まあ、なんとかなったし
部屋が静かだった。
ガレットが出ていって、廊下の足音も消えた。
俺は椅子の背に少し沈んだまま、窓の外を見ていた。
午後の光だった。真っ直ぐで、明るかった。
(……そうか)
(なんとかなったし)
それだけだった。
スキルを確認した。全域で上がっていた。北の丘が今日も少し動いていた。
領地は動いている。
(最初の春、土が死んでた)
あの春に俺が来た時、農地は痩せていて、水路は詰まっていて、台帳には赤字しかなかった。
「面倒くさ」と思った。
(それでもひとつずつ潰した)
水路を直した。土壌を見た。農地の配置を変えた。大国の使者が来た。シュタール国王が来た。遺跡が目を覚ました。
全部、なんとかなった。
(なんとかなったな)
改めて思うと、なんか変な感じがした。
「なんとかなった」の積み重ねが今になっているんだと思うと、少し実感がない。
(まあ、でも)
(親父。ガレットが言ってくれた)
窓の外で葉が揺れた。風は穏やかだった。
(選んで良かった、か)
(……選ばれた側は何も言えないな)
反論する気も起きなかった。「そうではないです」とも言えなかった。
ただ——
(まあ、なんとかなったし)
それだけが、唯一正直に出てくる言葉だった。
難しいことは言えない。感動も上手く言葉にできない。
でも「なんとかなった」は本当だった。
廊下から足音がした。
軽い足音だった。
(……マリスか)
「失礼します」
扉が開いた。マリスが頭を出した。書類を脇に抱えていた。
「ライルさん、農地の記録、確認してほしい箇所が一点あって……」
俺を見た。少し止まった。
「——大丈夫ですか」
「はい」
「顔がいつもと同じなんですが、なんか違う気がして」
「どう違うんですか」
「……なんか、考え込んでる感じ」
(観察が細かい)
「少し考えていました。もう終わりました」
「そうですか」
マリスが中に入った。書類を卓の端に置いた。
「……ガレットさんと、何の話をしてたんですか」
「先代領主の話です」
「お父上の」
「はい」
マリスが少し黙った。
「……そうだったんですね」
それ以上は聞かなかった。
(マリスは聞くタイミングを分かっている)
「農地の記録、どこですか」
「あ、えっと——ここです」
マリスが書類を広げた。北側の区画の収量記録だった。
「この数値、先月と比べると三割上がってるんですが、確認でいいですか」
「見ます」
数字を追った。合っていた。
「合ってます」
「本当に上がってるんですね」
「はい」
「……すごい」
「まあ、土が戻ったので」
「それがすごいって言ってるんですよ」
マリスが書類を畳んだ。少し手を止めた。
「ライルさん」
「何ですか」
「——お疲れ様でした」
静かに言った。
「今まで、ずっと」
俺は少し考えた。
(何と返せばいい)
「……マリスも疲れたでしょう」
「疲れました!!」
勢いが戻った。
「遺跡のあたりはほんとに大変でしたし、各国の方々の書類も大量でしたし、ガレットさんに「マリスさん、これも」って言われるたびに」
「言われるたびに?」
「やりました!! でも大変でした!!」
「……お疲れ様でした」
「ありがとうございます!!」
マリスが少し笑った。
俺も、たぶん少し笑った。
(よく分からないが、軽くなった気がする)
「マリス、お茶でも飲みますか」
「!!」
「……はい!!」
返事が早かった。
「台所に言ってきます!!」
「俺が言いに行きます」
「いいんですか」
「はい。ちょっと動いた方がいい気がするので」
廊下に出た。外の光が入っていた。
台所に顔を出したら、ちょうど茶の準備をしていた。
「若様、ちょうど良かったです。ガレット様から「今日は煮込みを作れ」と言われていたんですが、若様のお口に合いましたか」
「うまかったです」
「良かった!!」
(台所の人も勢いがいい)
「お茶、二つもらえますか」
「すぐ用意します」
部屋に戻ったら、マリスが農地の記録をもう一枚広げていた。
「別のも見てもらいたいんですが」
「はい」
「東の区画です。来月の播種の計画、これで問題ないですか」
「見ます」
二人で卓を囲んで、書類を見た。茶が来た。マリスが「ありがとうございます!!」と受け取った。
しばらく、仕事をした。
いつもの午後だった。
翌日の朝、縁側に出た。
茶を一杯もらって、庭を見ていた。
朝の光が低かった。草が露を持っていた。
スキルを確認した。全域で安定していた。
(……安定してる)
ここ数日、ずっと上がっていたのが、昨日あたりから「安定」に変わった。
上がり続けるのは良いことだが、安定するのも良いことだ。
(落ち着いてきた、ということか)
茶を飲んだ。
(なんとかなった)
今日もそれだけが出てくる。
難しい言葉は出てこない。感謝の言葉も、達成の言葉も、うまく出てこない。
(まあ)
(それでいい気がする)
出てくる言葉が出てくる。それだけでいい。
庭の草が風に揺れた。穏やかな朝だった。
(——親父、なんとかなったし)
茶を飲んだ。
しばらくして、遠くから馬の蹄の音がした。
(……早い)
「来月来る」と言っていたが、まだ来月になっていない。
(……この人は「来月」の定義が俺と違うのかもしれない)
門の方から声がした。ガレットの声だった。落ち着いていた。
(……面倒くさ)
(まあ、どうぞ)
茶を一口飲んだ。縁側から庭を見ていた。
足音が近づいてきた。
「——また来たの」
「……用がある(なんとなく来たかっただけだ)」
隣に立ったドランクが言った。
(……括弧の部分、聞こえてますよ)
(まあ、いいか)
「どうぞ」
ドランクが縁側に腰を下ろした。
ガレットが茶を一杯持ってきた。
「陛下、どうぞ」
「ありがとう」
ガレットが静かに下がった。
二人で、しばらく黙って茶を飲んだ。
庭の草が揺れた。鳥の声がした。
(……まあ)
(なんとかなった)
茶が、うまかった。




