十三戒目「予想」
「……ふぅ」
暑い。暑い。暑い。
二十四日、十時三分の今、ひどく蒸し暑かった。気温は異例の三十九度。もうどうしようもないほどの暑さだ。
それを嘲笑うかのようなセミ。彼らの大合唱は最早サイレンと化している。途絶えることのないそれは耳に残る。
太陽は自分の姿をさらけ出し、せっせと仕事に励んでいた。頼む。有給休暇あげるから休んでくれ。
そして俺はというと、
「……56/9……合ってる」
勉強していた。
こんな暑さの中、勉強する俺も俺だが仕方なかった。宿題が終わっていないのだから。
あの手紙が実はデタラメの場合も考えないと、後でかなり困る。まぁ、十中八九は本当だろう。
「あぁ……暇だ」
だが、ずっと集中して取り組めるわけがない。暑さは集中力を確実に削っていた。それに、気になってしょうがないものもある。
俺は予め用意していたコップに清涼飲料水を注ぎ込む。それの周りについている水滴が机を滴らせる。軽く拭き取ると焦げ茶に染みていた。
そして一気に半分くらいまで流し込む。俺の胃が瞬間的に冷たさを感知してくれる。ちょっとホッとした。
「…………勉強止めるか」
完全にノックアウトされてしまった。もう無理だ。限界だ。
手元にあるリモコンを壁に向けてボタンを押す。するとすぐに、機械的な涼風が部屋中に流れた。そう。俺は欲望に負けてしまったのだ。
この生活を全てやりくりしている俺にとってクーラーは大敵だ。電気を大量に使ってしまうし、体がおかしくなる。だが、これに助けれているのも否定できない事実。
「……十時半丁度。お昼は適当に作るとして、生命線の水が無くなるのはまずい。……行くか」
十分にクーラーを堪能してから消し、着替える。財布と携帯を忘れずに持つ。窓を全て閉め鍵をかける。
汗は出なかった。クーラーの余韻が尾を引いているからである。やはり文明の利器だと思い知った。
そして全てチェックした後、外に出て鍵をかける。
「……よし」
このマンションのセキュリティーは半端なくすごい。設立されてから一回も空き巣にやられていないというのだから。
俺は階段を軽快に降りてから、ある場所へ向かった。そこはこのマンションの隣の自転車屋さんである。
「すみませーん。自転車貸してほしいんですけど……」
「あぁ、陸奥実さんかぃ? お久しぶりだねぇ……」
「はい。最近は歩いて行くことが多いものですから……」
ここに住んでいるおじいさん、田無 源重郎さんはちょっとした知り合いだ。近所からは通称、“源さん”と呼ばれている。源さんはこの道なんと五十年という大ベテランなのだ。
源さんはパイプ椅子に座って自転車を視ていた。
「まぁ、好きに借りてえぇよ。わしに伝えてさえくれればな」
「ありがとうございます」
この自転車屋は車庫を大改造してできている。蛍光灯で淡白に染まる空間の脇にチェーンやらタイヤやらが無造作に置かれていた。
俺はその中のうちの一つを拝借することに。それはいわゆるママチャリだった。
「ところで陸奥実さん、“逢い”に行ったんか?」
「…………」
自転車のペダルを慎重に回しながら言った。
「そろそろなんじゃろう? 行ってあげなさい。余裕ができたら」
「源さんはお見通し……ですか」
「わしだって無駄に生きとるわけじゃないわぃ。同じ男として少しは理解できとるつもりじゃ」
俺は自転車を押して外まで出ていく。背後が少し寂しい感じがしたが振り切っていく。
最後に振り返る。
「それまで生きているかわかりませんよ」
「……ふぅ。着いた」
さすがは自転車。いつもなら二十分はかかるのに、その半分以下で来れてしまった。
ちゃんと定められた場所に置いてロックする。そこは入り口のすぐ脇だった。鍵を財布の中に入れ、いざ出陣する。
歩いていき、自動ドアが俺を判別し道を空ける。中から冷えた空気が出てきた。
「さて、飲み物を漁りますか」
買い物カゴを腕にぶら下げ、すぐに飲み物のコーナーに向かう。やはりこの時間帯だからだろうか、子連れの主婦が多く見えた。でも、その光景の中で見覚えのあるのを見つけた。
「あれ?」
白のワンピース姿の女の子がこちらに手を振る。どうやら気付いたようだ。彼女は足早に寄ってくる。
「あっ、むっちゃんやん!」
やはり棗さんだった。しかも母親も一緒だ。
棗さんの母親は相当似ていた。棗さんをそのまま大人にしたようである。正直姉妹かと思うくらい。その人と軽く会釈した。
相変わらず棗さんは麦藁帽子をかぶっている。
「なんやぁ、むっちゃんも買いもんかぃな」
「えっ、まぁ、そんな大それたものじゃないけど……」
「これなら、遊びいく手間省けたでぇ」
「……?」
どういう意味だ? 手間が省けるって……。俺と遊ぶ事が目的ではないのか?
「こら、ナツ。遊びに行くならちゃんとした時間に行きなさい。陸奥実君に失礼ですよ」
「むぅ〜! わかった。そぅする……」
本当に親子ですか? 友達感覚なんですけど……。
その後もちょっとした小話が続く。やっていくうちになぜかエスカレートし、言い争いになっていた。人前は恥ずかしいから……。
俺はあまり気を使わせないように一言言って立ち去ろうとした。正直、今の俺には堪えかねる出来事だった。
しかし、それにまた気付いたようで、また手を掴まれてしまった。
「椿ネェ、ちょっと時間もらうわ」
「えっ? あぁ、ゆっくりしなさいな」
「? 親子じゃないのか?」
「なんだ、そういうことか。俺はてっきり親子で買い物してるとばかり思ってたよ」
「んふふ〜! 椿ネェとワイ、ちょっと似てるやろぉ?」
「ちょっとどころじゃない……」
本当の姉妹ということにびっくりだが、仲良く買い物してるのにもちょっとびっくりだった。
漸く俺の目的である飲み物コーナーに辿り着けた。店内はそう広くはないが、密集していてわかりづらい。そこが唯一の欠点だ。
「そういえば、何を買うてくるつもりだったんや?」
「あぁ、飲み物だよ。とうとう切らしたようで……」
「そうなんや……。そぅや!」
棗さんは何かを閃くと、バッグからなぜか紙と鉛筆を取り出した。一体何をしようとしているんだ?
「今からちょっとゲームせんか?」
「え? 別にいいけど……」
なぜやるのか聞きたかったが、止めておく。棗さんが自分からするのは珍しいし、何よりそのゲームとやらに興味を持ったからだった。
そのゲームとは至って簡単。これから俺が買おうとするものを当てるというものだ。ただし、飲み物限定である。
「もし、ワイが勝ったら奢ってくれなぁ?」
そして負けたらこちらが奢ってもらえるというわけだ。もちろん受けて立ってやる。しかし、そのまま見過ごす俺ではない。このままではこちらの不利なのだ。
「……いいだろう。ただし二つ条件を付け足させてくれ」
「? なんや?」
「一つは書くものは商品名であること。もちろん、“むっちゃんが選んだ飲み物”はなし。もう一つは、棗さんが先に書くこと。つまり、棗さんが書いてから俺が選ぶということだ。それを呑んでくれるならやるよ」
こうしておけば、姑息な手は使えまい。
棗さんは渋々承諾してくれた。そのようだとどちらか、あるいは両方やろうとしていたようだ。
「じゃあ二分後に選ぶからその間に書いてくれ。俺は後ろ向いてるから」
俺は飲み物がずらっと並べられている方に向いた。その背後に棗さんが唸っている。おそらく考えているのだろう。
そして時間はあっという間に過ぎた。
「よし、じゃあ書いた紙を隠してくれ。……ゲームスタートだ」
さて早速、何にすれば当たりづらいだろうか。おそらく棗さんは俺が手にしそうな物を予測しているだろう。ならば、逆に絶対に選ばなそうなやつにすれば、当たらないということ……。
俺は一番苦手なコーヒーに手を伸ばす。しかし、冷静に考えてみると、自分の考えが甘いかもしれない。選ばなさそうなやつを予測しているかもしれないからだ。そう思い、別の炭酸飲料に手を伸ばす。
しかし、やはりそこでも手が止まった。
「……ちょっと待て……」
目の前や周り、棗さんのことをよく考えよう。……やはり少しおかしい気がする。例えば、一口にコーヒーと言っても種類は様々。ちなみに三種類くらいある。他のお茶やスポーツドリンクとかだっていろいろある。そして棗さんは“予測する”という。つまり、何が言いたいかというと、この勝負は俺に圧倒的に有利なのだ。
「むっちゃん、早よ選んどきぃな!」
「……ちょっと待って。考え中だから」
飲み物一つ買うだけでこんなに悩む人はまず、いないだろう。
話を戻して。
こんなに分が悪いのに、なぜ棗さんは勝負したのか? 何か確定付けれるものでもあるのだろうか? それとも、俺が強制的に選ぶように仕組んでいるのだろうか? いや、最低それはないだろう。
「んもぅ、早よしてくれやぁ〜!」
「わかったわかった。……じゃあこれにするよ」
結局棗さんに急かされるままに適当に選んでしまった。手に持ったのは某メーカーの牛乳だった。イニシャルでO牛乳とでもしよう。これはこれで結果オーライだろう。
「じゃあ棗さん、書いた紙を見せてもらおうか」
「えぇよ。ほな」
あっさりと突き出された一枚の切れ端。裏返しになっている。一応透けて見えるがよくわからない。それを受け取った。
「…………」
「どぅや?」
これがもし運で当てたなら、棗さんは相当な強運の持ち主である。いや、運のわけがない。棗さんは自分で勝負を持ちかけたのだから。頭では冷静にこれらの事を分析できているが、体がリンクしていなかった。コンクリートで固められるように紙を持ったまま動かない。いや、動けない。
[コーヒー系や炭酸を選ぼうとするが、O牛乳を選ぶ。]
しかも俺が選んだやつどころか、その前の行動まで……。
「んっふっふぅ〜! ワイの勝ちやなぁ〜!」
「…………」
その澄み切った関西弁がずっと俺の頭の中を木霊した。
「じゃあなぁ! むっちゃん!」
「あぁ、またな……」
結局、午後の約束は破棄になった。どうも用事が済んだとかどうとか。まぁ、それならよかった。
俺は望みの品を買い、出口で棗さんたちと別れた。今思えば、棗さんの姉の椿さんは関西弁ではなかった。
「……帰るか」
自転車の鍵を外し、サドルに座る。そしてペダルをこいでいく。それが不思議と軽く、スピードが出てくる。そして周りが穏やかに流れていく。
信じられなかった。まさか本当に奢ることになろうとは夢にも思わなかった。
だが、よく考えてみよう。
数十種類もあるうちの一つを見事に当てる。これは意外にも不思議ではない。確率的にも百パーセント当てられないわけではないし、何かのトリックを使えば不可能ではない。ということは、棗さんはマジシャンなのか?
「でも……」
ハンドルを右に曲げ、それに伴って重心を少しずらす。自転車は前輪に従いながら、必死に回る。何の不安もなくカーブをクリアする。
でも、あの後の台詞が気になって仕方がなかった。
ワイはわかるんや……。何となくやけどな!
どういうことだ? 俺の行動が手に取るようにわかるのか、それとも……。いや、しかし……。
散々迷ったあげく、マジシャンということになった。それはそうだ。本当の預言などあるわけないのだから。
自転車のペダルを立ってこぎまくった。ペダルをこぐ音が空気を伝わっていく。
「……ふぅ! やっと着いたでぇ!」
「ホント、疲れましたよ……」
「それより椿ネェ、やっぱり標準語、似合わへんよぉ!」
「……え? そうですか?」
「当たり前やぁ! なんでデスマス口調になるんかがイマイチわからへんし……」
「……やっぱりそう思う?」
「表はえぇけど、ウチん中の時は普通にしてぇなぁ!」
「……わかった、わかった。二人ん時は普通に喋ったる」
「……やっぱり椿ネェはそれでないとアカンなぁ!」
「あれでも苦労したんねん……。……そういえば、ナツは素で学校とかに行ってんのかぁ?」
「そうやけど……。なんか問題あるん?」
「……ありまくりやで?」
「なんでや! ワイのどこに問題あるねん!」
「ナツは見た目、美少女やで? そんな美少女が関西弁喋ってみぃ! ナツのこと好きな男子がちょっと落胆してしまうがな!」
「別にえぇよ! ワイは好きな人おらへんし……」
「あら? ナツ、あの陸奥実君のこと好きや……」
ゴン!




