第二十二話 白い毛一本で、魔女が気づいた
定例会食の日、魔女は席についてから、ずっと不機嫌だった。
殿下との会話が弾まない。
王妃は殿下の話には熱心に相槌を打つのに、自分へ話を振ることは少ない。
王様にいたっては、ほとんど口を開かず、ただ静かに場を見ている。
その目が、何もかも見透かしているようで、妙に落ち着かなかった。
そして何より——
(王太子が、最近変わった)
以前の殿下は、もっと遠い目をしていることが多かった。
婚約者と向き合っていても、どこか一歩引いたような、温度の薄いまなざしだったはずだ。
けれど最近は違う。
目の奥に何かしらの温度がある。
疲れていても、どこか穏やかで、朝の顔つきまでやわらかい。
その変化が、魔女には気持ち悪かった。
自分がいる。
自分が婚約者として王宮にいる。
なのに、殿下が変わった理由が自分ではない——その確信だけが、じわじわと胸の底を逆なでした。
(あの猫……)
王宮の庭から白猫が消えて、もう何日も経つ。
庭師に確認しても「見ていない」と言う。
几帳面な侍従も「最近は見かけません」と答えた。
だから、どこかへ逃げたのだろうと思っていた。
あるいは、誰かに追い払われ、そのまま王宮の外で野垂れ死んだか。
それならそれで、都合がよかったのに。
(でも……)
魔女の目が、ふと殿下の袖に止まった。
濃紺の上衣の袖口に、白い毛が一本、光を受けてきらりと浮いている。
(白い毛……?)
猫の毛だ。
細くて、やわらかそうな白い毛。
見間違えようがない。
魔女の目が、すっと細くなった。
「殿下」
会食の席で、魔女は口を開いた。
優雅な笑みを浮かべたまま、声色も崩さずに。
「お召し物に、何か……ついているようでございますわ」
「お気になさらず。猫の毛です」
「猫……?」
「王宮で飼っている猫がいてね。よく懐くので、こうなる」
魔女の笑顔が、一瞬だけ固まった。
(飼っている猫……!?まだ、いたの!?)
王宮の庭から消えたのではなく——建物の中へ入れてもらっていた、ということか。
魔女は笑みを崩さないまま、内側で怒りが煮えたぎるのを感じた。
あの白猫は、ただ逃げ延びただけではない。もっと厄介な場所へ潜り込んでいたのだ。
「まあ、猫をお飼いに……どちらに?」
「執務室に」
「それは……素敵ですこと」
声はあくまで穏やかに保つ。
だが内心では、次の一手をもう考え始めていた。
(直接見に行かなければ。確かめなければ。そして——)
「殿下、もしよろしければ、その猫に会わせていただけますでしょうか。わたくし、猫が好きで……ぜひ」
殿下が、少し間を置いた。
その間が妙に長く感じられる。
「てっきり好きではないのかと、猫が」
「え?」
「以前、庭の猫を追い出すよう命令していたと聞いたので」
魔女は笑顔を崩さないまま、内側でひやりとした。
そこを拾うのか、と一瞬だけ舌打ちしたくなる。
「あれは……お庭のものとは別で、室内で飼われているのでしたら、話が違いますわ。ぜひ、ご紹介を」
殿下がしばらくミレイユ——いや、魔女を見た。
その視線は、ただ返事を考えている目ではない。
何かを測っている。見定めようとしている。
それが魔女には不快だった。
「……明日の午後にでも」
「ありがとうございます」
魔女は優雅にお辞儀した。
形だけなら、完璧な婚約者の礼だった。
その顔の下で、考えていた。
(今度こそ、確実に追い出さなければ)
翌日の午後。
殿下の執務室の扉が開いた。
ミレイユは書棚の前で本の背表紙を読んでいた。
反射的に扉の方を振り返る。
(来た。殿下と……もう一つ違う足音)
偽ミレイユが入ってくる。
殿下の少し後ろに、優雅な笑みを浮かべながら。
その歩き方も、顎の上げ方も、たしかにミレイユの姿をしているのに、中身だけがまるで違う。
それが遠目にもわかってしまうことに、ミレイユはぞっとした。
ミレイユは動かなかった。
逃げない。怯まない。少なくとも、ここでは。
魔女の目がミレイユを捉えた瞬間、その笑顔がわずかに歪んだ。
ほんの一瞬のことだ。
殿下には見えなかったかもしれない。
でもミレイユには、はっきり見えた。
あれは驚きではない。苛立ちと、警戒だ。
「ミィ、こちらはミレイユ嬢だ」
「まあ……本当に白猫なのですね。綺麗な子」
魔女が口を開く。
声は優雅さを保っている。耳に馴染んだ、自分自身の声だった。
でもその柔らかさの下にあるものを、ミレイユはもう知っている。
ミレイユは殿下のそばへ歩み寄った。
(知ってる。知りすぎるほど知ってる)
ミレイユは魔女を見た。
魔女もミレイユを見た。
どちらも動かない。
静かな執務室の中で、その一瞬だけ空気がぴんと張った。
「……可愛い子ですこと」
(私の声。こんなふうに聞こえるんだ)
その言い方に、ミレイユはかすかに耳を伏せた。
魔女がしゃがみ、手を差し伸べてくる。
細くてきれいな指先。
けれど、その手に触れたいとは、ひとかけらも思えなかった。
ミレイユは一歩後ろへ下がった。
(近づくと思ったら大間違い。近づくわけないでしょ……)
「あら、人見知りかしら」
「そういうわけでもないんだが。まあ、猫は気まぐれだから」
「そうですわね。ところで殿下、この子はいつもここに?」
「ああ。執務室か寝所にいる」
「寝所に……」
魔女の目の奥で、何かが光った。
一瞬だけ、笑顔の奥に計算が走るのが見えた。
「それは……お猫様は大変なご寵愛を受けていらっしゃるのですね」
「そうかもしれない」
殿下が静かにそう返すと、魔女が立ち上がる。
その目が、上からミレイユを見下ろした。
口元の笑みは綺麗に保たれているのに、目だけが冷えている。
(邪魔だ、と思っているのね)
ミレイユはその視線を受け止めた。
逃げない。
ここで目を逸らしたくなかった。
「……愛らしい子ですわ。また会いに来てもよろしいですか、殿下」
「構わない」
(できれば、あまり会いたくないんだけど……)
魔女が退室すると、張っていた空気が少しだけゆるんだ。
ミレイユは殿下を見上げる。
「何かあったか」
「ニャア(なんでもありません。ただ、あの人は信用できません、と伝えたいのですが、猫には難しい)」
「そうか。……まあ、ここにいなさい」
「ニャァ(はい)」
殿下が静かに言う。
短い言葉なのに、それだけで少し落ち着いた。
その夜、魔女が動いた。
深夜、廊下の物陰で侍従を呼び止める。
「ちょっとよろしいかしら」
「ミレイユ様、こんな夜更けに何か」
「あの猫のこと。少し聞きたいことがあるのだけれど。どこにいるときが多いの?殿下がいらっしゃらないときは?」
「……それをお聞きになって、どうされるのでしょうか」
「ただの興味よ。可愛い猫だったから、もっとよく見てみたくて」
侍従が少しだけ、考えた末に答えた。
「お猫様はいつでも執務室か寝所においでですが……」
「そう、ありがとう」
魔女は笑顔を保ったまま立ち去った。
その後ろ姿を見送りながら、侍従はしばらくその場を動かなかった。
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