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2001年、未来への旅 角川書店の社長秘書に転生した2026の転売厨、無慈悲なる改革の断行を進言してしまう  作者: 1stペンギン
――この物語はフィクションです――

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第十一話 半ドンの日の有給休暇と疼痛に効果覿面な中華粥貝柱入り 年下彼氏のお泊りイベントとゼクシィの先月号は血に染まる 後編

 前触れは、確かにあった。


 ゼクシィ先月号が足の甲に落ちた。


 紙で指を切った。


 雷が鳴った。


 年下彼氏が泊まった。


 寝室は分けた。


 俺はベッドで眠り、航はソファで眠った。


 そこまではよかった。


 いや、よくはない。


 だが、少なくとも致命傷ではなかった。


 問題は翌朝だった。


     *


 土曜日の朝。


 俺は、腹の奥を握り潰されるような痛みで目を覚ました。


「……っ」


 声が出なかった。


 痛い。


 鈍い。


 重い。


 腹というより、腰の奥と下腹部の底に、濡れた鉛を詰め込まれたような感覚がある。


 寝違えたのとは違う。


 食あたりとも違う。


 脳溢血の再来でもない。


 いや、脳溢血だったら腹は痛くない。


 冷静なツッコミが浮かぶ程度には意識はある。


 だが、痛い。


 俺は布団の中で身体を丸めた。


 篠宮怜子の身体は、昨日の雷鎚――ゼクシィ直撃による足の甲の痛みもまだ引きずっている。


 指先の切り傷も疼く。


 そこへ下腹部の疼痛。


 満身創痍である。


 紙の帝国に来てから、紙と身体に痛めつけられてばかりだ。


「さっちゃん?」


 リビングの方から航の声がした。


 近い。


 そうだ。


 航が泊まっている。


 俺は一瞬で覚醒した。


 覚醒したが、腹は痛い。


「……問題ありません」


 声はかすれていた。


 完全に問題ある声だった。


 案の定、すぐに返事が来る。


「問題ある時の返事だよ、それ」


 流行語にするな。


 俺は起き上がろうとした。


 その瞬間、違和感があった。


 布団。


 身体。


 下着。


 何かが、違う。


 嫌な予感がした。


 俺はそっと布団をめくった。


 そして、固まった。


「……あ」


 血だった。


 昨日、ゼクシィの白いページに落ちた一滴とは違う。


 これは、もっと生活に近い血だった。


 もっと身体に近い血だった。


 篠宮怜子の身体が、当然のように持っていた機能。


 だが、俺にとっては初めての現実。


 月経。


 女の子の日。


 言葉としては知っていた。


 知識としては知っていた。


 用品も、痛みも、個人差も、予定が狂うことも、頭では知っていた。


 だが、知っていることと、自分の身体から血が出ていることは、まったく違った。


 脳が一瞬で処理を拒否した。


 男だった頃の俺が、内側で悲鳴を上げた。


 篠宮怜子の身体は、たぶん何度も経験している。


 だから本来なら、これは初めてではない。


 だが、俺には初めてだった。


 完全に、初めてだった。


「無理だろ……」


 声が震えた。


 痛み。


 血。


 寝室。


 リビングには年下彼氏。


 最悪の組み合わせである。


 ゼクシィが血に染まった翌朝に、本人まで血で詰むとは思わないだろう。


 伏線回収が雑すぎる。


「さっちゃん? 大丈夫?」


 航の声が近づいた。


「来ないでください!」


 思ったより強い声が出た。


 航の足音が止まった。


 しまった。


 また傷つけた。


 だが、今は無理だ。


 見られたくない。


 説明したくない。


 自分でも処理できていないものを、他人に処理させるな。


「ごめん。入らない」


 航の声は、扉の向こうで止まった。


「何か必要?」


 必要。


 必要なものはある。


 たぶん。


 ナプキン。


 着替え。


 洗濯。


 痛み止め。


 温かいもの。


 知識。


 冷静さ。


 全部足りない。


 俺は必死で記憶を探った。


 篠宮怜子の身体の生活習慣。


 洗面台の下。


 右側の引き出し。


 ポーチ。


 予備。


 ある。


 たぶん、ある。


「洗面台の……右下の引き出しに、必要なものがあると思います」


 言ってから、自分で赤面した。


 何を年下彼氏に言っているんだ。


 だが、航は変に茶化さなかった。


「分かった。扉の前に置く。見ないから」


 足音が遠ざかる。


 引き出しを開ける音。


 少し探す音。


 戻ってくる音。


 寝室の扉の前に、そっと何かが置かれた。


「置いたよ」


「ありがとうございます」


「水と痛み止めも持ってくる?」


 痛み止め。


 欲しい。


 ものすごく欲しい。


「お願いします」


「分かった」


 航はそれ以上、聞かなかった。


 その距離感に、少しだけ救われた。


     *


 処理には、しばらくかかった。


 詳しくは語らない。


 歴史ジャンルだからな。


 いや、ジャンルの問題ではない。


 俺の精神衛生上の問題である。


 篠宮怜子の身体は、手順を知っていた。


 どこに何があるか。


 どう使うか。


 どう片づけるか。


 身体の奥に、生活の記憶があった。


 だが、中身の俺は完全に置いていかれていた。


 自分の身体が、自分の知らない規則で動いている。


 その事実が怖い。


 いや、そもそもこの身体は俺のものではない。


 だから知らなくて当然なのかもしれない。


 だが、今痛いのは俺だ。


 今血を見ているのも俺だ。


 今、下腹部を押さえて冷や汗をかいているのも俺だ。


 身体は借り物なのに、痛みだけは容赦なく自分のものになる。


 あまりにも理不尽だった。


 ようやく着替えを終え、寝室の扉を少し開けると、床にトレーが置かれていた。


 水。


 痛み止め。


 小さなメモ。


> 無理に出てこなくていい。

必要なら声かけて。




 字が少し乱れている。


 慌てて書いたのだろう。


 俺は水で薬を飲んだ。


 痛みはすぐには消えない。


 当然だ。


 薬は魔法ではない。


 魔王は昨夜読んだが、現実には効かない。


 俺はベッドに戻り、布団にくるまった。


「……土曜日でよかった」


 小さく呟いた瞬間、思い出した。


 今日は土曜日。


 だが、完全な休日ではない。


 半ドンの日だ。


 午前中だけ出勤予定がある。


 社長室の確認。


 昨日置かれたゼクシィの媒体資料。


 次世代複合企画の台帳修正。


 協力店確認項目の整理。


 やることはある。


 あるが、動けない。


 これは無理だ。


 腹が痛い。


 腰が重い。


 身体がだるい。


 心がもっとだるい。


 俺は天井を見た。


 半ドンの日に有給を切る。


 損だ。


 ものすごく損だ。


 半日しか働かない日に、有給休暇を使う。


 未来の俺なら絶対に嫌がる。


 効率が悪い。


 コスパが悪い。


 だが、身体はそれどころではない。


 その時、固定電話が鳴った。


 土曜の朝から襲撃である。


 俺は布団の中で固まった。


 出られない。


 航がリビングで取った。


「はい、篠宮です――あ、いえ、桐生です」


 やめろ。


 篠宮の家の電話に男が出るな。


 いや、出てもおかしくない関係なのか。


 もう分からない。


「はい。います。少し体調が悪くて……はい。小早川さんですか」


 小早川。


 詰んだ。


 航が寝室の扉の前に来た。


「さっちゃん、小早川さん」


「……代わります」


 俺は這うようにして受話器を受け取った。


「はい、篠宮です」


『声が死んでる』


 第一声がそれだった。


「おはようございます」


『おはようじゃない。何があったの』


「少々、体調が」


『月?』


 即答だった。


 怖い。


「……はい」


『予定より早い?』


「把握していません」


『把握していません?』


 しまった。


 普通は把握している。


 いや、ずれることもあるだろうが、怜子なら手帳につけている可能性が高い。


 俺は慌てて言い換えた。


「最近の疲労で、ずれているかもしれません」


『でしょうね』


 小早川はため息をついた。


『今日は休みなさい』


「ですが、半ドンです」


『半ドンでも休みなさい』


「半日のために有給を」


『使いなさい』


「損では」


『損得で子宮を運用しない』


 言葉が強すぎる。


 俺は沈黙した。


 航が扉の向こうで何かを噴き出しかけた気配がした。


 笑うな。


 いや、笑えない。


『玲子さん』


「はい」


『今日は年休。私から社長に伝える』


「社長には私から」


『その声で?』


「……」


『無理。私が言う』


「しかし」


『倒れてから休む方が迷惑』


 正論だった。


 今日も正論で殴られる。


『航くん、いるんでしょう』


「……はい」


『なら、お粥でも作ってもらいなさい』


「なぜお粥」


『食べやすいから』


「承知いたしました」


『いたしました、じゃない』


「……分かった」


『よろしい』


 小早川は少し声を柔らかくした。


『玲子さん』


「はい」


『恥ずかしがることじゃない。でも、無理することでもない』


 その言葉に、少しだけ喉が詰まった。


 恥ずかしい。


 かなり恥ずかしい。


 怖い。


 痛い。


 自分の身体が分からない。


 それを、恥ずかしがることじゃないと言われても、すぐには納得できない。


 だが、無理することでもない。


 それは分かった。


「ありがとうございます」


『寝ること。温めること。痛みがひどいなら病院。航くんに遠慮しすぎないこと』


「はい」


『それと』


「はい」


『血染めのゼクシィは、今日は絶対に開かない』


 情報が早すぎる。


「なぜご存じで」


『社長から聞いた』


 あの人。


 何を共有している。


『お大事に』


 電話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 年休が確定した。


 半ドンの日に、有給休暇を切った。


 腹が痛い。


 心も痛い。


 だが、少しだけ楽になった。


     *


 航は本当にお粥を作り始めた。


 台所から、鍋の音がする。


 米。


 水。


 出汁。


 そして、何か別の匂い。


 俺は布団にくるまったまま、声をかけた。


「航」


「何?」


「何を作っていますか」


「中華粥」


「なぜ」


「小早川さんが、お粥って言ってたから」


「中華である必要は」


「貝柱があった」


「なぜある」


「昨日買った。安かったから」


 生活力が高い。


 というか、冷蔵庫と乾物の把握力が高い。


 この男、本当に二十五歳か。


「さっちゃん、食べられそう?」


「少しなら」


「じゃあ、薄めにする」


 台所から、湯気の匂いが流れてくる。


 貝柱の出汁。


 米がほどける匂い。


 生姜も少し入っているのか、温かい香りがした。


 腹は痛い。


 腰も重い。


 だが、その匂いだけで少しだけ体が緩む。


 悔しい。


 料理がうまい年下彼氏は強い。


 しばらくして、航が小さな器を持って寝室の前に来た。


「入っていい?」


 聞いてくれる。


 昨日の約束を守っている。


 触らない。


 近づきすぎない。


 でも帰らない。


「はい」


 航は入ってきた。


 器とスプーンを持っている。


 目線は必要以上にこちらを見ない。


 布団の端も、身体も、見ないようにしているのが分かる。


 優しさが具体的だった。


「起きられる?」


「はい」


 俺は身体を起こした。


 腹が痛い。


 顔に出たらしい。


 航が眉を寄せる。


「無理なら、こぼしてもいいからゆっくりで」


「こぼしません」


「そういうところだよ」


「どこですか」


「弱ってる時までちゃんとしようとするところ」


 俺は反論できなかった。


 器を受け取る。


 温かい。


 湯気が顔に当たる。


 貝柱入り中華粥。


 土曜日の朝に、年下彼氏が作ったやつ。


 情報量が多い。


 一口食べた。


 うまい。


 やさしい味だった。


 米が柔らかい。


 貝柱の旨味がある。


 生姜が少し効いている。


 腹の奥の痛みまでは消えない。


 だが、身体の外側から少しずつ温められる感じがした。


「おいしいです」


「よかった」


「かなり」


「かなり?」


「観測対象として優秀です」


「それ、褒めてる時に使うのやめた方がいいよ」


「善処します」


 航はベッドから少し離れた椅子に座った。


 距離を保っている。


 だが、部屋からは出ていかない。


 その距離が、今はありがたかった。


「さっちゃん」


「はい」


「今日、会社休める?」


「有給になりました」


「よかった」


「半ドンの日に使うのは、損ですが」


「小早川さんと同じこと言うけど、損得で身体を運用しない」


「流行らせないでください」


「流行らせたいくらい正しいよ」


 正しい。


 分かっている。


 だが、未来の俺は身体を損得で運用していた。


 寝る時間を削る。


 発送する。


 仕入れる。


 価格改定する。


 問い合わせに返す。


 食事も睡眠も、全部利益率の後ろに置いていた。


 その結果、倒れた。


 たぶん死んだ。


 そして今、別の身体でまた同じことをしようとしている。


 俺は学習能力が低い。


「航」


「うん」


「女性は、大変ですね」


 言ってから、軽すぎたと思った。


 大変ですね、で済む話ではない。


 航はそれを茶化さなかった。


「俺は分からないけど」


「はい」


「分からないから、できることだけする」


 短い。


 だが、ありがたい言葉だった。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


「ですが、あまり近づかれるとまだ混乱します」


「うん。分かった」


「嫌なわけではありません」


「うん」


「ただ」


「ただ?」


「自分の身体に、まだ追いついていません」


 言ってしまった。


 また危険な言葉だ。


 だが、今朝のこれは本当にそうだった。


 この身体の痛みが、俺より先に現実を知っている。


 俺は後から追いかけている。


 追いつけない。


 航はしばらく黙り、それから頷いた。


「じゃあ、追いつくまで待つ」


 昨日も待つと言った。


 今日も言う。


 待たせている。


 それが重い。


「待たせるのは」


「よくないんでしょ」


「はい」


「でも、無理に追いつかせる方がもっとよくない」


 返せなかった。


 中華粥をもう一口食べる。


 温かい。


 痛い身体に、温かいものが入る。


 それだけで、少し泣きそうになる。


 泣かない。


 篠宮怜子の顔で泣くのは、まだ怖い。


     *


 午前十時過ぎ。


 社長から電話が来た。


 航が取ろうとして、俺が止めた。


「私が出ます」


「大丈夫?」


「社長です」


「なおさら大丈夫?」


 失礼だが、間違っていない。


 俺は受話器を取った。


「はい、篠宮です」


『小早川から聞いた』


「申し訳ありません」


『謝るな』


「はい」


『今日は休め』


「半ドンですので」


『小早川にも言ったらしいな』


「はい」


『半ドンの日に有給を使うのが惜しいか』


「正直に申し上げれば」


『惜しいか』


「はい」


 電話口で社長が笑った。


『君は変なところで庶民的だな』


「事実です」


『よろしい。では半休扱いにする』


「よろしいのですか」


『午前だけ休むのだから半休だ』


 合理的。


 助かった。


 いや、助かったのか。


 半休でも休暇は休暇だ。


『ただし、今日は一切仕事をするな』


「ですが」


『ゼクシィも見るな』


 また先回り。


「承知いたしました」


『次世代複合企画も見るな』


「はい」


『魔王もほどほどにしろ』


「なぜそれを」


『社内に情報網がある』


 怖い。


 角川書店社長室の情報網、怖い。


『篠宮君』


「はい」


『身体は台帳に載らん』


 社長の声が少し低くなった。


『載らんものほど、壊れると戻すのに時間がかかる』


「はい」


『今日はそれだけ覚えておけ』


「承知いたしました」


『お大事に』


 通話が切れた。


 俺は受話器を置いた。


 半休になった。


 有給休暇を半ドンの日に丸ごと使う最悪の損失は回避された。


 だが、休むことに変わりはない。


「社長、何て?」


 航が聞いた。


「半休になりました」


「よかった」


「得しました」


「そこで得って言う?」


「事実です」


「小早川さんに怒られるよ」


「内密に」


「言わないけど、顔に出ると思う」


 困る。


 篠宮怜子の顔面管理は、最近ずっと破綻気味である。


     *


 昼前。


 雨は上がりかけていた。


 部屋の窓の外は、まだ灰色だが、雷はもう遠い。


 航は洗濯物をどうするか悩んでいた。


 俺はベッドで横になっていた。


 腹の痛みは少し弱まった。


 だが、重さは残っている。


 眠気もある。


 身体が、今日は働くなと言っている。


 身体に命令されるのは悔しい。


 だが、逆らう気力がない。


「さっちゃん」


 航が寝室の入口に顔を出した。


「お昼、またお粥でいい?」


「はい」


「貝柱、まだある」


「貝柱に救われていますね」


「よかったね、貝柱がいて」


「はい」


 変な会話だ。


 だが、少し落ち着く。


 俺は天井を見た。


 昨日の夜はゼクシィが血に染まった。


 今朝は俺が血で固まった。


 紙の血と、身体の血。


 どちらも、俺を止めた。


 仕事を止めた。


 思考を止めた。


 そして、休ませた。


 皮肉だ。


 血に止められて、初めて休む。


 未来の俺は、倒れるまで止まらなかった。


 今の俺は、倒れる前に止められた。


 小早川に。


 航に。


 社長に。


 篠宮怜子の身体に。


 人間関係というのは、面倒だ。


 だが、面倒だからこそ、止めてくる。


 ひとりなら止まらない。


 止まらず、倒れる。


 俺はそれを知っている。


「……厄介だな」


 小さく呟いた。


 航が台所から返す。


「何が?」


「人間関係です」


「急だね」


「急ではありません」


「じゃあ、どう厄介?」


「勝手に心配して、勝手に食事を作って、勝手に休ませようとします」


「それ、嫌?」


 俺は少し黙った。


 嫌ではない。


 怖い。


 ありがたい。


 重い。


 全部ある。


「判断を保留します」


「便利だなあ」


 航が笑った。


 俺も少しだけ笑った。


 たぶん。


 顔には出ていないかもしれない。


     *


 午後。


 俺は少し眠った。


 起きた時、枕元にメモがあった。


> 薬は次、三時以降。

お粥は鍋。

ゼクシィは封印。




 机を見ると、ゼクシィ先月号には新聞紙がかけられていた。


 完全に封印されている。


 血のついた結婚情報誌。


 雷鎚。


 紙のプラットフォーム。


 人生イベントの導線。


 そして、今の俺には絶対に開いてはいけない危険物。


 俺はメモ帳を手に取り、今日のことを書いた。


> 初めての女の子の日。

痛い。重い。怖い。

身体は台帳に載らない。

損得で身体を運用しない。

半ドンの日でも休む。

貝柱入り中華粥は有効。




 最後だけ、急に実務メモだった。


 だが重要である。


 貝柱入り中華粥は有効。


 この情報は残す価値がある。


 俺はもう一行足した。


> 篠宮怜子の身体を、道具として扱わない。




 書いた瞬間、手が止まった。


 これは、仕事のメモではない。


 だが、仕事より重要かもしれない。


 この身体を壊せば、改革はできない。


 それ以前に、俺は篠宮怜子の人生をさらに壊す。


 身体は借り物かもしれない。


 だが、痛みは本物だ。


 なら、大事にしなければならない。


 そんな当たり前のことを、月経初日に中華粥を食べながら学ぶとは思わなかった。


 人生は分からない。


 いや、転生後の人生はもっと分からない。


     *


 夕方。


 航は帰る支度をした。


 今日は泊まらないらしい。


「大丈夫?」


「はい」


「夜、痛みひどくなったら電話して」


「はい」


「小早川さんにも連絡できる?」


「できます」


「社長に仕事の電話しない」


「しません」


「ゼクシィ開かない」


「開きません」


「魔王は?」


「少しだけ」


「駄目」


「……はい」


 全面禁止された。


 年下彼氏、かなり強い。


 玄関で、航は靴を履いた。


 俺は少し離れて立っている。


 昨日よりは、距離が自然だった。


 たぶん。


「さっちゃん」


「はい」


「今日、俺がいてよかった?」


 直球だった。


 俺は少しだけ考えた。


 青い歯ブラシ。


 合鍵。


 中華粥。


 痛み止め。


 距離を守る手。


 見ない優しさ。


 待つという言葉。


「はい」


 俺は答えた。


「助かりました」


 航は少しだけ安心した顔をした。


「よかった」


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 航は扉を開けた。


 外の空気は、雨上がりで少し冷えている。


「お大事に、さっちゃん」


「はい」


「ちゃんと寝て」


「はい」


「仕事しない」


「はい」


 扉が閉まる。


 鍵の音。


 足音が遠ざかる。


 部屋に静けさが戻った。


 だが、昨日ほど冷えなかった。


 鍋には中華粥が残っている。


 冷蔵庫には薬の時間を書いたメモが貼ってある。


 洗面台には青い歯ブラシ。


 机には封印されたゼクシィ。


 ベッドには、痛みを抱えた篠宮怜子の身体。


 そして俺は、その身体の中で、今日初めて少しだけ思った。


 この身体を、ちゃんと扱わなければならない。


 未来を変えるためでも。


 会社を変えるためでも。


 作品を届けるためでもなく。


 ただ、痛いものは痛いからだ。


 平成十三年五月最後の土曜日。


 半ドンの日に半休を使い、魔王もゼクシィも封印され、貝柱入り中華粥に救われながら。


 俺は、初めて篠宮怜子の身体と休むことを覚えた。

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