二十四戒目「終演・上」
「み……君……!」
「……」
「君! 起きて!」
「…………っ……くっ……」
「大丈夫か?」
「…………頭が痛い」
「そうか……。少し安静にしてなさい。救急車呼ぶから」
「……いや、そいつはいらない。それよりも今何時?」
「……今は……九時近い」
「! もうそんな時間か! 学校始まってるじゃん!」
「今日は十五日の日曜日だから休みだよ」
「……そっか。……それとちょっといいか?」
「?」
「……あそこの中見てきてくんね?」
「あのちょっと開いてるやつか? 何か忘れ物?」
「あぁ」
「………………。何もないぞ!」
「え……? 手紙とか上履きとかは!」
「そんな物もない!」
「……わかった! サンキュー!」
「本当に大事なのか?」
「あぁ。悪かったな。それじゃ……って」
「ならば君はすぐに交番に連行しないとね……」
暗闇の中に広がる仄かな光。弱々しい。手で包んでしまえば消えてしまうくらいに。でも、それは風船のように膨らみ、だんだんと強くなっていく。そして急に弾けて眩しくなった。闇という闇は一切かき消され、目の前に広がったのは、
「……ん……」
木陰だった。
頭が痛い。どうやら堅い台で仰向けていたようだ。ぎりぎりで寝違えてはいかった。
いくらか青みを含んでいる紅葉が何十何百と折り重なっている。隙間から木漏れ日が照明と陰を作っていた。そして、寝ていた場所である台は木をモチーフにしたベンチだった。堅いわけだ。
俺は半身を起こして辺りを見回す。あまり広くないくせに立派に咲き誇る紅たち。ブランコがあってシーソーがあって……、やけに錆び付いているのが目立つが、機能は十分果たしている。見覚えがあった。
以前の公園だった。
「……真乃と……遊んだ公園……。……?」
ふとして違和感を鋭く感じた。どこかが乾燥しているようだ。
それはもう、見れば一目瞭然だった。
「……! ……なっに、これ……!」
体をつっかえていた手が赤みを帯びていた。紅葉のように。明らかに自分のモノではない誰かのが、ペンキとなって染め上げていた。擦ってみると、ボロボロ剥がれ落ちていく。妙な親密感が練り込まれていた。
「……俺は、何をしたんだ……?」
そして、今度は右のポケットから強調される“存在感”。そっと抜き出して……。
「! これは……」
それも塗り潰してあった。プラスチックで拵えた先は真っ赤。だが、新鮮な輝きを垣間見せる。俺が何をしたのかを如実に物語っていた。
「う、嘘だ……! 嘘だ! 嘘だ嘘だ嘘だ!」
俺はしてしまったのか! この手で……! ……誰を?
それより、今は何日だ? 身体の時間感覚がかなり遅れている。それに加えて、体中が悲鳴をあげている。筋肉痛のようだ。
「さすがにここに留まるのはまずいし……。一旦帰ろう」
不幸中の幸いにも服などにはついていない。手と顔をなるべく隠せば大丈夫だ。
「被害者から加害者になってしまったな……」
俺は俯き、ポケットに手を突っ込んで、そこから離れた。
「……話は以上です。僕は全てを吐きました」
「……」
結局、二人ともうちで匿うことになってしまった。実質三人だが。
朝食を終えて、取り調べていたところだ。徹と星 衛には食器洗いをさせている。
「ふむ……」
二時過ぎに担任の先生が瑠璃を呼び出し、車に乗せた。自分が刺されたと仄めかした上で。そこから誘拐されるまでは記憶がないらしい。そして昨日、見張り役の男と逃走。
時間的に狂いはない。刺された時間と伝わる時間は多少ずれていてもおかしくはない。そして先生の供述と対応。偶然と考えれば全て片づけられるが……。
それよりも、なぜ星が瑠璃人を逃がしたのかが引っ掛かる。本人曰く、あちらのやり方についていけなくなったとか。……とりあえずそれは置いておこう。
「とりあえず、他にはないのかい?」
「ありません。……本当です! 虹にぃ!」
「……」
問題はそこから誘拐されるまでのプロセスだ。
あの瑠璃人を誘拐監禁するなんて難しいほどこの上ない。強引にするしかない。下手をすれば返り討ちだ。なのに一切抵抗させずに完了させた。そこがポイントだ。
「どうして気付かなかった?」
「……そ、それが、なんだか眠くなってきちゃいまして……」
「居眠りしたのかい? 全く……」
怒りを通り越して呆れた。
「あははは……。ですが、おかしいんですよ」
「?」
瑠璃人は冷蔵庫から水を取り出し、二つに注ぎ足す。
「なんというか、心地良くなかったんです」
「……どういうこと?」
「無理やり寝付かせられた、というのが妥当なのでしょうか……」
つまり、自分から進んで眠ったのでなく、何らかの作用で睡眠状態にさせたということか。納得いかない面もあるが、とりあえず十分だ。
「よし、その先生の名前は?」
「……福田、先生です。福田 勝富先生……」
適当なメモ用紙に走り書きする。
なんとなく含みがあるように聞こえた。
「あと他には?」
「美浦だ」
「!」
いきなり星が割ってきた。
「“美浦”というのは?」
「お前、会わなかったのか? 金髪で綺麗で色っぽいナースさんだ」
「そしてエメラルドグリーンの瞳、まるで外人のような容姿をしている」
「ほら、虹にぃが鼻の下を伸ばした方ですよ」
「瑠璃、あとで覚えておきなさい」
徹の後に隠れても無駄だぞ、瑠璃人。……それは後にして。
あの人が美浦という人なのか。確か病院で会った気がする。外見上は外国人だ。金髪で異色の瞳だった。ハーフなのだろう。
しかし一体何の関係が……? その疑問は意外にも、徹の後ろが説明してくれた。
「虹にぃは覚えていますか? 陸奥実君が通り魔に遭った事件のこと」
覚えているも何も、自分はそれを切欠に動き出したようなものだ。
あの時はびっくりした。陸奥実君が死んでしまうかもしれない、と瑠璃人から唆されて……とこれは別の話だった。そういえばあの時のお仕置きはまだだった。
「その日を境に、美浦と陸奥実君は積極的に連絡を取り合っていたんです」
「そうなのかい? ただ友達になっただけとか……」
「……そんな軽い話のわけないだろ!」
「あはは……」
今のは冗談にしてみても、不自然と言えば不自然だ。自分を世話してくれるただの看護師一人に、ましてやメールアドレスまで交換してまで友達になろうとするだろうか? もっとも、陸奥実君がその方に興味を抱かない限りはないと思う。
瑠璃人は肩から顔を覗かせる。
「あの用心深い陸奥実君が情報を渡してまでコンタクトしたい理由があると思われます」
「……つまり……それが……」
「“手紙”でしょう」
なるほど。それなら納得はいく。だが、それには一つ問題がある。自分の代わりに徹が言ってくれた。
「じゃあ、お互いにどうやってそれを知ったんだ? まさか出会って早々、打ち明けあったわけじゃあるまいし……」
確かに。陸奥実君は親しい友人ですら自分から明かさない秘密主義者だ。他人に等しい美浦に話すとは考えにくい。彼女の方からならいいが、“はずれ”だと話が広がってしまうだけなので、後で目立った行動が取りづらくなる。つまり、互いに相手が“当たり”だという確証がなければ、リスクが伴ってしまうのだ。
しかし、瑠璃人はそれを見越してか首を横に振った。
「……きっと、そんなことはどうでもいいんです」
「? どういうことだ?」
反応したのは星の方だった。
「陸奥実君と美浦には“接点”がある。それだけを考えていけばいいと思います」
「……それってつまり……」
「すみません。そればかりは僕も解らないんです……、はい……」
瑠璃人もお手上げ状態だった。瑠璃人が全てというわけではないが、頼りの綱にも限界はあった。
ならば、話は簡単だ。
「……美浦を重要参考人として捜索だ」
「そうですね。机上の空論はあてになりませんから」
早速、棚ににある家電に手を伸ばした。しかし、それを星がまた割ってきた。
「……無理だ」
「どうしてだい?」
星は深くため息をついた。もはや呆れ果てた様子だ。苛立ちを感じたのは言うまでもない。
「美浦はおそらく日本にいない」
「……? どういう意味ですか?」
「意味はない。どこかのビーチでワインでも飲んでるだろう」
「……だから言うてるやろ! ワイらには時間がないんや!」
「そうです! 早く流さんを見つけないと……」
「なぁ、お姉さん。オレらは今、新戸のおっさんに頼まれてるんだが……」
「え? 新戸って……新戸刑事のこと?」
「……そうですけど」
「ほ、本当にぃ! わぁぁぁ! すごぉい! あとでメアド欲しいなぁ!」
「……持ってるけど」
「本当! それくれたら、黙っててあげるわ! 絶対よ! 約束する!」
「わ、わかったよ……。あげるから学校に戻ってくれ……」
「わかったわぁ!」
「はぁ……」
「…………」
「……」
「……むっちゃん、どこ行ったんやろ……?」
「……」
「コンビニでパンでも食ってんじゃねぇか?」
「……言われてみれば、お昼とっくに過ぎてますね」
「そうやったぁ……」
「腹減ったぜ……」
「食べてる暇はありませんよ」
「そりゃあわかってる。……あっ……、コンビニ……」
「諦めぃ。ワイらには使命があるんやで」
「では……連絡してみます?」
「そやな。もう丸一日経っとるし……」
「では早速。…………もしもし? おっさん?」
陸奥実君は今日死ぬ。誰かの手によって。手紙なんて所詮は紙切れだ。人がペンで書いた物に過ぎない。どんな想いで綴ったかは知ったことではないが、ろくな事ではない。
絶対に殺させない!
「虹にぃ、一刻も早く陸奥実君を捕まえないと……」
「わかってる! だが、連絡が取れないと思っていたら……」
虹にぃはリモコンでテレビをつけた。うちのテレビは少し旧型なので映りがあまりよくない。つけてから数秒でやっと見えてきた。これは……ニュース……。
〈……が四人、惨殺されていたのです。先生、これはどう受け取れるでしょうか?〉
〈そうですね。おそらく犯人は、相当頭が切れますよ〉
〈どうしてですか?〉
〈四つの死体の位置をマーキングしますと……この通り、全て道の分岐点にあります。このことから、犯人は逃げながら犯行に及んだのではないでしょうか。そして……〉
どこのテレビも同じような事をしている。事件がある毎に専門家を呼んで中身を検証していく。これがいいか悪いかは別として、個人的に好きではなかった。
しかし、そう思っているのは僕だけではない。
虹にぃの方を見やると指が真っ白になるほど、握りしめていた。
「……殺されたんだ」
「えっ?」
「彼に……四人とも……」
「彼って……陸奥実君ですか?」
「……そうだ」
「………………」
陸奥実君の精神状態、状況、犯行を考慮すると、彼でない確証が持てない。寧ろ彼である可能性の方が高いかもしれない。
虹にぃはその手で床を殴りつけた。
「もう彼を……信じきれない……!」
「! 虹にぃ!」
虹にぃも暴走しかけてる……!
と思った瞬間、前のめりに倒れ込んでしまった。いきなりすぎる出来事に時が止まったように感じてしまう。まさか……失血死?
「こ、虹にぃ!」
「あぁ〜、大事だよ瑠璃人君。後ろからプスッとやっただけだ。こいつ、二つの意味でヤバかったからな」
「……今回だけ礼を言います」
「まぁ、いいってことさ。長い付き合いだしな。……星、このアホをベッドに丁寧に放り込んでくれ」
「わかった」
とりあえず、二つの意味で助かったわけだ。もっとも、医者が好き勝手に注射するのはいかがと思うが。
それよりも直前の言葉の方が信じられなかった。あの虹にぃが仕事以外で人を信じないことがあるなんて……。ましてや……。
僕らは隣の部屋に向かった。そこは虹にぃの部屋だ。相変わらず何もないところで、あるといえば部屋を囲むように立ち並ぶ本棚、それに収められている大量の小説しかない。
虹にぃをベッドに下ろして俯せる。後からやってきた徹さんが服を捲くり上げると、白かった包帯が染み渡っていた。それを僕の隣で手慣れた手つきで交換していく。僕と星さんはそれを見詰めていた。
「……無理しすぎると死にますよ……虹にぃ」
見るのを止めて、虹にぃの顔をこちらに向かせた。すっかりトレードマークになってしまった前髪の寝癖でじゃれる。指に絡めたり結んだりした。最後に頬を堪能させてもらった。
「……やはり、直に本人に聞くしかありませんね」
「だがどうする? 居場所が特定できないぞ?」
「僕は陸奥実君なんかに負けませんよ。……テストでは負けますが」
僅かに湿っていた……。
白黒のモノと余程縁があるらしい。正直おしまいかと思った。
しかし、逃げることに何の意味があるのだろう? 俺は虹さんを突き刺し、あの四人を無惨な姿に変えてしまった(らしい)。それで捕まったら間違いなく重罪。下手をすれば死刑……。
つまり、どちらにしても殺されてしまうわけだ。あるいは“手紙の宣告”はこれを示しているかもしれない。ただし、捕まった場合は免れる可能性はないわけではない。
ならばすぐにでも自首すべきだ。ある意味警察が守ってくれているのだから。
「…………ふぅ」
しかし、その前にしなければならない事がある。それを完遂するまでは……。
今はトイレの中だ。用もたしているが、もちろんそれの為だけではない。
「……こんなに鉄臭い……」
手に付いたモノを剥がれ落としていたのだ。一旦家に帰ろうかと思ったが、それはまずい。家宅捜査しているかもしれないし、血液検査が怖い。血はどんなに流しても、決定的な証拠となって残ってしまう。ならばあえて不定的なコンビニを選んだわけだ。たまたま見つけたというのもあるが。
「さて、ついでにこいつも洗うか」
“護身用”のこれは、トイレットペーパーに水を浸して擦り落とす。穢れた紙は小さくちぎって一気に流した。それだけでも輝きを取り戻した。
「……よし、行くか」
念のため、手をポケットに入れて同じポーズを保つ。店員や客の目が怖い。今にでも叫んでしまいたい……。そして店員の挨拶と共に出れた。不振がられることなく。
大通り。人で埋め尽くされている。別に満員電車のようなわけではない。ただ、そんな迫力があった。過去の意識が抜けていない。そんな人だかりの真ん中を車たちが突っ切る。俺はそれに溶け込む。
「家には行けないだろうな……」
時間はまだある。半日以上残っている。その間に何としてでも真実を……、見つけないと! おそらく、それはあそこにあるだろう。
「携帯も抜き取られている……いや、病院から脱走してきたのだからそこに……」
ここから病院はかなり遠い。最悪なことに財布も置いてきてしまっている。自力で行くしかない。
「…………慎重に」
たとえ面識がないからとはいえ、ほんの少しでも油断してはいけない。一瞬でも認識されれば俺の存在は強く、儚く消える。
流れに身を任せればいい。
「一石二鳥だな……」
「……ん…………?」
「やっと気付いたか」
「……瑠璃は?」
「あぁ、どこかに行ったぞ」
「! 瑠璃……!」
「止めとけ。まだ顔が冴えてない」
「で、でも!」
「たまには弟のことも信用しろよ。それとな、休むときには休んどけ。来たるべき時のためにな」
今思えば無理をし過ぎたかもしれない。脇腹の後ろを刺され、その翌日にはこうしているのだから。傷の具合を見てみると、包帯が新しく付け替えられていた。ほんの少しだけアルコールの匂いがする。清潔にしないと膿むどころか腐ってしまう、ととばっちりを喰らった。
体調はいま一つ。完全に治るまでには数週間は必要だろう。でも、現状ではその理由は通じない。
陸奥実君が犯人だとは思いたくもない。寧ろ被害者なのだ。なのになぜ……? 先ほどの“美浦”が関連しているのは間違いはない。
「……徹」
「なんだ?」
「……美浦は具体的にどういう方だ?」
「そうだな。誰からでも憧れの的だよ。老若男女親しまれている」
「……事件直前に何かあったかい?」
「……うーん……特には……」
瑠璃人の仮説に則ると、美浦と陸奥実君は個人的な親交はあった。それも複数回。多分“例の物”での話だろう。それ以外にも目的はあっただろうけど。
そして星の証言。冗談かどうかはわからないにしても、本当に行方知らずになっている。つまり、事件に関与していたから逃げ出した……と言える。しかし、それではあからさまに自分が犯人です、と言っているようなものだ。
しっくりこないどころか、かすってすらしてない気がする。
「あ、そういえば……」
「何か思い出した?」
「九月入ってから五日間くらい旅行してきたな」
「りょ、旅行?」
「あぁ。彼女、旅行好きなんだ。度々仕事抜け出して行っていたよ」
旅行……?
「……よくクビにされないね……」
「病院側としてもあれほどの逸材は手放したくないようだ。太陽みたいな人だからな」
いいなぁ……。自分もそれをやってみたい。……じゃなくて。
五日間ほどの旅行。その間に計画を立てていたならば……?
「……どちらにせよ、今は陸奥実君をなんとかしないと……」
時間は十三時を回ろうとしていた。その時、携帯が鳴った。おそるおそる手に取ると、彼からだった。
「……はい?」
「おっさん! 陸奥実が見つかんねっすよ! そっちはどう!」
「こっちもだよ。それどころか瑠璃もどこか行ってしまってね……」
前橋君たちも難航しているようだ。
「……もしもし?」
「! その声は東條さんだね?」
「はい……」
いきなりだったので戸惑ってしまった。すると電話の奥からしゃっくりのような声がした。
「流さんがあなたを刺したのは本当ですか……?」
「……残念ながら本当だよ」
「では警察官四人を殺めてしまったのは流さんですか?」
「……!」
なぜ彼女が知っている……? まだ公にすらしていないはず……!
「…………」
「新戸……さん……? 違うって言ってくださいよ……。どうして否定してくれないんですか……?」
「!」
そういえばあの時もそうだった。自分が陸奥実君の身柄を確保した時も同じように……。そして彼を最も心配しているのは瑠璃人でも自分でもない。東條さんなんだ。彼と会えたのは三人の中で東條さんだけ。現実を目の当たりにしたのは彼女だけなんだ……。
「…………」
「新戸さん……」
そんな時に突如、体に何かが舞い降りた感覚に襲われた。それは脳天から一気に爪先に駆け抜ける。雷が直撃したようだった。
これが俗に言う“閃き”だった。
「東條さん!」
「はっはい!」
「今すぐ行ってほしいところがある!」
「そっ、それはどこですか……?」
「それは…………」
「見えてきましたね……」
「ああ。……それにしても……」
「?」
「勝手に借りてよかったのか? この車……」
「いいんですよ。虹にぃは普段使いませんから」
「じゃあどうやって出勤してるんだ?」
「部下にアッシーさせてるんですよ。……あぁ、気をつけてください。傷付けると怒られます。虹にぃが僕の次に溺愛してるものなんですからね」
「……なるほど。意外に可愛い一面もあるんだな」
「いえ、あなたには負けますよ」
「ありがとうです」
「……」
「あれ? どうかしましたか?」
「いや、別に」
星さんは車に鍵をかけた。意外に照れ屋だったようで、そそくさと先に歩いていった。僕は一旦“それ”を見上げた。
真っ白に大きく示される存在感はいつになく虚しい。とりあえずあるというだけになってしまった。数日前まであんなにたくさんいたのに。
その入り口から星さんは僕を呼んだ。周りを確認してそちらに向かう。
「何をしていた? 早く行くぞ」
「わかってますよ。少し黄昏ていたんです」
「お荷物は持ったのか?」
「はい。この通り」
荷物といってもそんな大袈裟な物ではない。レジ袋に何個か入っているだけだ。
「一体何する気だ?」
「お楽しみは取っといておいた方が楽しさが増しますよ」
「生憎、楽しもうと思えない年頃だから、そうはならない」
「虹にぃをお姫様抱っこして、さり気なく遊んでたのにですか? ……ふふふっ」
「…………」
「どうしたのですか? 無口になって……」
「……やれやれ、お前に勝てる気がしない」
「口で負かすのは得意分野です……」
と、小話はここまでにしよう。これ以上続くと星さんが泣いてしまうかもしれない。
もし彼がここにいれば、新たな勝負の幕開けだ。僕と陸奥実君、どちらが上なのか。おそらく、ここに居てほしいという願望は知恵比べがしたいのと同じなのかもしれない。
僕らは中に入っていった。




