追いついていません」
言ってしまった。
また危険な言葉だ。
だが、今朝のこれは本当にそうだった。
この身体の痛みが、俺より先に現実を知っている。
俺は後から追いかけている。
追いつけない。
航はしばらく黙り、それから頷いた。
「じゃあ、追いつくまで待つ」
昨日も待つと言った。
今日も言う。
待たせている。
それが重い。
「待たせるのは」
「よくないんでしょ」
「はい」
「でも、無理に追いつかせる方がもっとよくない」
返せなかった。
中華粥をもう一口食べる。
温かい。
痛い身体に、温かいものが入る。
それだけで、少し泣きそうになる。
泣かない。
篠宮怜子の顔で泣くのは、まだ怖い。
*
午前十時過ぎ。
社長から電話が来た。
航が取ろうとして、俺が止めた。
「私が出ます」
「大丈夫?」
「社長です」
「なおさら大丈夫?」
失礼だが、間違っていない。
俺は受話器を取った。
「はい、篠宮です」
『小早川から聞いた』
「申し訳ありません」
『謝るな』
「はい」
『今日は休め』
「半ドンですので」
『小早川にも言ったらしいな』
「はい」
『半ドンの日に有給を使うのが惜しいか』
「正直に申し上げれば」
『惜しいか』
「はい」
電話口で社長が笑った。
『君は変なところで庶民的だな』
「事実です」
『よろしい。では半休扱いにする』
「よろしいのですか」
『午前だけ休むのだから半休だ』
合理的。
助かった。
いや、助かったのか。
半休でも休暇は休暇だ。
『ただし、今日は一切仕事をするな』
「ですが」
『ゼクシィも見るな』
また先回り。
「承知いたしました」
『次世代複合企画も見るな』
「はい」
『魔王もほどほどにしろ』
「なぜそれを」
『社内に情報網がある』
怖い。
角川書店社長室の情報網、怖い。
『篠宮君』
「はい」
『身体は台帳に載らん』
社長の声が少し低くなった。
『載らんものほど、壊れると戻すのに時間がかかる』
「はい」
『今日はそれだけ覚えておけ』
「承知いたしました」
『お大事に』
通話が切れた。
俺は受話器を置いた。
半休になった。
有給休暇を半ドンの日に丸ごと使う最悪の損失は回避された。
だが、休むことに変わりはない。
「社長、何て?」
航が聞いた。
「半休になりました」
「よかった」
「得しました」
「そこで得って言う?」
「事実です」
「小早川さんに怒られるよ」
「内密に」
「言わないけど、顔に出ると思う」
困る。
篠宮怜子の顔面管理は、最近ずっと破綻気味である。
*
昼前。
雨は上がりかけていた。
部屋の窓の外は、まだ灰色だが、雷はもう遠い。
航は洗濯物をどうするか悩んでいた。
俺はベッドで横になっていた。
腹の痛みは少し弱まった。
だが、重さは残っている。
眠気もある。
身体が、今日は働くなと言っている。
身体に命令されるのは悔しい。
だが、逆らう気力がない。
「さっちゃん」
航が寝室の入口に顔を出した。
「お昼、またお粥でいい?」
「はい」
「貝柱、まだある」
「貝柱に救われていますね」
「よかったね、貝柱がいて」
「はい」
変な会話だ。
だが、少し落ち着く。
俺は天井を見た。
昨日の夜はゼクシィが血に染まった。
今朝は俺が血で固まった。
紙の血と、身体の血。
どちらも、俺を止めた。
仕事を止めた。
思考を止めた。
そして、休ませた。
皮肉だ。
血に止められて、初めて休む。
未来の俺は、倒れるまで止まらなかった。
今の俺は、倒れる前に止められた。
小早川に。
航に。
社長に。
篠宮怜子の身体に。
人間関係というのは、面倒だ。
だが、面倒だからこそ、止めてくる。
ひとりなら止まらない。
止まらず、倒れる。
俺はそれを知っている。
「……厄介だな」
小さく呟いた。
航が台所から返す。
「何が?」
「人間関係です」
「急だね」
「急ではありません」
「じゃあ、どう厄介?」
「勝手に心配して、勝手に食事を作って、勝手に休ませようとします」
「それ、嫌?」
俺は少し黙った。
嫌ではない。
怖い。
ありがたい。
重い。
全部ある。
「判断を保留します」
「便利だなあ」
航が笑った。
俺も少しだけ笑った。
たぶん。
顔には出ていないかもしれない。
*
午後。
俺は少し眠った。
起きた時、枕元にメモがあった。
> 薬は次、三時以降。
お粥は鍋。
ゼクシィは封印。
航
机を見ると、ゼクシィ先月号には新聞紙がかけられていた。
完全に封印されている。
血のついた結婚情報誌。
雷鎚。
紙のプラットフォーム。
人生イベントの導線。
そして、今の俺には絶対に開いてはいけない危険物。
俺はメモ帳を手に取り、今日のことを書いた。
> 初めての女の子の日。
痛い。重い。怖い。
身体は台帳に載らない。
損得で身体を運用しない。
半ドンの日でも休む。
貝柱入り中華粥は有効。
最後だけ、急に実務メモだった。
だが重要である。
貝柱入り中華粥は有効。
この情報は残す価値がある。
俺はもう一行足した。
> 篠宮怜子の身体を、道具として扱わない。
書いた瞬間、手が止まった。
これは、仕事のメモではない。
だが、仕事より重要かもしれない。
この身体を壊せば、改革はできない。
それ以前に、俺は篠宮怜子の人生をさらに壊す。
身体は借り物かもしれない。
だが、痛みは本物だ。
なら、大事にしなければならない。
そんな当たり前のことを、月経初日に中華粥を食べながら学ぶとは思わなかった。
人生は分からない。
いや、転生後の人生はもっと分からない。
*
夕方。
航は帰る支度をした。
今日は泊まらないらしい。
「大丈夫?」
「はい」
「夜、痛みひどくなったら電話して」
「はい」
「小早川さんにも連絡できる?」
「できます」
「社長に仕事の電話しない」
「しません」
「ゼクシィ開かない」
「開きません」
「魔王は?」
「少しだけ」
「駄目」
「……はい」
全面禁止された。
年下彼氏、かなり強い。
玄関で、航は靴を履いた。
俺は少し離れて立っている。
昨日よりは、距離が自然だった。
たぶん。
「さっちゃん」
「はい」
「今日、俺がいてよかった?」
直球だった。
俺は少しだけ考えた。
青い歯ブラシ。
合鍵。
中華粥。
痛み止め。
距離を守る手。
見ない優しさ。
待つという言葉。
「はい」
俺は答えた。
「助かりました」
航は少しだけ安心した顔をした。
「よかった」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
航は扉を開けた。
外の空気は、雨上がりで少し冷えている。
「お大事に、さっちゃん」
「はい」
「ちゃんと寝て」
「はい」
「仕事しない」
「はい」
扉が閉まる。
鍵の音。
足音が遠ざかる。
部屋に静けさが戻った。
だが、昨日ほど冷えなかった。
鍋には中華粥が残っている。
冷蔵庫には薬の時間を書いたメモが貼ってある。
洗面台には青い歯ブラシ。
机には封印されたゼクシィ。
ベッドには、痛みを抱えた篠宮怜子の身体。
そして俺は、その身体の中で、今日初めて少しだけ思った。
この身体を、ちゃんと扱わなければならない。
未来を変えるためでも。
会社を変えるためでも。
作品を届けるためでもなく。
ただ、痛いものは痛いからだ。
平成十三年五月最後の土曜日。
半ドンの日に半休を使い、魔王もゼクシィも封印され、貝柱入り中華粥に救われながら。
俺は、初めて篠宮怜子の身体と休むことを覚えた。




