十二戒目「相思」
「なぁ、むっちゃん」
「なんだ? 棗さん」
それは図書館での出来事だった。葬式から二日後の今日、たまたま棗さんが読みたい本があるということで同行してきたのだが……。しかもなぜか二人っきりで。
棗さんは相変わらず紫色のリボンの麦藁帽子をかぶっている。
「プール行かへん?」
「…………はい?」
「うりゃあぁぁぁぁぁ!」
水が重い物に叩き付けられるような鈍い響き。それによって飛び散る粒たち。
「うわぁー!」
それにはしゃぐ女の子。
そう。来てしまったのだ。
「流さん! はやくはやく〜!」
「ちょっと待ってろ! ……ったく」
プールに来てしまったのだ。
夏休み終了までもう一週間を切ってしまった。そしてそれはすなわち……、いや、今日はそれは止めよう。せっかくみんなが楽しんでいるのだから、俺も楽しまなくては。
この某プールは室外だ。いくつかのゾーンがあり、例えば自動で流れるプールや、ウォータースライダーなどポピュラーなものがある。何よりも広い。この中でサッカーが四つできるかと思うくらい広いのだ。
そして俺らは、その馬鹿でかいプールのど真ん中に拠点を置いていた。一辺三メートルの正方形で、組み立て式テーブルとパラソルを立てて。
「むっちゃん、行ってあげたらどうや? 手ぇ繋いでラブラブぅ〜! って」
「棗さん、プールに誘ってくれたのは正直に嬉しい。だが、冷やかしだけは止めてくれ。俺と真乃は普通の友人関係だ」
「じゃあ、友達以上恋人未満……あぃた!」
全く、棗さんも見た目とは裏腹にすごいこと言うな。正直ちょっと嬉しいが、絶対に口には出さない。
八月二十三日。昨日の今日でやってきてしまった。でもそれはそれでいい。プールは久しぶりだし、いい気分転換になるだろうから。
でもそれにしても……。
「棗さん、本当に高校生? 大人に見えるんだが……」
「ん? あぁ、それは仕方ないねん。でもこれなら大事やろ?」
そう言って麦藁帽子を頭に乗せた。余計に見える……。
女の子って水着がどうのこうのとはよく聞くが、棗さんには無関係のようだ。ごく普通の青一色の水着なのに、変にちゃらついている女の子より魅力的に見える。
「もしかして、年上好みなん?」
「……ご想像にお任せします」
そして真乃も真乃だ。空色の水玉模様が純粋なイメージを醸し出すものとなっている。綺麗なというより可愛いを目立たせている点が何気にいい。雰囲気もバッチリだ。
ちなみに棗さんのも含め、これらはとおちゃんの採点だ。そういうのを耳にたこできるくらい教え込まれた。さすがは“ミスター・サマー”。というか、とおちゃんは異名を持ちすぎだ。
「とりあえず、少し休みたい……」
「全く、ひ弱やなぁ! 何もしとらんやんけ! 見てみぃ! あの二人の生き様を!」
「……え?」
二人はいつの間にか“流れるゾーン”に入って……流れに逆らって泳いでいる! 確かあれはかなり強いと聞いたのだが……。
「もうヤングマンパワー炸裂や!」
「いや、あれはただの迷惑じゃないのか?」
その後、二人は係員さんに厳重注意を受けたのは言うまでもない。それはそうだ。
案の定二人は悪態をつきながら戻ってきた。
「全く! 流れに逆って何が悪いんだ!」
「そうですよ!」
「その前に、周りの人たちのことをまず考えろ」
病院でもそうだったが、なんでこいつらは極端にマナーが悪いんだ?
そしてやっと四人してテーブルに座ったのだった。直後、俺は急いで席を立つ。
「……悪い。ちょっと行ってくる」
「? どこへですか?」
「……トイレだよ」
すると真乃は財布をバッグから取り出し、いくらかを俺に渡した。予想はついている。このタイミングでトイレはまずかった。
「じゃあ帰りがけにジュース買ってきてください」
「あっ、俺コーラ!」
「ワイ、お茶系で!」
「……お前ら……、覚えておけよ……!」
次から次へと代金を受け取ってトイレへ向かった。
「まぁ、むっちゃんはロクに遊んどらんから、ちょうどええやろ〜!」
「もしかして、カナヅチかもな!」
アハハハハハハハハ!
結構離れたところで、あいつらの笑い声がこちらまで聞こえてきた。なんかムカついてきた。これではパシリだ。
それが相乗したのか、太陽が俺の肌を余計に痛み付ける。どんどん暑くなって汗が滴り落ちるのもしばしばあった。そしてそれに慣れてきた時に、見えてきた。やっと着いた。
「意外とかかった」
予想では数分のところが二、三倍かかった。だが、真乃たちからはそんなに遠くはなさそうだ。
俺はトイレに入り、そして終えた。
「さて、買うか」
公共トイレの隣に店と自販機が設けられている。その店のカウンターに行くと、上にメニューが張り付けられていた。筆で書いたような字をしている。
「……高い。高すぎる」
こういうプールの店や行事ごとの出店は普通の価格の二倍近くかかる。俺はどうしてもそれに納得いかなかった。というわけでスルーして奥の自販機へ向かった。
しかし途中で、ソフトクリームを作っていた女の従業員と目が合い、笑顔を振られる。その笑顔は悪意のない無垢なものだった。
「全く、こんなに大きいオレンジジュースは初めてですよ」
「お茶もや」
「コーラもだ」
「ごめんなさい」
結局あの笑顔に負けてしまい、買ってしまった。つくづく笑顔に弱い俺だった。
昼食を済ませた頃、太陽がピークに達した。それのせいか、陽炎のような景色のゆがみが見える。いつ熱射病にかかってもおかしくない。これにはさすがに応えた。
「……暑い……です……」
「どうした……? あのはしゃぎは衰えたのか?」
「プールが熱湯じゃ誰も入りたがらないぜ……」
「大丈夫、それは幻覚だ。そう簡単に熱くはならない」
しかし、それを言っている側からプールに異変が起きていた。係員の人たちが台車で何かを放り込んでいる。あれは……氷か?
しかもそれは五分経たずに消えていった。これには口が開いて塞がらない。
「どう考えてもおかしいだろう……。まさかもともと熱いわけではないし……」
まぁ、それでもプールに入る客たちもいるから大丈夫なのだろうが。そして、あの二人は懲りずにまた“あれ”を敢行している。
「今がチャンスです!」
「おぅよ! 人がいない間に一周はしてやるぜぇ!」
意外に目標が小さかった。
それにしても俺が入らないのももったいない。午前中は一回も入っていない。みんなが楽しんでいるのだから俺も楽しまなくては。
そう思い、立ち上がろうとした瞬間、左手に何かが引っかかった。そっちを見てみると、手が引っかかっていた。
「むっちゃん、ちょい話があるねん」
「……?」
その紫色のリボンをした麦藁帽子が印象的だった。いや、そうではない。それをかぶった棗さんが印象的だったのだ。
心臓が大きく呼吸した。
「……な、なんだよ棗さん……?」
「…………」
しかし、なかなか言い出してくれない。横をキョロキョロしたり、俺をちらちら見たり。それがどういう意味なのかは捉えられなかったが、言いにくいのは確かだ。
棗さんは手を強く握った。痛い。
「またで悪いんやけど、明日もつきおぅてくれへんか?」
「……え?」
棗さんが俺のその手を使って立ち上がった。棗さんの手はすごい細く、白かった。
「明日、二時半に図書館に集合やぁ! ……無理?」
「…………」
昨日もそうだが、棗さんは最近俺とよく絡んでくる。別にいやではなく、むしろ嬉しい。だが、どこか変なような気がしてならないのも事実だ。もしかして……、いや、それはないだろう。ないに決まっている。
だが、頭がどうこう考えても断る理由は見当たらない。俺はほんのちょっと考えて承諾した。
「ホンマかいな! おおきにおおきに!」
「あぁ。でも、どうして俺なんだ? とおちゃんや真乃、それに他の友達だっているじゃないか?」
「……」
「……あっ……」
それを言い放った途端に、俯いてしまった。……俺の馬鹿。そんなことを聞かなくても理解できるだろう。頭より体が先に動いてしまった。
「棗さん、ごめ……」
「むっちゃん」
「……!」
ふわふわと揺らぐかぶりものが日差しを遮る。丁度顔が日陰に隠れた。その陰から棗さんの……目が、俺を真っ直ぐ見ていた。今にも猫のように光りそうだ。目を逸らす、顔を逸らすことを断じて許さないという意思表示が込められている。
「……」
「…………」
何も言えなかった。無表情さに……いや、その瞳に圧倒され、言い出そうとしても出てくれない。だが、空気は不思議と重苦しくなかった。
数十秒してから棗さんは微笑んだ。
「……明日の二時半からやで! 忘れんときぃ!」
「…………」
そう言い残すと真乃たちのいる“流れるゾーン”に走っていった。麦藁帽子を元気に揺らしながら。俺はついて行けず、呆然と見送ることしかできなかった。
太陽の下、雲がゆったり流れるその下、振り向き様に優しく笑う女の子の光景は一枚の絵のようだった。
「美浦せんぱ〜い! 今日はどんなお弁当ですか〜!」
「はいはい。わかったからあんまり抱きつかないの」
私が作ってきた特製弁当を要求してくる後輩。そのネコみたいな動作が愛くるしい。というかネコだった。
あれからというもの、彼と直に会うことが極端に減ってしまった。唯一対等に話し合える存在だからできるだけ会いたかった。しかし、仕事の関係上うまくいかないのはわかっている。その代わりがこの後輩だった。
「ん〜! 今日も美味しいですねぇ。私にも教えてほしいですよ!」
「フフッ、暇があればね」
病院にある公園のあるベンチに座っている看護士二人。私にとってこの時間帯が羽を伸ばせる時間だった。端から見れば仲のいい友達だろう。
そんな時に何かが振動するような感じがした。
「先輩、メール着てますよ」
「……やっと着たわね」
「もしかして、カレシですか!」
さらにはしゃぐ後輩をなんとか捌く。調子に乗ってどんどん話を飛躍させるこの後輩、楠波の手強いところだ。
「違うわよ。ただの友達よ」
「そうなんですか……。でもすごいですよね。患者さんと友達になるなんて」
「……ただ趣味に関して意気投合しただけよ」
そう。趣味に関して……。
私はポケットから携帯を取り出して、開いた。あとは適当な操作でメールを確認する。
「……そう」
「……どうしたんですか? 愛の告白でも?」
携帯を閉じて再び弁当に箸をのばした。
「……フられちゃったわ」




