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十八戒目「幻想」

「はぁっ、……はぁっ、はぁっ、はぁっ、っぁっ!」


 誰かが走っている。


「ふぅっ、ふっ、はぁっ! ぅふぅ……はぁっ、はぁっ、はぁっ!」


 一度止まって、走っては止まって、また走っては止まっての繰り返し。そのあまりにも挙動不審な行動はなぜか必死そうだった。

 逃げていた。道無き道をがむしゃらに、怯えて、震え、呑み込まれないように。しかし、ここがどこなのかがわからない。いや、それどころか自分は本当に足を動かしているのかさえわからない。意味がわからない。

 まるで傍観者だった。逃げ惑う誰かを映すテレビを見ているかのよう。つまり、誰かの物語を……。






 誰かは立ち止まった。

 真っ暗な夜だからか、たまたま灯りがないからなのかはわからない。でも、確かに人影はあるし荒げる息もする。落ち着けと言わんばかりに静かに早く深呼吸を繰り返す。漸く平静を保てたところで今度は、真横に歩きしゃがみこんだ。そして辺りを見回す。

 違う。立ち止まったのではない。隠れたのだ。おそらく歩いた方に細道があって、ゴミの陰にでも隠れたのだろう。誰かは夜目が利くようだ。


「…………」


 息を極限まで殺し、辺りを探る。


「…………」



………………



…………



……



「いなくなったのか……?」


 誰かはそっと呟く。念のためにもう少し待ってみるが、何もない。

 肩にのしかかる緊張感と背筋を駆け巡る悪寒が体を震えさせる。それらをなんとか抑え込み、顔を覗かせた。


「! うわぁっ!」


 期待を簡単に裏切られた。誰かは一瞬の出来事に尻餅をついた。そちらには何もないように見える。だが、誰かが短く悲鳴を上げていることから何かが居るのだろう。あまりに恐ろしい何かが。

 再び立ち上がろうと膝を突き立てるが、バランスが上手く取れず倒れてしまう。さっきまで収まっていた震えがその分を補うように働いていた。使い物にならない。


「く、来るな! 近寄るな!」


 誰かはその下半身を引きずりながら後ずさる。そして遂に、背中に何かが当たった。


「くっ! 行き止まりかよ!」


 あまりに堅い衝撃が先のことを占っていた。足掻こうとしても、すでに体力も精神も底をついてしまった。もう終わりだ、そう思った。


「……嫌だ……触るな! 止めろ!」


 誰かは腕を引っ張り上げられ、無理矢理立たされる。膝に力が入らずすぐ崩れるが、股に何かをつっかえられた。それは激しく突き上げる。


「やめっろぉ! 触るなぁ! っあ!」


 体がガクガクと揺れて裂けそうになる。しかし、されるがままだった。言葉でしか抵抗できなかった口もテープらしきもので塞がれ、もはや人形でしかなくなった。

 誰かは一瞬体が跳ね上がり、無理矢理虚脱感を覚えさせられた。もう駄目だった。


「んふっ……んんぅ……」


 誰かの意識はそこで途絶えた。






 今度は全くの別空間だった。普通の街並みの風景だった。人も歩いているし、信号や車などの交通も盛んなところだった。ふとしてなぜか、全身真っ黒の、まるで影に覆われたような“誰か”がまたいた。おそらく別人だろう。

 その誰かの横を幼い女の子が通り過ぎていった。


「…………」


 誰かは少女の後を付けることにした。






 少女はよく見ると少女ではなかった。顔つきはかなり幼く見えたが、身長や雰囲気は中学生くらいのものだった。なぜかそう思った。

 ふとして少女とりあえずそうしておくはこちらを振り返ってきた。全身から汗があふれ出るような気分に襲われた。もしかしたら、いざこざになってしまうかもしれない。

 しかし変に思わなかったのか、素っ気なく振り返り直し、再び歩き出した。誰かは内心、安堵のため息をついていた。


「……もうよそう。馬鹿みたい」


 丁度目の先にあった某ファーストフード店に入った。お腹も空いていてまさに丁度よかったようだ。

 店内はほどほどにいた。まだ昼時でないにしろ客足はまあまあだろう。誰かは数人の列に並び、自分の番になるとコーヒーとポテトを頼んだ。お釣りのないように支払い、その数秒後に受け取った。


「……?」


 適当な個人席に座った頃に自動ドアが開いた。そこにいたのは先ほどの少女だった。誰かは少し戸惑ったが、そんなこともあるだろうと気にせずポテトを口に含んだ。


「たまにはいいかもしれない。のんびりと日差しを眺めるのも」


 誰かはそう呟いた。しかし、コーヒーがあまり美味しく感じられなかった。そして妙な出来事も起こった。

 少女が誰かの二つ隣の席に座ったのだ。しかも全く同じメニューで。流石にこれは受け流せなかった。

 気分が悪くなったのか、残り僅かのポテトとコーヒーを惜しみなく流し込む。トレイや容器を分別して捨て、足早に店を後にする。


「…………」


 目の前には広々とした道路があって、そこを何台も車が走っていく。そこは変わらない。しかし、心のどこかにとっかかりが出来ていた。

 誰かは再び歩き出した。それを考えるために。


「……………………」


 気持ちがやけに揺れる。上がるときにはどっと上がり、そこから一気に落ちる。それは一定で、遅い。そのイメージをつかめたものの、結局はわからなかった。しかし、絶対に身に覚えがある。もう少し時間がかかるようだ。


「…………ふぅ」


 特に行く宛もなく放浪する。高いビルをベンチから眺めたり、河原でせせらぎを感じてみたり、たまたま会った青年と話してみたりと一日という時間を散歩で埋め尽くした。そして、なぜか過ごしていくうちに祝福されたような気がしてならなかった。

 誰かはある辺鄙な公園に漂流した。特に特徴のないそこは虚しい。ブランコに腰を下ろした。するといきなり、目の前に何かが現れた。


「! あなたは……」


「…………」


 夕焼けに染め上げられた橙のような髪の毛がふわふわと舞う。とても長いそれは本体を包むようだった。

 少女だった。

 誰かは動揺するとか驚くとかよりも、その雰囲気の虜になった。弱々しいうちに秘められる優しい何かを少女は持っていた。

 しかし、少女は虚ろそうだった。それによって自然と口が動いた。


「……どうしたの? 具合でも悪い?」


「…………」


「……?」


 少女は必死に口を開けようとするが、なかなかその先に進もうとしない。そして俯いてしまった。


「いいよ。無理に話そうとしなくても。赤の他人だからね」


 少女は頭を激しく横に振る。どうやら違うようだ。


「困ったなぁ……。……そうだ! じゃあこうしよっか」


 誰かは五角形の緑色の鉛筆と、小さな穴にバネみたいな針金を通したようなメモ帳を取り出した。少女は口にはしないが、顔を見れば大体がわかる。


「知ってる? “筆談”って言うんだよ。……これあげるから、何か書いてみて」


 少女は無理やり受け取らされると戸惑いを隠せなかったが、考えてみるようだ。

 太陽がオレンジ色になり、沈んでいく。昔、高校の先生が“どうして夕焼けが起こるのか”というのを教えてくれた気がする。でも今はどうでもいい。


「終わった? ……どれどれ?」


 そこには四文字しか書いていなかった。

 少女はスカートのポケットにさっきの物を入れて、代わりに長方形の物を取り出した。それを広げた。誰かは唖然としてそれを見ていた。気付く頃には。


「…………くすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくすくす……」






「……み…………つみ……」


「……ん?」


「むつみぃぃぃいぃぃぃぃ!」


「…………っつぅ……」


 一体何なんだ? 何があったんだ?


「へぇ……なかなか粋のあることするねぇ……。まさか、俺を無視するとは……」


「……へ?」


 俺はすぐに時計を見てみた。……二時半くらい。つまり、五時間目の英語の授業だ。そして福田先生のこの怒りようから判断して、どうやら寝てしまったらしい。黒板と自分のノートを見比べても進行度があまりに違う。


「じゃあ陸奥実、一分あげるからこの英文を訳して〜」


「えっ? あぁ、はい」


 俺は黒板に書かれた英文を見てみた。とりあえず問題はない。

 そこへ横槍を投げてくるやつがいた。


「……大丈夫ですか? あれ、私にはさっぱりですよ……」


「真乃にできて俺にできない問題はない。心配無用だ」


 真乃は流石と言わんばかりに息を吹かす。さて、そろそろだ。


「はい陸奥実、どうぞ〜!」


「……“私は誰が何と言おうとも諦める気はありません。”だと思います……」


 ざっとこんな感じだろう。

 ところで、これはどういう状況なんだろう? こんな青臭い台詞のあるセクションではないはず。寝る前の記憶が正しければ、確か社会問題的なセクションだったような。一体どういうことだろう?


「あっ、全くもって正解です。何で出したかというと、特に理由はないです。ただパッと閃いただけですので深く考えないでください」


 ただの例文だったのか。それなら納得がいく。しかし、びっくりした。この例文がまるで自分の心情を移したかのようだったからだ。






 今日は六日。期限まで残り十日くらい。今の段階でさえ何がどうなのかがよくわからない。本当なのか嘘なのか。でも仮に本当だったとして、一体何ができるんだろう? あのふざけた“方法”を実行しろとでも言うのか?


「流さん」


 そんなことできるわけがない。だから別の方法でいかなくてはいけないのだ。じゃあその“別の方法”とは何か?


「おーい、流さーん」


 それが見つかれば苦労はしない。いや、もしかしたら目の前にあるかもしれないし、またはないかもしれない。“方法を実行する”以外は。

 だけど黙って死ぬわけにはいかない。


「なっちゃんどうします? 流さん、完全に殻に籠もっていますよ……」


「じゃあ真乃やんが殻の割れ目に“キス”するふりしたらえぇんとちゃう?」


「えぇっ! ……わっ、わかりました……やってみます……」


 少し頭が痛くなってきた。この後のことは家でじっくり考えてみよう。できることなら美浦さんと連絡を取り合いたい。


「……ん?」


「…………っん……」


 目の前には一面真乃の目を瞑った顔があった。かなり顔が赤くなっていて……何の真似だ? しかもその本人は気づいていない。

 だんだん近くなってくるそれの前に、中指を親指に押さえさせて、デコピンをしてやった。


「ふぎゃっ! なっ何するんですか!」


「それはこっちの台詞だ。それに棗さんも、何でそんなにそわそわしてるんだ?」


「あぁ、いや、その、それはやなぁ……なはははは……」


 苦笑いとともにものすごい形相で睨まれた。真乃には陰になっていて見えなかった。

 学校が終わり家に帰る頃だ。とおちゃんは毎度ながら部活なので、ほぼこれで帰ることが必然的に多かった。少しもの寂しいが仕方ない。


「それで、どうしたんだ? 一体」


「……はぃ?」


「いや、だから何か言いたくて俺に声をかけたんじゃないのか?」


「……!」


 一瞬真乃の顔が歪んだような……。

 真乃は俯いたと思いきや、両手で俺の頬を挟みやがった。しかもかなり強く、痛い。そしてにっこり笑った。


「流さんがあまりにも閉じこもっていたので、イタズラをしたかっただけです」


「なっ……! この悪戯小僧め!」


「あっはははは! じゃあ流さんが怒ってしまったようなので先に逃げさせてもらいます!」


 真乃はお返しされる前にあっという間に逃げ去ってしまった。なんとまぁ逃げ足の早いこと。あまりに一瞬で追いかける暇もない。自然と笑みが零れた。


「……全く、真乃はいつでも元気だな。羨ましいくらいに……」


「あれ? むっちゃんにはそう見えたんか?」


 棗さんが意外そうに驚く。


「え? だって今の見たろう? あの悪ガキぶりを」


「むっちゃんは意外にドンカンやなぁ……。呆れてまうわぁ……」


「おいおい、どういうことだ? 説明してくれ」


「全く。むっちゃんは頭はいいのに、……あぁ! もどかしぃなぁ!」


「だから説明してくれよ! どういうことなんだ!」


「……むっちゃん、……怖い……」


「……あっ……」


 つい苛立って怒鳴ってしまった。棗さんが少し距離を置いているのに気がつかなかった。俺は素直に謝罪した。なぜか棗さんも謝った。

 棗さん曰わく、「ワイが言うてしもうたらあかんのや。意味分かるなぁ? 自分で探さなあかん。見つけなあかんのや」、とのこと。まるで超難問のなぞなぞを出されたかのようだった。

 とりあえずまた、歩き出した。


「しっかし……」


「ん?」


「さっきのむっちゃんはホンマに怖かったで? なんかあったん?」


「……ごめん。考えてたのと被ってしまったようだ」


 自分のミスをそれのせいにするなんてかなり卑怯だった。だが、事実だ。


「何か悩み事あるんなら、相談してぇな。一人で考えるのはよくないで」


「……ありがとう。でも大事だ。そんな大した問題じゃないから……」


 普通のことなら相談したい。でも、棗さんたちを巻き込みたくない。もししてしまったら、嫌でも巻き込まれるのでないかと思っている。だから……。


「……そうなん? ワイには“助けてほしい”言うてる風に見えるんけど……」


「……!」


「……教えてぇな。むっちゃんの悩み事。ワイでよかったら……」


 棗さんが俺の手を軽く握る。手に伝わる温もりは穢れのない純真な想いを馳せている。俺はきっと、心のどこかにこれを欲していたのだろうか。どんどん満たされていき、ついには溢れてきた。


「……あぁ。わかった。でも、もう少し待っててくれ。気持ちが落ち着いたら相談させてくれ……」


「うん! 当然やないかぃ! いきなりは急やしなぁ。でも、絶対にワイとかみんなにするんやで!」


 奥の方で赤らめる空は、次第に全体を一色に染め上げ、やがてまた塗り替えられるだろう。正直、それを見る回数を重ねていくにつれ、怖くなっていた。だが、今はそう思わない。そして最後の日、みんなとはしゃぎ回れる日々が繰り返されていく光景が脳裏にまざまざとあった。残りはそんなに永くはない。でも余裕だ。みんながいれば。


「……それじゃあワイはここでな」


「あぁ。じゃあな」


「さいならぁ!」


 一人の女の子は元気に走り去っていった。






「……は、なんかいい感じ……」


「? どうしたんです?」


「あぁ、えっと、すまんなぁ! 待たせてしもぅてってな!」


「いえ、私の方こそ申し訳ありません。わざわざこんな夜遅くまで付き合わせてもらって……」


「えぇって! なんてったって、真乃やんの為やしなぁ」


「……これで、用意はできました。あとは成り行きまかせでいきますから……」


「しかし、真乃やんこそえぇの……? むっちゃんの為にそこまでするんかぃ?」


「はい……。流さんは私のせいで何かと迷惑をかけてきました。そのお詫びと私の想いを……伝えますよ」


「……そうか。それならワイは止めん。でも、やり方は間違えちゃあかんで?」


「はい。そこらへんは練習してますので……」


「……あと一週間くらいやけど、焦らずガンバりぃ!」


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