魔素の安定
出口の光が広がった。
地上だった。
一歩踏み出したら、風があった。地下では風がない。当たり前のことだが、久しぶりに感じると少し違和感がある。
(……外に出た)
マリスが隣で大きく息を吸った。
「空気が違います」
「そうですね」
「地下は乾いてますよね。地上の方がいいです」
「同意します」
ドランク王が前方に出た。空を見上げた。曇っていた。でも遺跡の天井よりははるかに広い。
「……外か」
「陛下、一時間以上待ってましたからね」
マリスが言った。
「それほどか」
「遺跡の外でずっと立ってましたよ。ほとんど動かずに」
ドランク王はそれには答えなかった。空を見たままだった。
(……待てる人なんだよな、あの王様は)
俺はスキルを確認した。
全域で、続いていた。
東の水路。西の集落。北の丘——全部が上向きに動いている。地下から地上へ向かう流れが止まっていない。遺跡の中にいたときより、外に出た方が感触が鮮明だった。空間が広がったせいか、感知の範囲がさらに伸びている感触があった。
(……上がってる)
北の丘が最も早い。昨日まで四十台だったところが、今は五十に近い。他の場所も少しずつだが確実に動いていた。
「ライルさん」
マリスが言った。
「スキルで何か出てますか」
「出てます。全域で上向きです。北の丘が一番早い。さっきより五%くらい上がっています」
「さっきって遺跡の中にいた間ですよね」
「はい」
マリスがしばらく黙った。
「……それはすごいんじゃないですか」
「多分そうです」
(あっさり言ったが、実際にはかなりのペースだと思う)
(七百年分の還流が「完全に整う」と言っていた。向きが決まったら後は時間だけ、ということか)
遺跡の入口から少し離れた場所に、カステル卿がいた。
「——来られましたか」
「終わりました。システムが動いて、停止しました。役目を終えた停止です」
「「役目を終えた」というのは」
「設計通りに動いて、役目を果たして、止まった。区画が閉じました。扉は応じなくなります。「共同管理が必要な稼働中の装置」は、もうないです」
カステル卿が少し止まった。整理しているようだった。
「……テルミス大国への返答が必要ですね」
「そうですね」
「書状を」
「ガレットが明日中に用意します」
「承知しました」
遠くからヨムが走ってきた。
「若様! 地上の様子が——なんか変わってまして」
「変わった?」
「さっきからゴードンさんが「匂いが変わった」って。土の匂いがするって。雨は降ってないのに」
(……それか)
「魔素が上がってるとそういうことがありますか、先生」
俺は振り返った。イルデ先生が帳面を出しかけていた。
「……あります。土壌の魔素濃度が上昇すると、土壌内の微生物の活動が変わります。それが独特の匂いを発生させます。雨上がりに似た匂いというのは」
「正しいということですか」
「正しいです。実際に上がっている証拠です」
(……地上でも分かるくらいには動いてるんだな)
「若様、ゴードンさんに伝えてきます!」
「分かりました。地上の魔素が上がっています、とだけ伝えてください。詳しい話は後でまとめます」
「はい!」
ヨムが駆けていった。
「ガレット」
「はい」
「代表者を一箇所に集めてください。全員別々に説明するのは面倒なので」
「カステル卿・テルミス担当のレオン殿・エンデ護衛団長・シュタール随行のモリッツ殿——それからヨムさんを通じてゴードン殿も来ております。随行の方を含め七名です」
(……なんか増えてる)
「まあ、いいです。その前に」
「はい」
「茶を。全員分」
「かしこまりました」
天幕に移動した。椅子があった。ドランク王が向かいに座った。マリスがその隣に座った。ガレットが全員分の茶を配った。テキパキと。音もなく。
ドランク王が一口飲んだ。
「……うまい」
「地下にいた後だからだと思います」
「それでも、うまい」
(この王様、時々こういうことを言うんだよな)
俺も一口飲んだ。温かかった。ガレットが地上で待機しながら用意していたのだろう。温度が適切だった。
「ライルさん」
マリスが言った。
「今スキルはどうですか。さっきより上がってますか」
「上がっています。北の丘はもう六十に近いです。さっきの話をしてた間にまた十上がりました」
マリスが止まった。
「……十?」
「はい」
「……本当に、終わったんですね」
マリスの声が少しだけ違う音をした。
「はい。終わりました」
「七百年ぶりですよ、これ」
「知ってます」
「分かってます? 本当に」
「……たぶん、分かってます」
(あっさり言いすぎた気がするが、実際の感覚としてはそうなので)
「若様」
ガレットが言った。
「代表者の取りまとめが完了しました。今でも可能です。人数が多いため外の広場でよろしければ」
(……ガレット、既に全員呼んでたのか)
「まあ、いいです。外に出ましょう」
広場と呼ぶには狭い場所に、人が集まっていた。カステル卿。見知らぬ顔が二人——テルミスとシュタールの担当だろう。後ろにゴードンがいた。腕組みをして立っていた。
全員がこちらを見た。
(……多い)
「お集まりいただきありがとうございます。報告します」
俺は言った。
「本日、遺跡の別区画にてシステムの認証が完了し、設計通りに動作して停止しました。「稼働中の魔素吸収陣」は役目を終えています。代替管理が必要な稼働中の装置は、もう存在しません」
一拍の間があった。
「——それだけですか」
テルミス担当のレオン殿だった。
「はい」
「経緯を」
「後ほど書面にします。今日確認いただきたいのは「装置は稼働していない」という点だけです。書面はガレットが明日中に用意します」
「ですが本国への報告が——」
「それはそちらのご判断です。事実として今日起きたことをお伝えしました」
(ガレットが横で一礼した。気配でわかった)
「では——ヴァンダール領への影響は」
「魔素濃度が上がっています。全域で。これから時間をかけて安定します」
シュタール随行のモリッツ殿が手を挙げた。
「農業技術支援の話が——」
「別途、会議を設けましょう」
「各国の代表が集まっているいい機会です。議題をまとめて一度に話す方が効率がいいです」
「準備が——」
「ガレット、三日後でどうですか」
「……かしこまりました」
(ガレットの目が「また急に決めた」と言っていた)
(まあ、段取りはガレットの方が上手いので)
ゴードンが前に出た。
「若様、一つだけ」
「どうぞ」
「この先、ヴァンダール領は——普通の農地として、やっていけますか」
俺は少し間を置いた。
スキルで今の数値を確認した。北の丘——六十五。西の集落——五十一。東の水路沿い——四十八。一時間前より全部上がっていた。
「……はい、やっていけます」
「断言できますか」
「今のスキルの数値で言うと、もう凶作は起きにくい水準に入っています。これからさらに上がります」
ゴードンが静かに息を吐いた。
長い息だった。
「……そうですか」
「はい。来年の播種、楽しみにしといてください」
ゴードンが短く笑った。笑うのを見たのは珍しかった。
「……若様は、本当に変わったことを言いますね」
「まあ、楽しみにしておきます」
代表たちが互いに話し始めた。書状の手配。本国への連絡。そういう話が飛び交い始めた。
俺は少し離れた場所に移動した。スキルを静かに確認した。
(……全域で動いてる)
北から南まで。東から西まで。地下から地上へ向かう流れが続いている。止まっていない。七百年止まっていたものが、今は動いている。
「ライル」
ドランク王だった。隣に来ていた。
「スキルで何が見える」
「全部、上がってます。領地の端から端まで、全部です」
ドランク王が少し沈黙した。
「……七百年前の人間は、こうなることを望んでいた」
「だと思います」
「それが今日、起きた」
「はい」
「お前が来たから」
「まあ、そうなりますね」
(……なんか言い方がくすぐったい)
「ドランク陛下」
「何だ」
「陛下も、書庫の資料を持ってきて、遺跡に入って、扉の外で待って——陛下がいなかったら俺だけでは無理でした」
ドランク王が少し止まった。
「……珍しいことを言う」
「正直に言った方が面倒がないので」
「さっきも同じことを言った」
「同じことを言う場面だったので」
ドランク王が少し笑った。声に出ない笑い方だった。
「……茶が、まだあるか」
「ガレット」
「はい」
「陛下の茶、お代わりを」
「かしこまりました」
(いつの間にかガレットが後ろにいた)
「若様」
ガレットがまた来た。振り向いた。
「三日後の会議の議題を、明日中に若様と確認させていただけますか。書面の準備が早くなります」
「分かりました。朝に」
「報告書もあります」
「……まとめて」
「承知しました。それから——今日はもうお休みください。スキルは地上に出てからずっと使っておられます」
「……分かってます」
「では、ご一同に」
ガレットが動いた。全体を回って、今日はここまで、という話をしていた。誰も反発しなかった。ガレットが言うとなぜか全員が従う。
(……それも能力だな)
スキルを静かに細くした。全域を確認し続けるのをいったん止めた。感触がゆっくり引いていく。それでも完全にゼロにはならなかった。領地が動いている感触が、弱くなりながらも続いていた。
夕方の空が少し明るんでいた。曇りだったが、西の方に僅かに橙の色があった。
ヴァンダール領の端まで、魔素が流れている。七百年ぶりに、土地が動いている。
(……まあ、なんとかなったな)
でも明日は報告書があって、三日後に会議がある。
(……面倒くさいな)
まあ、いつものことか。




