十一戒目「水面」
サァアァァァアァァァァ…………
雨。
サアァァァアァアァァ…………
雨。雨が降っている。
サァアァアァァァ……
ネズミ色がバラつく曇天から無限に雫が垂れてくる。見上げると、雫がたくさん頬や眼に当たって落ちていく。それが変に冷えていた。
「……ふぅ」
八月二十日、何時かはよくわからない。多分、退院したのが八時過ぎくらいだったから、二時くらいだろうか。
そして、今いるところは……。
「……ぅ、ぅうぅっ……、っ」
「泣くなよ。父さんはそれを望んでないぞ」
「そうよ。お父さんを最期まで見送るのよ……」
とても見たことのある建物の前だ。
まるで聖堂のような入り口の脇に変な銅像が見下ろす。そこに装飾された車がやってきた。木で拵えた大きな箱が家族の手によって出される。そしてそのまま中へと入っていった。
「……陸奥実……」
大きな手が肩を叩く。こんな手は一人しか思い当たらなかった。
「とおちゃん……」
「まぁ……仕方ないよな。笑顔でってのも無理がある」
「……まさかあの殺人事件の被害者が……」
その事実に気づいたのはこれが始まるずっと前、しかも遺族の口からだった。
「……すみません。どう言ったご用件でしょうか?」
「…………」
俺と同年代くらいの女の子とかなり年の離れた兄らしい青年、彼らの母親と思われる人が玄関に佇んでいる。それは俺が退院して我が家に着いて何十分か後だった。
彼らは全員して俯いていた。
「とりあえず立ち話も何ですから、お上がり下さい」
彼らは靴を並べて上がっていった。
居間に着いて、椅子に腰掛けるように促す。そして冷蔵庫から出した飲み物とコップ四つを持っていった。それらに注いでいく。
クーラーはとりあえず付けた。
「……どうぞ」
「ありがとうございます……」
長方形のテーブルに三人と一人が向かい合う。しかし、言葉が見つからない。少し静寂が続いた。ひんやりする風がクーラーを通じて送られる。その機械的な音だけが時間を感じさせてくれる。
それに拍車をかけるように青年が口を開いた。
「……父を、知っていますか?」
「……えっ?」
「……父です。……知りませんか?」
いきなり言われてもわかるはずがない。いや、そもそも彼らとも面識が全くないのだ。なぜ俺は家に上がらせたのだろう?
だが俺に用があるのは確実だ。そしてここで嘘をついても意味がないのも確実だ。
「すみません……。ご存知ありません……」
「……ふざけるな! あんたのせいで殺されたんだ!」
「? 言っている意味がよくわからないのですが……」
テーブルを思いっきり叩く。コップがテーブルの上で揺れ、音を奏でた。
しかし、なんでそんなに怒られなければならないんだ? しかも人を殺した覚えなど……。
いや、そういう関連ならば一つ思い当たる節があるかもしれない。父親……、殺された……。俺と関係がある……。
「失礼ですが、あなた方は岡本先生のご家族ですか?」
「当たり前だ! ふざけるのもいい加減に……」
「落ち着きなさい、和美! 陸奥実さんは何の関係はないでしょう!」
母親は和美と呼ばれた青年を座らせた。女の子も一緒に手伝う。
しかし、いや、でも……。
「ごめんなさい……。兄は短気なものだから……」
「いえ、気にしないでください。それより、詳しく教えてくれませんか?」
「……わかりました」
女の子、早夜さんはこう告げてくれた。
事件のあったその日、先生は生徒から連絡を受けていたようで、俺をお見舞いしようとしたらしい。でもその時間帯には既に退院している。そしてあの時間に、死亡。それはあの日に読んだ新聞の通りだった。
しかも、新聞に書いてあった“刺殺”は生易しく、実際はめった刺しに近い状態らしい。
肉の隙間から本来見えるはずのないモノが飛び出し、でもなぜか頭だけは綺麗に残してある。……それを想像するだけで吐き気がしてくる。
「……なるほど。つまり和美さんは俺が午前中に退院せず、岡本先生と会っていれば、死なずに済んだということですか?」
「…………」
和美さんはコップの中のやつを一気飲みして俯いた。しかし、それだけだ。何も言わないということは、肯定の意味であると捉えられる。
なぜだ? なぜ俺に文句をつける? 俺は普通の事をしただけだ。
そう反論しかけた時に、誰かが呟いた。それは岡本先生の妻だった。
「陸奥実さん、もういいんです。夫が亡くなったのはどうしたって変わらないんですから……」
そのどうしようもない言葉に、わかだまりが完全に消滅した。
それに……、いや、それはいいとして。俺は大切な事を思い出した。
「お葬式はもしかして今日ですか……?」
岡本先生は俺のせいで死んだ。
そんな強引な八つ当たりが未だに心に染み着いていた。俺は知っている。大切なものを失う苦しみを。まるで今まで積み上げた積み木を見知らぬやつに壊されるような……。
「……つ、……つみ、陸奥実?」
「ん、あぁ、何?」
「中に入ろうぜ。みんな行っちまったからよ」
周りを見渡せば、いつの間にか残っているのは俺ととおちゃんだけだった。ずっとここにいたせいか、喪服代わりの制服は青から黒へと染まっていた。
「……ごめん、気持ち悪いから先に入ってて。」
「……わかった。無理するなよ……」
とおちゃんはびしょびしょのまま中へ入っていった。濡れた靴が鳴らすくぐもった音は雨でかき消されていく。
本当のところは本当だった。あの時の記憶が呼び水となって思い出されたせいだ。俺の場合、これで三回目だから。
コップに入った濁りを沈澱させるためには、落ち着きが必要だった。俺は少し離れたベンチに座る。髪は風呂に入ったように濡れ、次から次へと垂れていく。体は濡れすぎて、まるで服を着たままプールに入ったようだ。重い。
「……ふぅ」
雨は容赦なく続いている。丸一日止みそうにないほどだ。でも冷えるためには必要だった。退院したばかりだけど大丈夫だろう。背もたれに寄りかかり、頭を垂らす。見えるのは点を中心に広がっていく輪っかのみ。
「…………」
気持ちいい……。髪から伝う水はおでこから顎まで渡り、落ちる。あるいはそのまま首を通り過ぎていく。Yシャツが体に張り付いている感じがする。
しばらくして、いきなり地面がさらに暗くなった。それと同時に体中に降り注ぐ雫の衝撃も減り、地面に広がる輪っかたちがなくなった。
おそるおそる見上げてみる。
「陸奥実君……」
疲れたせいだろうか。目の前が少しぼやけてみえる。
「? お前は……」
「忘れてしまいましたか? 新戸ですよ」
にいど……?
そいつは俺の横に座る。俺は頭の中を無理せず緩やかに検索していった。
……思い出した。
「なんでお前がここにいる? 早く中に入ってこいよ」
「酷いですね……。あなたはなぜそこまで嫌うのですか?」
「別に嫌いじゃない。ただうっとおしいだけだ」
新戸 瑠璃人。いつぞやの人の弟だ。一応クラスメートで、やけに俺に突っかかってくるやつ。成績でいつも俺を超えようとしている冷血人間だ。
瑠璃人は黒い傘を差している。
「でも、そういうところも嫌いじゃないですよ……」
「黙れ。お前は男に興味があるのか……?」
「そうかもしれないです」
即答するな。余計に気持ち悪くなる。しかもそっち方面にいったら、R指定に入る。
「とりあえず、これあげますよ」
「?」
手渡されたものは、温かい缶だった。今日は夏に似合わず、異常に涼しい日なのでありがたい。でも……。
「俺はコーヒーは好きじゃない」
「あれ? そうなのですか? じゃあこっちにしますか?」
それは既に開けられたジュースだった。
俺は丁重にお断りし、我慢してコーヒーを飲むことにする。苦い。
「そういえば、なんでここにいるのですか? 風邪引きますよ」
「……別に。特に理由はない……」
「もしかして、今回の件と過去を被らせているのですか?」
「……!」
だから厭なんだ。この、メスで腫瘍を抉り出すような鋭さ。俺の過去を知っているから言えることだ。本人はどう思っているのかわかりたくもないが、多分ブラックジョークのつもりで言ったのだろう。
しかしある意味、俺の気持ちを理解してくれるうちの一人とも言い換えれる。ただし、プラス面では働かないが。
「仕方ないですよ。あれはあなたのせいではないですし」
「……たまには気が利くことを言うんだな」
「でも僕は、あなたの堕ちていく姿も見てみたいです」
「前言撤回」
缶コーヒーが夏に似合わず、程よい暖かさをくれた。
「瑠璃人」
「うわぁ! いきなり言わないでくださいよ……」
ふとして、しばらく続いた沈黙をいきなり破った。多少悪いと思っている。
「なぜ岡本先生が殺されたと思う?」
そう。気になった。岡本先生は俺に会おうとした時に殺されてしまった。ということは、犯人は何かしらの動機があったはずだ。
「陸奥実君、簡単ですよ。あんな猟奇的なものは快楽殺人しかあり得ません」
「やはりそうだろうな……」
でも、おかしい。もし、殺すだけなら腹を切り裂いた後に心臓をやればいいだけだ。だが、遺族の方からの話ではそんなことはされていない。首の下から下腹部までをめった刺しだ。つまり、わざわざリスクの高い方法で……している。
「しかし、すごいでしょうね。こんなことを路上でやるのは……」
「まともな人間じゃないだろうな。お前みたいなやつかもな」
「僕はあなたの堕ちていく様などにしか興味はありません」
「……それはそれで、まともではないな」
多少無理やりだが、それを久し振りの“手紙”のせいだとしよう。そうすると、“回避方法”のうちにこれをやれというのがあったということだ。つまり、最低でも“猟奇的な殺人をしろ”という指示があったということ。
……イカレている。こんなことを実行するなど頭がおかしいとしか考えられない。第一、他の“回避方法”があるというのにこれを選んだということは、もっと酷いやつも……?
「果たして犯人は見つかるのでしょうかね」
「おそらく見つかる。また同じ手口をするだろうから……、ん?」
瑠璃人はいきなり傘を俺らの前に置いた。真っ黒の傘がまるで俺らを見られないように。そして傘を持つ反対の手で俺の顔をたぐり寄せる。
「何するんだよ!」
瑠璃人は意外そうな表情を見せるが、俺は正当な質問をしただけだ。
目の前には眼鏡をかけた気障な顔があった。それを手でどけて抵抗する。でもぐんぐん寄ってくる。こいつ、本当にそっち系か!
「止めろって! お前、……かよ!」
「いいじゃないですか! 髪触りたいんですよ!」
「だったら手だけにしろ! なんで顔も一緒なんだ!」
一体こいつは何なんだ? いきなり急接近するかと思えば、逆ギレしてくる。そもそも、俺に何の用があったんだ?
数分間の抗争の後、結局負けてしまい、髪をイジられることになった。でも危なかった。あとちょっとで放送禁止になるところだった。
「……意外にいい髪じゃないですか」
「……瑠璃人、お前とはここまでの仲じゃなかったはずだ。はっきり言って少し馴れ馴れしい」
「あまり気にしないでください。でも何気に嬉しいんじゃないんですか?」
「……うるさい」
一応俺は冷静沈着なクールな男子のはずなんだが、最近はそれが崩れている気がする。そして、こいつは俺より冷血男のような気がするのだが……。
「陸奥実君、これからは宜しくお願いします。僕は外面と内面は大きく違うから、普通に話しかけてくれば、普通に接しますから」
「……まぁ、宜しく……」
なんだかんだで作業は終了。しかも、お葬式の方も一応終わったらしく、いろんな人たちが出てきた。結局、外で見送る形になってしまった。
雨はタイミングよく薄くなっていき、やがて消えた。
「じゃあ、これで。虹にぃが待ってますので」
「あぁ、虹さんに宜しく伝えてくれ」
「あ、はい。伝えます。それじゃ、さよなら」
「!」
一瞬、何かとダブって見えた。
雲から光が射し込む中、瑠璃人は走っていってしまった。あの真っ黒の傘を忘れて。




