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錆びた光道  作者: lazilywalker
2/9

第二話 死んでから喰われた

真壁修司シリーズ。

山中で発見された、一人の男の遺体。

周辺では熊の目撃が相次いでおり、当初は熊による被害と思われた。

しかし、遺体に残された傷には、わずかな違和感があった。

熊、錆びた鉄、八百万円の借金、そして山の中に引かれた一本の線。

刑事・真壁修司が追うのは、まだ存在しない「道」を巡る事件。

なお本人は、事件と同じくらいコーヒー豆の配合にも悩んでいる。

 法医解剖室の前には、独特の静けさがある。

 病院の廊下とも違う。

 警察署の廊下とも違う。

 真壁修司は自動販売機の前で立ち止まった。

「飲みます?」

 後ろからついてきた若い刑事が聞いた。

「何を」

「コーヒー」

 真壁は自動販売機を見た。

 そして首を振った。

「いらん」

「コーヒーですよ?」

「だからいらん」

「真壁さん、コーヒー好きなんですよね?」

「好きだから飲まないんだ」

「……面倒くさい人ですね」

「今ごろ気づいたのか」

 若い刑事――三浦は百円玉を入れた。

 紙コップに黒い液体が落ち始める。

 真壁はそれを横目で見ながら言った。

「それ、何の豆だ」

「知りませんよ」

「焙煎は」

「知りません」

「いつ挽いた」

「自動販売機に聞いてください」

「よくそんなもの飲めるな」

「真壁さんと違って、コーヒーに人生賭けてませんから」

「俺も賭けてない」

 三浦は答えなかった。

 解剖室の扉が開いた。

「真壁さん」

 呼ばれて、真壁の顔からコーヒーの話が消えた。

     *

 解剖を担当した医師は、机の上に写真を並べた。

「まず、動物による損傷があること自体は間違いないと思います」

「熊ですか」

 三浦が聞いた。

「傷の形態だけで動物種まで私から断定するのは避けます。ただ、現場状況と合わせれば、警察が熊を疑っていることに矛盾はありません」

「死因は?」

 真壁が聞いた。

 医師は一枚の写真を指した。

「問題はそこです」

 遺体には複数の大きな損傷がある。

 しかし、それらすべてが同じ時期についた傷ではない可能性があるという。

「こちらを見てください」

 三浦が顔を近づけた。

「何が違うんです?」

「生きている間に受けた損傷と、死後に生じた損傷では、組織の反応が同じとは限りません」

 医師は慎重に言葉を選んだ。

「少なくとも、この遺体については、動物による損傷の一部に、生前の損傷としては説明しにくいものがあります」

 三浦の手にした紙コップが止まった。

「つまり……」

 真壁が先を言った。

「死んでから喰われた可能性がある」

「その可能性を考える必要があります」

 三浦が真壁を見る。

「じゃあ熊に殺されたんじゃない?」

「まだそこまで単純には言い切れません」

 医師が別の写真を出した。

「ただし、こちらがあります」

 胸部付近。

 動物による損傷に紛れるようにして、深い創傷がある。

「これは?」

「刺創を疑っています」

 三浦の表情が変わった。

「刃物ですか?」

「刃物とは限りません」

 真壁が言った。

 医師がうなずく。

「そうです。先端のある何らかの物体によって形成された可能性があります。ただ、創の状態が良くありません。周辺には死後の損傷も重なっています」

「これが死因?」

「現段階では有力です。詳しい検査結果を待ちますが、少なくとも熊による外傷だけを死因と考えるのは難しい」

 真壁は写真を見つめた。

 山中で感じた違和感。

 ようやく、その正体が見えてきた。

「死亡した場所は分かりますか」

「解剖だけで場所までは分かりません」

「死亡推定時刻は」

 医師が答える。

 三浦が手帳に書き込んでいく。

 真壁は別のことを考えていた。

 男が何者かに襲われた。

 死亡した。

 その後、熊が遺体を損壊した。

 もしそうなら――。

「現場だ」

「え?」

 三浦が顔を上げる。

「もう一度調べる」

「山をですか?」

「山だけじゃない」

 真壁は写真を一枚取った。

「こいつが、どこで死んだのかをだ」

     *

 遺体の身元が判明したのは、その夜だった。

 

 杉浦隆一、五十八歳。

 県内に本社を置く杉浦建設株式会社の代表取締役。

 道路工事、造成、河川工事、公共施設の改修。

 地域ではそれなりに名の知られた土木建築会社だった。

「社長ですか」

 三浦が資料をめくる。

「ああ」

「なんでそんな人が山の中に?」

「それを調べるのが俺たちの仕事だ」

「登山が趣味だったとか」

「可能性はある」

「山菜?」

「それもある」

「熊を見に行った」

「お前は黙ってろ」

「はい」

 真壁は杉浦の顔写真を見た。

 会社のウェブサイトから印刷したものだった。

 スーツ姿。

 短く刈った髪。

 笑っている。

 いかにも地元企業の社長という写真だった。

「車は?」

「まだ見つかってません」

「家族は」

「昨日の朝、仕事に行くと言って家を出たそうです」

「会社には?」

「午前中は出社しています。その後、外出しています」

「どこへ」

「分かりません」

「予定表」

「確認中です」

「携帯は」

「現場からは見つかってません」

 真壁は椅子にもたれた。

「財布はあった。金も残ってる」

「強盗ではなさそうですね」

「そう見えるな」

「車と携帯だけない」

「ああ」

 三浦が資料を閉じる。

「犯人が持っていった?」

「決めるな」

「でも――」

「熊に襲われたと思ったら違った。今度は携帯がないから犯人が持っていったと思うのか?」

 三浦は黙った。

「事実と想像を混ぜるな」

「はい」

「今分かってるのは、杉浦が死んでいた。遺体が熊に損壊された。そして熊とは別の傷がある。それだけだ」

「殺人事件ですよね」

 真壁は少し考えた。

「その可能性が高くなった」

     *

 翌朝、捜査本部が設置された。

 熊害として始まった案件は、様相を変えていた。

 杉浦隆一の足取り。

 会社関係者。

 家族。

 取引先。

 現場周辺の聞き込み。

 防犯カメラ。

 車両。

 携帯電話。

 調べるものが一気に増えた。

「真壁さん」

 三浦が紙の束を持ってきた。

「杉浦の会社関係です」

「そこ置いとけ」

 真壁はコーヒーミルを回していた。

 三浦が無言で見つめる。

「なんだ」

「いや」

「言え」

「捜査本部で豆挽く人、初めて見ました」

「そうか」

「普通、缶コーヒーとかですよ」

「他人の普通を俺に持ってくるな」

 ミルが止まった。

 三浦が袋を見る。

「昨日言ってたマンデリンですか?」

 真壁の手が止まった。

「お前……」

「なんです?」

「覚えてたのか」

「それくらい覚えてますよ」

 真壁は少し感心したように三浦を見た。

「見込みがあるな」

「刑事として?」

「コーヒーを飲む人間として」

「いりません、その評価」

 真壁はドリッパーに粉を入れた。

 今日はマンデリンではない。

「キリマンジャロだ」

「聞いてません」

「昨日より少し浅い」

「だから聞いてません」

 湯を落とす。

 豆が膨らむ。

 香りが立つ。

 その間だけ、真壁は資料を見なかった。

 急いだから答えが出るわけではない。

 考える時間と、手を止める時間は違う。

 抽出を終え、真壁は一口飲んだ。

「……こっちだな」

「何がです?」

「焙煎」

「事件の話してくださいよ」

 三浦が紙の束を机に置いた。

「杉浦社長、かなり顔が広いです」

 真壁が資料を取る。

 取引先一覧。

 下請け。

 自治体との工事実績。

 土地関係。

 元従業員。

 名刺の記録。

「多いな」

「地元じゃ有名だったみたいですよ。面倒見がいいって話もあります」

「面倒見?」

「困ってる人に金を貸したりしてたらしいです」

 真壁の視線が止まった。

「会社としてか?」

「そこがよく分からないんです。個人的に貸してたという話もあります」

「誰に」

「まだ確認中です」

 真壁はカップを置いた。

「洗え」

「はい」

「会社の帳簿だけじゃない。個人の口座、会社に残ってる契約書、借用書。任意で確認できるものから当たれ」

「分かりました」

 三浦が資料を持って離れようとする。

「三浦」

「はい?」

「杉浦が最後に会社を出たときの車、分かったか」

「社用車じゃなく自分の車だったみたいです」

「まだ見つからない?」

「はい」

「探せ」

「はい」

 三浦が走っていった。

 真壁は再び杉浦の写真を見た。

 地域の有力企業の社長。

 仕事関係だけでも、数え切れないほどの人間と接点がある。

 その上、個人的に金まで貸していた。

 恨まれる理由があるかどうか。

 そんな問いは、たぶん意味がない。

 これだけ人と関わっていれば、好かれる理由も、嫌われる理由もいくらでもある。

 問題は――。

 誰が、杉浦隆一を殺す理由を持っていたのか。

 そして。

 なぜ杉浦の遺体は、熊のいる山にあったのか。

     *

 午後。

 法医から追加の連絡が入った。

「異物?」

 真壁は受話器を持ち直した。

『はい。例の刺創ですが、内部から微細な異物が確認されています』

「何だ」

『現在分析中です』

「金属?」

 電話の向こうで一瞬間があった。

『可能性があります』

 真壁の目が細くなった。

「刃物の破片か?」

『まだ分かりません。ただ――』

「ただ?」

『鉄を含むものかもしれません』

 真壁は黙った。

『詳しい結果が出たら連絡します』

「頼む」

 電話を切る。

 三浦がこちらを見ていた。

「何か出ました?」

「ああ」

「何です?」

 真壁は机の上のキリマンジャロを手に取った。

 もう冷めていた。

「鉄だ」

「鉄?」

「傷の中に残ってる」

「じゃあ凶器は――」

「だから決めるな」

 真壁は一口飲んだ。

 顔をしかめる。

 三浦が聞いた。

「苦いですか?」

「違う」

「じゃあ何です?」

「冷めた」

「そりゃそうでしょう」

 真壁はカップを置いた。

 熊に喰われた男。

 その身体には、熊とは別の何かが残されていた。

 小さな、小さな鉄の痕跡。

 それが何を意味するのか。

 まだ誰にも分からない。

 ただ一つ確かなのは――。

 杉浦隆一は、山へ入る前から死んでいた可能性が高い。

 そして、その死には人間が関わっている。

 真壁は上着を取った。

「行くぞ、三浦」

「どこへ?」

「杉浦の会社だ」

「何を調べるんです?」

 真壁は答えた。

「まずは、死んだ男が何をしていた人間なのか。それからだ」

 扉を開ける。

 事件はようやく、熊の山から人間の世界へ戻ってきた。

――第二話 了

本作品はフィクションです。


作中には実在する国名・都市名・地名・制度などが登場しますが、物語および登場人物、事件、組織の描写は創作であり、実在する人物・団体・企業・事件とは関係ありません。


また、警察・捜査・出入国管理・海外の治安機関などに関する描写についても、物語上の演出を含んでおり、実際の制度や運用とは異なる場合があります。


なお、本作品には殺人事件、遺体、犯罪、捜査などに関する描写が含まれます。

お読み頂きありがとう御座います。

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