第五話 売らない山
真壁修司シリーズ。
山中で発見された、一人の男の遺体。
周辺では熊の目撃が相次いでおり、当初は熊による被害と思われた。
しかし、遺体に残された傷には、わずかな違和感があった。
熊、錆びた鉄、八百万円の借金、そして山の中に引かれた一本の線。
刑事・真壁修司が追うのは、まだ存在しない「道」を巡る事件。
なお本人は、事件と同じくらいコーヒー豆の配合にも悩んでいる。
大森耕作が所有する山林について調べ始めると、最初に分かったのは、杉浦隆一が欲しがっていた土地そのものには、それほど大きな価値がなさそうだということだった。
「山林ですね」
三浦が資料を机に置いた。
「見れば分かる」
「ほとんど斜面です」
「それも見れば分かる」
「じゃあ俺、何を報告すればいいんです?」
「調べたことを報告しろ」
三浦は少しむっとした顔で椅子に座った。
「少なくとも、あそこだけ買って何か建てるのは難しそうです。接道もろくにない。形も細長い。地目も山林」
「値段は」
「山林としてなら、それほど高くないみたいです」
「八百万と釣り合うか?」
「単純に土地の値段だけなら、かなり微妙ですね」
「だろうな」
真壁は地図を広げた。
大森の農場。
その背後に広がる山林。
杉浦がメモしていたのは、その一部分だけ。
細長い。
何度見ても妙だった。
「杉浦は、この土地を担保に取ろうとしてたんでしょうか」
「それなら普通は、もう少し価値のあるところを選ばないか」
「ですよね」
「農場そのものなら分かる」
三浦が顔を上げる。
「八百万の代わりに農場を?」
「例えばの話だ」
「でも欲しがったのは山」
「しかも全部じゃない」
二人は黙って地図を見た。
真壁が言った。
「もう一度、大森に話を聞く」
*
前回訪ねたときより、空が暗かった。
朝から雲が低い。
山へ近づくにつれ、フロントガラスに細かな雨粒が当たり始めた。
「降ってきましたね」
「ああ」
「傘、持ってきました?」
「ある」
「珍しい」
「俺を何だと思ってる」
「コーヒー豆は持ってくるけど傘は忘れる人」
「降ろすぞ」
「すみません」
大森の農場へ着くころには、雨脚が少し強くなっていた。
大森は作業小屋にいた。
「またですか」
真壁たちを見るなり言った。
「少し確認したいことがあります」
「この前、全部話しましたよ」
「山のことを、もう少し」
大森の表情が硬くなった。
「杉浦さんは、あなたの山の一部を欲しがっていた」
「言いましたよ」
「借金を整理する代わりに」
「そんな話もあった」
「なぜ断ったんです?」
大森は黙った。
「八百万円ですよ」
三浦が言った。
「返済が楽になるなら、条件としては悪くないようにも見えます」
大森が三浦を睨んだ。
「刑事さん」
「はい」
「あんた、山持ってます?」
「いえ」
「農場は?」
「ありません」
「じゃあ分からんでしょう」
三浦が口を閉じた。
真壁が聞いた。
「何が分からないんです」
大森は作業小屋の外を見た。
雨が屋根を叩いている。
「ちょうどいい」
「何がです?」
「雨ですよ」
大森は長靴を履いた。
「来ますか」
*
三人は農場の奥へ歩いた。
傘を差していても、足元から濡れる。
畑の脇には細い水路が走っていた。
雨水が勢いよく流れている。
「普段からこんなに?」
三浦が聞いた。
「これくらいなら普通ですよ」
大森は歩き続けた。
農場の端。
そこから先は山になる。
斜面を少し上る。
落ち葉が濡れ、土が柔らかい。
「足元、気をつけてください」
大森が言った。
真壁は山の上を見た。
雨が木々の葉を叩く。
その水が幹を伝い、地面へ落ちる。
ところどころ、小さな流れができていた。
「見えます?」
大森が指をさした。
「何を」
「あそこ」
斜面に浅い窪みがある。
そこを水が流れていた。
「上から来た水は、あそこへ集まるんです」
「沢?」
「沢ってほどじゃない。でも雨が続けば水が出る」
大森はさらに下を指した。
その先には農場がある。
「昔、一度ひどい雨があった」
「いつです?」
「二十年くらい前ですよ」
「被害は?」
「下の畑まで水が来た。親父がまだ生きてたころです」
三浦が農場を見る。
「ここまで?」
「今の作業小屋の少し手前まで」
「結構ありますね」
「だから山を触りたくないんです」
真壁が大森を見る。
「杉浦さんにもそう言った?」
「何度も」
「杉浦さんは何と?」
「ちゃんと造るって」
「何を」
「排水ですよ」
大森は吐き捨てるように言った。
「側溝を造る。水を逃がす。計算して設計する。だから大丈夫だって」
三浦が聞く。
「それでも信用できなかった?」
大森は山を見上げた。
「刑事さん」
「はい」
「水ってのはね、図面の線どおりには流れないんですよ」
雨音だけが聞こえた。
「木を切る。土を削る。道を造る。そしたら今まで染み込んでた水がどこへ行くと思います?」
三浦は答えなかった。
「低い方ですよ」
大森は農場を指した。
「こっちです」
真壁は斜面から農場を見下ろした。
確かに近い。
「杉浦さんは、ここに道を造ると言ったんですか」
大森が真壁を見る。
一瞬、表情が変わった。
「……聞いてないんですか」
「何を?」
大森は黙った。
「杉浦さんは、この土地を何に使うと言っていました?」
「道ですよ」
三浦が真壁を見る。
真壁は大森から目を離さなかった。
「どこへ行く道です?」
「知らない」
「本当に?」
「知らんものは知らん」
大森の声が強くなった。
「杉浦は、ここを抜きたいと言ってた。それだけですよ」
「抜く?」
「木を切って、道を通す」
「幅は?」
「知りません」
「何のための道かは?」
「聞いてない」
真壁はそれ以上聞かなかった。
*
山を下りる途中、大森が足を止めた。
「借金を返したくないから断ったんじゃないですよ」
真壁が振り返る。
「分かってます」
「分かってないでしょう」
「では教えてください」
大森は雨に濡れた農場を見た。
「ここで三十年以上やってるんです」
畑。
作業小屋。
果樹。
古い軽トラック。
「金なら、働けば返せる」
三浦が何か言おうとしたが、真壁が視線で止めた。
「でも山を一度切ったら、戻せない」
大森は続けた。
「道ができて、水の流れが変わって、ここがやられたら……」
その先は言わなかった。
言う必要もなかった。
「杉浦さんとは、そのことで揉めた?」
「何度も」
「最後に揉めたのは?」
大森が真壁を見る。
「前にも聞かれましたよね」
「答えを聞いてません」
「覚えてません」
「杉浦さんが亡くなる直前では?」
「違います」
「亡くなった日、杉浦さんと会いましたか」
「会ってません」
今度は即答だった。
真壁は大森の顔を見た。
「間違いない?」
「ありません」
*
車へ戻った。
三浦が濡れた上着を脱ぐ。
「道でしたね」
「ああ」
「杉浦が欲しかった土地。やっぱり道を造るためだった」
「そうらしい」
「どこへ行くんでしょう」
「それを調べる」
三浦はタオルで髪を拭いた。
「でも、大森が杉浦を嫌ってた理由は分かりましたね」
「嫌う?」
「自分の農場が水害に遭うかもしれない道を造ろうとしてたんですよ」
「杉浦は対策すると言ってる」
「大森は信用してない」
「そうだな」
「十分、動機になりません?」
真壁はエンジンをかけなかった。
フロントガラスを雨粒が流れていく。
「三浦」
「はい」
「杉浦から金を借りて、恨んでる奴は何人いた」
「何人も」
「仕事で揉めてる奴は」
「何人も」
「土地のことで揉めてる奴は」
「大森以外にもいます」
「じゃあ大森だけを選ぶ理由は?」
三浦は少し考えた。
「……道」
「それは揉めた理由だ」
「違うんですか」
「俺たちが知りたいのは、杉浦を殺した理由だけじゃない」
「じゃあ?」
「杉浦が死んだ日に、大森が関わっていたという事実だ」
三浦が黙った。
「動機が十個あっても、殺してない人間は殺してない」
真壁はワイパーを動かした。
「逆に動機が一つしかなくても、証拠があればそいつだ」
「はい」
「今の俺たちには、大森を疑う理由はある」
「でも証拠がない」
「そういうことだ」
*
県警へ戻る途中、三浦がコンビニへ寄りたいと言った。
「何買う」
「コーヒーです」
真壁が顔をしかめる。
「なんです、その顔」
「好きにしろ」
三浦は缶コーヒーを一本買って戻ってきた。
「真壁さんはいらないんですか」
「帰って淹れる」
「またマンデリン?」
「今日はキリマンジャロだ」
「中煎り?」
真壁が三浦を見る。
「……成長したな」
「毎日聞かされてれば覚えますよ」
「マンデリンに寄せるなら?」
「深め」
「キリマンジャロに寄せるなら?」
「中煎り」
真壁は少しだけ満足そうにうなずいた。
「いいぞ」
「何の研修なんです、これ」
*
捜査本部へ戻ると、真壁は濡れた上着を椅子に掛けた。
それからコーヒーを淹れた。
キリマンジャロ。
中煎り。
今日は少しだけ湯温を下げた。
三浦が机に地図を広げている。
「真壁さん」
「なんだ」
「今日、大森が案内してくれた場所、この辺ですよね」
「ああ」
「杉浦が欲しがってた土地は、その上」
「そうだ」
「道を造る」
「そうだ」
「でも――」
三浦が地図を指した。
「その先、何があるんです?」
真壁はコーヒーを置いた。
地図を見る。
大森の農場。
山林。
杉浦が欲しがった細長い土地。
そして、その先。
「調べろ」
「今から?」
「今から」
「もう九時ですよ」
「明日の朝でもいい」
三浦が驚いた。
「珍しい」
「俺を何だと思ってる」
「コーヒー豆は待てるけど部下は待てない人」
「帰れ」
「はい」
三浦が笑いながら地図を畳み始めた。
真壁はコーヒーを一口飲んだ。
悪くない。
キリマンジャロを生かすなら、このくらいでいい。
マンデリンを合わせるなら――。
「……いや」
真壁は小さく呟いた。
今はコーヒーではない。
もう一度、地図を開いた。
杉浦は山林が欲しかったのではない。
道を通したかった。
そこまでは分かった。
ならば次の問いは一つしかない。
その道は、どこへ続くはずだったのか。
真壁は地図の先を指でなぞった。
まだそこには、何の印も付いていなかった。
――第五話 了
本作品はフィクションです。
作中には実在する国名・都市名・地名・制度などが登場しますが、物語および登場人物、事件、組織の描写は創作であり、実在する人物・団体・企業・事件とは関係ありません。
また、警察・捜査・出入国管理・海外の治安機関などに関する描写についても、物語上の演出を含んでおり、実際の制度や運用とは異なる場合があります。
なお、本作品には殺人事件、遺体、犯罪、捜査などに関する描写が含まれます。
お読み頂きありがとう御座います。
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