第二十三話 偽婚約者、お猫様に惨敗する
魔女が再び執務室を訪れた。
今度は昼間で、もちろん殿下も一緒だった。
「殿下、今日は少し、お猫様とお時間をいただけないかしら。もっと仲良くなりたくて」
魔女がミレイユへ近づく。
「ミィちゃん」
甘い声で呼ぶ。
その呼び方だけで、背中の毛が逆立ちそうだった。
ミレイユは書棚の三段目に跳び上がっている。
床にいたままでは、あの手が届いてしまう気がした。
(上に逃げる。猫の特権ね)
「あら、まあ。高いところに」
「猫は高いところが好きなんだ。下りてこなければ、しばらく待つといい」
「そうしますわ」
ソファに座り、ミレイユの姿をした魔女が待つ。
書棚の上では、猫の姿のミレイユがその様子をじっと見下ろしていた。
なんとも奇妙な光景だ、と自分でも思う。
殿下は書類仕事に戻った。
三十分が経つ。
ミレイユは書棚の上から、ずっと魔女を見ていた。下りる気はまったくない。
魔女の笑顔が、少しずつ疲れてくる。
「……下りてこないわね」
「飽きたら下りてくる。無理強いはできない」
「そうですわね」
言葉は穏やかでも、魔女の口元はもうだいぶ硬かった。
待つこと自体に慣れていないのか、それとも思い通りにならない状況が耐え難いのか。
たぶん両方だろう、とミレイユは思った。
さらに十五分が経った。
ミレイユは高みの見物を決め込みながら、魔女の様子を観察する。
笑顔はさらにこわばり、ソファの肘掛けに置いた指先へ、わずかに力が入っている。
爪が布地を押しているのまで見えた。
そのとき、殿下が書類から目を上げた。
「ミィ。こちらへ」
「ニャア(殿下が呼んでいる。さすがに行かなければ)」
ミレイユは書棚から飛び降りた。
けれど魔女の方には向かわず、まっすぐ殿下の机の方へ歩く。
机の前まで来て見上げると、殿下が手を差し出した。
ミレイユは迷わず、その手に頭をそっと押しつける。
「そうか、ここにいたかったのか」
「ニャア(そういうことにしてください)」
「机の上には乗るなと言っているが……まあ、今日は特別に」
殿下の大きな手が、ミレイユの背中をゆっくり撫でた。
ミレイユはごろごろと喉を鳴らす。
机の向こう、ソファに座る魔女がこちらを見ていた。
笑顔は保とうとしている。けれど目の奥には、剥き出しの苛立ちがあった。
「……仲良しなのですわね、殿下とお猫様は。まるで……殿下の方が懐いているみたい」
「そうかもしれない」
「今日はこれくらいにしますわ」
「では、侍従に送らせよう」
魔女が退室した。
足音が少しだけ、いつもより硬い。
扉が閉まってから、殿下がミレイユを見た。
「お前は本当に、あの方が好きではないのだな」
「ニャア(好きなわけがありません)」
「そうか」
殿下の手が、もう一度ミレイユの頭を撫でた。
「……まあ、猫の勘というのは馬鹿にできない」
それだけ言って、殿下は書類へ戻った。
けれど、その横顔は少しだけ考え込んでいるようにも見えた。
さっきのやり取りを、殿下なりに反芻しているのかもしれない。
この『二回目の惨敗』のあと、王宮には小さな変化が起きた。
魔女が無視しようとした侍女たちのことが、改めて話題になったのだ。
接見時間に来ていた侍女のひとりが、その日の夕方、侍女長にこっそり報告した。
「先日、廊下でミレイユ様とすれ違ったとき……お猫様を見て、ひどく険しい顔をなさっていて。怖かったんです」
「ふむ」
「それから、ミレイユ様がわたくしたちに普段とても無礼なお言葉を……ご本人はご機嫌のいいときは何もなさらないのですが、ご機嫌が悪いときに廊下で会うと、大変なことを仰って」
「それは以前から?」
「最初から……そうですね、初日から」
侍女長は何も言わなかった。
ただ「覚えておく」とだけ言った。
その短い返答のあと、手元の記録帳へ何かを書きつける。
見ていた侍女は少しだけ、ほっとした。
少なくとも、誰かは気づき始めている。
ミレイユではない『ミレイユ様』の違和感に。
翌週のこと。
魔女の苛立ちは、じわじわと宮廷の空気に滲み出すようになっていた。
侍女たちへの当たりが強くなった。
何かにつけて命令口調になり、少しでも気に入らないことがあると、声がひやりと冷たくなる。
婚約者という立場から真正面からは逆らえず、侍女たちが侍女長に泣きついてくることも増えたらしい。
一方で、ミレイユは——というと。
王様が『お猫様専用のお茶碗』を陶芸家に特注した。
王妃からは特製の刺繍入りクッションをもらった。
殿下にいたっては、生け垣の隙間へ安全な小道を作り、『お猫様専用の散歩コース』まで整備した。
宮廷の『お猫様』人気は、もはや手がつけられないところまで来ていた。
そんな中、魔女が三度目の来訪をした。
その日は、殿下が午前中の政務会議で不在だった。
執務室にはミレイユと侍従だけがいる。
扉をノックする音がして、魔女が入ってきた。
ミレイユはソファの上から顔を上げ、魔女を見た。
(今日は、殿下がいない)
魔女もそれをわかっている。
だからこそ来たのだろう。
「侍従、少し席を外してくれないかしら。お猫様と二人で仲良くしたいの」
侍従が一瞬、固まった。
ほんのわずかな間だったが、困惑と警戒が顔に出る。
「それは……殿下のお許しなく、お猫様と二人きりになることは、わたくしの一存では」
「私は婚約者よ」
「はい」
「婚約者のお願いも聞けないの?」
声が少し低くなった。
侍従が言葉を探すように口を閉じる。
そのとき、ミレイユはソファから降り、侍従のそばへまっすぐ歩み寄った。
侍従の靴の横へぴたりと座ると、彼は目に見えてほっとした顔になる。
「お猫様、お傍に」
その瞬間だった。
「出なくていい、侍従」
低い声が、扉の方から聞こえた。
全員が振り返る。
殿下が立っていた。
政務会議が早めに終わったのか。
それとも——侍従が何らかの形で知らせていたのか。
そこまではわからない。
けれど、来てくれた。それだけで十分だった。
「殿下……」
「執務室に猫だけを残すつもりか」
「少し、二人で仲良くなりたかっただけですわ。ご一緒に席を外してくだされば、それで」
「ミィが嫌がっている」
「嫌がって……猫が何を」
「ミィの意志を尊重する」
殿下の声は静かだった。
静かなのに、一歩も引かない。
その言い方に、魔女の笑顔がはじめてはっきりと歪んだ。
「……猫の意志を、ですって」
「そうだ」
短い沈黙が落ちる。
そのあいだ、ミレイユはじっと魔女を見ていた。
耳は少し伏せていたが、目だけは逸らさない。
「猫の意志を、婚約者である私より優先されるのですか」
「優先しているわけではない。ただ、ミィを一人にするつもりはない」
その一言に、魔女の目の奥で何かがひどく冷たく光った。
もう『優雅な令嬢』の仮面は薄い。
取り繕ってはいるが、内側の苛立ちが隠しきれていなかった。
「……わかりましたわ」
魔女が一礼して退室する。
足音は優雅さを装っていても、かすかに硬かった。
扉が閉まる。
そこでようやく、張り詰めていた空気が少し緩んだ。
「侍従、ご苦労」
「は、はい……」
侍従がほっとした顔でお辞儀をする。
殿下がミレイユを見た。
ミレイユも見上げる。
「怖かったか」
「ニャア(少しだけ)」
「そうか」
殿下がミレイユを抱き上げる。
腕の中へ収まると、さっきまで逆立ちそうだった毛が自然と落ち着いていく。
情けないくらい、体は正直だった。
その夜、侍従が殿下に追加の報告をした。
侍女たちから上がっている証言について。
廊下での無礼な言動について。
機嫌の悪いときの冷たい物言いについて。
殿下は無言で最後まで聞いた。
「……そうか」
それだけ言って、殿下は書類仕事に戻った。
けれどその横顔は、何かを静かに繋ぎ合わせ始めているように見えた。
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