今年はいけるかも
「若様、今朝の魔素は」
ガレットが書類を持ちながら言った。
「ラングフォード43%。ダルサ村は昨日現地で確認したので——19%でした。来週にはもう少し上がると思います」
「43%……」
「はい。先週より2%上がっています」
ガレットが少し間を置いた。
「……着任前が12%でございました」
「そうですね」
「三十一ポイント上昇、ということに——」
「なりますね」
(ガレットが珍しく数字を確認しに来た。何か思うところがあるのだろうが、何を思っているかは顔から読めない)
「ガレット、播種の準備はどうですか」
「ゴードン殿のご確認では、今週中に種の選定が終わるかと。土の状態が例年より格段によいとのことで——」
「蒔けそうですか」
「……はい。おそらく今年は」
ガレットが言葉をいったん止めた。
「蒔けます」
播種の準備が動き始めたのは、それから二日後だった。
ゴードンが朝から畑に出ていた。俺が庭を歩いていると、向こうの畑で人の動きが見えた。
一人ではなかった。
五、六人が畑に出ている。ゴードン、ヨム、それと見慣れない顔が二、三人いる。
「マリスさん、あの人たちは」
隣を歩いていたマリスが畑の方を見た。
「あ——タルコさん、いる」
「タルコ?」
「奥さんを亡くして戻ってきた方です。ゴードンさんから聞いてましたか。それと——もう一人、知らない顔ですね」
「新しい人ですか」
「戻ってきた人だと思います。ゴードンさんが昨日、『噂を聞いて戻ってくる人間が何人かいる』と言ってたので」
(戻ってきた人間)
(逃げた住民が戻ってくる、か)
俺はスキルを流した。
ラングフォード領の住民数——着任時より増えている。今日また増えた。
「何人戻りましたか」
「昨日まで三人です。今日の二人でまた増えました」
「そうですか」
マリスが少し間を置いた。
「……嬉しくないですか」
「嬉しいかどうかはよく分からないですが——想定の範囲内です。魔素が上がれば、作物が育つ可能性がある。その噂が出れば人は戻る。合理的な動きです」
「それ、もう少し喜んでいいやつですよ」
「まあ」
(合理的な判断をしている人たちをつかまえて感動するのも変な話だ。でも——まあ、悪くはないな)
畑まで歩いた。
ゴードンが種の袋を持っていた。
「若様、良いところへ」
「どうですか」
「今日、最初の区画を蒔きます。試しに少量から。土の状態を確認しながら」
「数値的には問題ないですよ。43%あれば大麦は育ちます」
「数字はそうですが——自分の目と手でも確かめたいんで」
「分かりました」
ゴードンが種の一粒を指で確認した。小さく硬い種だった。
タルコと呼ばれた男が近くで土を耕していた。見た目は四十過ぎくらい。手が大きく、動きに無駄がなかった。
「タルコさんは農業の経験が長いですか」
タルコが振り向いた。
「……二十年ほどです。出ていく前は、ここで」
「そうですか。今年から畑に入ってもらえるとありがたいです」
「はい。それで——戻ってきました」
簡潔な言葉だった。
(それで戻ってきた。噂を聞いて、今年は蒔けると思って来た。それだけのことだ。それだけのことが五年間できなかった)
種を蒔くところを少し見ていた。
ゴードンが最初の一列に種を落とした。間隔を測りながら、一粒ずつ。
タルコが覆土をする。ヨムが水路の方へ回って、水の流れを確認している。
静かな作業だった。
後から来た見知らぬ二人の男が、少し離れたところから見ていた。
一人が呟くように言った。
「……今年はいけるかも」
小さな声だった。
隣の男が何も言わなかった。うなずいたのかどうかも、遠くからでは分からなかった。
(今年はいけるかも、か)
俺はスキルを流した。
種が落ちた土の区画——魔素43%。水路から魔素を含んだ水が届いている。根が伸びれば、ちゃんと育つ。
数値的には問題ない。
(でも——あの「いけるかも」という言葉は、数値じゃない何かだな)
五年間、蒔けなかった人たちが、今年初めて種を土に入れている。
(……まあ、なんとかなったな)
俺は畑から館の方へ向き直った。
翌々日の昼過ぎ、馬車の音がした。
マリスが走ってきた。
「領主様、来ました」
「監察官ですか」
「はい。馬車が一台。書状にあった内政局の紋章が」
「分かりました」
(来たか)
(……面倒くさ)
「案内はマリスさんが。ガレット、書類は揃っていますか」
廊下を歩いてきたガレットが答えた。
「は。税収の推移、水路修復の記録、魔素の数値変化、全て整えてございます」
「では準備はできてますね。俺は後から出ます」
「……若様、監察官というのは一応、お出迎えを」
「玄関先で待っていればいいですか」
「それが宜しいかと」
「分かりました」
馬車から降りてきた男は、四十代くらいだった。
着ている服は都市向けの上質な布。胸元に内政局の紋章。顔は日焼けしていない。王都からそのままやってきた人間の顔だった。
男は玄関先で俺を見た。
一瞬、止まった。
「……ヴァンダール領主殿ですか」
「はい。ライル・ヴァンダールです。今日はよくいらっしゃいました」
男が俺の年を測るような目をした。十九歳の領主には見えなかったのかもしれない。
「テルミス内政局の監察官、ベルナルドと申します」
「よろしくお願いします。お部屋にどうぞ」
応接室に通した。
茶を出した。ベルナルドは一口飲んで、書類を取り出した。
「単刀直入に申し上げます。この領地は五年連続の凶作、税収ゼロ、住民の逃亡が続いています。内政局としては最終確認の意味でお伺いしました」
「最終確認、というのは」
「要するに——この領地を存続させるかどうかの判断材料を集めるためです」
ガレットが気配を止めた。マリスが書類を持ったまま動かなかった。
「そうですか」
俺は茶を一口飲んだ。
「確かに、着任前はそういう状態でした。五年連続凶作、税収ゼロは事実です」
「では」
「今は違います」
ベルナルドが眉を動かした。
「違う、とは」
「ガレット、資料をどうぞ」
ガレットが書類を差し出した。
魔素の数値変化。水路修復の記録。税収の見込み。今年の播種の状況。
ベルナルドが書類を受け取り、目を通し始めた。
しばらく無言だった。
「……43%、とありますが」
「今朝の数値です。着任時が12%でした」
「それが——着任から何日でこの数値に」
「約二ヶ月です」
ベルナルドが書類から目を離した。
「どうやって」
「水路が詰まっていたので、詰まりを取りました。それだけです」
また沈黙があった。
「……それだけで、30ポイント上昇するものですか」
「うちの場合はそうでした。水路と魔素の流れは繋がっているので、詰まりを取れば動く。もともとの土地のポテンシャルがあったということだと思います」
「……なるほど」
ベルナルドが書類を閉じた。
「では——播種も始まっているとのことですが、実際に見てもよろしいでしょうか」
「どうぞ」
畑まで歩いた。
ベルナルドが俺の後ろを歩く。マリスが横につく。
着任直後のことを思い出した。
あの頃、王都を出る前に内政局の誰かが言った言葉がある。馬車を待っていた時だったか、荷物を出していた時だったか。
「——あそこ? どうせもう終わってるでしょ」
聞かれていない場所で言っていた言葉だった。特に悪意はなかっただろう。そう見えていたというだけの話だ。
(どうせもう終わってるでしょ、か)
(まあ、当時の数字だけ見ればそう思うのは合理的だ)
畑に着いた。
ゴードンが作業中だった。タルコとヨムがいる。戻ってきた住民が二人、一緒に動いている。
種が蒔かれた区画が、昨日より広がっていた。
ベルナルドが止まった。
何も言わなかった。
区画を見ていた。種が入って整えられた土の列を、一列、また一列と目で辿った。
俺は隣に立っていた。
ベルナルドが何かを言おうとして——止まった。
「何か問題でも?」
俺が先に聞いた。
ベルナルドが俺を見た。
「…………いえ」
短い沈黙が来た。
「……ありません」
俺は畑を見た。
(詰み領地を最終確認しに来た人間が、畑を見て言葉を失っている。悪くない眺めだ)
(……まあ、当然といえば当然だが)
「魔素の数値は、明日もお見せできます。スキルで確認した数値ですが、記録としてお渡しすることもできますよ」
「……それは、ありがたいです」
「ガレット、追加の書類を用意してもらえますか」
「は、承知しております」
ベルナルドが畑の方にもう一度目を向けた。
「……今年の秋、収穫の見込みは」
「ゴードンさんに聞きますか。現場の農業の専門家なので」
「……そうしましょう」
ゴードンがベルナルドの問いに答えた。
「今年は少量からです。全面ではない。でも——五年ぶりに種が入りましたから、これが育てば来年は区画を広げられる」
「確実ですか」
「魔素が43%あれば大麦は普通に育ちます。水路も通っている。あとは天候次第ですが——それはどこの畑も同じです」
ベルナルドが書き留めていた。
ゴードンがもう一言付け加えた。
「五年間——ここで種を蒔けなかった。今年初めて蒔けた。それだけ言えれば十分です」
ゴードンはそれ以上言わなかった。畑の方へ戻った。
ベルナルドが手を止めた。
何かを飲み込むような顔をした。
夕方、ベルナルドは館に戻って書類にまとめを書いていた。
俺は廊下でマリスと話していた。
「監察官、何か言ってましたか」
「……『想定と異なる』と一言だけ」
「なるほど」
「それだけです。あとはずっと書いてます」
「まあ、書類に残してもらえればいいです」
マリスが少し笑った。
「領主様、嬉しくないですか。あの人、畑を見て言葉が出なかったんですよ」
「べつに」
「べつに、って——」
「正確な数値と状況を見せたら、来た目的がなくなっただけです。それ以上でも以下でもない」
「……それ、見ていてちょっと気持ちよかったです。こっちは」
「……まあ」
(まあ、悪くない展開ではあった。言葉を飲み込んだ瞬間のあの顔は、なかなか良かった)
(でも言わなくていいことだ)
ベルナルドは翌朝早くに帰った。
玄関で俺に頭を下げた。
「……大変失礼しました。報告書を内政局に上げます。内容は——」
「内容はお任せします」
「……ヴァンダール卿、実は——」
ベルナルドが少し止まった。
「着任前、王都で『あそこはもう終わりだ』という声を聞いていました。私もそう思っていました」
「そうですか」
「……大変失礼しました」
「当時の数字だけ見ればそう思うのは合理的です。問題ないですよ」
ベルナルドが馬車に乗った。
馬車が動き出す。
ガレットが隣に立った。
「若様——」
「はい」
「……ご立派でございました」
「大げさです。数値を見せただけですよ」
「……御意に」
(ガレットも珍しいことを言う。まあ、まんざらでもないが——言わなくていい)
その日の夕方、スキルで数値を確認した。
ラングフォード——44%。
(また上がった)
明日また更に上がるかもしれない。今年の秋には初めての収穫ができる。借金の返済はまだ先だが、来年にはまともな数字を出せるだろう。
まあ、それは来年の話だ。
数日後、ゴードンが珍しく館まで来た。
「若様、少しよろしいですか」
「どうぞ」
「昨日、旅の商人が村を通りまして——シュタール王国の方だそうで」
「シュタール王国」
「ええ。国境の向こうの。その方が、領地の水路が復活したという噂を聞いて立ち寄ったそうで」
(シュタール王国の商人が来た?)
「何か商談でもありましたか」
「商談というより——不思議な領地があると噂で聞いて確認しに来た、と言ってました。五年連続の詰み領地が二ヶ月で復活した、という話が流れているとかで」
「……噂が出るのは早いですね」
「水路の修復に来た人間が口を伝えたんでしょう。ダルサ村の人間も増えましたし」
「その商人は」
「しばらく様子を見たいと言って、村の宿に泊まっていきました。今日は帰ったと思いますが——何か気になることがあれば国に持ち帰ると言ってたので」
(シュタール王国に噂が届く、か)
(……これ、また面倒くさいことになる予感がするな)
「分かりました。ひとまず様子を見ます」
「分かりやした」
ゴードンが下がった。
マリスが横から口を開いた。
「領主様、シュタール王国って隣国ですよね。商人が噂を持ち帰るということは——」
「広まります。国境を越えて」
「それって」
「面倒くさいことになるかもしれないですね。まあ、なってから考えます」
「いつもそれですね」
「起きていないことを今考えても仕方ないので」
マリスが少し間を置いた。
「……それも合理的ですね」
「まあ」
その夜、ガレットが来た。
「若様、一点——石の件でございます」
「はい」
「少し思い出したことがありまして」
俺はガレットを見た。ガレットが静かに続けた。
「……まだ全部ではないのですが。父から聞いた話の断片が——ダルサ村の石の積み方は、昔この地域で使われていた水路管理の手法に似ているとのことでした」
「水路管理の手法?」
「乾期に意図的に水流を調節するための技術だったと——ただ、誰が何のためにあの時期に使ったのか、そこまでは覚えていないと申し訳ないのですが」
「分かりました」
「……まだ思い出せないんですが、もう少し時間をいただければ」
「急かしません。思い出したら来てください」
「……御意に」
ガレットが下がった。
(乾期の水流調節の技術、か。そういう用途があったとすれば、五年前にそれを使ったのは——何のためだ)
(まあ、今すぐ答えは出ない)
窓を開けた。
春の夜の空気が入ってきた。
水路の音がしていた。ラングフォードの幹線から支線まで、今夜も水が流れている。
スキルを流す。
44%。
畑では今年初めての種が土の中にある。来週また種を入れる区画が広がる。戻ってきた住民が増えた。シュタール王国の商人が噂を持ち帰った。
監察官は「もう終わり」という言葉を飲み込んで帰った。
着任した時、俺が最初にスキルで見た数値は12%だった。水路の詰まりが83箇所。住民が三割しかいなかった。
詰み、と言われた状態から始まった。
(……詰みって言ったのは誰だよ。別に詰んでなかったじゃないか)
窓から畑の方を見た。
暗くて見えないが、種はそこにある。
水路を流れる音だけが、静かに続いていた。




