第二十一話 婚約者というのは、どういうものなのでしょう
ある日の昼下がり。
徐々に、殿下が何に疲れているのかわかってきた。
王宮の定例会食は、週に二度行われる。
王族と、婚約者として滞在中の令嬢——すなわち偽ミレイユ——が一堂に会して食事をとる、宮廷の習わしだ。
王様、王妃、王太子、そして婚約者。
正式な儀式ではないけれど、それなりの格式があり、気を抜いていい場ではない。
そしてこの会食があると、殿下の疲労は目に見えて濃くなる。
会食のあとに執務室へ戻ってきたときの歩き方も、声の低さも、いつもより少し重い。
あの席で何が起きているのかまではわからない。
でも、少なくとも殿下にとって、心休まる時間ではないのだろう。
その日、殿下には珍しく午後の公務のない時間があった。
政務会議が予定より早く終わり、次の謁見まで二時間ほど空いていたのだ。
殿下は執務室に戻ると、書類仕事ではなく——本を読んでいた。
珍しかった。
殿下が仕事以外のことをしている場面を、ミレイユはあまり見たことがない。
「ミィ、こちらへ」
殿下が呼ぶ。
ミレイユが近づくと、殿下はソファに座ったまま、本を開いた状態で手を差し出した。
「フニャ?(膝に乗れということ?)」
ミレイユはためらわずに乗った。
最近は、こういうことにあまりためらわなくなってきた。
これも慣れというものなのか、それとも別の何かなのか。
そこは深く考えないことにしている。
殿下がミレイユを膝に乗せたまま、本を読み始めた。
ミレイユもページを見た。歴史書らしい。
けれど膝の上からでは文字が逆さで、読むのは難しい。
(まあ、いいです……)
ミレイユは殿下の膝の上で、ゆったりと丸まった。
窓から差し込む午後の光はやわらかく、どこかで鳥が鳴いている。
ページを捲る音も静かで、部屋の中に穏やかな時間だけが流れていた。
(こういう時間、好きかもしれない……)
そう思ってから、自分で少し驚いた。
『好き』という言葉を、この状況に使ったからだ。
たしかに、好きだった。
この静かな時間が。
殿下の膝の温もりが。
午後の光が。
何も言わなくても、ただここにいていいと思える感じが。
追い立てられず、役目を求められず、黙って寄り添っていられる、この静けさが。
(猫としての『好き』よ)
と付け加えてみたけれど、それは少し苦しい言い訳だとも思った。
「……眠そうだな」
殿下が本のページを捲りながら言った。
「眠っていいぞ」
「ニャア(許可が出た)」
ミレイユは目を細めると、くあっと欠伸が出た。
殿下の膝の熱が、体の奥までじんわりと広がっていく。
まぶたが重い。耳の力まで抜けていく。
(では、少しだけ……)
目が閉じていく。
殿下のページを捲る音が、少しずつ遠くなる。
(この人のそばが——)
意識が薄れる前、最後にそう思った。
——この人のそばが、一番安心する、と。
ミレイユが目を覚ましたとき、殿下の本は閉じられていた。
殿下は書類仕事に戻っているのかと思ったが、違った。
殿下もソファの背もたれに少し頭を預け、目を閉じていた。
(え……殿下も、眠っている?)
二人で——いや、猫と王太子で——昼寝をしてしまったらしい。
それだけ殿下も張り詰めていたのだろう、とミレイユは思う。
ミレイユはそっと殿下の顔を見た。
この顔は、公の場でも、夜の執務室でも見せない顔だ。
昼の光の中で力が抜けていて、ただ静かに穏やかだった。
(綺麗な顔をしているんだな、この人)
そういうことを考えてはいけないと思いながら、目をそらせなかった。
(早く人間に戻りたい……私が人間に戻っても……同じように接してくれますか?)
殿下が小さく息をついた。
眠りの浅いところへ来たのかもしれない。
ミレイユはとっさに動きを止める。
でも殿下は目を覚まさず、また深い寝息へ戻っていった。
(……よかった。もう少しだけ、ここにいよう)
ミレイユは再び丸まった。
殿下の膝の熱がまだ残っている。
それに頬を寄せるようにして、もう一度そっと目を閉じた。
今だけは、何も考えずに。少しだけ。
その夜、ミレイユは殿下の寝所で待っていた。
会食のあいだ、さすがにミレイユは同席できない。
執務室か寝所で留守番、というのがここ数週間の決まった流れになっていた。
侍従がときどき様子を見に来てくれるので、完全に一人きりというわけではないけれど、それでも会食の夜は、どうしても落ち着かなかった。
(今夜の会食はどんな様子かな)
窓辺に座り、夜の庭を見下ろす。
王宮に潜り込んでから、もうずいぶん経った。
最初は雨をしのぐ場所を探すだけで精一杯だったのに、今ではこうして王太子の寝所で帰りを待っているのだから、不思議なものだ。
魔女はまだそこにいる。
偽ミレイユとして、着々と王宮での立場を固めようとしている。
でも殿下との仲は——どうやら、うまくいっていないらしいことが少しずつわかってきていた。
殿下は、偽ミレイユと距離を置いていた。
それが魔女の計算違いだったのかもしれない。
殿下は『謹厳な御方』という評判どおり、婚約者だからといって急に親しくなるような人ではない。
むしろ相手を見極めてから、ゆっくり距離を縮める人だ。
そしてその『見極め』の精度は、おそらくかなり高い。
(殿下は……何か感じているのかもしれない)
偽物だとまでは気づいていなくても、何か引っかかるものを覚えているのかもしれない。
そう思うと少しだけ救われる。でも同時に、早く証拠を見つけなければという焦りも強くなった。
(早く、証拠が見つかれば)」
自分が嫌われてしまっているかもしれないのは、少し不安だけれど。
ミレイユは窓の外を見ながら、そっと息をついた。
会食が終わり、殿下が寝所に戻ってきたのは夜の十時頃だった。
「ミィ」
その声が聞こえた途端、ミレイユは窓辺から飛び降り、殿下のそばへ歩み寄った。
「ただいま」
「ニャア(おかえりなさい)」
殿下がミレイユを抱き上げる。
いつもの抱き方。胸元へ収まると、それだけで少し安心した。
自分でもずいぶんこの体勢に慣れてしまったと思う。
「今夜の会食は……少し疲れた」
珍しく、そんなことを口にした。
殿下が疲れたと、しかも言葉にして漏らすのは本当に珍しい。
「ニャア(気がついていたけれど……何かあった?)」
「大したことではない」
そう言いながら、殿下はソファに座り、ミレイユを膝に乗せたまましばらく黙っていた。
ミレイユは殿下の顔を見上げる。
その顔は、何かを考えているような、決めかねているような、そんな曖昧な陰を帯びていた。
(話したいことがある?)
「……ミィ、お前に聞いてもわからないかもしれないが」
殿下がぽつりとつぶやく。
「ミャー(聞きます。全部聞きます)」
「婚約者というのは、どういうものなのだろうな」
(え?)
思わず耳がぴんと立った。
「会うたびに、何か……引っかかる感じがする。うまく言えないのだが、何かが違う気がして。それが何なのかわからない」
(引っかかる……殿下も気づいているんだ)
やっぱり、と思った。
でも言えない。猫には言えない。
本当は今すぐ、そうよ、その違和感は正しいの、あれは私じゃないの、と伝えたいのに。
ミレイユは殿下の膝の上から前足を伸ばし、殿下の手にそっと触れた。
殿下が視線を落とす。
「……何だ」
「ニャア(そうよ。引っかかっていいのよ。あれは偽物なの。殿下の感覚は正しい)」
「励ましているのか、お前は」
「ニャア(そういうことにしておいてください)」
殿下が、ほんの少し笑った。
その小さな笑みを見ただけで、胸の奥がじんとした。
その夜、殿下が眠ったあと、ミレイユはいつものように枕元へ近づいた。
黒い髪が、やわらかく広がっている。
「ぺろ、ぺろぺろ(今夜は……お疲れ様でした、という気持ちで。少しだけ念入りに……)」
「ゴロゴロゴロゴロゴロゴロ(大丈夫。殿下は正しく感じている)」
舐めながら、ミレイユは思う。
こうしていると、不思議と気持ちが落ち着く。
殿下を安心させたいのか、自分が安心したいのか、もうよくわからない。
ただ今夜だけは、少しでもこの人の疲れが軽くなればいいと、心からそう思った。
ミレイユはやがて観念して、ベッドの端へ戻った。
小さく丸まり、尻尾を鼻先へ巻きつける。
暖炉の火が揺れている。橙色の光が、寝所の中を静かに染めていた。
殿下は正しく違和感を覚えている。
ミレイユは目を閉じた。
今夜は少しだけ、希望を抱いたまま眠れそうだった。
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