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錆びた光道  作者: lazilywalker
1/9

第一話 熊に喰われた男

前書き

真壁修司シリーズ。

山中で発見された、一人の男の遺体。

周辺では熊の目撃が相次いでおり、当初は熊による被害と思われた。

しかし、遺体に残された傷には、わずかな違和感があった。

熊、錆びた鉄、八百万円の借金、そして山の中に引かれた一本の線。

刑事・真壁修司が追うのは、まだ存在しない「道」を巡る事件。

なお本人は、事件と同じくらいコーヒー豆の配合にも悩んでいる。


真壁修司は、朝からマンデリンを失敗した。

 正確には失敗ではない。

 豆は悪くない。挽き方もいつもと同じ。湯温も外していない。

 問題は焙煎だった。

「……深すぎたか」

 県警本部の給湯室で、真壁は紙コップではなく自前のマグカップを睨んでいた。

 香りは悪くない。

 むしろ好きな香りだ。

 ただ、昨日買ったキリマンジャロと合わせることを考えると、この深さではマンデリンが勝ちすぎる。

「真壁さん」

 背後から声がした。

「なんだ」

「何してるんです?」

「見れば分かるだろ」

「コーヒーを睨んでるようにしか見えませんけど」

「考えてるんだ」

「コーヒーについて?」

「他に何がある」

 若い刑事は一瞬黙った。

「熊が出たそうです」

 真壁はマグカップを口へ運んだ。

「それで?」

「人が死んでます」

 カップが止まった。

「場所は」

 若い刑事が答える。

 県内でも山の多い地域だった。周囲には農地が点在し、そのさらに奥には広い山林が続いている。

 ここ数週間、熊の目撃情報が何件か出ていた。

「所轄は?」

「現場を押さえてます。鑑識も向かっています」

 真壁は残っていたコーヒーを飲み干した。

「行くぞ」

「はい」

 給湯室を出ようとして、真壁は一度だけ振り返った。

「やっぱり中煎りか……」

「何がです?」

「こっちの話だ」

     *

 山へ入る道は狭かった。

 舗装された県道を外れると、景色は急に変わった。

 民家が減り、畑が増える。

 さらに進むと畑もなくなった。

 杉林と雑木林が道路の両側から迫っている。

「この辺りです」

 運転していた刑事が言った。

「熊の目撃情報?」

「はい。三日前にも、この先で見たという通報があります」

「何頭だ」

「そこまでは」

 真壁は窓の外を見た。

 道路脇には「熊出没注意」と書かれた真新しい看板が立っていた。

 少し先にはパトカーが二台停まっている。

 そこから先は車では入れなかった。

 二人は徒歩で山へ入った。

 現場までは十分ほどだった。

 先に来ていた所轄の刑事が真壁に気づいた。

「お疲れさまです」

「遺体は?」

「この先です」

「発見者は?」

「近くの住民です。山の様子を見に来て発見しました」

「触ってないだろうな」

「本人は触っていないと言っています」

 規制線を越える。

 そして真壁は足を止めた。

 遺体は斜面の下にあった。

 男性。

 年齢は五十代から六十代ほどだろうか。

 衣服は激しく乱れ、一部は裂けている。

 身体にも大きな損傷があった。

 真壁はしばらく何も言わなかった。

「熊……でしょうか」

 隣の刑事が言った。

「らしいな」

「この辺り、最近かなり出てるそうです」

「聞いた」

 鑑識が作業を続けている。

 真壁は周囲を見た。

 落ち葉。

 土。

 折れた枝。

 斜面。

 そして遺体。

「ここで襲われたのか?」

 所轄の刑事が答えた。

「まだ分かりません。ただ、周辺にも荒らされた跡があります」

「血は?」

「確認中です」

 真壁はしゃがんだ。

 もちろん遺体には触れない。

 少し離れた位置から、ただ見た。

 熊に襲われた人間の遺体を、真壁は初めて見るわけではなかった。

 熊が人間を襲う。

 人間が死ぬ。

 その後、遺体を食害する。

 それ自体はあり得る。

 だが――。

「真壁さん?」

「なんだ」

「何かあります?」

「いや」

 真壁は立ち上がった。

 まだ何もない。

 少なくとも、ここで口にできるほどのものはない。

「身元は?」

「所持品を確認しています」

「財布は?」

「あります」

「携帯」

「それらしいものはまだ」

 強盗目的には見えない。

 そもそも、熊が出るような山の中で強盗というのも妙な話だ。

 事故。

 熊害。

 今のところ、それが一番素直だった。

 真壁はもう一度、遺体を見る。

 そのとき鑑識の一人が声を上げた。

「ちょっといいですか」

 真壁たちが近づく。

「どうした」

「これなんですが」

 鑑識員が示したのは、遺体の衣服だった。

 裂けている。

 熊の爪や牙で損傷したとしても不思議ではない。

 だが、その下にある傷を見て、真壁は眉を寄せた。

「どう思う?」

 鑑識員が聞いた。

「俺に聞くな」

「ですよね」

「解剖に回せ」

「はい」

 真壁は立ち上がった。

 若い刑事が追ってくる。

「やっぱり何か変なんですか?」

「分からん」

「でも、さっきからずっと見てますよね」

「見るのが仕事だ」

「熊じゃないと思ってます?」

 真壁は答えなかった。

 山の中は静かだった。

 風が吹くたび、木々の葉が擦れる音だけがする。

 遠くで鳥が鳴いた。

 熊による死亡。

 そう考えれば、今のところ大部分の説明はつく。

 最近この周辺では熊が目撃されている。

 遺体には動物によるものと思われる激しい損傷がある。

 場所も山中だ。

 何もおかしくない。

 だからこそ――。

 真壁はもう一度だけ振り返った。

 斜面の下。

 損壊した男の遺体。

「真壁さん?」

「戻ったらコーヒー淹れるぞ」

「……はい?」

「マンデリンじゃない」

「今それ考えてたんですか?」

「半分はな」

「もう半分は?」

 真壁は歩き出した。

「解剖が終わってからだ」

     *

 その日の夕方。

 真壁の机の電話が鳴った。

「真壁だ」

 数秒、黙って相手の話を聞く。

 机の端には、昼過ぎに淹れたコーヒーが残っていた。

 今度はキリマンジャロだった。

「分かった。すぐ行く」

 受話器を置く。

 向かいの刑事が顔を上げた。

「解剖ですか?」

「ああ」

「熊でした?」

 真壁は答えなかった。

 冷めたキリマンジャロを一口飲む。

「……やっぱり中煎りだな」

「だから何の話なんですか」

 真壁は立ち上がり、上着を取った。

「行くぞ」

「どこへ?」

「法医」

 そして、ドアの前で一度だけ足を止めた。

「熊だけじゃないらしい」

 若い刑事の表情が変わった。

 真壁はそのまま廊下へ出た。

 朝から引っ掛かっていたものが、ようやく形を持ち始めていた。

――第一話 了

作中には実在する国名・都市名・地名・制度などが登場しますが、物語および登場人物、事件、組織の描写は創作であり、実在する人物・団体・企業・事件とは関係ありません。


また、警察・捜査・出入国管理・海外の治安機関などに関する描写についても、物語上の演出を含んでおり、実際の制度や運用とは異なる場合があります。


なお、本作品には殺人事件、遺体、犯罪、捜査などに関する描写が含まれます。

お読みいただき、ありがとうございました。

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